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003「神の御子」を受胎した母神伝説

 一人の天才・秀才のかげには、古来賢母やすぐれた恩師がいるものである。
 幼少時代の空海、つまり讃岐の国造佐伯家に生まれた「貴物」の「真魚(まお)」を異能そのままに稀有の逸材に育てたのは母阿古屋の実家である阿刀家の人たちであった。

 その阿刀家は、司馬遼太郎が想像をするように、土着の家系ではなく讃岐国多度郡きっての長者であった佐伯家が学問の師家として奈良の都から招聘してまもない家だったかと思われる。その阿刀家の阿古屋と佐伯家の善通が結婚し、阿古屋の妹と善通の弟も結婚して重縁の関係にあった。両家がよほどの信頼で結ばれていたことを物語っている。
 真魚は、そうした環境のなかで両親や阿刀家の期待通りに育った。真魚がまだ幼少の頃から長じて都の大学寮で天才ぶりを発揮する時期まで、真魚の学力や言語力に指導的な役割を担ったのは父の実弟阿刀大足である。彼は中央の高級官僚であり漢学者だった。

 貧道、幼ニシテ、表舅ニ就ヒテ頗ル藻麗ヲ学ブ(『文鏡秘府論』

 後年空海は、叔父の大足について文章と詩を勉強したと述懐している。15才で奈良の都に上り大学寮に入学するまでの3年間、真魚は大足の館や中央佐伯氏の氏寺佐伯院などに止宿しながら大足に漢籍・詩文を徹底して仕込まれた。

 司馬遼太郎は、阿刀家の屋敷跡の伝承が讃岐にはないというが、多度津町の仏母院を知らなかったのであろうか。この寺は今に残る立派な空海伝承の旧跡である。
 多度津町の市街地から西に約2.5㎞、県道21号線から(海岸寺)郵便局のところを左折して南に入り、細い道を少し行くと左にお寺らしいお堂の屋根と隣接する保育園の園舎が見えてくる。仏母院をめざしていくのでなければうっかり通り過ぎてしまいそうな、失礼ながら、閑寂なお寺である。
 車を止めて道の反対側に目を転ずると、小さな不動堂を中心に空海の母の史跡のそれらしい遺物や説明版や石碑がいくつか建っている。ここが阿刀家の屋敷跡で、空海の母阿古屋はこの土地の産土神である熊手八幡神社に子宝授与を祈願して「神の御子」空海を身ごもったという。ここでは、空海は母の実家であるこの場所で産まれたことになっている。

 屋敷跡の中心に建つ不動堂にはご本尊の不動明王のほか母阿古屋と空海の尊像が2体祀られている。この不動堂の前を通り左の細い畦道を行くと、田園のなかに空海の胞衣とヘソの緒を納めてあるという胞(えな)衣塚があり、道路わきには産湯井跡がある。またお寺の東南には、空海が泥で仏さまを造って遊んだという童塚があり、寺にも泥でできた仏像が残っている。


 仏母院は八幡山仏母院屏風ヶ浦三角寺と号す。八幡山とは童塚の近くにある山で、産土神の熊手八幡神社の分社を祀る山である。その草創は弘仁年間以後だといわれ、空海と親交のあった嵯峨天皇が空海の母の屋敷跡と聞き、自筆して贈ったという扁額が残っている。

 またここからずっと海べりに鎮座する熊手八幡神社本社のご神体である長鈎(熊手)が伝わっている。仏母院はもともと熊手八幡神社の別当寺であったという。
 『紀伊続風土記』の「熊手八幡縁起」に、

   巡寺八幡宮ト奉ルハ、旧讃岐国多度郡屏風浦ニ御鎮座アリテ、弘法大師ノ産土神ナ    リ。
   御神体ハ神功皇后征韓ノ日、用ヒ給フ所ノ御旗、長鈎ニシテ、皇后凱旋ノ時屏風浦ニ   至リ、
   殿ヲ造リテ是ヲ蔵メ・・・・

と記されているという。
 この仏母院に伝わる空海誕生の伝承が仮に後世の作り話だとしも、阿刀家がこの地に広大な神域をもつ八幡神につながる家柄であったらしい話は興味深い。

   ひもろぎの 三角の地にて 玉依は 神の御子なる 大師を宿す

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