エンサイクロメディア空海 21世紀を生きる<空海する>知恵と方法のネット誌

空海を歩く

トップページ > 空海を歩く > 四国八十八カ所遍路「空と海と風と」 > 空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第二十八回

空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第二十八回

■涅槃の道場(讃岐・香川県)

◆第四日目(6月29日)--降伏護摩で戦う空海・水が象徴する菩提の心・八幡大菩薩はわが守り本尊

 とうとう降ってきた。キャンプ場の下見も兼ねて、翠波すいは高原の金砂湖を回って札所に向かうころには、霧のような細かい雨が吹きつける。今日一日は雨の札所巡りになるものとあきらめた。

●第六十五番札所・三角寺

 伊予三島市から約10キロの道程。平石山の山中深くにある。山腹の車道を右へ左へと回り込みながら、いつしか荒れ果てた林道に入り込んだ。霧が急に深く なり、対向車は一台もない。前方がしだいに薄暗くなり、ヘッドライトをつけても10メートル先の視界は全くきかない。人気のない山道に少し不気味になって きた。昨日ガイドブックを斜め読みしていたのがいけなかった。三角寺の御詠歌は《おそろしや 三つ角にも入るならば、心をまろく慈悲を念ぜよ》である。山 号の由霊山は幽霊山と書くともあったように思う。

 しかし、カーナビに映る車の位置は確かに三角寺へ向かっている。標識もないので、ナビがなければ心細くなって引き返したかもしれない。そうこうしながら 見通しの利かない山道を走っていると、急に広い寺の駐車場に着いた。たくさんの団体遍路のバスやタクシーで混んでいる。一体どこを通って、こんなに多くの 車が湧いて出たのか。

 本降りになってきたので、雨ガッパをまとい準備してきたゴム長靴に履きかえた。下から急勾配の長い石段を見上げると、山門のあたりは杉木立とともに雨霧の中に白く溶け込んでいる。石段を登り切ると、鐘を吊るした仁王門があった。

 鐘を撞き、身の穢れを落として中に入る。正面が庫裡、その横に弁天を祀った池がある。境内は左奥に伸びており、降りしきる雨の中に薬師堂、本堂、大師堂が霞むように清閑と並んでいる。樹林に囲まれた境内のたたずまいは枯淡である。

 三角寺というちょっと変わった寺号は、三角形の護摩壇に由来する。ガイドブックはどれを見ても、弘法大師がここで降伏護摩壇を作って秘法を修したとか、 降伏護摩の法を修めたとかいう似たような説明である。わかったようなわからないような、つまり何のためにそんな恐ろしいことをやったのか、肝心のところが 書かれていない。降伏護摩とは、敵の破滅や征服を目的とする、いわば戦いの呪術のことである。寺の縁起ではそこのところを、弘法大師巡錫の折、国家安泰と 万民福祉のためにやったと、これまた意味不明の説明になっている。

 これでは伝説の底にある真の意味がわからないし、大師信仰のみならず日本人の信仰の核心部分が見えてこない。つまり、ここにはあるべき敵の存在と、大師 が守ろうとしたものが何であるか語られていないのだ。であるから、しばし私といっしょに伝説の謎解きに挑んでいただきたい。

 ここに一つのヒントがある。それは先ほどの弁天池に龍王が現れて弘法大師がそれをご覧になったという『四国遍礼霊場記』にある話である。しかし、あとは 何も書かれていない。第二ヒント。三角寺の奥の院を「仙龍寺」といい、その山を「龍王山」と呼んでいること。第三ヒントは五来博士の指摘にある。博士によ れば、三角寺の縁起には大師に追いつめられた悪い龍が降参して里人のために「水」を出すと約束した話が抜けているという。

 これで、お判りであろう。大師が調伏した敵とは、龍王山に棲む龍であり、追いつめたのは水を奪い返すためであったことが推察できる。以上の推理をこの目 で確かめようと、さらに7キロほど山を登ろうと思った。奥の院・仙龍寺の、さらに奥に、旧奥の院があって窟籠りの霊場がある。ここがもとの辺路修行の霊場 で、修行者は滝行をしたり窟籠りをしていたといわれている。しかし、現地は岩の端につかまりながら、険しい行場を経なければならない。雨がひどくなったた め、これは断念した。

 私の勘だが、きっと近くには水源があると思う。というのは、龍と戦う数ある大師伝説の中には水に関わるものが多いのだ。一例を挙げると、第二十一番・太 龍寺には弘法大師が毒龍を封じ込めた伝説がある。太龍寺の奥の院について、『霊場記』には次のような記述がある。「是より三十町ほど辰己の方にあたり、岩 窟あり。なかばより両へ相わかれ、一方は龍王の窟といふ。むかし大龍神の棲める迹とて石面に鱗形など歴然たり。奥に至り溜水澄湛なり」と。

 奥には龍の窟があり、溜まり水を澄み湛えているのである。その場所は、空海が虚空蔵求聞持法を修した史実に残る場所である。ならば、空海はやはり「水」 と深い関わりがあったと考えねばなるまい。水は農耕民族の生殺与奪を握るほどのものである。水を支配する神は日本では龍となって現れる。つまり、三角寺の 弁天池で大師が向き合っていた龍とは、この一帯の水を支配していた何者かであろう。ならば、弘法大師が「水を止めた敵」と降伏護摩の秘法で戦った話はつじ つまが合う。

 だが、疑問は残らないだろうか。この話をもう一歩突っ込んでみよう。水を利害上の問題とするには、降伏護摩はやりすぎではないか。これは、敵を木葉微塵 にするほどもの凄い呪殺法である。大師がそうまでして死守しようとしたものは、単に生活用水ではなく、私は「水信仰」ではなかったかと思うのだ。三角寺の 縁起の元はそれであったにちがいない。

 水は生きる糧であるとともに、日本人にとっては信仰であった。国土の七割が豊かな森林に被われた国であればこそ生まれた本能的な信仰であったと思う。と するなら、その「水」を占有し、支配する敵とは断固戦わねばなるまい。このように伝説の背景を探ると、弘法大師がなぜかくも「水」と強く結びつくのか、そ の本当の意味が明らかになってくる。調伏された龍王は、かくして水神となり人々に益する水の守護神となる。

 古い遍路信仰の意味は、現代の本堂の前に立ってもなかなかわかりにくい。札所の背後には古代の修行の場があり、そこが霊場信仰の発祥霊域である場合が多 い。四国霊場の深層に触れようと思えば、奥の院まで行かねばわからない。そこへ行けば、日本人は一体何を拝んでいたのかがわかってくる。

 霊水といわれるように、山紫水明の国土がその民族に教えていたものは「水」の霊力である。我々の肉体のほとんどが水分であるならば、その水を穢すことは 肉体を汚すことであり、ひいては民族の魂を汚すことである。汚濁の水は餓鬼の飲み水である。弘法大師の水は菩薩の飲み水である。水源を守ることは民を守る ことである。ここまで考えると、寺の伝える降伏護摩の目的が「国家安泰」と「人民福祉」にあったという意味がようやく解けてくるのである。

 経済発展と国土開発の名のもと、森林は次々に伐採され、財テク目当てのゴルフ場は競って造成され、農薬はまき散らされ、産業廃棄物は山に埋められ、田畑 は次々と潰され、かくして自然は病み、河川は汚染され、海は死んでいく。「水」の死は日本人の精神の死である。かつてどこにでも手に入った自然水は、今や コンビニのペットボトルの中でいじけて並び、水さえも市場原理に組み込んだ欲望資本主義は、他国が羨むようなあふれるばかりのモノ国家ニッポンとなった。 そして、日本は病んできた。病垂れに品物の山と書けば「癌」となる。

 滝行の好きだった父は、生前よく「死んだらたまには水をくれ」と言っていた。国力膨脹主義の満州から帰還した後、経済大国に邁進する戦後においても、なおどこかで踏みとどまった父の生き方が、また一つわかるような気がした。

 菩提とは、澄んだ水の如き仏の境地をいう。水の濁りは心の濁りである。空海と心の中で語りながら日本を考えていると、飽くなき経済闘争の世界にあって、 菩薩の心を現せる民族がいるとすれば、それは極東の小島に「水」の精神文化を育んできた日本人ではなかったかという気がしてくる。空海が死守しようとした 「水」が象徴するものは、わが民族の菩提の心ではなかっただろうか。

●第六十六番札所・雲辺寺

「菩提の道場」を打ち終えた私たちは、ついに「涅槃の道場」に入った。雲辺寺は、徳島県と香川県の県境にある四国山脈の真っ只中、標高はすでに千メートル に近い文字通り雲辺にある霊場である。(所在地は徳島県になるが、遍路では讃岐の涅槃の道場に入れる)四国霊場中最も高い寺院の展望台からは、讃岐平野と 瀬戸の海が一望できるというので楽しみにしていたが、山頂に着いた頃には再び雨脚に追いつかれてしまった。横殴りの風と叩きつける山雨荒れる中、喘ぎなが ら寺に辿り着いたときはビニールのカッパはほとんど役に立たず、長靴の中まで雨水が入っていた。

 ドシャ降りの本堂で湿った線香を上げ、何とか灯明をともしてお参りをする。寺は杉の原生林に囲まれた典型的な山岳寺院である。しかし、「四国高野」と呼ばれる幽玄な雰囲気も、吹き荒れる天候では味わうどころではない。

 雨と風でさんざんな目に合いながらも、私たちは境内の隅にある「弘法霊水」を見つけた。大師手掘りと伝えられる井戸である。戸の閉まった小屋の中にあるので他のお遍路さんたちは誰も気づかず、みな這々ほうほうの体で引き上げて行くが、空海と水のことばかり考えていると私の目にはちゃんと飛び込んでくる。雨ニモマケズ、風ニモマケズ、私たちは「空海の水」だけは探し当てて飲む。濡れねずみになりながらも霊水を飲むお互いの姿に思わず大笑いした。

 讃岐(香川県)は空海の生まれた故郷である。雲辺寺には空海が16歳のとき登ってきたという伝承があるが、きっと山頂から海を望んだのだろう。雲の辺りに位置するこの霊場の山号は「巨鼇山」である。巨鼇きょごうと は大きな亀という意味であるから、ここにも海の暗示がある。晴れた日には山頂から海が見えるはずだから、空海の辺路はやはり海の信仰とつながっている。辺 地信仰は、山中を行道していても祖先の遠い血が海の彼方を拝んでいたのであろう。この寺の本尊も、やはり千手観音であった。

 仙遊寺の千手観音ははるばる竜宮から海を越えて来た。足摺岬の第三十八番・金剛福寺も千手観音である。補陀落渡海で話したように、観世音菩は海に縁の深 い菩である。海の彼方から煩悩多き人間を救いに来た美しい仏である。空海の故郷「涅槃の道場」は、まず観音菩に出会うことから開始した。

●第六十七番札所・大興寺

 雷雨のために山頂ロープウエー乗り場で約1時間の足止めを食い、麓の駐車場で遅い昼食をとったときは3時を過ぎていた。六十七番札所を目指して小降りになった山中の車道を走らせていると、道路脇の叢から野うさぎが小耳を立ててこちらを見ていた。

 里に下りると大野原町である。そこから国道377号線を琴平方面にとって寺を探すと、いつしか道は三豊平野の広がる田畑の中に入る。雨上がりのみずみず しい農道を行くと、やがて稲田の向こうに山門が見えてきた。のどかな風景に溶け込んだ第六十七番霊場は、子どもの頃昔話の絵本で見た村里の寺のようであ る。

 畦道を歩いて行くと辻の地蔵さんに迎えられた。懐かしい日本の風景に覚えず感傷的になった。小川にかかった石橋を渡って山門を入ると、石段は上へ上へとのびている。途中に注連縄を張った樟の大木が頭上を覆っている。妻がそばに寄って老木をなでている。

「あの樟の木にはフクロウが棲んでいましてね」

 記帳を終えた納経帳を返しながら、おばあさんが話してくれた。本堂内の納経所で、ご住職のおじいさんと並んで座って、こうしてひねもす遍路を迎えてくれ ている。口数少なく、つがいのフクロウの話をする穏やかな老夫婦に心が癒される。あの老樹は弘法大師お手植えの樟の木だという。私たちも黙ってその方を振 り返った。束の間の沈黙。一念三千の時が流れる。ここは弘法大師堂(空海)と伝教大師堂(最澄)が仲よく並んで建つ四国霊場唯一の寺である。

 琴弾八幡宮ことびきはちまんぐう
 大興寺を出たときは4時40分だった。納経所は5時までだから、今日の札所巡りは予定通りこれで打ち止めにして観音寺市に向かった。今夜はこの町で泊ま るが、その前に琴弾八幡宮を参詣することにした。私たちは車で移動していてもけっこう歩きまわる。松林の長い石段の参道を歴史の重みを感じながら登ると、 石段は480段もあった。

 琴弾八幡大明神を祀るこの山を七宝山という。由来によれば、大宝三年(八世紀初頭)のある日、天を黒雲が覆い、月光も日光も射さない日が3日間続いた。 人々が怪しんでいると虹色の雲がこの山にかかり、海岸に一艘の船が現れて、中からは妙なる琴の音が聞こえていた。日証上人という坊さんが近づいて「いかな る神か」と問うと、「我は八幡大菩なり」と答えて霊異を示したので、その御船を汚れなき数百人の子どもに担がせて七宝山に上げたとある。だから、御神体は 船(船板?)であるという。

「ここは海の男のアンタが心を込めてお参りしなくちゃ」

 妻に言われて私は天津祝詞あまつのりとを 唱えた。これも、父親が毎日天照大神に捧げていたのでいつの間にか覚えていた。「鯉のぼりの村」の祭りには、大漁旗を飾った船に八幡さんを乗せて笛や太鼓 でにぎやかに祝ったものである。日本には琴ヶ浜や琴弾浜と呼ばれるところはたくさんある。これらは八幡神が海から来たということである。八幡神は本来海の 守護神である。

 私の生まれた高橋の本家は、かつて遠洋漁業で栄えた港町にあった。町には立派な八幡神社がある。なにしろ八幡が上陸した浜(八幡浜市)である。それに私 の守り本尊は八幡大菩薩である。だから四国の辺地信仰が海洋信仰とつながっていることは、もともと私の何かが記憶していたことなのかもしれない。

Copyright © 2009-2024 MIKKYO 21 FORUM all rights reserved.