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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第二十三回

◆第六日目(10月13日)

■菩提の道場(伊予・愛媛県)■

 朝、鈍川温泉を発つ。広島行きのフェリーに乗るために今治から松山に引き返す。昨日、帰る前に墓参りをしようと妻が言い出した。両親の墓は松山市の郊外 にある。長く会っていない地元の長男を電話で呼び出して、遍路をしていることを伝えると、すべてを了解したようだった。兄といっしょに墓参りをした。

 海の見える丘の墓地に両親と二人の子どもの小さな墓がある。修験者かぶれした父の墓前に、私は遍路姿で立ってやった。父親が狂ってしまったせいで家族はバラバラになってしまった。お四国山霊場で母を殴った父を「殺そう」と思って突進していったあの日が脳裏をかすめた。

 因業の家を捨て、郷里を捨て、四国を飛び出して、私は今日まで自力で生きてきた。それが何の因果か遍路をやっている。(親父、これで満足か?)心の中でそう呟いたとき、怒りとも、恨みとも、悲しみともつかぬ、言葉にできぬものが胸に込み上げた。

 父の隣には母がいた。癌で死んだ母の壮絶な死に顔が目に浮かんできた。息を引き取った朝、次兄と幼い頃育った「鯉のぼりの村」に行った。二人でよく遊んだ山に登って、朝露の残る野菊を摘んだことを思い出した。野菊で埋めた棺の中の母が瞼に浮かぶ。野菊の好きな母だった。

 その母も、今はもの言わぬ小さな石となっている。墓石には、ただ「菊室慈光大姉」と刻まれた文字が母の面影を伝えるだけである。並んで立つ墓石を撫でると、父母の石は手に冷たくて気持ちよかった。

「兄さん、宇和島の牛野川に行ってきたよ。今思うと、何で俺たちはお袋に連れられてあんな山奥にたびたび行ったんだろう」
「飯を食わせてもらうためだ」
 兄は吐きすてるように言った。

 8歳年上の長兄は事情を知っていた。兄には蛍を追ったり、鎮守の杜で遊んだ甘い思い出はない。私はあの懐かしい山河に揺曳する「切なさ」の理由をようやく知った。

「だがな、敗戦後裸一貫で引き揚げてきた親父やお袋の人生は、俺たちには想像もできないほど凄まじいものだったんだ。腹をすかせた育ち盛りの子ども四人も 抱えてな。徹(次兄)はもう少しで中国残留孤児になるところだったんだ。あの食料難で、どういうわけか徹だけ丸々肥えていたからな。満人が何度も高値で買 いに来たんだぞ」

「うん、お袋から聞いたことがある。餓死させるくらいならと、泣く泣く子どもを手放した親がたくさんいたそうだ」
「生きる力の弱い赤ん坊は次々に死んだ。赤ん坊が道端に沢山並べられていたこともあったんだ」
「うん、それでもお袋は、母ちゃんが腹を痛めた子どもは、這ってでも全員日本に連れて帰ろうと思ったと言っていたな」
「だから、徹を金に替えることなど思いもよらなかった。生まれたばかりの勠はとうとう死んだがな。俺たちはみんな親父に反抗したが、この年まで商売しなが ら息子三人東京の大学を出してみて、少しは親の苦労がわかったよ。敗戦直後、一文無しの引き揚げ者が子どもを育てることはもっと大変だったんだろう」
「宇和島でお袋のこと思い出していたよ」
「お前は母親に固着していると思っているのだろうが、それは、子ども時代には誰でも抱く慕情なんだ。末っ子で母親と早く別れたから無理もないがな。でも な、お前は親父の影響を一番強く受けているんだよ。反抗しながらも、本当は親父に惹かれて生きて来たんだ。そんな気がしないか」

 兄にそう言われて、母の子だと思っていた私は、宿命的には父の子であることにハッと思い当たった。

 四回目の遍路はこれで終わった。

 昨年倒れたが、倒れてもまた立ち上がって歩き続けるのが遍路なら、人生はまさに遍路旅である。「修行の道場」を打ち越え、私は故郷の伊予路まで辿り着いた。固く閉ざしたはずの過去が生々しくよみがえり、必ず逢着せざるを得ないと知っていた生い立ちの思いが、尽きかけたほのおのように未練がましく寄り添っていた。

 今、伊予路を振り返れば、捨てたはずの過去と、忘れたはずの父母の影がどこかでついて回っていたような気がする。
 フェリーに乗ったとき、妻が大師堂でブツブツ言いながら祈るのは、私の病気回復のお礼だったということを初めて知った。
 そんな妻に促されて......(帰る前に墓参りをしてよかった。一番大切なことを私は忘れていた)そう思ったとき、伊予は亡き父母を弔う旅路であったことに、私はようやく気がついたのである。

 伊予は「菩堤の道場」といわれている。

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