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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第三十四回

◆第二日目(8月12日)--沙門空海とは? 護摩の火と空海 火と水のくに日本 空海は矛盾の人か? 梅原猛説への反論

●第八十番札所・国分寺

 国分寺町に入る。
 四国最後の国分寺は讃岐の国の国分寺で、ここは四国四ヶ国の中でも一段と大きく感じる。仁王門をくぐると、松林の広がる閑寂な境内が目に入った。本堂へ 向かう両側には八十八ヶ所の本尊を刻んだ石仏が並んでいる。これまでの寺を思い出しながら、妻とゆっくりと数えながら歩いた。どの札所も思い出が深い。一 つひとつの霊場が走馬灯のように脳裏を駆けめぐる。

「...七十八、七十九、八十。憲吾さん、とうとう八十番目まで来たわよ。あと八つよ。よくここまで来たわね」
「うん。始めた頃は八十八ヶ所も本当に回れるのかと思ったけど、ついにここまで辿り着いたね」

 松林のそこここには、奈良時代の創建当時の大きな礎石が点在している。旧金堂跡、五重の塔跡が天平の昔を今に伝えている。

「きっと空海も子どもの頃よく来たんでしょうね」
「『空海の風景』の中で司馬さんは空海がここへ来たと書いているよ。確かにそんなことを感じさせるお寺だ」

 鐘を撞こうと思ったら綱がない。この鐘は日本有数の古鐘で重文である。その昔、この先の山奥の安原郷にある鮎滝の淵に棲む大蛇が頭にかぶっていたものだ という。この大蛇が近郷の人々を苦しめるので、弓の名人戸次八郎が国分寺の本尊千手観音に「一矢あたれば、千矢の霊験あれ」と祈願して淵に行き、鐘をか ぶって現れたところを見事に射止めたという由来がある。

 蛇や竜は各地の山で水分神として体現される。大峰山でも竜を退治した修験者の伝説があるらしい。空海にはそういう行者の伝説を集約したようなところがあ る。弘法大師伝説は、日本人の深層意識にある水信仰が凝縮したものではないだろうか。実在した釈迦を祖師とする仏教とは違い、密教の祖師は大日如来という 自然神である。そこからも、密教はわが国古来のアミニズムやシャーマニズムとのつながりが深いといえる。シャーマンの特徴は神仏、精霊との直接交流によっ て能力を得、役割を果たすところにある。

 空海が好んで自称した「沙門」であるが、語源はツングース族の霊能者を指すシャマンからきている。これは、空海の本質を知る上で重要である。わが国の初 期の修験者はシャーマン的性格が強く、空海は優婆塞時代に彼らと共に行を重ねつつ神秘体験をしている。シャマンはさらにサンスクリット語のシュラマナ、 パーリー語のサマナからきているといわれている。

 古代インドにおいてバラモン教に対抗して新しい民衆の宗教的うねりが起こるが、その担い手をシュラマナ(沙門)といった。仏教の開祖である釈迦もシュラマナ集団の一人であった。

 王宮を捨てた釈迦といい、家も前途も捨てた空海といい、真理を求める者が飛び込む世界はいずれもシュラマナ階層である。彼らの最大の特徴はいずれも体制 からはみだしたアウトサイダーで、一所不在を旨とし食を乞う生活をしながら修行したことである。空海が『三教指帰』で自らを仮名乞児(かみょうこつじ)(全てを捨て去り名さえないが、仮に名付ければ乞食である)というのも、シュラマナの生き方を示している。

 荒野に出て行ってイナゴと蜜を食べ物として生きた修道者ヨハネも同じだろう。彼の行くところ青草も枯れてなぎ倒される雰囲気があったそうだ。孤高のシャマンはみなある種の霊力のようなものをもっていたのだろう。

 インドにおいて釈迦の原始仏教はやがて大乗仏教となり、僧は寺院に定着するようになる。日本の奈良仏教は律令仏教であり、官僧は都の大寺を中心とした僧 伽(サンガ)にいたから、それは本来の沙門の姿ではない。まして在家や妻帯をした鎌倉の僧に、空海のもつ霊性や神秘性がないのは仕方のないことである。空 海が官僧になったのちもなお沙門を名乗ったのは、彼が生涯シャマンの自覚をもち続けていたからであろう。

●第八十一番札所・白峯寺

 国分寺を打ち、北へコースをとれば五色台がある。香川県の北部、瀬戸内海をはさんで本州に最も近い台地形の山地のことで、白峰、赤峰、黄峰、青峰、黒峰 という五つの峰から成るためにこの名が付いた。第八十一番札所・白峯寺は、五色台の西端にある白峰(350メートル)の山頂付近にあった。讃岐平野の真ん 中にあり、周辺の眺望はいい山である。

 境内が近くなると、古松、古杉が欝蒼と茂る深山幽谷の雰囲気が満ちてくる。山門をくぐり、右手に御成門と客殿を見つつ参道を突き当たると護摩堂と納経所 がある。そこで左に折れて真っすぐに行くと、崇徳天皇を祀った「頓証寺殿」の門が見えてくる。この神殿の裏手に崇徳上皇の白峯御陵がある。『雨月物語』で 西行法師が上皇の化身と語り合った場所である。

 怨霊と化した上皇さんは、先に大師堂を拝んで空海のパワーをもらってから魂鎮めをすることにして素通りする。神殿の右手の石段を登る途中に行者堂があ り、虚空像菩薩堂を見つけた妻は早速拝んでいる。なにしろ、最近は空海の生まれ変わりである。石段を登りきると、緑の陽光に、明るい葉裏をのぞかせた楓が 梢を伸ばして迎えてくれた。正面が本堂、その右側に大師堂がある。

「秋はさぞきれいでしょうね」
五色の折り鶴を大師堂に奉納して戻る妻の輪袈裟には、南無大師遍照金剛の金文字が五色台のこぼれ陽に輝いていた。

 この寺の縁起はいろいろあるようだが、弘法大師による開基とされるのが一番古い。弘仁六年(815)大師が如意宝珠を埋めるためにこの山の土を掘ったと ころ、渾々と泉が湧いてきたことに始まっている。もう一つは智証大師がこの山に瑞光を見て、山の神に導かれて寺を開いたというものである。また瀬戸内海に 光を放つ流木があり、この霊木を引き寄せ、観音像を彫ってこの寺の本尊にしたという言い伝えもある。

 泉が湧き出たという弘法大師の由来は、明らかに水源信仰である。智証大師の流木のほうは補陀落信仰であり、山頂に見た瑞光の伝承も海洋信仰を示唆している。

 さて、私たちは密教独特の修法に護摩を焚くことを知っている。それは、空海が唐からもたらした密教の儀式にはちがいない。入唐した空海は、当時世界最大 の国際都市であった長安でさまざまなものを見聞した。そのあたりは『空海の風景』に詳しく描かれているが、ここで取り上げたいのは、空海が護摩の火をどの ようにとらえたか、司馬遼太郎と私との見解の相違である。そこから、空海と海洋信仰を考えてみよう。

 司馬は、長安で密教を受法する以前の空海が「?教」(けんきょう)に出会う場面をこのように描く。
「祭壇には火が燃えている。信徒たちは火を拝むために拝火教などとよばれているが、空海がとっさに連想したのはかれがまだその全体系に触れていない密教に おける護摩であったろう。(つまり、護摩か)と、思ったり、自分の連想を否定したりしたにちがいない。護摩というのは、火をもって供養をするということ で、釈迦の仏教にはこれがなく、むしろこの種のものを外道として排した。しかし、密教は釈迦が嫌悪した護摩を取り入れたがために、空海の護摩に対する関心 が強い。護摩はインド古来の土着宗教であるバラモン教から系譜をひいているのであろう。バラモン教徒は天を拝し天を供養する場合、火をもっておこなう」
と、まず護摩に対する空海の関心の強さとバラモン教における拝火の意味を解説する。

そして護摩の思想は、インドから中国を経て空海に及ぶ頃にはこの火の行事が高度に思想化され、火を真理とし、薪を煩悩とし、真理をもって煩悩を焼くという 思想に至ったと解説する。さらに、拝火の起源はバラモン教や釈よりも古いゾロアスター教にもある、とその歴史を解説する。

 司馬は、それらの異宗教に触れるときの空海の好奇心を専らその教義に集中させている。拝火教の教義については、空海は善悪二神論の「おとぎ話」程度にとらえただろうと想像する。
「空海は護摩の火さえ抽象化し、思想化した男だけに、教における火の素朴さに失望する思いをもったであろう」とし、「空海が後年、護摩をも思想化してし まったのは、護摩の火に薪という具体的なもの--煩悩--が焼かれて清浄という抽象化を遂げるという内容を考えたからであった」と結論づけている。これは、儀 式としての護摩の解説をしたにすぎない。

 続く話は、?教や景教(キリスト教ネストリウス派)やマニ教、仏教などの世界の宗教が唐に流入混在する歴史的背景が延々と語られる。司馬は、そこで空海 の精神を啓かしめた大唐の長安が、いかに世界思想史上で華麗な時代であり、空海はどれほど華やかな刺激を受けたかを言いたいわけである。後半の煩瑣な雑学 的知識の羅列は護魔の話とは関係ない。

 はたしてこれで火の素朴さに失望したにもかかわらず、空海が護摩法を取り入れた理由がわかるだろうか。釈迦が外道であると嫌った「火を焚く呪法」に、空 海がなぜかくも親近感を覚えたのか、一方で釈迦を崇拝する空海が、なぜあえて護摩の火を焚くのかという疑問が解けるだろうか(それは司馬自身の疑問でも あったはずだが)。

 司馬の空海伝によると、空海が密教を求めた結果「たまたま護摩の火がそこにあった」という論法になる。ゆえに司馬の歴史観によって、私たちは、空海の護 摩の火とはインド土着のバラモン教、いや、遠くはペルシャのゾロアスター教など、異国の文化を移入したように認識するのである。ここでも「灌頂」と同じよ うに、司馬の歴史講座は日本人のアイデンティティーを消すのである(もっともこれは司馬の責任ばかりではなく、密教研究家の説を彼が踏襲したのではある が)。

 はたして空海は火を抽象化したのであろうか。拝火の素朴さに失望したのであろうか?
「司馬さんはやっぱり外を見る人だなあ。日本人の内側を見ていないようだ」
「そういうアンタは空海と護摩をどうとらえるの?」
「空海は火の素朴さに失望したとは思わないよ。むしろ素朴だからこそ、そこに日本人を発見したのさ。だから、火を重視したんだと思うよ。司馬さん流にいえ ば護摩を見た空海は『これは使える』と思ったのさ」「日本の文化性? じゃ希望ね。求めて来た密教にきっとそれを確信したのかもしれないわね」
「その通り」
 空海はすでに「火と共に居た」。そういうと人は驚くかもしれない。だが、私が土佐の御蔵洞(みくろどう)の中で閃いた空海の姿を思い出していただきたい。火柱を上げて天に祈るあの空海を!

 空海も何かに促されて四国霊場を歩いたのであり、日本古来の潜在的な衝動に駆られながら修行したのである。無名時代の空海の修行を『三教指帰』の序からもう一度考察してみよう。

(ここ)(ひとり)の沙門有り。(われ)に虚空蔵求聞持の法を(しめ)す。其の経に説かく、()し人、法に依って此の真言一百万偏を(じゅ)すれば、即ち一切の教法の文義暗記することを得。ここに大聖の誠言を信じて飛焔(ひえん)鑽燧(さんすい)に望む。阿國太瀧嶽に(のぼ)()ぢ、土州室戸の崎に勤念(ごんねん)す。谷響きを惜しまず、明星来影す。遂に(たちま)ち朝市の栄華、念々に之を(いと)ひ、巌藪の煙霞(えんか)日夕(じっせき)に之を(ねが)ふ」

 まず空海は一人の沙門(シャマン)から求聞持法を教えられて、霊力を得ることができるという大聖(神仏)の言葉を信じて、「法に依って」真言百万遍の修行に入ったとある。「法に依って」とは、仏法に依ってではなく、シャーマン的な方法に則ってという意味であろう。

 その結果、ついに室戸の海で虚空蔵菩薩の化身である明星が自分に霊感を与えたというのである。すると、朝(朝廷)での栄華栄達や市(市井)での欲望打算などの人の世がいよいよ虚しくなり、霞が煙る山岳の窟のような所を渇望するようになったというのである。

 わが国では古来から山岳や海(岬や海上の島)などは神聖な場所とされているから、空海も霊力を得るために阿波の太龍ヶ嶽や室戸岬などで「飛焔を鑽燧に望 む」修行をしたであろう。「飛焔を鑽燧に望む」というこの一句は、苦行努力の比喩といわれているが、私も五来博士と同様に実際に火柱を揚げて火を焚いたと 思うのだ。

 深山幽谷に憧れた空海は、道教のような遁世の生活を求めたのではなく、そこで神仏の真理を究めようとしたのである。野性にかえった空海はまさに闘争の日々であった。火は抽象化された思想の道具ではなく、火そのものに万有の根源性を見ていたのだと思う。

「或るときは金巌に登って、しかして雪に遇うて坎?(かんらん)たり。或るときは石峯に(またが)って、もって(かて)を絶って轗軻(かんか)たり」と、吉野の金峯山や四国の石鎚山で寒さと飢えに苦しんで修行をする。

「雪を払って(くさびら)を食ふ、(略)雪を掃うて肘を枕とす。(略)冬には首を(つづ)め、袂(たもとを覆うて、燧帝(すいてい)の猛火を守る。とちの(いい)、茶の菜、一旬()がず。紙の(きぬ)) (かつら)(ころも)二肩を(おお)はず」というような、修験道の極地とされる木食草衣の原始的な修行をする。そして「燧帝の猛火を守る」のである。(燧帝とは火の神)

 今も各地に残る神道の火祭りを見てもわかるように、日本人も本来「火を焚く宗教」をもっていたはずである。そもそもヒジリ(聖)とは「火知り」から出た言葉で、それは発火法を知る者のことであり、聖なる火を守る古代日本人の知識階級のことでもあった。

 それは山頂で焚く修験行者の火にもなるから、智証大師が白峯の山頂に瑞光を見たという縁起も修験の火だったかもしれない。広島の古い港町である尾道市には、尾道水道を見下ろす山頂に「千光寺」があり、はるか遠くの海上に瑞光を放つ玉(火)が今もある。厳島の弥山(みせん)山頂にも霊火堂があり、いずれも海に臨んでいる。

 空海の土佐の修行地は、太平洋の荒波と空だけの最御崎(ほつみさき)であるが(第二十四番霊場・最御崎寺)空海はそこでも火を焚く修行をしたと思われる。

『空海の風景』には、求聞持法を修する場所を求める空海が、室戸の最御崎という所を知る場面を、司馬はこのように書いている。

「その尖端は、どうなっている」
「最御崎と申します」
物知りが、そう答えたであろう。ほつみさきなどとは、普通名詞のようでもある。この時代、木の梢のことを末枝(ほつえ)といったようだから、ほつとは尖端のことであろうか。--略--
「地の涯か」
空海がもとめていたのはそこであったようにおもえる。--略--

 ここで司馬は「ほつ」の意味を「最果て、尖端」だと思ったようである(御崎は尖端に決まっているから、尖端の御崎というのは言語上おかしいはずだが)。

 これでは空海と護摩の関係はわからない。最御崎とは「火つ御崎」のことである。「つ」は「の」という意味であるから「火の岬」のことである。日本にはあ ちこちに「日の御崎」がある。つまり、古代修験道において日本人は霊域とされていた岬において聖火を焚いていたのである。五来博士によると、島根半島西端 の日御崎の灯台はもとは火焼岩といって火を焚いていた場所だし、半島の東端には焼火神社があるそうだ。それは、海を信仰の対象とした古代日本人の宗教心で あった。求聞持法を修する行場を求めていた空海は、最御崎を「火つ御崎」と知っていたのである。

「だから、空海は火と共に居たというのね」
「そうさ。空海がというよりも、もともと火の民族である日本人が火とともにあったのさ」
「そうだわ、日本は火の国だわよね。火山国だわ!」
「その通り! 自然風土を抜きに宗教は語れないぞ。日本を象徴する霊峰富士は、火山王国たる日本の美の極地だろう。空海は日本人の民族的無意識に、聖なる水と、聖なる火を見たからこそ、密教がこの国にマッチングすると確信したのさ」
「司馬さんの講義だと、空海は単なるインド密教の導入者になってしまいそうね」
「空海はすぐに外国かぶれする進歩的文化人じゃないんだ。彼こそ原日本人であり、しかも火を拝むペルシャ人とすら文化的共通性を見つける国際人なんだ」
「そうかあ! ナルホド。アンタの話聞いているとホラもホントに聞こえるわ」
「司馬さんも勝手な想像で空海に会おうとしているんだもの、道草遍路のオッサンだって負けてられるか!」
「空海は古来の日本人の心を大切にしながら、新しい文化を取り入れたのね。木に竹をつぐような移入の仕方はしない。根を切ればその木は枯れる。その辺が明治の西洋文化の取り入れ方や戦後のあり方と大きく違うところね」
「僕は、日本人が空海だけを神仏にしたのは何故だろうとずっと考えてきたんだ。入定留身の信仰だけだろうか。いや、それだけではなくて、日本人の意識下にある伏流水のようなものを汲みあげたからじゃないかと思うのだ。それが火と水さ」
「民族を愛していたのね。でも、人が聞いたらアンタ右翼かと思われるかもよ」
「これはイデオロギーじゃない。オレは日本人を知りたいだけさ。それを右翼というならそれでもいいさ。だってライトは正しいという意味じゃないか」
「んまあ!......ところでホラっていえばさ。あの屏風ヶ浦のアンタの説、その後どうなったの?」
「あれから地元の教育委員会にも問い合わせてみたんだ。そうしたらびっくりするような新説が飛び出してきてね。お大師さんには何としても善通寺で生まれて ほしいのか、地元のある言語学者が、屏風ヶ浦とは言語学上は『屏風の裏』という意味だと主張しているんだってさ。そうすれば、五岳山の裏側にある善通寺は 地形的につじつまが合うだろう」
「プーッ、オイラぶったまげたぜ」
「司馬さんだって腰を抜かしそうな新説だ。マイッタか!」
「そりゃあ、女は昔から屏風の裏側でお産してたわよ。ご隠居さん、オイラ一つ賢くなりやした!」
「そう言やあ八公、オメエもあの薄汚ねえ屏風の裏で生まれたよな」
「だから、空海の生まれ変わりだって言ってるじゃねえか」
「ちげえねえ。それに守り本尊が虚空蔵菩薩とくりゃあ、こりゃ本物だ」
「今ごろわかったのか、アニキ」
「じゃオメエ、オレっちの熊公だって、こないだ屏風の裏で生まれたぜ」
「あのちょいと破れた屏風かい? オメっちのカカアが息んで蹴飛ばしたっつー」
「オオッ、それよ」
「ご隠居さん、じゃナニかい? ならアニキンちのガキもお大師さんの生まれ変わりかい?」
「そうじゃ」
「じゃあ、日本中のガキはみんなお大師さんの生まれ変わりじゃねえか」
「そうじゃよ。それを胎蔵界曼荼羅といってな。万有一切はみな大日如来の命を授かって生まれてきたんじゃとお大師さんは教えられておるのじゃよ」
「オオッ、すげえなアニキ。だからお大師さんも『屏風ヶ裏』でお生まれになったのか。テエシタモンダ」
「だからお前さんたち、お大師さんを追いかけてゴールまで頑張ってお回り」
「こりゃまた一つ元気が出てきやした」
「なら八、オレたち先を急ごうぜ」
「がってんだい!」
 調子に乗っているうちに二人とも涙が出るほど大笑いをした。四国遍路は実に楽しい。

●第八十二番札所・根香寺

 次は青峰山の根香寺である。
赤峰、黄峰を回って約5キロの所にある。歩けば1時間半かかるところを、私たちは快適な自動車道を飛ばして10分足らずで到着してしまった。

 照りつける日差しも、遮るもののない海辺とちがって山は木陰が暑さをしのいでくれる。大草鞋の山門を入るといきなり石段を下って、真っすぐに伸びた参道 は青々とした樹木のトンネルの下に続いている。楓の梢が覆いかぶさる涼やかな小道にはこぼれ陽が戯れている。小鳥のさえずりと鈴の音だけの静寂な小道を二 人は歩く。至福のひとときである。私も妻もすっかり遍路にハマってしまった。

 やがて見えてきた石段を登ると、修験道の開祖・役行者の大きな石像が祀られている。
「好きなんでしょう。挨拶しておいで」
「うん、記念写真とってくれ」(何でこんなことになったかなあ。あれほど遍路にこだわっていたのに)

 青峯寺も、白峯寺と同じく修験者の手で早くから開かれた山岳寺院のようである。縁起は白峯寺と同じようなもので、弘法大師がまず創建し、のちに智証大師 が当山の霊木で千手観音を刻んで本尊とした。その霊木の根株が永く香気を放ったので「根香寺」というそうだ。また、その香りが川に流れたので香川県と名づ けられたそうである。

 さらに石段を登って行くと、左に五大尊堂がある。五大尊は不動明王や金剛夜叉明王など、怒りと炎の神々である。大師堂はそれに向かって建てられている。 さらにまた石段を登ったところで、ようやく本堂に着いた。回廊式の珍しい本堂で、地下の万体観音堂を半周して本堂前に出るようになっている。回廊内には信 者が奉納した三万三千三十三体の観音小像がビッシリと並んでいる。

 本堂に向かって、昨日妻が国分寺で買った携帯用の木魚を叩きながら大きな声でお経を上げてみた。景気よくてなかなかいい。お遍路さんたちの後ろで遠慮が ちにお参りしていた3年前とはエライ変わりようである。帰りは、残りを半周して元の場所に戻る。右回り、遍路の順打ちと同じである。

 大師堂に来ると、いつものように賑やかに奉納されている。願文やら、お礼やら、誓詞やら、弔いやら、何でもかんでもお大師さんにおすがりしている。私たちの好きな雑多な大師堂である。

「お大師さんはきっと、きりもなやって思っているでしょうね」
「咳の子の、なぞなぞ遊び、きりもなや......か」
「このため息には、ダダッ子に手を焼きながらもわが子を愛しむお母さんの愛情を感じるわ。私、こんな大師堂を見ていると、お大師さんの気持ちもわかるような気がするわ。......きりもなや」
 そう言った妻は、ちょっと小首を傾げるようにして私の顔をのぞき込んだようだった。

●第八十三番札所・一宮寺

  空海の 謎解きあそび きりもなや......
 私たちは空海をたずねて、また先に進む。根香寺から約20キロ。山を下りると高松市街地のはずれ、田園と住宅地が混在する里町に「一宮寺」の入り口を見 つけた。国道沿いの広い駐車場に車を停めて境内に向かって行くと、一宮の「田村神社」に入ってしまった。しばらくウロウロ迷った後、社務所の先に小さな門 を見つける。第八十三番霊場は一宮神社に隣接していた。

 この寺はもとは大宝寺と称していたが、和銅年間(708〜714)に全国各地に一宮神社がつくられた折、先ほど歩いてきた讃岐一宮「田村神社」ができた関係でその別当寺となり一宮寺と改めたそうである。

 四国四県の一宮神社(別当寺)と国分寺は全て札所になっている。どういういきさつでそうなったのかよくわからないが、おそらく聖たちの巡錫のリレーに よって、しだいに四国遍路の霊場となっていったのであろう。義淵が大宝年間(701〜704)に開基したと伝えられる大宝寺(一宮寺)はその後行基が訪 れ、大同年間(804〜810)には弘法大師が巡錫して、本尊聖観世音菩薩を刻んで第八十三番霊場としたと伝えられている。

 国分寺のほうはすべて行基がその創建に関わっているから、弘法大師がそこを札所と定めていった理由はうなずける。行基は空海の百年前の先輩であり、その本質は沙門である。

 私度僧行基は国分寺だけでなく東大寺も建設している。反律令的な仏者がどうして国家的プロジェクトに参画できたのか、宗教史を知らない私には疑問であっ たが、四国遍路をしているうちに少しずつ解けてきた。空海の満濃池修復工事にも見られるように、偉大な聖は人々を動かす力があったのだ。東大寺の建設工事 も難行を極め、ついに聖武天皇は行基の力を借りねばならなかった。庶民から菩薩と慕われる行基の絶大な動員力があればこそ、東大寺は完成したのであろう。

 行基にみられる律令的、反律令的な二つの性格は、後年の空海にも見られるところである。国家的であり反国家的でもある。政治の中心にいるようでもあり、 同時に自らを常に世俗の外に置こうとする二面性は一見矛盾するようでもある。梅原猛氏にもそう見えたらしく、空海を「偉大なる矛盾の人」と呼んでいる。梅 原氏のこの空海のとらえかたはけっこう有名で、つかみどころのない空海がわかったという人が多い。しかし、私の見方は全く異なる。空海は「偉大なる統一の 人」である。

 梅原氏は言う。
「私は空海を偉大なる矛盾の人と見る。偉大なる矛盾の人とは何か。それは相反する二つの性格をもち、その二つの性格の矛盾とその総合の上に大きな活動力を 発揮する人である。空海の中には、二つの人間があるように見える。一つは世間的な才能、現実的な才能の持ち主としての空海である。もう一つは、世間をのが れて、ひたすら山の孤独に帰ろうとする空海である。この二つの人格が、一人の空海の中に同居していた。現実的な人間、社会的な人間、都会的な人間としての 空海のほかに、瞑想的な人間、孤独な人間、田舎の人間としての空海が、一人の人間の中に共存していたのである」『仏教の思想』

 文化勲章受章者の哲学者を向こうにして街のオッサンがいうのも何だが、これは皮相な見方であるといわざるを得ない。行基や空海は本来山野で修行し、その シャーマン的な呪力をもって民衆を済度しようとした仏者である。都の大寺に定住して学問に耽る官僧でもなければ、世をはかなんで一人山林で孤独を愛する隠 者でもない。仏の世を本気で建設しようとした現実主義者であり、同時に理想主義者でもあった。

 ゆえに人里にあっては橋を架けたり、堤を築いたり、寺を建てたり、庶民の学校を作ったり、あらゆる済世利民を行ったのである。観念的念仏行者でないかぎ り、仏の使命を果たそうとすれば野に下ってばかりはいられまい。場合によっては体制内に入って、その力を活用することもある。少し考えればわかることだ。

 しかし、人心を一つに結集し善導するパワーは、一個人の力では及ばず、神仏の力を借りねばならず、神仏の力を引き出すには何よりも体制外にあって、自由 に山林で修行をし、その験力を身につけておかねばなるまい。都で大活躍した空海が、早くから高野の山奥に修禅の道場を作る構想を抱いていたのは、梅原のい う相矛盾する人格上の問題からではなく、まさに密教の理にかなった生き方だったのである。

 梅原氏は、空海はその矛盾する二面性に悩みつつ、それを見事に総合したところに彼の偉大さがあると言っているが、私の知る空海は正、反、合の弁証法的な 人物ではない。もともと「合」である。「合」を行動に移したときに、それが他者には「正」(体制的)「反」(反体制的)に見えるだけである。空海の著作の 中に彼が自己の二面性に苦悩した形跡は私の知るかぎりどこにも見当たらぬ。空海は、真言密教の現実主義と神秘主義を生涯矛盾なく貫いたのであった。俗と 聖、超現実と超理想を徹底して生きた「偉大なる統合の人」なのである。

 高松市街に入る。
 この日の札所巡りはこれで終わり。あとは観光。
「四国薬草ハーブセンター」でショッピングをした後、「栗林公園」に行った。市内中央通りに面して広がる七五万平方メートルの広大な敷地に池と築山を巧み に配した名勝である。歴代藩主が手塩にかけて完成した名園は、水と緑が織り成す見事な空間であった。風情たっぷりの園内に一歩入れば見どころはいっぱいで ある。まさに「一歩一景」を実感する。その日は市内で宿泊し、香川の観光マップを眺めながら眠った。

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