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空海の生涯

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058 丹生一族の神と高野山入山の神託

 弘仁6年(814)、空海はついに独自の密教(空海密教)を創案し、『弁顕密二教論』を著す。翌弘仁7年(816)、最澄と決別する。  同年

059 高野山造営の政所と母の菩提と弥勒慈尊

 空海は身辺なおあわただしかったが、嵯峨から高野山を下賜されるとただちにその造営にとりかかった。  まず弘仁7年(816)6月から年末にか

060 聖俗往還の密教イニシエーション

 高野山造営にあたり、空海たちは慈尊院と丹生都比売神社という二つの拠点から山上に向い、またそこに戻ることをくり返したであろう。  そのこと

061 古代宗教の聖域に造営する密教道場

 弘仁8年(817)、空海は再び實慧・泰範たちを高野山に入らせ、平坦な適地をえらばせ、山上の根拠地とし堂宇(一両の草庵)を建てさせる。  そ

062 空海密教のグローバリゼーション

 高野山金剛峯寺は『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』の経題からその名をとったといわれている。  周囲を標高900mからなる内と外の八つの峰に囲まれ

063 故郷「真野」の田を潤す満濃池のアーチ式ダム

 空海がはじめて高野山に上った弘仁9年(818)のおそらく雨季の7月ごろ、空海の故郷讃岐平野の「真野」(まんの)では潅漑用水の満濃池が何度目

064 国家鎮護の立体曼荼羅

 桓武天皇は南都の国家仏教勢力に手を焼き、その力の及ばない長岡京に遷都したがこれを中途で断念し、延暦13年(794)平安京に都を遷した。

065「請雨法」による密教祈祷

 日本の密教は、聖朝安穏・国家泰平・五穀豊穣・万民豊楽を祈ることからはじまった。 天皇の病気平癒を祈り、怨霊を鎮め、疫病退散を祈り、干ばつ飢

066 潅漑用水池堰堤に残る雑体書法

 空海は満濃池につづいて、大和益田池の潅漑用水開発にもかかわった。おそらく監修指導を行ったのであろう。天長2年(825)9月にその碑文を書い

067 東寺の稲荷神と秦氏の稲荷山と御霊会と

 天長3年(826)11月、多忙な高野山造営の合間をぬって、前年の講堂の建立につづき、空海は東寺にわが国初の自らの設計監理になる密教様式の五

068 行基の残した港湾の水利ディベロップメント

 『日本後紀』によると、弘仁3年(812)、嵯峨天皇は「大輪田泊」に港の修築使を派遣し、勅命でははじめて国営によって泊の修築が行われたという

069 仏教と五明を兼学する日本初の私立学校

 空海は東寺の東側の隣地に、中納言藤原三守(藤原南家、朝廷高官)から2町余りの土地を譲り受け、そこに日本初の庶民の子弟のための私立学校「綜藝

070 不滅の滅

 天長8年(831)5月、空海は悪瘡つまりタチの悪い皮膚の疾患を発症した。癰だともいう。  癰は、黄色ブドウ球菌が毛包(毛穴の奥で毛根を包ん

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