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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第七回

■修行の道場(土佐・高知県)■

◆第3日目(1996年6月26日) −遍路の歴史と暗部・鯖大師と予定調和・黄泉の国「死国」・室戸岬で空海を見た−

朝の潮風に吹かれながら海沿いの国道を走る。一路室戸へ。これから室戸岬の第二十四番札所・最御崎寺までの道程はひたすら海岸線が続く、八十八ヶ所 でも一、二を争う長い「へんろ道」である。太平洋に臨む海岸線は美しいが、歩き遍路にとっては気の遠くなるほど長くて単調な道のりである。「修行の道場」 は土佐に向かってただ歩き続けることから始まるのだ。

 空海の頃は道もなく原始林を鎌で切り開き、断崖の岩場にしがみついて歩を進めたそうである。空海は歩いた。私たちは車で快適に走る。

 国道55号線を海岸線へそれて日和佐町から牟岐町までの南阿波サンラインに入ると、間もなく黒潮寄せる絶景が展開しはじめた。「千羽海岸」である。絶壁 に千羽のツバメが一斉に飛び立つのを見た空海がこの名前をつけたという。今でも過疎のこの海岸は1200年も昔はほとんど人跡未踏の地だったと思われる。 屏風のように切り立つ250メートルの断崖は海から眺めなければわからないが、私たちは途中四ヶ所の展望台の上からそれぞれに違った景観を堪能した。

 やがて海の幸に恵まれた小さな町、牟岐に着く。

 町はずれの浜辺に出て、貝の資料舘「ラモスコむぎ」に立ち寄った。そこで世界中の貝を見る。その多彩な色彩、その造形の多様と独創性、まさに海の女王の 宝石箱を覗き見たような感動を覚えた。海の生命力とは何と素晴らしい神秘の力をもっているのだろう。(館内は徳島産の杉やヒノキをふんだんに使用し、明る い木の温かさにあふれている。243キログラムもある世界最大のジャコ貝や、5億年前のアンモナイトの化石など、2000種、6000点が展示されてい る)
「ラモスコむぎ」で海の神秘に感激した後、さらに海岸線を進む。室戸阿南海岸国定公園の白眉である景勝「八坂八浜」を眺めた後、海南町の「大里松原」を抜けて海浜へ出てみた。

 シーズンオフのためか、人影もなかった。乳色の空と灰色の海がその境目もおぼろに物憂く広がっていた。空海もきっとこの浜辺を辿ったのだろう。空と海ば かりの浜辺を眺めていると、お大師さんに逢いたい一念で、潮風にあおられつつよろめきながら歩を進める昔遍路の姿が浮かんでくる。遍路には、弘法大師は今 なお四国の山野を歩きながら人々を救い続けているという信仰がある。遍路修行を続けているうちに、いつか必ず巡り逢えるという思いがある。

 だが、その遍路の後ろ姿にはいつも死の影が揺曳する。遍路から漂い上るこの「暗部」は妻にはない。遍路旅を続けて行くうちに、その理由はしだいに明らかになっていくが、今は少しく遍路の起源に触れてみることにする。
「我等が修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、又笈を負い、衣は何時とはなく潮垂れて、四国の辺地をぞ常に踏む」と『梁塵秘抄』にその様子が記述されてい るように、平安末期にはすでに四国の辺地を巡り歩く修行形態ができていたそうである。それは、仏教思想の中にある本来一所不在、放浪托鉢の遊行を仏道の旨 とするところから生まれたようである。

 さすらい歩くことによって仏に逢うことができると考えるところから、人里離れた野山や海辺のような辺地こそが聖なる空間とされていた。まさに「衣は何時 とはなく潮垂れて、四国の辺地をぞ常に踏む」ことが仏道の実践なのであった。ちなみに遍路とは辺地の道「辺路」からきたものである。  鎌倉時代は主に空也、一遍などの市聖や高野聖などの僧集団、西行など仏道を志した者や山林修験者などが全国行脚にまで広げていった。いずれにせよ、それ らの過程において修験道や浄土教などさまざまな思想が混入し、のちの日本型の聖地巡礼が形成されていったと考えられる(西国巡礼、秩父巡礼など各地に霊場 巡りはある。ただし遍路と言うのは四国だけである)。

 四国遍路の発祥起源をどこにおくかは諸説があり、一言ではいえない。ただ、弘法大師一尊化による大師所縁の霊場を巡る遍路スタイルが一般化したのは、お そらく江戸時代になってからだろうといわれている。というのも、この頃になって遍路ガイドブックが種々出版されているからだ。

 貞享4年(1687)、真念なる四国遍路の行者が『四国辺路道指南』を公にしている。遍路ガイドブックとしてはこれが史上最古のものといわれているが、その後も増版を重ねていることから、遍路はやはり江戸時代になって民衆の間に普及していったと推測される。

 以来、急速に庶民のなかに広まり、四国遍路はいっそう盛んになる。宿坊や各地の遍路宿も賑わい、村の青年男女の成人通過儀礼としての遍路講なども組織され、大師ゆかりの霊場巡りは民間宗教として習俗化していく。

 ただ当時の庶民の間で流行した遍路が本業の遊行聖と大きく異なる点は、何よりも帰る場所があったことだ。死装束に身を包み、死を覚悟の旅にちがいなかったが、それは一度死んで再生する宗教的な擬死体験であった。つまり、新生の旅でもあった。

 四国遍路には今でも「お接待」(歩き遍路にお金や物の布施をする信仰上の習慣)が残っている。「善根宿」(遍路に一宿一飯の無料接待をする)などもあ る。お遍路さんを、お大師さんと同行している敬虔な修行者として丁重に迎える風習が残っているのだ。現在年間十万人が遍路をするといわれているが、このよ うな大衆化の原形は江戸時代の巡礼信仰の中に見ることができる。かくして時代は推移し、現代のような観光遍路も流行するようになった。

 したがって「遍路イコール死出の旅という従来の暗いイメージをもつ必要はない」という主張も出てくる(たとえば、仏教思想家のひろさちや氏)。妻のよう なハッピー遍路の出現も不思議ではない。しかし私には、これがわからないでここまで来ていた。鈴の音を響かせて菜の花畑を行く遍路姿は、私には清教徒の巡 礼にも似たものを感じる。あの牧歌的な遍路は、やはり私にとっては美しいフィクションのように見える。そこには観念的な彼岸のイメージはあっても死の臭い が感じられないのだ。

 たやすくフィクション(宗教)に入って行くことができれば、どれだけ生きやすいことだろう。だが、私にとっての遍路は、村外れの迂路を辿る後ろ姿と、草叢に傾いだ無縁塚のイメージが去来するのだ。心のどこかでおぼめくこの暗部が、時折虚ろな陥穽かんせいを覗かせては消えていった。

 国道を走っていると「鯖大師本坊」という大きな標識を見つけた。その名の通り鯖をぶら下げた弘法大師まで描かれており、その姿はどこかユーモラスだ。妻はこういうお大師さんは好きらしく、途中に「鯖大師」があることを調べていたようである。
「寄って行くか」
「オーケー、お大師さんを訪ねる旅だもの、行かなくっちゃ」
 私はハンドルを切ると、国道から脇道に入る。

鯖大師本坊 四国霊場番外札所  ほどなく「鯖大師本坊」着。参道入口に「鯖大師本坊四国霊場番外札所」とある。番外札所があることを私はここで初めて知った。こぢんまりとしたお寺ではあるが、次々と参拝者が後を絶たない。本堂を参拝すればあとは大師堂ぐらいしかない。

 提灯やお供え物や絵馬などにうずまった御堂の中には、確かに右手に鯖をぶら下げた石のお大師さんがおられた。金糸の立派な袈裟もちゃんと身につけておら れる。何かほほ笑ましいお大師さんではある。妻はファンになったのか、よその寺ではあまり買わないお守りなど買っていた。納経所では押印記帳もしてくれ た。

 鯖と弘法大師とは、いかにも奇妙な取り合わせであるが、次のような伝説による。

 八坂八浜の険しい道を旅していたお大師さんが、途中で塩鯖をどっさり馬の背に積んだ馬子に出会った。お大師さんは一尾の鯖を馬子に所望した。しかし、その馬子は乞食僧に見向きもせずに立ち去った。大師はそこで次のように一首歌をよまれた。

 《大さかや、八坂さかなか 鯖ひとつ 大師にくれで 馬の腹やむ》

 すると、先を急いでいた馬が倒れた。馬子は驚き、こわごわ大師に鯖を差し出すと、大師は馬子を海辺に連れて行き、塩鯖を放して祈祷を行う。不思議なこと に鯖は生き返って沖へと泳いで行った。大師は鯖が欲しかったのでなく、欲に支配された馬子の心を糺したのである。この奇跡を見た馬子はその場で大師の弟子 となり、この地に庵を結んで終生仏道に精進したという。これが鯖大師本坊の由来であった。

 このような大師の奇跡伝説は、これまでの霊場にはいくらもあった。本当に塩鯖が泳ぎ出したら死人も生き返るだろう。しかし、大師の奇跡を信じる大師信者も、信じない者も、本堂ではみんな敬虔に合掌する。まことに日本人とは好い加減である。

 とはいうものの、私たちもお参りをする。私たちも好い加減な日本人なのだ。鯖をぶら下げた石の弘法大師を信じているわけではないが、それを通してその先にあるであろう「聖なるもの」を感受する自分が残っていると思うと、いくらかでも救われる。

 私のそれを勝手な表現で言えば、ある種の予定調和となる。人は個別的には喜怒哀楽の俗世に存在していても、人間の思いはからいを超えたところで予め定め られた調和の内にあるという感覚である。大仰にいえば、現象的には生成消滅を繰り返しているように見えるこの世界は、全ては一つにつながった調和と融合の 中にあるという、ある種の安堵感のようなものだ。私と妻には以前からこういう感覚があった。

 実は、密教の世界とはそういう感覚に近いものであることを、司馬遼太郎の『空海の風景』で知った。そうすると、特定の宗教を信仰していない私たちは無心論者とも言い切れないところがある。

 釈迦は現象界(有為の世界)を「諸行無常」と言い、融合界(無為の世界)を「諸法無我」と見て、「空」の思想を説いたといわれている。諸行無常の世界で は私たちはニヒリストであり、諸法無我の世界においてはオプティミストとでもいえば、少し説明がつく。自力本願であるようで他力本願なのである。

 鯖大師に別れを告げた頃、小雨が降ってきた。国道に戻れば次は海部町である。ここで海部川の支流に向かって車を走らせる。この周辺は大ウナギの生息地として有名であり、ウナギにまつわる逸話がいくつもある。その一つの舞台である「せり割り岩」を見に行くと妻が言う。

 ここには昔、大ウナギが棲んでいたが、あまりに肥って洞穴から出られなくなってしまった。このままではエサが食べられなくなると思った子ウナギたちが母 ウナギのためにせっせとエサを運んだ。そのためにますますデブになった母ウナギは、とうとう岩をまっ二つに割って出てきたということだ。日本人はまったく 伝説づくりの名人である。

 とうとう本降りとなり、雨の中、町はずれの土手をあちらこちらと迷走する。

 妻の「とっても美しい淵だ」という言葉から、景観美を想像して苦労して探し当てたのに、土手から見えたのは川の向こうの何の変哲もない岩の裂け目である。私は道草遍路が少しめんどう臭くなっていた。
「何だありゃあ、あんなもの見たかったのか」

 私のデリカシーのない一言がいけなかったのか、
「だって、来てみるまではわからないでしょう。写真では本当にきれいだったんだから、しょうがないじゃないの」
と妻は腹を立ててしまった。

 妻は一度腹を立てると少々のことでは収まらない。一体何がそんなに気に食わないのか、普通の人間には理解できないところがある。それは怒り出す原因が別なところにあり、喧嘩の直接原因がそれ自体ではないことが多いからだ。

 しかし、物事の因果関係を辿ろうとする私には、一瞬彼女の真意を測りかねるときがある。そのときは売り言葉に買い言葉の徹底的な喧嘩となる。この場合、 彼女は四国遍路にどこか消極的な私の意識に腹を立てていた。彼女はもっと陽気に、そして積極的に旅行を楽しみたかったのである。
「しぶしぶ参加するような遍路なら、もうよしましょう」

 ついに癇癪が爆発した。つまりはそういうことなのである。

 私の心の底には確かに遍路を逡巡するようなものがあった。それがどういうものか、まだこの時点では彼女にうまく説明ができなかった。私自身もつかめていない、どこか関心の薄い沈んだ気配が、旅行に100パーセント胸ときめかせる妻との歩調を乱していたのである。
「せり割り岩」での衝突は、同じウナギで解消すればよい。双方腹を立てながらも、途中で二人は予定外の「海部町大うなぎ水族館・イーランド」に立ち寄っ た。まるで丸太のような大ウナギに仰天。そこで私は大ウナギのつかみどりに挑戦させられた。その格好がよほどおかしかったのか、妻は声を立てて笑ってい る。もう機嫌を直しているのだ。

 昼食を那佐湾に面した和風レストランですました頃には喧嘩は終わっていた。座敷の間から眺められる湖のような湾内の美しさが二人のいさかいを忘れさせていた。夫婦喧嘩とはこんなものであろう(そしてまた激しくやるのだ)。

 海部かいふ町のとなりは宍喰しくい町である。機嫌を直した二人はここで水床湾へ車を廻す。途中で車を降りて、二億年前の海底の模様が化石となっている「化石漣痕」(国の天然記念物)の岩肌を見たり触ったりしながら、にわか地質学者の気分になる。ついでに理科の教材用に化石漣痕の写真を撮る。

 半島のいくつかのカーブを曲がると、思いがけない展望が海上に展けた。まるで日本三景の松島のような景観に驚く。
「ね、ね、水床みとこ湾ってほら、よくカレンダーなんかの写真にあるじゃない。有名なビュー・スポットなのよ。あっ、ここ、ここよ」

 雨は上がったが曇っているのが残念だった。

 そのまま「竹ヶ島海中公園」まで行き、「海洋自然博物館・マリンジャム」で遊んだ後、海中観光船に乗船する。幸い小雨は上がり陽が射してきたので、船底の展望室から宍喰の海中の昔珊瑚など珍しいものを見ることができた。

 まことに妻の立てた四国遍路は何でもかんでも見たがる。私はしだいに空海のことが気になっていた(空海は展望船なんかには乗るまい)。

 宍喰町は徳島県の涯にある。国道に戻るとほどなく高知県に入った。生見いくみ海岸の東洋町を過ぎると車の量もすっかり減り、やがて家並みは疎らになり、信号のない海岸の道が一直線に続く。国道はただ旅人を誘うばかりである。白いカペラはひたすら二人を室戸へと運ぶ。

 海岸線はしだいに荒磯ありそに変わってくる。まだ5時過ぎだというのに辺りは妙に薄暗く、車窓には無表情な太平洋がどこまでも続く。雲の垂れ込めた水平線は、わずかに蒼鉛色の空を残して朧々と広がるばかりである。

 室戸までのこの海岸線は四国の縁をなぞるように延々と続く。ときおり歩き遍路を見かける。第二十四番・最御崎寺ほつみさきじまでは歩けば3日もかかる道のりである。土佐はまさに「修行の道場」だ。

 一人黙々と歩く遍路を見ると孤高な感じがしてきた。
「どうせ遍路するのなら、オレも独りで歩こうかなあ」と思わずもらすと、
「だめよ」と妻。
「男が独りで自己探求の旅などやっても救われません。ましてあなたのようなストイックな人間がやったらろくなことはないわ。自己探求の修行は空海のような天才が代表してやってくれました。凡人は夫婦で愉しみながら道草遍路をすればいいのよ」

 そうとも言える。空海の足跡を辿って峻厳な山岳霊場を見てくると、私一人では本物の修行になりそうだが、(それは糸の切れた凧のようなものにちがいな い)、少し抜けたところがある(ように見える)妻と一緒だとどこか楽天的ではある。要するに妻は、今の私にはドライブ遍路のほうが相応しいと言いたいの だ。

 それは私にもわかっていた。妻は、お大師さんに救いを求め、お大師さんと同行するよりも、夫婦は互いに杖となり合い、共に人生の同行二人を貫徹したいのである。二人で人生の八十八ヶ所を無事結願けちがんすることのほうが、実はもっと至難かもしれないのだ。

 それにしても、遍路に乗り気でなかった私が、一瞬にしろ「独り歩き」を考えたのは矛盾である。男はときどき独りになりたいと思うことがある。そういう気 持ちがただ遍路に重なっただけであろう。子細はない。だが遍路を見ると、愛憎半ばするものがふっと顔を覗かせては車窓の後に消えていった。

 流れてゆく光景は滔々たる海と虚しく閉ざされた空ばかりである。海岸線はいよいよ荒々しくなる。突然、前方の磯の鼻に黒々とした巨岩が見えてきた。鉈で断ち割ったように切り立つ四本の岩の牙は、その切っ先を蠟石ろうせき色の天空に向けて吃立している。

「ありゃ何だ?」
「まあ、すごい!」

 速度を上げて近づくにつれて、巨岩は仰ぎ見る車中の人間を見下すかのように傲然と迫ってくる。やがて異様な全貌を目前にしたとき、私たちは車から降りる やいなや、岩へつながる遊歩道に向けて飛び出した。奇怪な岩頭は猛々しく天を指し示して並び立ち、粗暴な岩肌は、あたかも黄昏の燭光を吸い尽くしたかのよ うに暗く沈んでいた。

 三つ目の岩の端まで行くと、海からそそり立つ最後の岩から、こなたの岩の頭頂に張られた太いロープが目に入った。たるみを持ったロープの中ほどには、朽 ち果てたようにぶら下がる三つの綱の房が、そよともしない無風の空間に垂れ下がっていた。それは何か天界との黙契のようである。

 やがて崖の先端まできたとき、二人は一瞬息をのんだ。足下の海面から立ち上がった不気味な岩の群れを見たのだ。死せる岩である。やや離れて眺めれば、岩全体が髑髏どくろの集積のようでもある。岩肌は固化した末期癌の内臓を思わせる鼠色をしており、しかも病巣のような夥しい数の穴によって蝕まれている。想像を絶する時の流れと波飛沫が穿った穴である。

 凝然と群れ立つ岩々の足下には、絶え間なく夕間の波が打ち寄せている。波は盛り上がり、炸裂しては渦巻き、泡立ち、岩々の間を苛立つようにうごめいてい る。無心に見つめていると、いつしか波音さえ耳元から消えてゆき、ただ得体のしれぬ暗いエネルギーと融け合い、ついに幽冥の国へ導かれていくような錯覚に 陥る。二人は異様な衝撃にしばし我を忘れた。
(空海もきっとこの場に佇んだはずだ)

 私の中に、甚だ遠いところから吹いてくる風のような確信が芽生えた。四国は幽暗の国である。永遠と交差するところだ。海という永遠に。そして人が最期に直面する永遠、すなわち死に。四国とは黄泉の国につながる「死国」である。

 妻は盛んに気味悪がるが、私は寂寥せきりょうとしたこのたたずまいの中にもう少し身をおいていたかった。

 いよいよ室戸は近い。私はそう実感した。

 薄暮の国道を白いカペラは二人をさらに先へ先へと運んで行く。窓を開けると風は生暖かく、辺りの空気はしだいに雄々しくなり、南国特有の荒々しい気配を感じる。

 室戸岬に着く。

 空海が立っていた!

 薄闇のなかに網代笠もかぶらず、蒼白の素面をさらしたままじっと海を見下ろしている。私は目を凝らしてもう一度見た。室戸でまっ先に見えたのは山裾に立 つ巨大な白亜の空海像だった(室戸青年大師像)。叢林の生い繁る山を背にして、大海を見つめる空海の表情は厳しい。その眼差しは海の遥かな一点を凝視して いるようだ。

 きっと室戸で修行中の若き空海像なのであろう。あの眼差しは真言密教の真義を求めて入唐渡航を決意した眼差しなのだろうか。それとも人間の底知れぬ無明の海を見つめる眼であるのか、このとき、私にはまだ何もわからなかった。

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