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反響の声

昨夜の草月ホールは、異様でした。赤坂の小さなトポスは40年代のハーレムの『ミントンズ』に、山海経の世界をぶちまけたようでもありました。

 個人的には、編集稽古も最初のフェーズが終了して、気が抜けていたところに「活」を入れていただきました。

 人が次ぎへ行こうとする、それは微妙ではなくて、蛹が蝶になるように「バンッ!」と弾け飛ぶように変わろうとするところに、松岡校長は立ち合うように立ち会われるのですね。武道の気配がありました。

 松長有慶氏、牧宥恵氏、藤原新也氏、編工研/太田氏・高橋氏、炎太鼓の皆さん、そして、真言密教の僧侶の皆さん、それぞれがいつもと違うパフォーマンスを熱演してくださいました。そして、ハーモニーを重ねて重ねていきました。それは、とても創発的な五大の響きでした。

東京都/桃園有三

 先日は密教21、素晴らしかったですね。あの中の炎太鼓に触発されて、こんなものを書きました。感想文としてはお恥ずかしいものですが、ぜひ読んで頂きたくて。


 「太鼓が鳴っているのか、太鼓に鳴らされているのか」

 合奏の冒頭は荘厳な声明と、そっと触れるようにうち続ける大太鼓の周期的な単打で始まった。この単打、全面に突き出した右手を柔和に上下させるだけの動きなのだが、およそ10分近くも続くこの動きは、相当しっかりと動きを支える筋肉がなければ続くものではない。

なだらかな声明の響きにあわせて
ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、 ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、 ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、 ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、 ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、とわずかな強弱を伴ってうち続けられてゆく太鼓を聴きながら、太鼓はあらゆる 周波数を持ったクラスターなのだ、とということを改めて思い起こさせた。大きな太鼓は全ての音を持っている。

 音声編集ソフトを使ってこの太鼓一発の音色を際限なく引き伸ばして(音程が下がらないような設定にします)ゆくと、実にこの声明そっ くりの節や節回しが忽然と現れる。この実験は、太鼓の一発が声明の一曲分の内容を持ち、声明の一曲が太鼓一撃分の突破力を持っていることを明らかにしてく れるのだが、それを思った瞬間、私の頭の中に逆転が起きた。これは太鼓の上に声明が響いているのか、圧縮された声明の上に展開された太鼓がなびいているの か。

 このとき、私がずっと気になっていた黛敏郎のコトを思い出さずにいられなかった。当然、彼の作曲した『涅槃交響曲』がその入口だ。こ の曲は60年代に書かれた日本の交響楽作品としては異例の扱いで国際デビューした大傑作で、天台声明を合唱で再現するとともに、梵鐘をプリズム解析して (つまり、梵鐘の音にはどんな音程が含まれているか徹底的に解析して)バラバラになった音を全オーケストラ楽器に割り振って、オーケストラ全体をひとつの 梵鐘のように響かせるという驚異的な手法を導入したものである。これによって黛はキリスト教世界によって作り上げられた音楽世界に対抗する「東の世界観」 を生みだそうとしたのであった。

 そもそも『涅槃交響曲』の誕生には、もともと華麗かつ能弁な作曲手法を持っている彼が、自分の作曲を支えている西洋音楽の思想と自ら の持つ東洋の血のギャップに絶望し、作曲の手が止まってしまったという背景がある。その時彼は東洋的なものを求めて寺を巡り、ある夕暮れ、遠く響き渡る梵 鐘の音色に出会い、衝撃を覚えた。そこにはあらゆるフレーズがあり、あらゆる音程があり、あらゆる響きが重なり合って、巨大なうねりや微細な震えを作り出 している。その豊潤さに触れた瞬間、彼は、当時NHKが音響研究の為に設置した電子音響装置を用いてこの梵鐘の音を徹底的に分析してみようと発想した。つ まり、あらゆる音程、あらゆるフレーズが聞こえた、というけれど、実際にどんなものが入り混じっているのか探るべきだ、と、思ったのだ。

 プリズム解析された音データをもとに、彼はオーケストラ用の大譜表に音程を割り当ててゆく。数小節できあがったところで高輪のN響の 練習場に持ち込んで実際に鳴らしてみる。また局に戻って割り当てを直し、また数小節できたところでオーケストラで鳴らしてみる。この繰り返しを経たところ で彼は短い一楽章ものの楽曲『カンパノロジー』を書き上げた。これが涅槃交響曲の第一楽章となった曲である。『カンパノロジー』すなわち梵鐘学と称された この曲はラジオによって全国放送され、人々を驚かせたのであった。


 黛はこの『カンパノロジー』を『カンパノロジーI』と位置づけて、複数の『カンパノロジー』作品と、天台声明から取材したメ ロディ、経典からとった歌詞を組み合わせて巨大な交響曲を書きあげた。楽曲も巨大なら演奏形態も巨大である。オーケストラは舞台をはみだして、2階席など も含めて会場全体に配置された。会場全体が音に包まれ、響きが交差する事が狙いにあったのだ。

 この曲は全部で6つの楽章から成っているが、ひたすら梵鐘のようにオーケストラがウワーンと鳴り響く『カンパノロジー』の楽章と、経 典から歌詞をとった無音程の合唱(というより合唱団による読経だ)を含む楽章がほぼ交互に登場する。炎太鼓と声明の競演はまさにこの読経の楽章を想起させ たのである。

 太鼓の音色が体に入り、そこで私のオーケストラが鳴った。私は太鼓を聴いているのか、太鼓に鳴らされている自分の中のオーケストラを 聴いているのか、最早わからなくなった。いや、もう呼び起こされてしまった記憶が自分を支配してしまっているから、実は自分の中で鳴っている「太鼓によっ て呼び起こされたオーケストラ」と声明のコラボレーションばかりを聴いていたのかもしれない。

 響きはだんだん激しくなり、徐々に破壊的な強さをあらわしていった。ここでも私の中の黛が呼応した。『涅槃交響曲』の最終楽章は、ま ず、世界が終末を迎える時全山の梵鐘が一斉に鳴り響くという「全山奏鳴」が展開される。ここではオーケストラ全体が燃えさかるように幾万の鐘を一斉に鳴ら し始め、山は崩れ、天は降りかかり、海は荒れ、山林は燃えさかり、あらゆる世界が黄金の炎に包まれるのである。

 これは、黛が西洋に向かって打ち放った東洋の迫力であり、同時に、自分への回答でもあったのだろう。『ハレルヤ』に対抗し『メサイヤ』を越える東洋的なフォーマットを彼はこんな過激な方法でまとめあげたのだ。

 瀧廉太郎以来、西洋の手法と東洋の感覚の融合は日本の作曲家にとって大きな壁であった。それは洋服を着て茶をすする現代日本人の生活を どう捉えればいいのかという問題でもあった。ことにそれは第二次大戦後、生活がさらに欧米化し、しかし日本にとって東西文明の対決であった第二次大戦に負 けたということでさらに根深くなった「東の自意識」が経済成長と共に静かに頭をもたげてきたことでより強烈な問題として音楽家たちを悩ませた。

 先日なくなった團伊玖磨は、同様の疑問にぶちあたった時、答えをシルクロードに求め、東西の接点から問題を紡ぎ直そうとし、交響詩『シルクロード』を書き上げた。

 黛、團とともに戦後作曲界をリードした芥川也寸志は積み重ねによってできあがってきた西洋音楽、西洋文明に対する逆発想として、ひとつ の岩を掘り下げて、つまり、積み減らしという方法で世界を築いていったインドのエローラ遺跡に答えを求めようとし『エローラ交響曲』を書き上げた。

 戦前に遡ると問題はもっと明らかになる。伊福部昭はアマチュア時代の創作初期から自分が耳にしてきた日本的な響き、アイヌ的な響き、 拍動というものに従ってそれを自分の全作品の根本に据えている。山田耕筰は音楽手法的には西洋一辺倒の人であったが、たとえばオペラ『黒船』を書いたこと で、東西の出会いというものを問い直している。橋本国彦はかつて譜面が失われ幻の曲とされていた『交響曲ニ調』で沖縄旋律とエイサーの太鼓を持ち込んだ衝 撃的な楽章を作ったし、のちに『海ゆかば』の作曲者となる信時潔は、紀元2600

 年記念作品として『カンタータ・海道東征』を書いて神武天皇の東征を楽曲にしたが、この時彼は日本語による歌曲のフレージングの問題 にぶちあたり、その答えとして能楽の謡の節回しを導入することを見いだし、ひとつの音を引き伸ばしてメロディにのせてゆくという日本語ならではのフレージ ング手法を確立した。この他にも日本及び日本人と西洋の問題に関しては音楽に限らずあらゆる芸術家が突き当たり、それを共通の課題としてとりあげ、突き進 み、その殆どが撃沈していったのである。まるで、炎太鼓と声明の共演はそれらに対する鎮魂であるかのように思えたのである。

 ところが、その先には答えが用意されていた。声明がいったん舞台を引き払った後、太鼓手は3人となり、太鼓だけの合奏となった。ここに東西の問題を一気に解決する答えがあったのである。

 炎太鼓の演奏は大変に構成力に富んでいた。実はこの「構成」がまったく日本由来のものでない。そもそも音楽作品を俯瞰的にみて構成する という方法は西洋音楽が導入されるまでは哲学的背景をもった一部の仏教音楽を除けば日本にはなかったものだ。日本の伝統音楽においては、音楽そのものの中 に身を沈め、中からバランスをとる方法を採るため、西洋的な見方からすると構成があやふやだし、思いつきがそのまま見え隠れしていて頼りない、ということ になる。いや、そう見えたから明治政府は西洋音楽を教育に取り入れたのだ。あれは日本ではじめて「構成で音楽を把握する」ことが大衆にむけられて行われた 瞬間である。

 実は、西洋音楽を疑い、日本文化との融和を計ろうとした作曲家の多くが排除したくてしきれなかったのがこの「構成感」であった。西洋 音楽のフォーマット、楽器を使ってしまうとどうしても「構成感」というものものしさが振り払えない。ただ、これを一曲で解決したのが武満徹であった。『ノ ヴェンバー・ステップ』の衝撃はまさに「脱・構成感」の衝撃といっても過言ではないと思う。しかし、それ以外の作曲家は構成感と闘いきれず、結局あきらめ たり、疑問として残したまま過ごしてきた。もちろんまだ闘っている人はいるのだが。

 炎太鼓の場合、その問題は既に超越していた。なぜなら彼女たち自身は小さい時から学校の授業やテレビラジオで構成感を身に付けてきた 存在であり、また、これは既に日本においては引き剥がせないものとなっているという自覚があるからに違いないのだ。彼女たちは自分の中に深く根ざしている 構成感を非日本的なものとしない事から始まっている。こういった肯定は最近までほとんど見られなかった。従前であればそれは闘いの放棄であるとか、現代社 会によって去勢された事を認めることであるとか、さんざんな言われ方をしたかもしれない。しかし、今、明治から150年近くたって、西洋文明から取り入れ てしまったものですら「日本の一部としてカウントするに値する」と言うことができるようになった。彼女たちは、最早構成的であるかないかという所に日本ら しさなんか求めていない。彼女たちはもっと深い一撃で日本の音楽を引き受けているように思える。

 パソコンを触りながら日本について語っている我々はいったい何者なのだ。いや、パソコンを触っていることが問題なのではない。脳が脳 自身のことを考えられないように、日本について語っているという事がそもそも日本的でないと言うこともできると思うし、しかし、最早日本について語らない ではいられないというのであれば、きっとわれわれが、既にわれわれが知っているような日本人・日本文化の継承者なんかではないということを予め了解するこ とから始めなければならないのだと思ったのだ。そして、最早こうい考え方が日本的でないのだ、という事を私も宣言しておかなければならないと思うのです。

 しかし、太鼓とは素晴らしい。いや、すぐれたものが素晴らしいと思う瞬間はそこである。果たして私は太鼓を聞いていたのか、太鼓に鳴らされている自分を 聴いていたのか。すぐれた作品は視線を裏返す。あるいは神棚の鑑のように、覗き込めば覗き込むほどに自分を映しだしてしまう。


東京都/川崎隆章

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