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井筒俊彦

意味分節理論と空海-真言密教の言語哲学的可能性を探る

<略>
 旧来の思想の構造解体が云々され、新しい知のパラダイム、新しい「エピステーメー」が、全世界的に、切実な要求となりつつある今日、我々、東洋人も、己れの思想的過去を現代的思想コンテクストの現場に曳き出して、そこに、その未来的可能性を探ってみようとする努力を、少なくとも試みるべきではないだろうか。私がこれから語ろうとしている真言密教、空海の思想も、そのような知的操作に価する、あるいは、それを必要とする、重要な東洋的文化財の一つである。

 真言密教をいま言ったような方向性において捉え、それを現代的思想のテクスチュアのなかに織り込んだ場合、それは一体どのような意義を帯びてくるであろうか。この点で先ず注意されなければならないことは、この思想体系の全体を支配する根源的に言語哲学的な性格である。勿論、真言密教なるものは、それ自体、実に複雑な構成をもつ、多重多層、かつ多面的複合体であって、言語の一事をもって一切を覆い尽くせるようなものではない。だが、真言密教は、要するに「真言」密教である。「真言」(まことのコトバ)という名称の字義どおりの意味が、それのコトバの哲学としての性格を端的に表明している。この意味ではコトバは決して真言密教の一側面ではない。コトバが全体の中心軸であり、根柢であり、根源であるような、一つの特異な東洋的宗教哲学として考えることができる―――あるいは、少なくともそう考えなければならない―――思想体系であるのではないか、と私は思う。

 他方、現代世界の思想状況に目を転じてみると、コトバに対する異常な関心に、我々は出会う。事実、ヨーロッパの学界に構造主義が現われて以来、いわゆるポスト構造主義の隆盛期を経て、さらにその彼方への超出すら考えられている現在に至るまで、言語および言語的なるものが、思想界のあらゆる分野における人々の関心を圧倒的に支配してきた。西欧だけでなく、日本の思想界もまた。東西の別なく、今日我々が特に「現代的」と感じている思想の前衛的部分については、言語あるいは記号に関説することなしには、何事も語ることができず、何事も理解することができない。それが現代的人間の思想コンテクストである。問題は、このような思想コンテクストの舞台に、真言密教の言語哲学が登場するとき、それは何を告げ、何を語るであろうか、ということだ。
 真言密教は、千年の長きにわたって、コトバの「深秘」に思いをひそめてきた。コトバの深秘学。この特異な言語哲学は、第一義的には、コトバの常識的、表層的構造に関わらない。表層的構造の奥にひそむ深層構造とその機能を第一義的な問題とする。人間言語の秘密をその究極の点まで、それは追求していこうとする。我々の日常的生活のレベルで、かまびすしく震動するコトバが、その究極の深層において、そもそもいかなる本性を露呈するであろうか、いかなる機能を発揮するだろうか、それを、このコトバの深秘学は実体験的に探ろうとする。真言密教のこのような特異な言語哲学が、現代世界の言語中心的思想動向に無意味であろうはずがない、と私は考える。コトバの深秘についての真言密教の省察は、取扱いのいかんによっては、現代思想の広場で、一種のアヴァンギャルド的言語哲学にまで展開する潜在能力をうちに秘めている。もとより、私自身にそこまで行ける才がないことはわかっているが、少なくともそのような線に沿って、以下、理論的に追及してみようと思う。

 本論の表題そのものによって明示されているとおり、私がここで「理論的に」と言うのは、より具体的には、意味分節理論の観点から、ということである。すなわち、真言密教の言語哲学を、現代的な思惟の次元に移して展開するために、私はそれを意味分節理論的に基礎づけることから始める。そして、この目的のために、その第一歩として、先ずコトバに関する真言密教の思想の中核を、「存在はコトバである」という一つの根本命題の還元する。
 「存在はコトバである」。あらゆる存在者、あらゆる「もの」がコトバである、つまり存在は存在性そのものにおいて根源的にコトバ的である、ということをこの命題は意味する。一見して明らかなように、こういう命題の形に還元された真言密教は、もはや密教的ではない。宗教的ですらない。「真言」という観念を、一切の密教的、宗教的色づけを離れて、純粋に哲学的、あるいは存在論的な一般命題として提示するにすぎない。そのような純粋に哲学的な思惟のレベルに移管しておいて、その上で「真言」(まことのコトバ)ということの意味を考えなおしてみようというのである。
 だが、それにしても、「存在はコトバである」というこの命題は、具体的には一体どんな事態を言い表そうとしているのだろうか。
<略>
 元来、常識では、存在とコトバとの関係をこんなふうには考えていない。コトバと存在とは、それぞれ独立の観念系統をなしているのであって、両者の間にはせいぜい相応関係が成立するにすぎない。存在が、即、コトバである、つまり、この経験世界に存在するありとあらゆる事物事象、いわゆる森羅万象、がことごとく、本当はコトバなのであるなどと考えるのは、完全に非常識である。
 そればかりではない。存在とコトバとの間に対応関係があるにしても、常識的存在論、常識的認識論の立場から見るなら、両者の間には、順位上の「ずれ」がある。というのは、存在、つまり「もの」が、どうしてもコトバに先行すると考えざるを得ないからだ。先ず「もの」がある、それをコトバが命名する、あるいは指示する、のであって、その逆ではない。そう考えるのが、我々の常識としては、ごく自然な考え方なのである。ところが、いま、「存在はコトバである」という命題の立場は、まさにこの常識的見解の逆を主張する。つまり、コトバが存在に先行し、そういう順位で存在とコトバとの間に固定関係が成立する、というのだ。
 我々の普通の経験的事実としては、事物事象の世界、いわゆる存在世界は客観的にそれ自体で独立していて、我々の目の前にひろがっている。森羅万象は、第一次的には、コトバと関係なしに存立する。それらを様々に名づけ、あるいは既成の名によって指示することは、事物事象の客観的存立そのものから見れば、人間の側の第二次的な操作にすぎない。常識的人間にとっては、それは疑いの余地のない事実である。
 「存在はコトバである」という立場を取る非常識な人に言わせると、常識的人間のこのような「事実」は、存在の表層風景にすぎないのであって、事の真相(深層)は、それとは全く違う。表層風景としては、たしかにそれ自体で自立的にそこにあるかのように存在世界が現象している。しかしそれは、実は、全体としても、またそれを構成する個々の事物としても、すべて根源的にコトバ的性質のもの、コトバを源泉とし、コトバによって喚起され定立されたもの、つまり簡単に言えば「コトバである」のだ、という。明らかに常識に反するこのような主張を、どう了解したらいいのか。この問題を考究することは、我々を意味分節理論の領域に導き入れる。そして、それを通じて、真言密教の言語哲学の中核に、我々は近づく。

 このように真言密教の言語哲学を、意味分節理論との関連において理解しようとするのであるからには、まず何を措いても意味分節理論なるものを略述するのが順序であろうが、しかしそれに先立って、真言密教そのものの側にちょっと考えておかなければならないことがある。それは、真言密教が本来的、第一義的に問題とするコトバというものが、我々の普通に理解している言語とは違って、いわばそれを一段高いレベルに移したもの、つまり異次元の言語であるということである。
 そのことの一つの証拠として、私は空海の説く「果分可説」の理念を考える。「果分可説」とは、空海が『弁顕密二教論』のなかで、密教を、すべての顕教から区別する決定的な目じるしとして挙げている重要な思想である。「果分」とは、通俗的な説明では、仏さまがたの悟りの内実ということ。より哲学的なコトバで言えば、意識と存在の究極的絶対性の領域、絶対超越の次元である。コトバの表現能力との関連において、普通、仏教では、この次元での体験的事態を、「言語道断」とか「言亡慮絶」とかいう。つまり、コトバの彼方、コトバを越えた世界、人間のコトバをもってしては叙述することもできない形而上的体験の世界である、とうのだ。
 このような顕教的言語観に反対して空海は「果分可説」を説き、それを真言密教の標識とする。すなわち、コトバを絶対的に越えた(と、顕教が考える)事態を、(密教では)コトバで語ることができる、あるいは、そのような力をもったコトバが、密教的体験としては成立し得る、という。この見地からすれば、従って、「果分」という絶対意識・絶対存在の領域は、本来的に無言、沈黙の世界ではなくて、この領域にはこの領域なりの、つまり異次元の、コトバが働いている、あるいは働き得る、ということである。

 仏教に限らず、およそ止観的、瞑想的、ヨーガ的な方法による意識の機能次元の転換を事とする精神的伝統の人々は、事実、「コトバの彼方」「言詮不及」をしばしば口にする。東洋だけではない。西洋でも、ネオ・プラトニズム以来の、いわゆる神秘主義的伝統では、コトバを超えた体験ということが、ほとんど常識として語られる。たしかに、言語脱落は瞑想的体験の極限的事態であるように思われる。瞑想意識の極所、一切のコトバは脱落し、すべては深々たる沈黙の底に沈みこむ。
 だが、真言密教は、たやすくこのような見方を肯定しない。そこに「果分可説」的立場の特異性がある。悟りの境地はコトバにならないと主張して止まぬ通説に対して、悟りの境地を言語化することを可能にする異次元のコトバの働きを、それは説く。コトバを超えた世界が、自らコトバを語る、と言ってもいい。あるいはまた、コトバを超えた世界が、実は、それ自体、コトバなのである、とも。
 注意すべきは、悟りの境地を言語化するといっても、人間が人為的に言語化するというのではないことだ。むしろ、悟りの世界そのものの自己言語化のプロセスとしてのコトバを考えているのである。そしてそのプロセスが、また同時に存在世界現出のプロセスでもある、と。このようなレベルで、このような形で、コトバと存在とを根源的に同定する。これが真言密教的言語論の根本的な特徴である。だから、この立場では、最初に掲げた「存在はコトバである」という命題が、そのまま何の問題もなく成立することは当然でなければならない。
<略>
 「果分可説」と空海が言う、その「果分」に対立するものは「因分」である。「因分」とは、すなわち、我々普通の人間の普通の経験的現実の世界。我々が通常「コトバ」とか「言語」とかいう語で意味するものは、「因分」のコトバであって、「果分」のコトバではない。両者は、同じくコトバであるにしても、それぞれ成立の場と機能のレベルとを異にする。「果分」的コトバの異次元性の事実については、もはや繰返し強調するにはおよぶまい。
 しかし、他面、「果分」と「因分」とが、全く別々に存立していて、両者の間に何のつながりもない、というわけでもない。「果分」のコトバは、たしかに異次元のコトバではあるけれども、それだからといって、普通の人間言語とは似て似つかぬ記号組織であるのではない。それどころか、普通の人間言語が、そこから自然に展開してくるような根源言語として、空海はそれを構想しているのだ。「果分」の絶対超越的領域に成立し、そこに働くコトバの異次元性を、空海は「法身説法」という世に有名なテーゼによって形象的に提示する。「法身説法」――大日如来そのものの語るコトバ。人間の語るコトバと根本的に違うものであろうことは想像するに難くない。ちょうど、大日如来が普通の人間とは全く次元を異にする存在であるように。
 しかし、それと同時に空海は、法身の語るコトバと人間の語るコトバとの内面的関連性を指摘することを忘れない。「コトバの根本は法身を源泉とする。この絶対的原点から流出し、展じ展じて遂に世流布のコトバ(世間一般に流通している普通の人間のコトバ)となるのだ」と『声字実相義』の一節で彼は言っている。つまり、我々が常識的にコトバと呼び、コトバとして日々使っているものも、根源まで遡ってみれば、大日如来の真言であり、要するに、真言の世俗的展開形態にすぎない、というのだ。
 「果分」のコトバが、その異次元性にもかかわらず、「因分」のコトバの究極的原点であり、この意味で「因分」のコトバに直結しているとすれば、「果分」において絶対無条件的に成立する「存在はコトバである」という命題は、「因分」においても、たとえ条件的、類比的にではあれ、成立するであろうことが、当然、予測される。
 それでは、「存在はコトバである」というこの命題は、「因分」、すなわち人間の日常的言語の通用する領域において、どのようにして理論的に正当化され、根拠づけられるであろうか。それが当面の問題である。そして、この問題を解決するために、私はここに、意味分節理論を導入する。
<略>
 この理論の要旨は、我々人間の言語には、哲学的に最も重要な機能として、現実を意味的に分節していく働きがあるということ――あるいは、より正確には、いわゆる「現実」、我々が普通、第一次的経験所与として受けとめている「現実」は、本当は我々の意識が、言語的意味分節という第二次的操作を通じて創り出したものにすぎない――ということである。
 「分節」(articulation)とは、文字通り、例えば竹の節が一本の竹をいくつもの部分に分けていく、区分けしていくということ。もともと素朴実在論的性格をもつ常識的な考え方によると、先ず「もの」がある。様々な事物事象が始めから区分けされて存在している、それをコトバが後から追いかけていく、ということになるのだが、分節理論はそれとは逆に始めには何の区分けもない、ただあるものは渾沌としてどこにも本当の境界のない原体験のカオスだけ、と考える。のっぺりと、どこにも節目のないその感覚の原初的素材を、コトバの意味の網目構造によって深く染め分けられた人間に意識が、ごく自然に区切り、節をつけていく。そして、それらの区切りの一つ一つが、「名」によって固定され、存在の有意味的凝結点となり、あたかも始めから自立自存していた「もの」であるかのごとく、人間意識の向う側に客観性を帯びて現象する。単に「もの」ばかりでなく、いろいろな「もの」の複雑な多層的相互連関の仕方まで、すべてその背後にひそむ意味と意味連関構造によって根本的に規定される。それがすなわち存在の地平を決定するものであり、存在そのものである、と。

 以上は、意味分節理論の要点の簡略な叙述であるが、こういう考え方が西洋の思想史で起ってくるのは、それほど古いことではない。たかだか十八世紀後半から十九世紀にかけて、大体フンボルトあたりから現れはじめる比較的新しい思想動向であるにすぎない。これに反して、東洋では、この考え方の歴史は長い。一例をあげると、大乗仏教では、人間の日常的経験世界、いわゆる現象世界の事物の本性を説明して、すべては「虚妄分別」の所産であるという。唯識系の術語には、「遍計所執」という表現もある。つまり、我々普通の人間は、現象世界を「現実」と呼び、そこに見出される事物を、我々の意識から独立して客観的に実存するものと思い込んでいるけれども、実はそれらは、すべて人間の意識が妄想的に喚起しだした幻影である、というのである。
 このコンテクストで、特に「(妄想)分別」という表現が使われていることは注目に価する。「分別」――ふんべつ、ぶんべつ――は「分節」に通じる。つまり、今日我々が「分節」とか「意味分節」とか言っているものと、本質的には全く同じことを、この「分別」という言葉は意味しているのだ。しかも、仏教でも、「妄想分別」の源泉として、コトバの意味形象喚起作用を考えている。
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 しかるに、同じ大乗仏教のなかにあって、真言密教だけは、例外的に、コトバの意味分節の所産である経験的世界の事物事象の実在性を、真正面から肯定する。何故だろうか。言うまでもなく、コトバに対する見方が根本的に違うからだ。
 真言密教は、顕教のように、コトバというものを、人間の社会生活レベルで約定化した記号組織としての言語、すなわち、今日の言語学者が普通「言語」と呼んでいるものだけに限定しては考えない。前にも言ったように、それの彼方に、異次元のコトバの働きを見る。現象界の事物事象については、その現出の源泉がコトバの意味分節機能にあることを、真言密教も認めるのであって、この点に関するかぎり、顕教一般と変らない。しかし顕教と根本的に違うところは、現象界でそのように働くコトバの、そのまた源に、「法身説法」、すなわち形而上的次元に働く特殊な言語エネルギーとでもいうべきものを認めることだ。従って、密教的存在論では、我々の経験世界を構成する一切の事物事象は、いずれも経験的次元に働くコトバのなかに自己顕現する異次元のコトバ、絶対的根源語――宗教的用語で言えば大日如来のコトバ――の現象形態ということになる。要するに、すべてのものは大日如来のコトバ、あるいは、根源的にコトバであるところの法身そのものの自己顕現、ということであって、そのかぎりにおいて現象的存在は最高度の実在性を保証されるのである。
<略>
 西洋の言語学の意味論的発展過程において、意味分節理論がそれほど長い歴史をもたないということは前に書いた。長い歴史をもたないばかりではない。あまり有力な思想潮流でもないのだ。この理論が少し極端な形で主張されるたびに、学界はそれに疑いの目を向けてきた。ということは、つまり、「存在はコトバである」という命題を無条件で真理と認めるのに、大抵の人は躊躇するということだ。なぜ、そうなのか。
 いろいろな原因が考えられるだろうが、何といっても決定的な原因は、従来の言語学が一般的に、コトバの表層領域を考察の主たる対象としてきたというところにあると思う。コトバの表層領域とは、言語の社会約定的記号コードとしての側面――無論、それに基づいてなされる人間相互間のコミュニケーション、つまり発話行為も含めて――ということ。このような偏向性における言語論は、必然的に、コトバに対する水平的なアプローチとなり、人間の言語意識を、いわば深みに向って掘り下げていく垂直的なアプローチはほとんど完全に無視される。
 フロイト派深層心理学の特殊分野におけるラカンの言語論とか、近年のクリステーヴァの「ル・セミオティーク」の如き注目すべき例外はあるにしても、西洋の言語学の圧倒的大勢は、言語に対して、いま言ったような意味でのホリゾンタルなアプローチによって特徴づけられる。チョムスキーの語る「深層構造」にしても、「深層」とはいうものの、それは実はデカルト的な普遍的理念構造を措定するだけであって、依然としてホリゾンタルなアプローチであることに変わりはない。
 およそこのような立場を取る人たちにとっては、コトバが「もの」を生み出す、コトバから存在世界が現出する、存在はもともとコトバなのである、というようなことは到底考えられない。やはり、何といっても、先ず世界があり、世界のなかにいろいろな「もの」があり、それらの「もの」が互いに関係し合い、互いに働きかけ働きかけられる、それをコトバが外側から「なぞって」いく、ということになってしまう。コトバが意味を通じて存在世界を生み出すということ、すなわち言語的意味の存在喚起機能などというものは、この立場では考えようがない。コトバの存在生産機能の真相を理解するためには、どうしても、コトバが人間の深層意識、あるいは下意識的領域に根源的な形で関わってくるところまで、いわば垂直的に降りていって、そこに働く意味生成のエネルギーの現場を捉える、そういうところから考え直さなくてはならないのである。
 現代の言語学者は、社会的記号コードとしての言語(ラング)の対立項というと、すぐ発話行為(パロール)を考えるのを常とする。ラングとパロールとは相関的、相補的概念だ。しかし本当は、ラングとパロールとをそのまま表面的に並べる前に、ラングの底に伏在する深層意味領域というものを考えなくてはならない。そうしてこそ、はじめて、いわゆる意識の「太古」の薄くらがりのなかから立ち現れてくるパロールの創造性の秘密も理解できるのではないか、と私は思う。

 ソシュール以来の言語学――より一般的には記号学――では、すべて記号なるものは、音声表象(シニフィアン、能記)と意味表象(シニフィエ、所記)の二面の統合体として措定される。この学問では、これはごく初歩的な常識だが、深層的意味エネルギーの問題に関連して私が特に、ここで指摘しておきたいことは、シニフィアンとシニフィエとの間に、時として著しい形で看取される不均衡性である。事実、古来多くの人々――わけても人いちばい感受性の敏感な詩人、宗教家、神秘家など――が、この不均衡性を実体験してきた。さし当って、本論のこの箇所で、いま問題になるのはシニフィアンの側に起る異能体験(それについては後述)ではなくて、シニフィエの側に起る異常事態、すなわち、人がよく、コトバの意味的側面に感知する底知れぬ深淵の如きもののことである。
 ルドルフ・オットーなら、きっと「ヌミノーゼ的なもの」と言うだろう。身の毛もよだつばかりに恐ろしく、しかも抗い難い力で人を魅惑するもの、要するに、意味体験の限りなき深み、ということだ。このような意味体験が生起する、あるいは生起し得る内的な場所を、構造モデル的に、言語意識の深層領域として措定するのである。
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 もともと我々の言語意識の表層領域は、いわば社会的に登録済みの既成のコトバの完全な支配下にある。そして既成のコトバには既成の意味が結びついている。既成の意味によって分節された意識に映る世界が、すなわち我々の「現実」であり、我々はそういう「現実」の只中に、すこぶる散文的な生を生きている。
 しかし、いったん言語意識の深みに目がひらけてみると、存在秩序は一変し、世界はまるで違った様相を示しはじめる。言語意識の深層領域には、既成の意味というようなものは一つもない。時々刻々に新しい世界がそこに開ける。言語意識の表面では、惰性的に固定されて動きのとれない既成の意味であったものさえ、ここでは概念性の留め金を抜かれて浮遊状態となり、なるで一瞬一瞬に形を変えるアミーバのように伸び縮みして、境界線の大きさと形を変えながら微妙に移り動く意味エネルギーの力動的ゲシュタルトとして現れてくる。
 言語意識の表層領域で、例えば、「山」といえば、ごく普通の、平均的な、ありきたりの山しか意味しない。それは概念的輪郭線のなかに惰性的に固定されていて、なかなか動こうとはしない。強いて動かすためには、何か特別の修辞学的操作を必要とするほどだ。ところが深層領域では、それはもう「山」という固定したものではない。そこには、遊動的で、不断に姿を変えてやまぬダイナミックな意味エネルギーの流れが、何となく「山」という意味、あるいは漫然と「山」的なもの、「山」らしきものに向って焦点を決めようとしている、とでもいうような意味生成の過程的状態が見られるだけである。
<略>
 コトバの場合は、明らかに表層的意味の具象的固定性というものがある。それが、すなわち、通常のシニフィアン・シニフィエ関係の支点なのだし、またそうでなければ、社会的記号コードとしての言語が成立するはずもない。だがそれでも、先ほどの「山」の例でもわかるように、表層的シニフィエの底辺部には、広大な深層的シニフィエの領域が伏在している。そればかりではない。言語意識の深層には、まだ一定のシニフィアンと結びついていない不定形の、意味可能体の如きものが、星雲のように漂っているのだ。<略>まさに唯識の深層意識論が説く「種子」、意味の種だ。既に一定のシニフィアンを得て、表層意識では立派に日常的言語の一単位として活躍しているものと、いま言ったような形成途次の流動的意味可能体と、無数の「意味」が深層意識の底に貯えられている。
<略>
 異次元のコトバ――それの第一の特徴は、これまで日常的言語に関連して述べてきた意味の存在喚起エネルギーが、人間的「生」の地盤を離れて、雄大な宇宙的スケールで考えられるということである。コトバは、ここでは、宇宙に遍満し、全宇宙を貫流して脈動する永遠の創造的エネルギーとして現れる。常識的人間にとっては、これは単なる想像、あるいは空想にすぎないかもしれない。しかし、ある種の人々にとっては、これはまさしく生きた実在感覚なのである。異次元のコトバの哲学を真剣に提唱する人々には、その哲学的思惟の根柢に、こういう一種の異常な実在感覚がある。その実在感覚の圧倒的な力が、この人たちに、宇宙的スケールの創造力、全宇宙に広がる存在エネルギーのようなものを、どうしても構想させずにはおかないのだ。
<略>
 『荘子』の「天籟」の比喩を、私はこの点で特に興味深いものと思う。言うまでもなく、「内篇」第二、「斉物論」に見出される世に有名な比喩だ。
 無限にひろがる宇宙空間、虚空、を貫いて、色もなく、音もない風が吹き渡る。天籟。この天の嵐がmしかし、ひとたび地上の深い森に吹きつけると、木々はたちまちざわめき立ち、いたるところに「声」が起る。
 この太古の森のなかには、幹の太さ百抱えもある大木があり、その幹や枝には形を異にする無数の穴があって、そこに風が当ると、すべての穴がそれぞれ違う音を出す。岩を噛む激流の音、浅瀬のせせらぎ、空にとどろく雷鳴、飛ぶ矢の音、泣きわめく声、怒りの声、悲しみの声、喜びの声。穴の大きさによって、発する音は様々だが、それらすべての音が、みな、それ自体ではまったく音のない天の風によって喚び起されたものである、という。
 『荘子』全篇のなかでも、その文学性の高さにおいて屈指の一節。これを読んで、空海の著作中のいくつかの個所を憶い出すのは私だけではないだろう。例えば、「内外の風気、纔かに発すれば、必ず響くを名づけて声というなり」(『声字実相義』)。また同じく『声字実相義』の、あの有名な言葉、「五大にみな響きあり、十界に言語を具す」。地・水・火・風・空の五大、五つの根源的存在構成要素は、普通は純粋に物質世界を作りなす物質的原質と考えられているのであるが、それが、実は、それぞれ独自の響きを発し、声を出しているのだ、という。すなわち、空海によれば、すべてが大日如来のコトバなのであって、仏の世界から地獄のどん底まで、十界、あらゆる存在世界はコトバを語っている、ということになる。
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 「天籟」は「地籟」に対立する。地籟、地上に吹き荒れる風、の暄擾に対して、天籟、天の風、の音は人間の耳には聞こえない。だが、人間の耳にこそ聞こえないけれど、ある不思議な「声」――声ならぬ声、音なき声――が虚空を吹き抜け、宇宙を貫流しているのだ。
この宇宙的「声」、宇宙的コトバの巨大なエネルギー、は一瞬の休みもなく働いている。それなのに、その響きは我々の耳には聞こえてこない。なぜ聞こえないのか。宇宙的存在エネルギーとしてのコトバは、それ自体では、まだ絶対無分節の状態にあるからである。絶対無分節のコトバは、そのままではコトバとして認知されない。だが、他面、この無分節のコトバは、時々刻々、自己分節を続けているのだ。自己分節して、いわゆる自然界に拡散し、あらゆる自然物の声として自己顕現し、さらにこの宇宙的意味分節過程の末端的領域において、人間の言語意識を通り、そこで人間の声、人間のコトバとなる。
このように自己分節の過程を経て、「耳に聞こえる」万物の声となり、人間のコトバとなる以前の、絶対無分節態における宇宙的コトバ、「コトバ以前のコトバ」は、前述した分節理論の見地からすれば、当然、あらゆる声、あらゆるコトバの究極的源泉であり、従ってまた、あらゆる存在者の存在性の根源でなければならない。こういう意味での、存在の絶対的根源としてのコトバを、真言密教は大日如来あるいは法身という形で表象する。「法身説法」とは、法身「の」説法(コトバ)を意味するが、しかしそれ以前に、むしろ、法身「が」説法である、ことを意味するのだ。
真言密教の法身に当るものを、東洋のほかの宗教伝統では神、または神に相当するものとして表象する。神がコトバで世界を創造したという思想は、『旧約聖書』の「創世記」をはじめ、その他いろいろな民族の宇宙生成神話によく見られる考え方で、それほど珍しくないが、神(あるいは神に相当するもの)がコトバであるというのは、かなり特異な考え方である。ヒンドゥー教の聖音「オーム」崇拝はその典型的な一例。また、もっと一般的に、古代インドでは、『ヴェーダ』時代、早くも「コトバ」(ヴァーチュ、vāc)を形而上的最高原理とする思想が明瞭な形で現れており、経験的世界を超越しながら、全経験世界の根源――つまり、万有を生み、万有に遍在し、万有の存在性を保持する究極的存在エネルギー――としてコトバが至高の位置の占めている。
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 構造的にこれと全く同じ型の言語観は、インド以外にも、例えばユダヤ教やイスラームのように、真言密教と歴史的関係の全くないセム系統の一神教のなかに、著しく真言密教の言語哲学に近い形で現れる。東洋思想の一つの普遍的な思想パターンとして、真言密教の理解に資するところ大であると思うので、以下、やや詳しく論述しておきたい。

 先ずイスラームの場合、イスラームの特徴的な思想の一局面として、「文字神秘主義」または「文字象徴主義」の名称で世に知られた言語・存在論がある。英語では、よくletter symbolismなどというが、原語ではḥurūfīyahという。前半のḥurūfḥarfの複数形で、「文字」とか「アルファベット」の意。後半のīyahは何々「主義」という意味。合わせてḥurūfīyahは、大体、「文字主義」、あるいは「文字絶対主義」とでも訳すのが適当だと思う。とにかく、これは八世紀、イスラームの歴史としては比較的初期、イランの北方に現れた一人のきわめて独創的な思想家、ファズル・ッ・ラー(Faḍlullāh 740~795)が興した学派である。時、あたかも蒙古侵入の時代に当り、始祖ファズル・ッ・ラーは、モンゴル朝の支配者、帖木児(チムール)の息子ミーラーンシャーに捕らえられ、異端者として処刑された。胴体は猛犬に咬み裂かれ、首はドブに投げ込まれるという悲惨な最期だったが、彼の思想は強力な思想潮流となって、その後も長くイスラーム思想界を騒然ならしめた。彼を信奉する人々は、彼を神として崇めたのであった。
 ファズル・ッ・ラーの所説は、およそ次の通りである。万物が存在し、我々自身が存在しているこの世界、我々が物質界と呼んでいる世界、は四つの元素から構成されている。四つの元素とは、地・水・火・風であって、真言の「四大」に当る。もっとも、空海はこれに「空」を加えて「五大」とし、それにさらに「識」を加えて「六大」とするが、視野を四大に限っても、普通、顕教が物質的な要素とする地・水・火・風を、空海は法身の「徳」、すなわちそれぞれ法身大日如来の特殊な存在エネルギーの表れと考え、決して純粋に物質的世界の純粋に物質的な構成要素とは考えない。それと同じくファズル・ッ・ラーにとっても、地・水・火・風は「神の声」であって、純物質的な元素ではなかった。
 ファズル・ッ・ラーによれば、力動的に働いてやまぬ四元素が触れ合い、ぶつかり合うとき、その衝撃で響を発する。響は、すなわち、四元素の「声」であるという。四元素が、動いても互いにぶつかり合わなければ、「声」は発出しない。と、いうことは、ただ「声」が実際に我々の耳には聞こえないということにすぎないのであって、実は元素間に衝突が起らなくとも、「声」はいつでも現に起っている。この万物の響、万物の「声」こそ、ほかならぬ神のコトバなのである、と。前に引用した空海の「内外の風気、纔かに発すれば、必ず響くを名づけて声というなり」とか、同じく『声字実相義』で、「四大相触れて、音響必ず応ずるを名づけて声という」などの言葉を髣髴とさせる。
 この「声」の究極的源泉を、空海のように大日如来と呼んでも、ファズル・ッ・ラーのように神(アッラー)と呼んでも、もうここまで来れば、まったく同じことだ。とにかく、ファズル・ッ・ラーにとっては、いわゆる物質は、実はすべて神の声であり、神のコトバなのである。
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 神が、わずかに、自己顕現的に動く時、そこにコトバが現れる。但し、コトバとはいっても、神の自己顕現のこの初段階では、我々が知っているような普通のコトバではない。一種の根源言語、つまりまだ何の限定も受けていない、全く無記的なコトバ、無相のコトバ、それが、次の第二段階で、はじめてアラビア文字、三十二個のアルファベットに分化する(アラビア語本来のアルファベットは28文字だが、ペルシャ語に入ると4文字加わって32文字となる)。もっとも、そのアラビア文字も、この段階ではまだ純粋に神的事態であり、神の内部に現れる根源文字なのであって、人間はこれを目で見ることはできないし、その字音は人間の耳には聞こえない。人間の耳に聞こえないままに、このアルファベットは全宇宙に遍満し、あらゆる存在者の存在の第一原理として機能する。
 ところで、この宇宙的根源アルファベットは、それ自体では、まだ何の意味を表さない。つまり、無意味である。無意味であるということは、具体的存在性のレベルには達していないということだ。有意味的なもののみが存在であり得るのだから、コトバが有意味的であるためには、何らかの「もの」の名でなくてはならない。「声発って虚しからず、必ず物の名を表わすを号して字というなり」という空海のコトバが憶い合わされる。
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 こうして、ファズル・ッ・ラーの文字神秘主義的世界においては、すべては文字であり、文字の組合わせである。この広い世界、隅から隅まで、どこを見ても、人はただアラビア文字アルファベットの様々な組み合わせを見る。これ以外には何もない。存在世界は一つの巨大な神的エクリチュールの拡がりなのである。
要するに、ファズル・ッ・ラーは、アルファベットを、絶対的コトバ、宇宙的根源語としての神の創造的エネルギーが、四方八方に溢出しつつ、至るところに存在形象を呼び出してくる呼び声と見るのだ。この神的コトバの呼び声の力は、その源泉から遥か遠くに距って、かすかに響くにすぎない周辺地帯、すなわち我々の日常的現実の世界、にも波及して、そこに見出されるすべての事物事象の末端にまで行きわたっている。
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 ファズル・ッ・ラーの文字神秘主義と空海の真言密教。細部的には、勿論、数々の著しい相違点がある。しかし、東洋哲学全体という広い見地に立って見る時、両者がきわめて特徴ある同一の思考パターンに属し、そのパターンを二つの相互に全く異なる宗教文化的枠組みのなかに具現していることを、我々は知るべきである。そしてこの点では、ユダヤ教のカッパーラーもまた同様である。
 ファズル・ッ・ラーの場合とは違って、カッパーリストたちは、神をそのままコトバであるとはいわない。彼らにとって、神は絶対的超越者なのであって、それがコトバであるか、何であるか、などということは人間の知り得るところではない。ただ、神の無底の深みに創造の思いが起る、すると、この最も内密な、ひそやかな創造への意志が、その場でたちまちコトバになるのだ、という。
 神の無底の深みから湧き出てくるこのコトバは、声ではあるが音ではない。この無音の声は、もう一度展開すると、響となって神の外に発出する。だが、この響は、この段階では、まだ全く無分節である。だが次に、この根源的な無分節の響は、自己分節して二十二個のヘブライ文字となり、さらには進んでこれらのアルファベットは互いに様々に組み合わされて物象化し、そこからいわば下に向って層一層と感覚性の濃度を増しながら様々に凝結し、かくて次第に全被造界を形成していく。上は至高天使から下は物質界に至る存在世界現出のこのプロセスは、終始一貫して神の創造的コトバの自己顕現のプロセスにほかならない。
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 神がコトバを語るから、世界が存在する。神がコトバを語り続けるから、世界が存在し続ける、という。ここでもまた、真言密教に著しく接近した言語・存在論に人は出会う。

 この時点で真言密教に立ち返り、前に簡単に触れておいた「法身説法」の意味するところを、あらためて言語哲学的に考えてみよう。「法身説法」――法身大日如来が説法する、コトバを語る、ということ。それは一体、何を意味するのか。
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 永遠に、不断に、大日如来はコトバを語る、そのコトバは真言。真言は全宇宙を舞台として繰りひろげられる壮大な根源語のドラマ。そして、それがそのまま存在世界現出のドラマでもある。真言の哲学的世界像がそこに成立する。
 大日如来の「説法」として形象化されるこの宇宙的根源語の作動には、原因もなく理由もない。いつどこで始まるということもなく、いつどこで終るということもない。金剛界マンダラが典型的な形で視覚化しているように、終わると見れば、すぐそのまま、新しい始まりとなる永遠の円環運動だ。しかし、この永遠の円環運動には、それが発出する原点が、構造的に――時間的にではなく――ある。それが阿字(ア音)。すなわち、梵語アルファベットの第一字音である阿字が、大日如来のコトバの、無時間的原点をなす。
 阿字が梵語アルファベットの第一字であるということが、それ自体ですでに絶対的始源性の象徴的表示ではあるが、そればかりでなく、「人が口を開いて呼ぶ時に、必ずそこに阿の声がある」と言われているように、ア音はすべての発声の始め、すべてのコトバの開始点、一切のコトバ的現象に内在する声の本体である。
 ただ、ここで特に注意しなければならないのは、人が「口を開いて呼ぶ」際のア音発生の構造的瞬間には、ア音はまだ何ら特定の意味をもってはいないということ、言葉を換えて言えば、まだ特定のシニフィエと結ばれていない純粋シニフィアンだ、ということである。
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 ア音に後からいろいろな意味をつけることは、勿論、できる。事実、真言密教の教学は、その史的発展のプロセスにおいて、度々そういう意味づけを試みてきた。例えば、『大日経疏』(巻七)の一節は、阿字に三義ありとしている。三義、すなわち、三つの根源的な意味がある、というのだ。一に「(本)不生」、二に「空」、三に「有」。だが、この種の意味づけは、すべて後でなされた解釈学的テクスト「読み」であって、記号学のいうシニフィエとしての「意味」ではない。
 「阿の声は阿の名を呼ぶ」。いま私が問題としている極限的境位でのア音は、「阿の名」が呼び出される以前の純粋無雑な「阿の声」なのであって、この透明な自体性におけるア音は、すでに「名」となったアとは、構造的に区別されなければならない。アという「声」がアという「名」になってはじめて、そこに意味、すなわちシニフィエを考えることができるのである。もっとも、密教的コンテクストにおけるア音は、それが「名」となってからでも、これがア音の意味であるという形で、一つの特定なシニフィエを指定することはできない。
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 こうして、真言密教の、あるいは空海の、構想する言語・存在論的世界展開のプロセスにおいては、未だ何らのシニフィエにも伴われない無辺無際の宇宙的ア音という絶対シニフィアンからすべてが始まる。この絶対シニフィアンの出現とともにコトバが始まり、コトバが始まるまさにそのところに、意識と存在の原点が置かれる。そして、この世界現出の末端的領域をなす人間の日常的言語意識は、それと同じプロセスを、人間的規模において繰り返す。
人がアーと発声する。その瞬間、まだ特定の意味は全然生起していない、しかし己の口から出たこのア音を、己の耳で聞くと同時に、そこに意識があり、それとともに存在が限りない可能的展開に向って開けはじめるのだ。
 自分の口から発する言葉を、間髪を入れず自分の耳で聞きとめ、そこに直接無媒介的な「意味」の現前を捉えるというコトバの現象学的事態が、現代哲学でも重要なテーマの一つになっている。例えば、パロールにおける「意味」の現前性に関するフッサールの所説を批判するに際して、ジャック・デリダの使うs'entendre parlerの概念。しかし批判されるフッサールの「ロゴス中心主義」も、批判するデリダの「解体」も、真言密教の見地からすれば、畢竟するに「浅略釈」的論議なのであって、「深秘釈」には程遠い。
 真言密教の見所によれば、個人的人間意識のレベルに生起する意味現象は、宇宙的レベルにおける意味現象の、ほとんど取るに足らないミニチュアにすぎないのだ。宇宙的「阿字真言」のレベルでは、ア音の発出を機として自己分節の動きを起した根源語が、「ア」から「ハ」に至る梵語アルファベットの発散するエクリチュール的エネルギーの波に乗って、次第に自己分節を重ね、それとともに、シニフィエに伴われたシニフィアンが数限りなく出現し、それらがあらゆる方向に拡散しつつ、至るところに「響」を起し、「名」を呼び、「もの」を生み、天地万物を生み出していく。『声字実相義』に「五大にみな響きあり」と言い、かつ空海はそれに註して「内外の五大にことごとく声響を具す。一切の音声は五大を離れず。五大はすなわち声の本体、音響はすなわち用なり。かかるが故に、五大皆有響という」と言っているように、それは地・水・火・風・空の五大ことごとくを挙げての全宇宙的言語活動であり、「六塵悉く文字なり」というように、いわゆる外的世界、内的世界に我々が認知する一切の認識対象(「もの」)はことごとく「文字」なのである。
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 「存在はコトバである」という言語・存在論的命題の絶対的真理性の確信において、真言密教は、東洋哲学全体のなかで、ただひとり孤立した立場ではなかったのである。
(『意味の深みへ』(岩波書店)所収、抜粋)


【関連サイト】

【参考文献】
★『コーラン』上・中・下(岩波書店、岩波文庫、1957~1964年)
★『イスラーム哲学の原像』(岩波書店、岩波新書、1980年)
★『意味の深みへ-東洋哲学の水位』(岩波書店、1985年、)
★『東洋哲学覚書 意識の形而上学-『大乗起信論』の哲学』
 (中央公論新社、中公文庫、2001年)
★『イスラーム生誕』(中央公論新社、中公文庫、2003年)
★『意識と本質』(岩波書店、岩波文庫、2004年、)
★『イスラーム思想史』(中央公論新社、中公文庫、2005年)
★『井筒俊彦著作集』(中央公論新社、1991年~)

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