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068 行基の残した港湾の水利ディベロップメント

 『日本後紀』によると、弘仁3年(812)、嵯峨天皇は「大輪田泊」に港の修築使を派遣し、勅命でははじめて国営によって泊の修築が行われたという。
その16年後の天長5年(828)、嵯峨同様に空海と親交をもっていた淳和天皇は、空海をこの泊の造船瀬所別当に任じ、港湾整備の指導監督にあたらせる。朝廷は、満濃池や大和益田池の治水工事を短期間でやり遂げた空海の高い手腕を買い、あるいは雨乞いで見せた天地をも動かす祈祷の功顕までもたのんだのであろうか、15年経っても埒があかないこの国営の港湾修築を空海に託した。

 当時、はじまったばかりの国策による治山治水や港湾整備が難航すると、なぜこうも空海に別当の役が向けられたのであろうか。
 まず推測できることは、そのような大規模な治山治水・港湾整備には当然ながら高度の知識と技術を必要とするのだが、おそらくそうした技術系の役人が朝廷にはいなかったのだろう。朝廷の高官を養成する奈良の大学寮では土木技術を教えていなかったのである。それを学べるのは、当時は奈良の官大寺くらいであっただろう。
 奈良の官大寺には、唐に留学した際中国の土木技術を修得した僧(例えば道昭)や、そういう僧から直接手ほどきを受けた僧(例えば行基)がいたし、仏教僧の必修として「五明」を教えていて、そのなかに工芸・技術・天文暦・占術を学ぶ「工巧明」があった。「五明」とは、「声明(誦唱・音韻)」・「工巧明」・医方明(医学・薬学)・因明(仏教論理学)・内明(仏教教理学)で、いずれも唐からもたらされたものである。

 空海はこの「五明」の学にはめっぽう強かった。長安の滞在中に詩文や書のほかに最新の「工巧明」も学んできたにちがいない。帰国後道昭行基の事蹟を大安寺東大寺で知ることもできた。渡来中の中国人の技術者と親しく交わっていたかもしれない。この時期、高野山の造営で治水土木に巧みな人夫も多くかかえていたであろう。空海は「工巧明」の点で、当時としては傑出していたと思われる。
 さらに、国営事業とはいえ資材から人夫まですべての費用を国費でまかなったのではなく、おそらく地元有力者の資金提供や人々の労働力提供までさまざまな民間の助力を必要としたのではないか。そうした対外交渉には何といっても当時は国家的な肩書きや名声がものをいったであろう。その点で空海は、嵯峨・淳和2代にわたり天皇のブレーンであり、国家仏教の総本山東大寺のトップに立ったことのある人であり、雨乞いなどで天地を動かす祈祷の功顕までもち合わせた人であった。その上、空海には満濃池・大和益田池と直近の実績があった。だから「大輪田泊」にはやはり空海だったのであろう。

 東大寺と「大輪田泊」とは古くから浅からぬ関係にあった。
 天平年間、聖武天皇による東大寺大仏殿造営の勧進を行った行基が、同時代にこの泊を開いている。また鎌倉時代には、平氏による南都焼き討ちの際炎上した東大寺の復興、とくに大仏及び大仏殿の復元を行った重源もこの泊を修築している。大陸や朝鮮半島との交易の拡大に道を開き、この泊を東大寺の所領とし、ここで得た収入を東大寺にもたらしたのである。

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行基
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重源

 この3年前に空海がものした「益田池碑銘」には「東大寺沙門大僧都伝燈大法師遍照金剛」とある。この時期の空海が国策の土木事業にかかわる場合の立場は、東大寺名誉別当くらいの国務であったことが想像できる。空海はその立場で行基や重源と同様東大寺と「大輪田泊」の関係のなかで公務に赴いたのではないか。まだ東大寺の堂塔伽藍の造営や密教化もつづいていて、大きな資財を必要としていたかもしれず、東大寺の資金源としての「大輪田泊」の港湾機能の修復拡充が必要になっていたこともありえよう。空海はひょっとして、港湾工事に明るい中国人技術者を「大輪田泊」に連れて行ったかもしれない。

 この地一帯は古くから瀬戸内海上交通の要衝として栄え、当初は「務古の水門(むこのみなと、武庫ともいう)」といわれたところが発展した。朝鮮半島などとの国交や交易もここを通じて行われていた。ここには、『日本書紀』の神功皇后の時代に稚日女尊(ワカヒルメノミコト、天照皇大神の幼名)を祀る生田神社が鎮座し、その領地である神の地を「神戸(かんべ)」といっていた。
 天平時代に行基が「摂播五泊」を開き、西国の諸国から大和朝廷に運ばれる公租・年貢等の物資輸送や朝鮮半島などとの国交や交易の港として重要な役割を担った。
平安時代になると、「務古の水門(武庫)」よりもその西側「大輪田泊」が中心となり、「神戸(かんべ)の属する<津>」の国であったこの地の長官を「難波ノ津」の役人が「<摂>する(兼ねる)」ことになり、「摂津」とよぶようになった。
 おそらく「難波ノ津」を出航した何次かの遣唐使船団もこの泊に停泊し、潮を待ち風を待ち、食糧や水や荷を積んでまた出航していったにちがいない。この頃開けていた瀬戸内や西海の港には、「摂播五泊」のほか「方上」「那ノ津」「牛窓」「児島」「敷名」「長井浦」「風早」「熱田津」があり、遣唐使船団は1日進んではそちこちに出入港をくり返していったであろう。かつては第十六次遣唐使船の乗員だった空海にとって「大輪田泊」は懐かしい港だったにちがいない。
 平安時代後期には、宋との貿易で利権と富をほしいままにしようとした平清盛が「大輪田」を大規模に修築し、この港を眼下に見渡せる福原(今の兵庫区)に遷都を試みたが、源平の合戦に破れて灰燼に帰した。

 鎌倉時代には東大寺の勧進重源の修築により大いに復興した。以後この港の修築は東大寺が行っている。東大寺は周防にある寺領地の租米を運ぶのにこの港が大いに役立ち、朝廷や幕府も西国から租米を運送するのにここを上陸拠点とした。この時代にこの港はわが国随一の交易港となり「兵庫津」とよばれるようになった。
 重源は、建久7年(1196)、ここに「兵庫関」という関所を設けて通行料(関銭)をとり、治承4年(1180)平重衡によって焼かれた東大寺の再建や「大輪田泊」の修築の資金にした。後にこの関所は南北2ヶ所に分かれ、北を東大寺が南を興福寺が管轄し収入をあげながら争ってもいる。
 重源はまた荒廃していた「魚住泊」や「河尻泊」も修築した。伝えでは漁民や村民の要望に応えたといわれているが、おそらく兵庫関と同様に東大寺復興資金対策であっただろう。 重源はこのほかにも、摂津沿岸から大坂湾一帯を通る年貢輸送の船から1石に対し1升の米を徴収したり、山陽道の難所や伊賀の悪路を通行できるように整備し、東大寺復興のための各種用材(周防産)や瓦(備前・伊勢産)を東大寺に運ぶ要路を確保したりして、「大勧進」と称されるようになった。
 建久年間には、備前が重源に、播磨が文覚に付され、それぞれ東大寺と東寺の造寺料(官寺である両寺の諸堂伽藍を造営する際の資糧をまかなう料田)とするなど、空海ゆかりの両寺が摂津の隣国にまで領地をのばした。
 ちなみに重源は、13才の時に醍醐寺に入り、のち高野山で修学した真言僧である。四国・熊野でもたびたび修行を積み、3度入宋したともいわれている。

 南北朝時代には、北朝の足利尊氏新田義貞の足利軍と楠木正成の南朝軍とが戦った「湊川の合戦」の舞台となり、戦火により廃港の憂目をみた。
 室町時代・戦国時代を経て江戸時代になると、朝鮮通信使や北前船等の往来がさかんになり瀬戸内の海運の拠点として栄えた。幕末に不平等条約といわれた「日米修好通商条約」の締結により新しく「神戸港」が開かれ、「兵庫津」は次第に海運から産業の拠点にその機能を変えていった。明治時代以後は国の近代化にともない、「神戸港」はわが国を代表する国際貿易港として現在に至っている。

 平成15年6月、神戸市の発掘調査により8世紀後半から10世紀前半にかけての「大輪田泊」の遺構が兵庫区で見つかった。今まで奈良時代から平安時代の遺構の発見例はなく、市の教育委員会は奈良時代に「大輪田泊」が存在したことが裏づけられたと発表した。

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大輪田泊遺溝
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現在の神戸港

 今回の発見により、奈良時代から港湾の整備が行われ、大陸や朝鮮半島との外交や交易航路の要衝として、西国と京・奈良を結ぶ物資輸送の上陸拠点として、あるいはまた十数次にわたった遣唐使船の停泊地として大いに栄えたことが推定される。ただ10世紀から後は使用された形跡がなく、平清盛が宋との交易のために大規模整備を行ったという「大輪田泊」は、こことは別の場所であった可能性が出てきた。

 満濃池の修築をはじめ、益田池の潅漑工事、「大輪田泊」の港湾整備、日本初の庶民の子弟のための私学校「綜芸種智院」の設立など、空海はいわゆる社会事業を次々と手がける。これを人はよく済世利民や世間教化というが、それは少し単純ではなかろうか。
 この時期の空海は、独自の密教教義の集大成に入っていた。その中心的コンセプトの一つが「果分可説」の考え方である。
 空海にとって、別当としての公務であれ、自ら志した事業であれ、社会事業はすべて「生仏一如」「凡聖不二」の方便であり、その原理は「果分可説」であった。言い換えれば「羯磨曼荼羅」に同じである。

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