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空海の生涯

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026 第十六次遣唐使船「よつのふね」に乗る

 空海は第十六次遣唐使船に乗る乗員とともに摂津の住吉大社に集結した。阿刀大足や勤操やあるいは護命やゆかりの人たちも見送りにきていたであろうか

027「大輪田泊」から「牛窓」そして「室ノ津」

古代大輪田泊の石椋(神戸市兵庫区)  「難波ノ津」を出た船団は、先ず摂播五泊の一つ「大輪田泊」(兵庫津、現神戸)をめざし、そこで1泊

028「鞆ノ浦」そして「風早ノ浦」

 備前の「牛窓」を出た「よつのふね」は左舷側に小豆島の大きな島影を見ながら西に進み、児島半島の出崎をかすめて下津井に入り、そこから備後の「鞆

029 遣唐使船建造修理の島「長門ノ津」

 「風早ノ浦」を出た船団は安芸灘を女猫の瀬戸へ。上蒲刈・下蒲刈両島を左舷側に過ごして倉橋島の東沖を南下し、鹿島を迂回して倉橋島の「長門ノ津」

030 潮流逆巻く海峡「早鞆ノ瀬戸」

 船団は「長門ノ津」を出て安芸灘を横切り周防の「麻里布」や「熊毛ノ浦(室津半島上関)」に寄り、「佐婆津(徳山)」や「中関(三田尻)」などを経

031 西の外交交易の玄関「那ノ津」に着く

 響灘から玄界灘に出た船団は勇躍して「那ノ津」に入った。5月12日に「難波ノ津」を出てから1ヶ月を過ぎ、もう6月も半ばを過ぎていたであろう。

032 大宰府「鴻臚館」

 この都城には左右十二筋の南北道路が走り、東西には二十二筋の道路が通じていて、精密な条坊をなしていた。その朱雀大路にあたる中央道路の奥に、内

033 大宰府政庁で聞く東シナ海の危険

 大宰府は、奈良の平城京の都城を模し、南北に22条、東西に24坊の条坊に区画し、その中心に政庁を置いた。政庁は4町四方を敷地としたほか、大宰

034 既ニ本涯ヲ辞ス

 船団は肥前の海岸を用心ぶかくつたい、平戸島に至った。さらに津に入り、津を出、すこしずつ南西にくだってゆき、五島列島の海域に入った。この群島

035 難破船で唐土「赤岸鎮」に漂着

 東シナ海の波間に漂うこと34日、まさに生と死の狭間を行きつ戻りつする決死の漂流であった。帆が折れ、船体が損傷し、櫓も使えず、難破船同様にな

036 大使、福州ノ観察使ニ与フル為ノ書

 8月10日に赤岸鎮にたどりつきそこで45日留まったとすると、赤岸鎮を出たのはおそらく9月25日頃だったと思われる。それからまた250㎞を海

037「仙霞嶺」越えの古道

長安までの道は、はなはだ遠い。しかも、一行は旅程をきりつめていそぐ必要があった。福州を出た一行は、道をいそいだ。そのさまは、葛野麻呂の復命書

038「京杭大運河」の水運

 空海らの一行はやっと長安に向うメインルートに入った。つかの間の休息の後、杭州を発ち「古運河」を約170㎞先の蘇州に向った。  蘇州は往古か

039 長い船旅から険しい陸路へ

 蘇州を出た空海一行はなお「京杭大運河」(古運河)をさかのぼり、無錫・常州・潤州・揚州・徐州に停泊しながら汴州に向った。汴州は「京杭大運河」

040 延暦二十三年十二月二十三日、長安城に入る

 陸路を進む一行は、やがて鄭州に入った。開封から約70㎞、紀元前の古い時代から拓けた黄河流域の古都である。ここにはせいぜい1泊であったろうか

041 般若三蔵の華厳とサンスクリット指南

 使院(公館)に入った空海は、大使らの新年朝賀の任が終ると待ちかねたように城内に出かけた。世界レベルの国際都市らしく行き交う人も多く活気に満

042 恵果阿闍梨から正統密教の師位を受ける

城中ヲ歴テ名徳ヲ訪フニ、偶然トシテ青龍寺東院ノ和尚、法ノ諱ハ恵果阿闍梨ニ遇ヒ奉ル。空海西明寺ノ志明談勝法師等五六人ト同ジク往ヒテ和尚ニ見ユ。

043 密教伝法の祖師善無畏・金剛智の聖蹟参拝

 朝はまだ底冷えのする2月下旬に長安を発ち、空海は一日行程で「驪山」の温泉に到着した。往路はまったく温泉気分もわかず玄宗と楊貴妃の愛の離宮に

044 禅を知って禅をとらず

 洛陽を出た空海は陸路汴州に戻った。早速大相国寺をたずね表敬参拝をかねてしばしここに留まらせてもらった。  空海は、洛陽の大福先寺の住持か

045 請来品のなかの『金剛頂経』系経軌

 空海は常州を発ってもと来た「京杭大運河」(古運河)の水運をたどり、再び蘇州・杭州の寺に表敬し越州に向った。運河の流れはずっと順流で、船は大

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