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空海の生涯

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044 禅を知って禅をとらず

 洛陽を出た空海は陸路汴州に戻った。早速大相国寺をたずね表敬参拝をかねてしばしここに留まらせてもらった。

 空海は、洛陽の大福先寺の住持から密教の迫害という不吉な予兆話を聞き、道中ずっと気になっていた。
 しかしそれは、空海が入滅して10年後には現実となった。唐の武宗は、845年に勅(毀仏寺勒僧尼還俗制)を発し、道教を保護し仏教はじめネストリウス派キリスト教(景教)やゾロアスター教(祆教)やマニ教(摩尼教)の寺院・僧尼・田畑などを破壊し迫害した。長安では空海が寄宿していた西明寺をふくむ4ヵ寺しか残らず、恵果和尚青龍寺般若三蔵醴泉寺不空三蔵大興善寺も皆大きな打撃を蒙った。洛陽の大福先寺ほかの密教寺院も難を免れることはできなかったであろう。

 もともと唐王朝は李氏による専制統治で、同じ李姓の老子(道家(老荘)の思想の祖、いつしか道教の祖として混同された)を尊ぶことから、国家宗教策としては道先仏後を基本としていた。玄宗末期の「安禄山の変」(安史の乱)に際し、不空が密教祈祷によって皇帝の軍を鼓舞し一時劣勢を逆転させたにもかかわらず、玄宗は結局不空の密教をえらばず道教を採った。
 武宗はその伝統に従い、840年に即位すると宮中に趙帰真らの道士を入れてこれを重用し、道教に偏重してそれまで優遇保護下にあった仏教寺院・僧尼などを徹底して弾圧した。838年に入唐した円仁長安でこの法難に遭遇した。入唐目的であった天台山での修学は許可が得られず断念したものの、不法滞在の危険を冒して残留を敢行したおかげで、長安で大興善寺の元政と青龍寺の義真から金胎両部の大法を受法できた。ところが、勇躍帰国をしようとしたがまたもや許可が出ず、そのうちに武宗の廃仏が顕著になり、都の長安は騒然となって治安も悪化し、夜陰にまぎれて無許可のまま長安を脱出する仕儀となった。円仁は新羅人の助力をえて歩いて山東半島の(新羅人の町)赤山をめざしたが、途中怪しまれて密告・拘束などに遭い、107日後にやっと目的地にたどりついたという。

 空海は、40年の後にそんなことが起るとは想像もしなかったであろう。不安を懐きながらの旅は揚州上陸までつづいた。
 船で揚州に着いた空海は早速、あの律僧鑑真のいた西北部の大明寺をたずねた。往路の際にたずねた折すでに言葉を交わしていた住持が迎え空海の立場の一変に驚いたと思われる。住持は空海を慇懃に応接しながら奈良の唐招提寺で没した鑑真和上の日本での事蹟を詳しく聞いたであろう。空海は知っていることを皆話した。とくに渡海6度目にしてやっと東大寺に到り、大仏殿の前に土壇の戒壇を設けて聖武天皇以下百官・公卿400人が沙弥戒を受けたことを話すと、住持は感泣しながら聞き入っていたに相違ない。

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 鑑真は、14才で揚州大雲寺の智満に従って出家し、18才の時に南山律宗の道岸律師から菩薩戒を受けた。21才の時長安実際寺の恒景律師から具足戒を受戒し、天台を学んだ。その後5年、長安と洛陽で修学に励み、故郷の揚州に戻り大明寺に住した。大明寺の住持だった742年、すでにその9年前の733年に第九次遣唐使船で入唐していた大安寺栄叡普照が鑑真和上のもとに来て、洛陽の大福先寺の道璿の紹介で来たこと、そして日本に渡り天皇以下の授戒に臨んでくれる律僧10人を推薦して欲しい旨のことを言上した。

 鑑真はその要請に応えて弟子たちに志願の有無を聞いたところ誰もいなかったため、日本に自ら行くことを明言すると、それに随う者が切りもなくつづいた。鑑真は国を出る許しを上奏したが許されなかったので国禁を破る決意を固め、743年天台山への巡礼を装って明州から船出しようとしたが、これを止めようとする弟子たちの密告により港湾官吏に阻止され、栄叡と普照は海賊の疑いで検挙され4ヶ月間獄につながれてしまった。
 翌744年、東シナ海を渡るのに耐えられる軍用船を手に入れ、その船に仏像や経典・彫刻・石刻の人夫などを満載して明州を出たが、暴風雨と座礁により船体が破損し官船に救われた。しかし官憲から処分を受け阿育王寺に軟禁された。
 同じ年、密かに阿育王寺を出て再度渡海を試みたが、師が永久に唐土に帰らないことに反対する弟子たちの密告で失敗する。栄叡はまた捕らわれ投獄の憂き目に会った。
 その同じ年、今度は福州付近から渡海しようとしたがこれもまた師を引き止めたい弟子たちの密告により警察官吏の手で鑑真も捕らえられ揚州に強制送還され、栄叡と普照は潜伏生活を余儀なくされた。
 748年、60才になってもあきらめない鑑真は、逃亡者のようになった栄叡らとともに渡海を試みるが暴風雨に遭遇し、半月間東シナ海を漂流し海南島まで流された。やむなく揚州に戻る道中で栄叡は酷暑と疲労に耐えられず没してしまう。その悲しみと苦難の連続で鑑真自身も目を病み失明する。

 752年、日本から藤原清河を大使に吉備真備を副使とする第十次遣唐使船が来て、翌年の帰国便に強引に鑑真の一行を乗船させたのだが、11月26日、出航間際に警察官吏に疑われあわやとなったが副使の吉備真備の機転で鑑真を第2船にかくまい事なきをえた。
 その12月20日、一行は薩摩の坊ノ津に着き、翌年の2月4日奈良の都に入った。鑑真はすでに66才になっていた。この時第1船に乗っていた大使藤原清河と阿倍仲麻呂らは途中で船が難破し、唐に残留する仕儀となった。阿倍仲麻呂がそのまま帰らず長安で唐朝の官吏として成功し唐土に眠ったことは有名な話である。

 現在、大明寺には大雄宝殿の東に「鑑真記念堂」が建ち、壇上のガラスケースに守られるように盲目の和上像が安置されている。鑑真が住持だった頃の古大明寺の鐘も残っていて往時をしのぶ便となっている。

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 しばし大明寺で過した空海は揚州を辞し、水路潤州に向った。潤州は長江に面した名勝古跡の多い古都で、長江と「京杭大運河」がここで交差している。長江の船着場の近くに大河のなかの孤島のような高さ50m足らずの金山があった。その上に、禅宗の古刹金山寺がある。空海はここに先ず詣でたと思われる。
 この金山寺には空海の事蹟が二つ今も残っている。一つは、この寺の「天王殿」の前にかつて「空海大師留学処」という看板がかかっていたという伝え。これは同じ潤州の定慧寺常州天寧(禅)寺にもあるという。
 聞けば、日中戦争のさなか潤州に侵攻した日本軍の兵隊らは、この寺に「空海大師留学処」の看板があることを知り攻撃しなかったという。寺を守るための住持の苦肉の策であったとしても、いつの頃から「空海大師留学処」という伝えが流布していたのだろうか。しかし荒唐無稽な話でもなさそうである。
 またこの寺には、「空海上人修行古刹」「弘法大師修行古刹」と題する漢詩の書が3幅残っているという。未見にしていつの頃のものかは不明だが、空海がこの寺と古くに縁を結んでいたことを伝えている一つの証しと考えてもおかしくない。

 金山寺は東晋の時代に建てられたが、ここにはの時代、応仁2年(1468)日本の水墨画の禅僧雪舟が北京経由で来て2年間にわたり禅の修行と水墨画の修業を積んだ。雪舟はこの地で「大唐揚子江心金山龍游禅寺之図」(金山真景図)ほか、唐土の景勝絵図を画いた。「唐土勝景図巻」には長江に浮かぶ金山の全景が画かれている。余白には「北京ヨリ四十日ニシテ此処ニ至ル。南京ハ此処ヨリ船路、一日ト半ナリ」とある。ちょうど江ノ島に似た絵図である。

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「大唐揚子江心金山龍游禅寺之図」(京都国立博物館蔵)
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 この潤州にはいくつも小高い山がある。その一つ北固山で、阿倍仲麻呂は「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」を残している。帰国の途中、船の難破でベトナムの近くの海南島まで流され、やむなく長安に戻る途中の望郷の歌である。帰国する仲麻呂の一行の第2船に副使吉備真備と鑑真が乗っていた。この北固山の仲麻呂の旧蹟を空海はおそらくたずねたことであろう。
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 さらに空海は定慧寺にも立ち寄ったと思われる。ここにも「空海大師留学処」の看板があったという。定慧寺は潤州北東部のやはり長江の孤島のような焦山にある。高さ100mに満たない小高い山の上である。この寺の創建は古く紀元前の東漢の時代にさかのぼる。唐の時代8世紀前後の頃、玄奘三蔵の弟子で『倶舎論疏』を撰述した法宝がこの寺に入って大雄宝殿を建立したという。空海がおとずれた時には、壮麗な大雄宝殿を拝することができたであろう。

 空海は潤州の寺に表敬し終ると、再び水運で約170㎞先の常州に向った。ここには潤州の2ヵ寺と同様「空海大師留学処」の看板があったという天寧(禅)寺があった。その天寧(禅)寺の門前に「古運河」が通じていた。空海は労せずして常州で最初にめざす天寧(禅)寺前の埠頭から上陸地できたと思われる。
 この寺は唐代(649年)の創建で当初は広福寺と称された。空海が参拝した頃はその名であっただろう。大変規模の大きな禅院であったらしく、清代に建てられたという今の大雄宝殿の威容がそれを彷彿とさせる。

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 揚州や潤州や常州の寺を拝しながら、空海にはある自己肯定的な確信が起きていた。それは、唐土に学び、が唐代仏教のなかに大きな位置を占めていることを目の当りにしていながら、禅にはまったく目もくれない自分に対し「それでいい、まちがいはない」と充分に納得している感慨であった。

 言うまでもなく空海は中国の歴史・思想・宗教・文芸の全般に通じていた。唐語も、長安の周辺に通じる程度に話せた。仏教に関しても、中国で確立した三論法相華厳をつとに学び、実際唐土にきて現に華厳宗第4祖澄観の「四(種)法界」説を聞き、さらに華厳が禅と融合しながら唐土で大きな広がりを見せているのも見た。
 しかし空海は中国の言語風土や宗教観念によってアレンジされた訓詁的な修道仏教に自らの決着点を求めなかった。得意とする中国的世界ではなく、『大日経』 『金剛頂経』というインド的価値世界に自己投帰したのである。

山林や海浜の修行でコスモス(虚空蔵菩薩)との合一体験をもつ空海にとり、仏教の生命線である「解脱」や「開悟」といったものは永遠の時間をかけた修行のはての非現実ではなく、この生身にこの瞬間に即時即身に顕現する現実でなければならなかった。それはまた、宇宙の真理仏(ビルシャナ)によって無始無終に常恒に説法されている「法界」であり、それはそのまま声として文字として色として形として私たちの目の前にある「実相」だと考えるようになった。華厳をはじめ諸大乗がメインテーマとし、中国禅までが信用した「諸法実相」とはそのくらいラジカルに現実のものでなければ戯れの論に堕すると空海は断じたに相違ない。空海は、サトリの成就の条件に「速さ」と「身体ごと」をえらんだのである。
 漸悟であろうが頓悟であろうが、ただ坐りつづけ、煩悩を断じ、深層心理を止め、長い時間をかけ、止観の極に到ろうという禅の成就法は、空海にとっては非現実の不成就法に等しかった。この定見は、止観に通じた澄観が『華厳経疏』『演義鈔』でさかんに密教依用をしている中国華厳の生の実際からえたものではなかったか。
 おそらく空海はこの先の浙江で4ヵ月留まりながら『大日経疏』『華厳経疏』をひも解き、一行の華厳思想による密教解釈と澄観の密教依用の華厳解釈を読み解いたであろう。日本における密教展開の構想はすでにこのあたりからはじまっていたと思っても不思議ではない。

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