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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第二十一回

◆第四日目(1998年10月11日)--空海にまつわる女性伝説と金剛界胎蔵界の不即不離・本場四国の遍路の元祖・四国遍路は自己懺悔の旅

 翌朝、ホテルの前には、朝霧に包まれた岩峰が林立している。中国の桂林の風景を一回り小規模にした光景は水墨画の世界のようだ。昨日は膝を笑わせながら下山し、スカイラインを引き返して古岩屋温泉に到着したときはもうまっ暗になっていた。

 ここ「古岩屋荘」は一昨日訪れた岩屋寺の近くである。『一遍聖絵』には三つの岩峰が描かれているが、あの形の岩峰が大宝寺から岩屋寺にかけていくつかあるようだ。私たちが梯子を登って詣でた白山神社のある岩峰は、この南側の裏山にあるのだろうがここからは見えない。

 空模様を気にしながら8時半出発。今度は面河川を南の上流に沿って国道33号線をどんどん上がって行った。山高き、谷深し。四国山地は実に険しい。私たちは再び四国の屋根に向かって車を走らせた。

 10時頃、青空が広がってきた。眼下の渓谷に別れを告げて数えきれないほどのヘアピンカーブを登って行くと、やがて道路は樹林を抜け、山の斜面を巻き、そして平原にさしかかった。

 秋雲の一刷毛を仰ぐ丘の道は、空との境目で途切れている。天に駈け昇る思いで一気に上がると、見渡すかぎりの大草原が広がった。雄大な「四国カルスト」である。(標高1485メートルの天狗森を最高峰に、25キロにわたって広がる日本三大カルストの一つ)

 目的地着。
 私たちは、ここで搾りたての牛乳を飲んだり、昼食をとったり、歩き回ったりして1時まで過ごすことにした。露出した石灰岩が、まるで草原に遊ぶ牧羊の群 れのように丘陵の彼方に散在している。そのまた向こうには青い山脈が連なっている。北には石鎚連峰、南には室戸岬を一望する視界380度の大パノラマは、 しかし足元の可憐な高山植物の地続きにあり、みな一つの世界につながっている。

「天狗高原まで歩こうか」
「うん」

 妻が放牧されている牛に走り寄って何やら立ち話をしては、また小走りについてくる。おおらかな自然の中で、人はみな子どもに帰る。
 風に輝く天狗高原のススキの原を妻の手をとって歩いた。

 ところで、空海は生涯妻帯しなかった。一般的に空海のイメージは女性と最も縁遠いところにある。何しろ女人禁制の高野山の親玉(ボス)である。何故だ か、そんな空海を訪ねる遍路旅に妻は積極的だった。妻と手をたずさえて空海の世界を訪ねると、意外にも空海は女性とかかわりの多い人物であることがわかっ てきた。

 その理由の一つに、大師伝説には女性が頻繁に登場するという発見がある。母親、老媼、海女、村娘、妊婦、比丘尼、傀儡女、龍神の娘など、女性は変幻自在 に姿を変えて伝説の中でお大師さんとかかわっている。老爺はわずかに出てくるが、壮年、若者は絶無といってよい。不思議である。

 進歩的インテリは、どうせこれを大師伝説と空海は別であるだとか、女性信者を集める教団側の作為的創作だとか、空海とは無縁な民間説話の偶然だとか、屁 理屈をつけるだろうが、私はそうは思わない。否、この特異性こそ空海の思想に由来するものだといいたい。なぜならば、密教の真義とは「両性の和合」でもあ るからだ。

 密教思想には、女性を排除する思想は一切ない。この点、禁欲主義を貫く仏教と明確な一線を画しているのが際立った特長なのである。大師伝説にかくも多くの女性が登場する理由に、私は空海密教の本質が本来母性原理と深い関係があるのではないかと感じてきた。

 思えば昔、妻は私に仏教とは言わずに密教をやれと言った。ふとそう思った妻は、20年後夫婦で四国遍路をしようと言い出した。これといって特別な知識もない彼女が、考えてみればこれも不思議である。

 秋空を吹き渡る爽快な風が、背丈ほどもあるススキの海を駈け抜けていく。妻と金色に輝くススキの中を歩くと、心の中までが透明になっていくようだった。

●第四十六番札所・浄瑠璃寺

 午後1時、四国カルスト出発。
 三坂峠を下るにつれて遠く瀬戸内海が見えてきた。岩屋寺を打つと札所は山里に下り、そして平野部へとつながっていく。松山市内を一望しながら里まで下り ると、遍路専用の立派な民宿の前に浄瑠璃寺はあった。民宿の駐車場には大型バスが止まっており、団体遍路で賑わっている。岩屋寺から約40キロ、深山幽谷 から里の生活空間に入った。

 浄瑠璃寺と刻んだ石標のある階段を登れば、50メートルほど奥まったところに本堂が見える。境内はきれいに掃き清められ、樹齢約千年の伊吹掃柏槇いぶきびゃくしんがある。

 本堂の前に仏足石が置かれてあったので、ちょっと乗ってみた。素足の裏にひんやりとした石の感触が気持ちよかった。そんな私の前で、妻は説法石に腰を掛けると膝をそろえて手を合わせている。私も合掌してみた。

 本堂の左手奥には「一願弁天堂」があった。仏法護持の天女とされ、琵琶を手に妙音を奏でる芸術と智慧と福徳の神だという。ついでに南海に起源をもつこの女神にも合掌した。このごろは妻に似てきたのか割と素直に何でも合掌する癖がついてしまった。

 伝説に出てくるお大師さんの相手は、気の毒なことに老婆が多い。放浪中貧窮した大師を助けたり、逆に大師が困窮した老婆を救ったりという美談の中には意地悪婆さんも登場する。大師に食ってかかったり、ものを投げて追い返す不良ババアも登場する。

 そこで興味深いのは、大師はそういう彼女らと本気になって関わり合うところである。「右の頬を打たれたら左の頬を出す」などという愛の行為(?)を見せ たり、女の罪業を神に許しを乞うたり、憐れんで見下すような様子もない。お大師さんは相手が不良ババアであっても、一人の人間と見て本気で渡り合うのであ る。

 仏教では女性を嫌う。だから、女性と絡み合うことはない。封建社会の男尊女卑といわれる日本文化のなかで、女性を男性と同等な位置(いやそれ以上だと私は思うが)に置いた思想は、儒教でも道教でも仏教でもない。唯一、空海密教だけであったことは意外に知られていない。

 空海は本来ヤマト民族の心に宿る自然崇拝と女神崇拝(原始神道)を密教に吸収し、極めて精緻で高度な哲学思想に体系化している。神仏習合は、空海密教の 根本思想にある両性和合の精神が完成したものではないかと私は思っている。天津神(男神)と国津神(女神)は、空海において金剛界(智)と胎蔵界(理)の 相即不離(両部曼荼羅の理智不二)によって教義的にまとめられているとさえ思っている。

●第四十七番札所・八坂寺

 浄瑠璃寺からわずか1キロ。田圃の中を市内に向かうと、高台に八坂寺があった。赤い欄干の真新しい屋根のついた橋を渡って門をくぐると、やや急な石段が あり、それを登ると三つの御堂が一列に並んでいる。本堂を挟んで左手が大師堂、右手が権現堂である。すべてコンクリート造りで鮮やかな朱色の欄干が目を引 く。

 八坂寺は役小角が開創したといわれ、もともとは熊野系修験の道場であったが、境内のどこを見回してもその面影は見出せない。かつては多くの僧兵を擁し、末寺四十八を数えた修験道の根本道場も、たび重なる兵火に遭い寺の規模は縮小し、ついに三堂と本坊と鐘楼だけとなった。

 ところで、高野山が女性を厳しく排除したのは当然であろう。それは密教の思想ではなく、若い僧にとって修行の妨げになるという理由にすぎない。これを もって女性差別と見るフェミニストもいるが、男の生理を知らぬこともはなはだしい。空海が高野山を女人禁制としたのは、かくの理由である。

 あの空海でさえ情欲の煩悩と闘いながら修行に励んだのである。若き空海は自らの煩悩をも正直に告白している。
「或るときは雲童の娘をて心たゆんで思いをけ、或るときは滸倍こべの尼を観て意をはげまして厭い離る」『三教指帰』
 あるときは海女のふくらはぎに右顧左眄うこさべんしてはいつしか我を忘れて執着し、あるときは若い尼さんをじっと観てしまう自分を叱咤激励しては心を奮い立たせたという意味であろう。

 プロの修行者に女は禁物である。だが、それは女性を蔑視することとは別問題である。空海の真意を知らずに「修行のための修行」に打ち込むと、そこのところを間違えるような気がする。

「あなたみたいなストイックな人間が修行なんかやったらろくなことはありません。命がけの修行は空海が代表してやってくれました。私たち凡人は夫婦で楽し く遍路旅をすればいいのよ」妻が最初に言った言葉を思い出す。彼女との道草遍路は迂遠なようでも、空海について考える時間と空間を私に与えてくれた。

 4時過ぎ、寺を出るともう一ヶ寺、今日最後の札所に向かう。松山の札所は密集しているので効率よく「稼げる」のだ。日が西に傾きかけてきた頃、西林寺に到着。

●第四十八番札所・西林寺

 八坂寺から途中重信川を渡って4、5キロほどバイパスを北進すると、田園の中に西林寺は見えてきた。山門はほとんどの寺が階段や坂を登りつめたところに あるものだが、ここは階段を下りて山門を入る。土手道より低い位置に境内があるからだ。このような西林寺の地形から、罪人がこの門をくぐると無間地獄に落 ちるといわれ、伊予の関所寺になっている。

 縁起によると、聖武天皇の勅願により天平十三年(741)、行基によって開基されたとある。行基(668〜749)は、空海よりも百年ほど前に活躍した 役小角と並ぶ修験者である。弟子を率いて諸国を遊行し、池を掘り、堤を築き、橋を架け、道を修するなど、世のために尽くした行者であった。

 四国も遊行しており、四国霊場には行基の開いた寺が多くある。役行者と同様の優婆塞であったために、彼の社会事業は政府の律令による統制主義に反すると されて弾圧された。のちに聖武天皇が帰依し、東大寺の造立に協力し、わが国最初の大僧正の位を受ける。世に文殊の化身とか大菩薩と称された人物である。つ まり、空海の先輩格にあたる私度僧である。

 四国八十八ヵ寺は弘法大師が開いたことになっているが、実は縁起で見ても行基の開基したものが多い。このことからもわかるように、空海の四国修行はそれ以前の先人がすでに行っていた古代日本の修行形態であった。

 五来重教授は、海に面した辺地を巡る修行を、海を信仰対象にする海洋宗教の実践形態であると考えた。『今昔物語』に「四国ノ辺地ト云ハ、伊予讃岐阿波土佐ノ海辺ノ廻也」とあるのは、このことを表している。

「遍路」とは、もともと「辺路」のことであり、「辺地」のことである。このように空海もまた民俗宗教の「辺地修行」に参加したのである。しかも、古代民俗 信仰とは、山岳信仰に移行する以前の、海洋信仰にその起源があったことを五来教授は実証し、ついに空海を海洋修験者であると定義したのである。

 この画期的な発見は、四国を巡っている私には非常に納得がいく。司馬氏や梅原氏は空海の著作から空海を理解しようとしているが、私は五来博士のように文 献だけでなく、空海の修行現場を実際に調査することも重要だと思う。歴史をひもとくだけでは、まざまざと感じるところまではなかなかいかない。

 だが、こうして現地を訪れると、何故空海が弘法大師として世の人々の心に残り、彼の思想のどの部分がどのような形で受け継がれてきたのかわかるような気 がするのだ。空海という人物の偉大性は個人の枠を超えたところから把握しなければ、その存在の本当の意味は理解できないのではないかと思うようになってき た。

 5時、西林寺を打ち終えると、私たちはまた弘法大師の伝説の地にやってきた。田園の中にある「文珠院」は、四国の大師伝説では最も知られている衛門三郎の生誕地である。天長年間(9世紀初め)、悪鬼長者とあだ名される強欲非道な鉢塚衛門三郎の屋敷がここにあった。

 あるとき、一人の旅の僧が三郎の門前に托鉢に立った。長者三郎は何一つ喜捨しなかっただけでなく、下僕に命じて乱暴に追い払わせてしまう。しかし、この行乞の旅僧は翌日また現れる。何度追い払っても、何かを諭すがごとく次の日また現れる。

 7日目にとうとう業を煮やした三郎は旅僧の眉間にめがけて鍬を打ち下ろす。旅僧はそれを鉄鉢で受けると鉢は八つに割れて虚空に消えて行った(鉢の落ちた 山が現在の鉢振り山)。それを最後に僧は黙って立ち去っていった。三郎が屋敷に戻ると、長男が狂ったように泣き叫んでいる。その声は「我は空海なり。汝反 省せよ」と叫んでいた。

 その後、衛門三郎の八人の子どもが次々に死ぬという不幸が起こる。彼はいつかの旅僧が本当に弘法大師空海であったことを知って、自らの罪の深さにおのの き恐れ、わが罪を懺悔するために生涯大師のあとを追い続けたという。ここから、四国遍路は衛門三郎に始まったという伝説が生まれた。

 全国的には四国遍路は弘法大師が創始したと信仰されているが、本場四国では衛門三郎が元祖になっている。故に、この地は遍路発祥の地と崇められ番外霊地となっている。かつて松山市の植樹祭で、昭和天皇、皇后がこの地に見えられたときにも、そのように説明されている。

 さて、この伝説をどのように受け止めるか。鉢が八つに割れ八人の子どもが死ぬというのは、因果応報を説くのちの説話であろう。しかし、重要なポイントは 三郎が「空海とは知らなかった」という点ではないだろうか。伝説を歴史の時空に重ねてみると、天長年間は空海が中央仏教界の頂点にあってその名は全国に轟 いていた頃であるから、いかな田舎者の三郎といえども空海の偉大さは知っていた。しかも、空海は高野山の造営費を全国に勧進していた頃であるから、あるい は本当に巡錫中の空海だったのかもしれない。それを知らずに打ちすえたというところである。

 衛門三郎ならずとも、我々はそうとは気づかずに日頃多くの罪を犯して生きているものである。つまり、伝説のポイントは、その戒めにあるのではないだろうか。四国遍路は願掛け参り、お礼参り、そして、無明の心の懺悔旅でもある。

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