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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第十六回

◆第6日目(1998年8月15日)--見えない空海を追って・夢が広がる空白期間・幼児期の思い出と父母の人生--

 7時半起床。昨夜はくたびれていたのか、いつもより一時間も寝坊した。今日の予定の札所巡りは二ヶ所。あとは例によって物見遊山である。考えてみればず いぶん呑気な遍路旅である。遅くなったが、遍路グッズ一式整えて出発。今日も暑くなりそうだ。古くは塩の産地だったという宿毛の市街地から北東へ約1キ ロ、のどかな田舎道を車を走らせると、やがて第三十九番札所・延光寺の仁王門が見えてきた。土佐路の霊場も、いよいよここで最後である。



●第三十九番札所・延光寺

第三十九番札所・延光寺 仁王門をくぐれば、竹林と松の木に覆われた広い境内には本堂と大師堂だけが建ち、閑静簡素な寺である。境内に入ってすぐに目に留まったのが、銅鐘を背中に乗せた海亀の珍しい銅像である。石の台座に由来が刻まれていたので、早速読んでみた。
「延光寺銅鐘ノ由来。延喜十一年赤亀ガ竜宮ヨリ持チ帰ル。コノ由来ニ依リ亀鶴山宝光寺ヲ赤亀山延光寺ト改メ今日ニ至ル......」とある。驚いたことに、この寺 の銅鐘は亀が竜宮から持ち帰ったというのである。すぐに鐘楼に上がって現物を確かめると、銅鐘には確かに延喜11年(911)と銘が彫られていた。

 妻を振り返ると、彼女は嬉しそうに海亀に千羽鶴を供えている。いつもは大師堂に飾るのに、この霊場では亀が語りかけたようだ。(竜宮は琉球のことなの よ。あら、本当よ)私は妻の言葉を思い出しながら、少し不思議な気持ちになった。(日和佐のウミガメに逢えなかったからだろうか。 空海に会いたいと思っ て始めた遍路旅であったが、空海を追えばその行く先に海が開け、海を思いたどれば過去の自分と出会い、そして思いもよらなかったことに遍路旅は琉球の風ま でも肌に感じさせる。四国霊場に足を踏み入れるたびに、何かシンボリックなものに出会う。

 薄いピンク色のジーンズ姿の妻は、丹精込めて折ってきた五色の折り鶴のひと房を亀にぶら下げると、純白のお遍路たちのあとからついてきた。妻は相変わらずカラフルだ。
「今日はピンクのパンツかい」
「うん、ボク、ピンク好きだもの......ダメ?」
「いいんだよ。それで」
「お大師さん叱らないかな」
「叱るものか、僕はお遍路さんの死装束って、本当は南国の明るい色彩ではなかったのかという気がしてきたんだ」
「私も実はそんな気がしていたのよ。変な遍路夫婦ね」

 私はこの辺りから、もう一つ空海のモチーフを感じ始めていた。それは「水」である。海洋を背景に生まれた空海のイメージは山林修験者に姿を変えたとき、それは「湧き水」と重なって現れてくるのだ。「海」は「水」となって空海の思想の重要なファクターになっていた。

  寺を散策する。
 やはり、ここにもその痕跡はあった。境内の片隅にある弘法大師ゆかりの「目洗いの井戸」である。石で囲まれた小さな井戸は赤い涎掛けをした石の地蔵が守 り、その上に由来が書かれている。「眼洗井戸異記。延暦十四年、弘法大師久しく当山に錫を止め......」と書き始めて、「里人が浄水の乏しきに嘆かれて、大師 地を掘り加持すれば雲水自ずから湧き出る。大師この水を宝医水と名付け一切衆生難苦得楽の為に役立て云々」という内容である。のちに眼病に霊験があると評 判になり、今日「目洗い井戸」と呼ばれ伝わっている。

 実はこれまでに各札所、あるいは「へんろ道」の途中など、さまざまなところに大師ゆかりの湧き水や井戸があったのだが、気に止めていなかった私は見落と してきた。改めて遍路ガイドブックを見ると、各由来はいずれも弘法大師が錫杖で地面を突いて湧出させたと説明している。だが、私は泥まみれになって井戸を 掘る里人とともに、汗を流す空海を想像してみる。

司馬遼太郎は『空海の風景』を執筆するにあたって、四国では空海の業績の明らかな場所、すなわち讃岐の「満濃池」や、空海の生誕地である「善通寺」、それ に修行地は室戸岬しか取材していないようである。あとは主に『三教指帰』や『御遺告』などから想像している。ゆえに文献上と史実に現れた空海像は描かれて いるが、作家独自の眼で「見えない空海」に迫るという創作姿勢がうかがえない。

 私には苦悩を抱えて山野を放浪した若き空海の内面にこそ魅かれるものがある。その雌伏期にこそ、空海のその後の思想を決定づけるものがあったように思え てならないからだ。梅原猛氏も、やはり悩める若き空海に魅力を感じると語っている。そんな思いが、今は私に漠然と「水と空海」の繋がりを考えさせていた。 空海は「水」に関する何かを知っていた。これについては、梅原氏もやはり何も触れていない。

 人間の「営為の痕跡」が「想いの痕跡」であるならば、たとえ民俗信仰や伝説とはいえ、痕跡を通してその想いに辿り着けるのではないだろうか。民俗伝承の 中にその主題はどこかに埋もれているのではないか。その謎を解くことも哲学者梅原のいう「知の探求者」というものであろう。

 頭の隅で私がこんなことを考えているとは知らない妻はひたすら現実を楽しんでいる。
「ああ、気持ちよかった。アンタもお大師さんの水で目を洗いなさい」
 妻に言われ、「空海の水」で眼を洗った。水は冷たく私を現実に引き戻した。

 さて延光寺を打つと、近くの「浜田の泊まり屋」を見学。
 田圃の広がる田舎道で農家のおじいさんに尋ねると、観光名所でもないので怪訝な顔をしつつ「わしもその方向に帰るけん、ついて来いや」と言う。軽トラッ クのあとをトコトコ行くと、村はずれに高床式の米倉とも社ともつかぬ古い小屋があった。この村外れのお堂のような木造建築がそれである。(国指定重要有形 民族文化財・浜田の泊まり屋。戦国時代一村一城の頃、見張りのために建てられたやぐらがその起源。時代が下って、集落の警備や若衆の夜なべ、娯楽、研修、 寄り合いの場となり、幕末以後全盛を極めた建物である。ここ幡多の各地に180ヶ所もあったが、明治以降次々と取り壊され、現在は四ヶ所だけとなる)

 国道56号線沿いの喫茶店で昼食。ついでに筋向かいのスタンドでガソリン補給。シートに掛けた笈摺を見たスタンドのおじさんが「四十番さんに行くのか ね」と言いながら親切に道を教えてくれた。確かに三十九番の次は四十番さんだが、私たちは何しろ道草遍路である。次に目指すは「高茂岬」。二人とも岬が好 きなのである。

 補陀落渡海にも見られるように、日本人にとって岬はある種の霊地を観想させるものがある。四国の辺地を訪ねてみて、それは十分に実感されてきた。私たち が岬や灯台に魅せられるのも、もしかするとそのためだったのかもしれない。「鯉のぼりの村」には、よく遊んだ諏訪崎という小さな岬があった。岬の突端には 魚霊塔があった。岬は万物の霊の宿るところ。母なる海に生を得た万物と陸をつなぐ場所である。空海の跡をたどることによって、彼の修行地から岬のもつ霊的 な意味も明らかになってきた。

 宿毛からは山間に入る56号を取らずに海辺の旧道を行くことにした。空も海も限りなく青く澄み渡っている。ほどなく県境。道路端の標識を見上げれば、看板の裏表に高知県と愛媛県と表記してある。夫婦で愉しむ道草遍路は、これより「菩堤の道場」へと入って行った。



■菩堤の道場(伊予・愛媛県)■

愛媛県。急に複雑な思いが影を落とす。懐かしくもあり、恨めしくもあり、愛憎半ばするものが胸に迫ってきた。愛媛は私の出身地である。

 国道に戻ってから間もなく愛媛県最南の御荘町に入る。そこからは宇和海海中公園のあるリアス式海岸の複雑な半島が突き出ている。その背骨の西海有料道路 を走って半島の町、西海町に向かう。有料道路を出たところに水中展望船乗り場があるが、そこは後回しにして、さらに30分ほどカーブの多い山道を走るとよ うやく「高茂岬(こうもみさき)」 に出た。半島は急斜面の草原をなして海に落ち込んでいる。眼下には日差しに輝く海にぽつんと頭を突き出した岩があり、その周りだけわずかに白波が見え隠れ する。岩影はずっと沖にも一つ、さらに海原の遥か遠くにも点のように浮かび、まるで補陀落へ旅立つ海亀が遠ざかって行くようだ。かなり上空を一羽の鷹が悠 然と舞う。
「いいところだなあ」
「いいところね。またキャンプスポットを見つけたわね」
 妻はまたアウトドアライフの基地を見つけて喜んでいる。

 高茂岬から水中展望船乗り場のある船越に引き返して「ガイヤナ」という船名の水中展望船に乗り、島々の海中公園をひと巡りした。もう一隻「ユメカイナ」 という姉妹船もある。ユメカイナとは「夢かいな」という日本語であり、ガイヤナは「すごいな」というこれも愛媛県の方言である。旅行雑誌で勉強していた妻 に教えられるまでは、私は故郷の方言だとは気がつかなかった。私の故郷はそれほど遠いものになっていた。



●第四十番札所・観自在寺

第四十番札所・観自在寺  西海有料道路を御荘町に引き返した私たちは、街中に架かる橋を渡って狭い民家の間を縫って行く。伊予「菩提の道場」一番寺はその突当たりにあった。この札 所は、第一番札所の霊山寺からは最も遠い距離に当たる。ここを打ち終えると、四国八十八ケ所は折り返して出発点の阿波に近づく形になる。そのためか四国霊 場の裏関所ともいわれている。私たちはまた遍路姿に変身すると、さっそく仁王門の石段を登った。

 参道正面に本堂がある。寺は戦後火災に遭い、その後再建されたので、本堂は入母屋造りのコンクリート製。境内も全体として新しい雰囲気に包まれている。 本堂の前に石造十二支本尊八体仏があり、妻は自分の本尊にお水をかけている。遍路を始めて、自分の守り本尊が空海と同じ虚空蔵菩だと知った彼女は、以来虚 空蔵に会えば必ず拝んでいる。

 さて、観自在寺にまつわる弘法大師伝説は、この寺の本尊にある。大師が山で修行中、一本の霊木を見つけ、一木一刀の三体の仏像を刻んだ。それが今に伝わ る薬師如来、阿弥陀如来、十一面観世音菩薩とされている。さらに霊木の残りで舟形の南無阿弥陀仏の名号を彫り、その宝判(版木)に諸人の病根を除く祈願を した。磨り減った宝判は今でも残っている。肉腫で苦しんでいたのが宝判を押してもらって三ヶ月で完治した例や、慢性の心臓病や腎盂腎炎などから回復した事 例も多く、奇跡の回復に全国から数多くの礼状が寄せられている霊験あらたかな札所である。お布施と引き換えに私たちも宝判の押された手拭いをもらった。

 寺の縁起は、桓武天皇の没後大同2年(807)、即位したばかりの平城天皇の勅願所として弘法大師によって開創されたとある。大同2年といえば、空海が 唐より帰国した翌年であるから、この縁起は少し出来すぎのような気がした。空海に縁がないということではない。空海は当時はまだ無名に近かったから、天皇 の勅願を受けて寺を開基するということは考えにくいということである。入唐求法を果たした空海が、正式に入京を許可されて高雄山寺に居を定めたのは大同4 年8月である。帰国後しばらくは空海の評価は定まっていなかった。なにしろ、空海は国法を無視して帰国してしまったのである。

 空海とともに入唐求法を果した最澄は、俗に生涯のライバルともいわれたりする。だが、入唐した頃はその社会的地位は比較すべくもなかった。最澄はすでに 平安京きっての有力な官僧であり、国家的な使命を背負って弟子や通訳を率いて入唐した。最澄はこの頃すでに旧来の奈良仏教と激しく対立する新進気鋭の官僧 であり、同じように政治の刷新を図る桓武天皇の後ろ盾も得ていた。身分は還学生という官費による公的な短期視察者である。

 かたや空海は、出港直前に急きょ渡航願いがかなった無名の一学僧にすぎなかった。(ただし、彼は通訳なしで唐語を話せた)なにしろ昨日まで山岳修行に明 け暮れていた優婆塞(私度僧)である。ということは、空海が国家公認仏者つまり官僧の資格をとった理由は、入唐が目的であったと考えられる。空海は実に 18歳から31歳まで「僧ではなかった」のである。

 空海の資格は二十年の留学期間を義務づけられた私費による留学生であった。それが、わずか二年足らずで帰国したのである。空海としては、恵果阿闍梨(あじゃり)よ り相承した密教を日本に伝えるためには、二十年も唐に留まっているわけにはいかなかった。大同元年(806)十月に博多に着岸し、いったん太宰府に入る。 だが、その後再び消息を絶つ。彼が朝廷に上表した『請来目録』(膨大な密教教典や法具類等の目録)に朝廷は戸惑い驚くが、当の空海は以後三年間行方不明で ある。どこで何をしていたのやら、確かな足取りがわからない。

 空海に謎の部分が多いのは、一つには時々歴史上から姿を消すためである。空海研究家はその空白期間を史的考証をもとにいろいろな仮説で埋めようとする が、一方ではその空白がさまざまな大師伝説を生む土壌ともなった。空海は歴史家にとっても、信者にとっても、まことに夢とロマンを与えてくれる。

「だから、空海は僕のような者でも想像の余地があって面白いんだ」
「自分の空海像が描けるのよね。このあいだ作家の井沢元彦さんが、帰国後の空海は 葛城山辺りに潜伏して中央の動向を監視していたのじゃないかって話しているのをテレビで見たわ。つまり、世に出るチャンスをじっとうかがっていたんだって」
「彼は元政治部の記者だから、空海のそういう世俗的な政治力に興味があるんだろう。確かに空海の生涯をみると、その情勢判断の的確さと卓抜した政治力には 驚かされる。情報収集力もずば抜けていたんだろう。おそらく、近畿地方全域に散っているかつての仲間、山岳修験者のネットワークを使って中央の動きは察知 していたのかもしれない。でも、僕は四国にも帰っていたんじゃないかと思うんだ」
「司馬さんはどう見ているの」
「彼も、空海は帰国後まっすぐに畿内に向かったと書いている。和泉国(大阪府南部)の槙尾山寺に移住するためだ。これは空海のエピソードに確かにあるのだ が、僕には定説をなぞっているとしか思えない。司馬さんの想像もやはり、そこで有力者に根回しをしつつ中央界にデビューを画策する空海を描いている。つま り、彼はここで空海のしたたかな政治野心を見るんだな。そのことによって、人間空海に近づこうとしたんだろう。もはや四国とは15歳で縁が切れたと見てい るようだ」
「で、憲吾さんはどう思うの」
「僕は逆だ。空海の人間性を考えれば、四国を素通りして中央を目指すなんてことはありえない。仏道に入るとき、あれほど苦しんだ親思いの息子が、無事帰国 したことを両親に報告しないはずはない。空海はまず四国に入ったような気がする。帰国後の空白期間に空海の伝承が四国霊場に集中しているのは何か理由があ るように思う。大体、地方を忘れて中央志向に走るような人間がだな、その後いくら仏教界の頂点に立って上から布教しても庶民に慕われるようなことはない。 それは、必ず歴史に裏切られる。そういうのは信仰の歴史が許さないさ」
「私もそう思う。空海は修行中お世話になった四国の人たちにも挨拶に回ってたのよ、きっと。だから、こんなにも伝承が残っているんでしょう」
「空海が、自分の言葉で各霊場での宗教活動を語っていないのは、村人への配慮かもしれないなあ。だって、国法を犯した自分の立場が村人に迷惑を及ぼすかもしれないじゃないか」
「でも、司馬さんは歴史的な根拠のない想像でしかないって言うのじゃないかしら」
「そうでもないさ。空白期間の一時期、和泉の槙尾山寺に在住したという事歴は、実はこれを伝える原資料はそのまま信頼できないというのが専門家の一致した見方だよ。だから、司馬さんが正確であって、僕の見方がただの憶測だとも言い切れないさ」
「つまり、この間の三年間は全く謎なのね」
「そうさ。僕たちはそこを追いかけているんだ」

 観自在寺を出て日本のなぎさ百選の一つ「須の川公園」を通過すると、そのまま山中に入る国道をそれて私たちは海岸沿いの県道を走った。リアス式海岸の美 しい宇和海を左に眺めながら、津島町で再び国道に合流。宇和島市に近づくにつれて道路沿いのドライブインも多くなってきた。うどん屋が目立つ。空海をめ ぐって賑やかな話をしていたら、「うどん・空海」という店の看板が目に入った。うどん好きの妻に「うどん、食うかい?」と言ったら、妻は腹を抱えて笑っ た。

 6時頃、宇和島市に着く。
 市街を通り抜けて成川渓谷へと向かう。今夜の宿泊は成川温泉である。山間部へ向かってアナウンスに従って車を走らせる。私の車にはボイスカーナビがつい ているので、見知らぬ土地でも途中で地図を広げる必要はない。すべてアナウンスの声に従って走ればよいので、自分の車で遍路をするようになってからは妻も ナビゲーター役から全く解放されている(その分、おしゃべりは絶えないが)。

 運転しながら時々モニター画面を確認する。モニターの地図は<詳細>にセットしているので、かなり細部の地名まで出る。水分、牛野川、成 川、近永......遠い記憶の底にあった地名が甦った。私は急に懐かしさが込み上げてきた。見知らぬ土地どころではない。私が走っているところは、40年も前に 何度か訪れた場所だ。

 着いた所の「成川休養センター」は、静かな林間にある、山小屋風の家族的な感じのする保養地だった。私は、年配の支配人に尋ねてみた。
「この近くの牛野川という村にはまだ住人がいますか」
「ええ、今も12,3所帯は残っていますよ。ご存じですか」
「子どもの頃、何度か行ったことがあります。そこに芝という家があったのですが」
「ああ、フクオさんとこだね。実家はまだありますよ。以前はよく夏休みに長男のフジオさんが子どもらを連れて大阪から遊びに来ていましたよ」
 フクオとは、私の叔父である。母の妹である叔母は、芝家に嫁いで戦後長いあいだ牛野川という山奥の集落で暮らしていた。叔父は林業を営んでいたが、子ど もたちが大きくなってから一家は大阪に引っ越した。だが、実家はまだ残っているらしい。フジオというのは三歳年上の従兄のことである。父親が優しい人で五 人の兄弟姉妹も仲のよい家庭的な一家であった。
「村はずれの水車小屋は今もありますか」
「あれは今はないです。もうずいぶん昔のことだが、よくご存じですね」
 従兄たちとよく渓谷で泳いだり、鎮守様や水車小屋で遊んだり、山に入ってはキンマ(木馬)で駈け下りたり、夜は蛍を追ったり、今では夢のような子ども時代の幾夏かを過ごした。なのに、その記憶の底にはどこか切ない思いが漂う。

 その夜、私は脳裏に残影する村の風景をノートに描いてみた。確か水分というところまでしかバスが通っていなくて、そこからは深い杉木立の林道を延々と歩 いた。山林を抜けると藁葺きの水車小屋がある。さらに行くと、遠くにわずかばかりのたんぼが拓け、山の斜面に散在する民家が見えてくる。村のゆるやかな坂 道の奥まったところに、瓦屋根の割と大きいその家があった。

 私がよく記憶しているのは、母に手を引かれて歩いた村の道である。
 ある夜、村はずれの道で母と星空を見上げたことがあった。
「きれいね。ほら、あそこに小さく光っているでしょう。あれが由美の星よ」と母が言った。由美とは二歳年下の私の妹である。妹は百日咳がもとで生後まもな く死んだ。満州から引き揚げたばかりで医者に診せる金がなかった。母は「由美は本当は死ぬ子じゃなかった」と後々まで悔やんでいた。
 母は星空を見上げたまま大きくため息をつくと、まるで独り言のように呟いた。
「ケン坊、人は死んだらお星さまになるのよ。お星さまになって空からいつもみんなのことを見守っているのよ」
「母ちゃんも死んだら星になるのか」
「そうよ。でも、ちゃんと空からケン坊を見ててあげるからね。あっ、ケン坊が遊んでいる。いい子にしてるねって」

 私は星空を仰いだ。夜空の一点に母の星を見つけたような気になって思わず手を伸ばした。しかし、その絶望的な距離感が、私を暗黒の沈黙に突き放した。

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