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015「辺路(へんろ)」真魚の不殺生伝説

 太龍岳で命がけの虚空蔵求聞持法を終え、真魚はなお室戸崎をめざして浜辺の街道に出た。身体を休めるためと食糧を乞うためであったろう。四国でも海浜に辺路(へち、へぢ)が通じていた。真魚は木食草衣の辺路(へんろ)姿であった。辺路(へち、へぢ)の道筋に住む漁民のなかには辺路(へんろ)を敬い進んで施食をする習わしがあった。これが今四国霊場で行われている「お接待」や、歩き遍路のための「善根宿」になったものかと思われる。

 太龍岳からは一路南下して日和佐に出る。日和佐からは海べりをたどり、牟岐を通って八坂八浜へ。土佐浜街道をひたすら室戸に向う。真魚は八坂八浜の村人から行基菩薩が植えたという松のことを聞き、そこをたずねたにちがいない。

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 後に「鯖瀬」といわれるようになるこの村で、真魚は海の民から海産物のお接待を受けたと思われる。しかし、優婆塞の戒め(「不殺生戒」)として生の魚には手をつけず、おそらく焼いたり煮たりした魚も口にしなかったであろう。ただ干した小魚くらいは保存食として食べたという説があるがどうであろう。

 弘仁年間、空海はこの地をおとずれた際に難所といわれた八坂八浜の途中にある行基菩薩お手植えの松の下で一夜をあかした。そこで空海は行基菩薩の夢をみる。
 翌朝そこへ、馬の背中に塩鯖を満載にした土佐の馬子が通りかかった。空海が鯖一匹を乞うたところ馬子は空海を罵倒して立ち去ってしまった。
 ところがほどなくして、「大坂(今の「馬ひき坂」)」で馬は腹痛を起し道に倒れてしまった。馬子は思案にくれたが、「先ほどのお坊さんに鯖を恵まなかったせいであろう」と反省し、すぐ引き返して1匹を空海に施した。空海は倒れた馬を哀れみ、山の水を汲んでこれを加持し馬に飲ませたところたちどころに回復した。馬子は自分の過ちを悔いて空海に帰依した。
 空海はその馬子を沖の法生島(ほけじま)へ連れて行き馬の背中の塩鯖を海中に投げて加持すると塩鯖はみな生き返った。馬子はこの霊験に発心し、この地に庵をつくって人をたすけたという。「鯖大師」伝説のあらましである。

 後世に作られたこの「鯖大師」伝説は、「施食」という仏教の代表的な徳目(利他行)を教え、命あるものの生命を奪ってはならないという「不殺生戒」を教え、「放生」(生き物をその生態系に戻してやる)という「自然法爾」の(あるべくしてそこにある)理を教え、鯖断ちをして身を慎む「忍辱波羅蜜」を教えている。
 この辺路(へち、へぢ)の村でも辺路(へち、へぢ)を往還する行者に施食のお接待をつづけながら、真魚のように不殺生戒を堅固に守る者をも敬う風習があったのではないか。それが年月を経て村人により語り継がれ伝説化したものかと思われる。

 坂を登りつめると一気に浜に下りる八坂八浜のアップダウンの行者道を歩きながら、真魚は遊行と霊域開発の先達行基菩薩のことを思い浮かべ、あるいは自分の将来像と重ねていたかもしれない。奇縁だが、後の空海は行基が拓いた霊場や港湾の改修に何度もかかわる。当代随一のディベロッパーであった行基を尊敬し模範にしていたところが空海にはなかっただろうか。

 四国霊場番外札所になっている鯖大師本坊には、この伝説に基づいて鯖を手にした弘法大師が大師堂に祀られている。この地では鯖大師にあやかって3日間鯖断ちをして祈念すれば願いが叶うという病気除け・子宝成就の信仰があり、大師堂の前には鯖断ち祈願の鯖が置かれている。
 JR牟岐線「鯖瀬」駅からほど近くに鯖大師はある。行基菩薩の開基と伝えられ、ご本尊は弘法大師である。境内には88mもの洞窟があり、そのなかは四国八十八ヵ所お砂踏み霊場となっている。それに護摩堂がつづいてあり随時護摩祈願に応じている。


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