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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第十四回

◆第4日目(1998年8月13日)--詩情漂う足摺岬・風が誘う補陀落渡海--

「ウォーッ、出たぞ!」
「あそこだ、あそこだ!」
 10数隻の小型漁船は海面の一点をめがけて一斉に突っ走る。雲は輝き、海原は360度の広がりを描いている。私たちはいま鯨を追いかけている。私は舳先 に火の見やぐらのように組んである見張り台のイスにドッカリと腰を下ろして、こうして朝からクジラを追いかけているのだ。
 マストのてっぺんにいるようなこの場所は、ローリング(横揺れ)、ピッチング(前後揺れ)を全身に感じる最高のポジションだ。海の男の血が騒ぐ。爽快極まりない。今また向こうでクジラが潮を吹き上げたのだ。
 各船は突進する。耳元でヒューヒューと吹く潮風の中に、過ぎし日の洋上の怒号が入り混じる。「合戦準備、総員戦闘配置につけ!」「最大戦速、ヨーソロ!」マストにはためく旭日の艦旗がまぶたに浮かぶ。
 甲板を見下ろすと、ライフジャケットを着た妻が、疾走する舳先で両足をふんばって立っている。振り落とされないように両手でライフラインを握り、髪をなびかせて前方を見据える彼女もなかなか勇ましい。

 急に妻の短歌を思い出した。久し振りの海風に狂喜する私の頭の中はもう支離滅裂である。二人で生きる人生航路を前にして、結婚式前夜彼女はその心意気を即興で詠んだ。
 《群青の 波の間に間に白鳥の 潮切るつばさ 白き華咲く》
高速艇は群青の海原をなおも突っ走る。高速漁船のブリッジでは、漁船同士で鯨の動向を連絡し合う船長の声が聞こえてくる。
「おまんとこに近いぜよ......」
「わかっちょる。ボチボチ出るけんの......」
 故郷のなまりに似た土佐弁丸出しである。間もなく、エンジンを切った十数隻が遠巻きに海面を囲んでじっと待っていると、潜水していたニタニクジラがまた浮上した。
「ウォーッ!」
 そのたびに各漁船から観光客たちの歓声があがる。ニタニクジラは特有の三角背びれを見せたかと思うと、巨大な背中を目前の海面に現した。

 午前中ホエールウォッチングを楽しんだ私たちは、中村市に引き返し「トンボ王国」(中村市トンボ自然公園)に立ち寄った。巨大な鯨のあとは可憐なトンボ を見るのである。町や村の活性化のために工場や大学を誘致するという話はよく聞くが、ここは休耕田を整備してトンボを誘致するというのだ。むろん観光目的 であるが、大規模なテーマパークやレジャー遊園地などよりも発想が上品である。
 世界初の試みというトンボ保護区を、運動がてらそこらじゅう歩き回ると汗が噴き出てきた。真夏の太陽は容赦なく照りつける。「あっ、トンボがいた。トン ボがいた」と子どもたちの声が聞こえる。黄色の花を開かせたスイレンの池にはショウジョウトンボが中空に羽撃きながら静止し、何かを思い出したようにサッ と飛び去っていった。(四万十トンボ自然館には世界中のトンボ標本8000種、3000点も展示されている)
 中村市からは太平洋を見ながら国道321号線を土佐清水市へと向かう。遠洋漁業の土佐清水港を走り抜けると、港をつけ根にして亀の首のような形で太平洋 へ突き出ている足摺半島へコースを取る。左に土佐湾、右に太平洋を見下ろしながら、足摺スカイラインを突っ走って足摺岬へ。

 半島の先端近くの海岸段丘の一角には、縄文時代早期の巨石文化が遺る「唐人駄馬遺跡」がある。世界的な規模といわれるストーンサークルを見ようと、またまた寄り道。うっそうと繁った森の中に入ると、林立する巨石群は悠然とそそり立っていた。

 空海の足跡を訪ねるドライブは、ついに足摺岬の先端にたどり着いた。四国の最南端足摺岬。第三十八番霊場・金剛福寺はここにある。



●第三十八番札所・金剛福寺

第三十八番札所・金剛福寺  駐車場に車を止めると、早速遍路姿に早変わり。ビロウや椿の生い茂る道を歩いて山門前に立つ。真っ赤な金剛力士に挨拶をして山門をくぐれば広大な境内が奥深く広がる。愛染堂、地蔵堂、弁天堂、多宝塔などが建ち、本堂には三面千手観世音菩が祀られてある。
 大師堂は目下再建中であり、愛染堂が仮安置堂となっていた。奥を覗くと、仮住まいの大師座像が灯明の奥で右手をひねるようにして鈷杵を持ち、お馴染みの ポーズで座しておられる。ここも青龍寺と同じく、弘法大師が唐から三種の鈷杵を投げ、その一つの五枯杵が飛んできたところである(三鈷杵は高野山に、独鈷 杵は青龍寺に飛んで行った)。

 境内には諸願成就と彫られた石の台座に大きな石の海亀が奉献されていた。
「浦島太郎が乗っていそうな亀だな」
「そうね。この岬から太郎は乙姫様のいる竜宮城へ行ったのかもね」

 境内からまっすぐにのびる岬は、そのまま海の果てへ向かう道のようである。亀は海の彼方に憧れる古人の想いなのだろう。空海の行くところ、また海の匂いがする。
 第三十七番よりここ足摺岬までの道程は120キロメートル。札所間で一番の長丁場である。昔の歩き遍路にとっては大変苦しい旅であったといわれている。 ために、岬の果ての山門に辿り着いたときは涙を流して平伏したという。八十八ヶ所霊場で、境内に入ってまず目を引くのが、例外なく建てられてある雲水姿の 大師像である。お大師さんに会いたい一念で歩いてきた遍路にとって、こうしていつも待っていて下さるお大師さんを仰ぐとき、その感激はいかほどのものか。 大師信仰はこうして自然に生まれるものにちがいない。

 寺を出て元の道を引き返していると、競輪選手かと見まごう男性が猛スピードで自転車を走らせてきた。近づくなり、手を上げて挨拶をする。こちらもつい杖 を挙げて応えたが、振り返ると白いTシャツの背中に「南無大師遍照金剛」と書いてある。首に掛けた輪袈裟をひるがえして、ヘルメットをかぶった自転車遍路 は納経の門限の近づいた寺の方へと急いで行った。私たちはいったん車に戻り、衣装を脱いで岬の展望台へ引き返した。

 足摺岬。
 そう聞くだけで、何か詩情が漂う。男性的な室戸岬に比べて、足摺岬には女性的なある種の憧れを想わせるものがあるようだ。これは、足摺岬個有のロマンティシズムなのだろうか。
 海に突き出た展望台は、灯台の立つ岬の全貌を眺めるのにはほどよい距離にあり、まさしく絶景であった。視界の広さのせいか、近そうに見えていても眼下に 打ち寄せる波は音もなく砕け散っている。灰色の断崖は、連なる絶壁の屋根を一面の濃緑に繁茂させつつ、猛然と海に迫り出している。岬の先端はそこで突然に 行き止まり、切り立った断崖の上に灯台だけが簡明な姿で佇立していた。空と海の蒼然たる風光の中に、その一点は静寂の光源のようでもあり、また海に向かっ て佇む白い行者にも見える。日の影が紫雲に覆われ、彼方には茫漠とした海が続くばかりである。

 はて、人の心とはどうしたものか。この地の涯まで来ても、人はなおあの海の涯てを夢想するのだ。事実、我々の祖先はあの水平線の魔力に魅かれて、ここから常世へと旅立った。ここは補陀落渡海(ふだらくとかい)の東門であった。
 後深草二条の『とはずがたり』には、次のような一説がある。
「一葉の舟に竿さして南をさして行く。坊主泣く泣く『われを捨てていずくへ行くぞ』といふ。小法師『補陀落へまかりぬ』とこたふ。見れば二人の菩になりて舟のともへ立ちたり。心憂く、悲しくて泣く泣く足ずりをしたりけるより、あしずりのみさきといふなり」
 足摺岬という名の由来にもなっている話である。ある坊主が自分が補陀落浄土へ渡ろうと修行をしていたときに、伴の小僧が先に海を渡って行くので、「私も 連れて行ってくれ」と、岬に立って地団駄を踏んで足摺りをしたという話である。この岬から補陀落渡海を試みた修行者は多かったのである。してみると、岬の 先端は人を海へといざなう霊力があるのかもしれない。少年の頃海の彼方に憧れた私も、そんな力に魅かれていたような気がする。

 古代の日本人には常世(とこよ)信 仰というものがあった。常世とは、死者の霊魂が海の彼方に留まっている世界、仏教でいう彼岸のようなものである。補陀落世界(補陀落浄土ともいう)とは、 華厳経が説く観音菩薩の浄土(彼岸)のことである。観音菩薩とは観世音菩薩の略称である。金剛福寺の本尊が三面千手観世音菩薩であることと、この岬が補陀 落(浄土)渡海の門であることとは、そういう密接な関係がある。したがって、寺の院号も「補陀落院」である。

 さて、観音菩薩の補陀落浄土は、その呼び名が示すように、一般的には浄土信仰のもつ観念上の世界だとされている。観音信仰とは、観音と結縁すれば浄土転 生を約束されるという往生思想である。だが、古代日本人は本来もっとリアルに浄土を夢想していたのではないか。それは、実際に浄土往生を決行した者が少な からずいたということでもわかる。つまり、浄土への直接渡航である。

 時代的には12世紀頃が海洋浄土思想のピークであり、日本列島の南岸に面した辺地から、例えば紀州の熊野、土佐の室戸、足摺など、ある種の浄土信仰を観 想させる霊域からの補陀落渡海の行者が後を絶たなかった。(熊野の海からは約30回、およそ100人もの行者が渡海した記録が『熊野年代記』には記載され ているという)足摺はそれに続く渡海の霊場であった。方法はせいぜい一ヶ月分の食料と水を積んで実際に海に向かって小舟で乗り出し、あとは無謀にも波まか せという事実上の自殺行である。

 それにしても、彼らはどういうわけか、そろって南の海を目指しているのだ。補陀落はインドの海上にある観音菩薩の浄土、ポータラカの音訳という説がある が、信仰上の理由はともかく、もしかすると日本人の民族的無意識の中には、南海を故郷と感じる帰巣本能のようなものがあったのかもしれない。いずれにして も、死を覚悟してまで南海の果てにある観音の浄土へ向けて船出をしたのである。

 海の魔力とは何だろう。浄土でもあり、常世の国でもあり、すなわち黄泉(よみ)の国でもある。足摺岬は現代でも自殺の名所である。命の終結はまた始まりでもある。黄泉から帰る。「甦る」ことに来世の望みをつなぐところが海だとすれば、海はその死を生に転化する所である。海は生命であり、誕生であり、希望であり、未来であり、憧れの象徴となる。

 海辺に立っていつも水平線の彼方を見つめていた少年時代を思い出す。風が何かを運んできていた。私もかつて海に憧れ、海を目指した一人であった。そして、一度は船乗りになってみた。しかし、何かがつかめずに陸に上がった。
 大学もまた孤独な海だった。青春時代の精神の遍歴が多くは挫折の連続であるように、結局、私は東京での乾いた生活の果てにまた海を夢想した。25年前、 私は鹿児島港を船出して東シナ海を越えた。大学卒業後別れた「ヨセフを知る仲間」と再会するために。それが私の補陀落渡海だったような気がする。
 妻の故郷は琉球沖縄である。

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