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空海の目利き人

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安藤礼二

空海入門

 1
 森羅万象あらゆるものを聖なる言葉として自らの内から悦びとともに流出する大宇宙の存在原理・大日如来。その光り輝く大いなる存在と、いまここにある身体・言葉・意識をもったまま合一すること。そして、そこに絶対の清浄、絶対の平安に満ちた地平を切り拓くこと。この欲望にまみれた「からだ」をまばゆく荘厳された光の宮殿(「密厳国土」)と化すこと。空海がこの列島にはじめて十全なかたちで将来した秘密の教え「密教」。それはアジアの大地に緩やかに流れた千年を超える時間によって育まれた伝統思想・仏教に根底的な変革をもたらす、まったく新たな思考方法だった。
 仏教の宗主ゴータマ・ブッダを信仰の下位区分(如来がこの地上に顕れた変化身「応身」)として位置づけ、それを包括するような能動的な上位概念(如来自らが語り出すこと(「法身説法」))を提起してしまったからである。その過激さゆえに、いまだにそれを仏教の正統的な発展形態とみなさない人も数多い。だが、空海はこの列島において、その思想を極限に至るまで展開させたのである。この身体がそのまま「即」如来であること(「即身成仏」)、さらには草も木も含め、生きとし生けるものがそのまま「即」如来の表現であること(「声字実相」)。それが、空海が大成した真言密教の根本をなす教えである。
 空海の思想の開花はその生涯の軌跡と、おそらくは密接に結びついていたはずである。しかし厖大な神話と伝説に彩られた空海の生涯を、厳密な資料批判のもとに正確に再現することは、現在ではほとんど不可能な事柄となっている。確実に依拠できる空海の伝記資料は次に掲げる一節しかない、と言ってもいいからだ(以下に引用する空海の原文はすべて漢文である。しかし私たちは漢文を自由に読み解いてゆける能力を失ってしまった。よってオリジナル・テクストを丹念に校訂した読み下し文と平易な現代語訳が付された筑摩書房版『弘法大師空海全集』全八巻をもとに、そこからルビの大部分をとったものを空海の言葉として引用する)。

  [承和二年三月]丙寅、大僧都伝燈大法師位空海、紀伊の国の禅居に終る。
  [中略]
    法師は、讃岐の国、多度郡の人。俗姓は佐伯の直。年十五にして、舅、
   従五位下阿刀宿禰大足に就いて、文章を読み習ひ、十八にして槐市に遊学す。
    時に一の沙門あり。虚空蔵求聞持の法を呈示す。その『経』の説かく、「もし人、
   法によってこの真言一百万遍を読まば、すなはち一切の教法の文義暗記することを
   得」と。
    ここにおいて、大聖の誡言を信じて、飛焔を鑽燧に望み、阿波の国大瀧の嶽に攀
   じ躋り、土佐の国室戸の崎に勤念す。幽谷、声を応じて、明星来影す。
    これより慧解、日に新たにして、筆を下ろせば文を成す。世に伝ふ『三教論』は、
   これ信宿の間に撰するところなり。
    書法に在りては、最もその妙を得たり。張芝と名を斉しくし、草聖と称せらる。
   年卅一にして得度す。
    延暦二十三年、入唐、留学し、青龍寺の恵果和尚に遇いて、真言を稟け学び、
   その宗旨、義味、該通せざることなし。
    遂に法宝を懐いて、本朝に帰来し、秘密の門を啓き、大日の化を弘む。
    天長元年、少僧都に任じ、七年大僧都に転ず。
    自ら終焉の志あり、紀伊の国金剛峯寺に隠居す。化去の時、年六十三。
(『全集』八・二四-二六)

 これが列島の正史(『続日本後紀』)のなかに記された、空海の現存する唯一の肖像である(原文は吉川弘文館『新訂増補國史大系(普及版)』三八-三九)。この記録は空海の没年である承和二年(八三五)から後三十年ほどの間でかたちになった、いわば同時代の第一級史料である――『続日本後紀』が撰進されたのが貞観十一年(八六九)、具体的な資料の収集と編纂はそれより数年はさかのぼると推測される。さらにこの記述は、竹内信夫(『空海入門』ちくま新書)が丁寧に検証しているように、正確を異にする二つの資料を典拠として一つにまとめ上げられたと考えられるものなのだ。一つは得度の年、入唐の年、さらには没した年など、国家の事業と関連した「公」の文章。もう一つは個人的な体験をその内実まで記した「私」の文章。そしてこの段階ですでにその「私」の文章には『三教論』という名前が与えられていることが分かる。そして重要な点がもう一つ、この卓越した個性をもった人物が「空海」という自らの名前を社会に向けて発信したのだが、その人生の半ばをむかえた時、文字通り自らの人生を変え、この列島の精神文化に後戻りのできない変化をもたらした直前であったということである。
 この人物は、十五歳の時、辺境から中央へと上ってくる。おそらくは有力な親類縁者の物質的さらには精神的な強い援助があってのことだったのだろう。その一人(阿刀大足)から漢文学の真髄を、当時の一般的な知的教養を遥かに超えたレベルで受容する。さらに十八歳で槐市(大学)に入学。しかしその後、仏教の教えを自らの進む道として選択したことはうかがえるのだが、歴史の上からはぷっつりとその姿を消してしまう。無名の「一の沙門」から、呪文を唱え記憶力を驚異的に増進させるという「虚空蔵求聞持の法」を授かり、それをもとに「山」や「森」で厳しい修行に明け暮れていた・・・・「私」の資料はただそう語るだけである。その修行は単に身体を痛めつけるだけの苦行ではなかったはずだ。自然のなかへ心身ともに溶け込んでいくと同時に、この人物は独自のネットワークをもとに厖大な書物を次々と読破し、その内容を消化していったと思われる。そして後半生に至るまで持続する古の都・奈良の旧仏教界に君臨する大物たちとの密やかな人間関係の構築もまた。仏教というアジア思想の網羅的な学習、だが彼はそのような状況にありながらも、いまだ正式な名前をもっていなかった。人生の進むべき道を示してくれたその師と同じく、無名の「一の沙門」、私度僧であったのである。
<略>
 空海は唐に向かう以前に、ほぼ確実に「世界」の輪郭をつかんでいたと思われる。それは仏教というインドに発するアジア思想ばかりでなく、「西方」からそこに流れ込んできたペルシャのゾロアスター教、キリスト教と仏教を融合させようとしたマニ教、さらには異端宣告を受けた特異なキリスト教ネストリウス派「景教」の思想の概略を把握していたことを意味する。
 入唐以前、空海が仏教教学の研鑽を積んでいたと推測される古都・奈良は小さいながらも間違いなく一つの国際都市であった。そこにはおそらくゾロアスター教、マニ教、キリスト教(景教)に深い関連をもつ何人かの人物が存在していた。その大部分が波斯すなわちペルシャ系の人々であった(詳細については伊藤義教『ペルシャ文化渡来考』ちくま学芸文庫を参照)。
 空海と西方との関係を実証できるのは、鑑真に付き添ってこの列島にやってきた唐招提寺の安如宝(八一四年没)を通してである。空海の個人全集とも称すべき『性霊集』のなかには、この如宝に代わって空海が筆をとった文章が残されている(巻第四)。如宝はその「安」という姓からも推測されるとおり、アフガニスタン北部の出身の金髪碧眼の僧侶であった。空海がペルシャに起源をもちインドで大成された占星術の体系『宿曜経』をこの列島にはじめて将来した者になったことは偶然ではないはずだ。その事実は、「請来目録」によって裏付けられる(宿曜経に端を発する密教占星術の体系と発展は矢野道雄『密教占星術』[東京美術]に詳しい)。
 そして空海は長安においてさらにスケールの大きい「世界」そのものと出会う。その稀有な出会いをそのまま記録として残したのが「請来目録」なのである。「請来目録」には空海自身が整理した密教の体系と、それを成り立たせるために必要不可欠とされた教典類、さらにはその由来等が述べられたものがある。そのなかでも圧倒的多数を占めるのが不空三蔵による新訳の密教経典である。
 さらにはその次に重要な位置を占めているのが般若三蔵の仕事である。不空も般若もサンスクリット語と中国語(さらに中央アジアのいくつかの言葉)を自在に操ることができた大翻訳者である。そしてこの両者のいずれも、その出生にはアジアのいくつかの血が、特に西域の血が混じり合い、その個性をかたちづくった野ではないかと言われている。空海は自ら不空の生まれ変わりと称しており(不空の没年がちょうど空海の生年にあたるとされている)、般若には長安において直接サンスクリットをはじめインド諸思想の講義を受けている。この般若三蔵が仏教経典の翻訳を開始したとき、その最初の協力者になったのがキリスト教ネストリウス派の宣教師でペルシャ語に長け、おそらくはシリアの血を引く景浄(アダム)であった。その事実は、空海が「請来目録」を書く手本とした西明寺の円照による『貞元新訂釈教目録』に記されている。
 空海自身は密教伝授以外、長安の異教徒たちとの出会いについては一切語っていない。しかし、当時ネストリウス派は宣教のために、意識的に『大日経』を参考として教義を中国語化し、自ら「光り輝く太陽(大日)の教え」すなわち「景教」と称していたという(佐伯好郎の諸研究による)。般若三蔵の最初の協力者がキリスト教(メシア教)徒であることを発見し、空海の真言密教と東方キリスト教の結びつきの可能性をはじめて日本人として示唆したのが、大正新脩大蔵経の編者であり、マックス・ミューラーに師事して広範なアジア宗教史の構築を志した高楠順次郎(一八六六~一九四五)であった。明治三十三年に発表されたその記念碑的論文「景教碑の撰者アダムに就て」から、新たな空海研究、真言密教研究ははじまるであろう。それは東方キリスト教を重要な比較の対象とした、世界思想としての密教の可能性を明らかにするはずである。
<略>

 2
 空海の晩年(五十七歳、死の五年前)の天長七年(八三〇)、朝廷は列島の各宗の長に命じてその教義の中核となるものを著させ、それを進献させた。空海は厖大な『秘密曼荼羅十住心論』十巻とその本論を詩的に略述した『秘蔵宝鑰』三巻を書き上げた。この二著は空海の代表作であり、そこには空海が完成を目指した真言密教の体系が余すところなく述べられている。空海が意図した真言密教は他の教えを排除・攻撃するものではなく、そこに至るまでの仏教の教えのすべてをそのなかに包含する、雄大で開かれた体系だった。そこで人間の心は十の階梯に分けられ(十住心)、それを下から上へと一段一段登ってゆく。そしてその最上の階梯に位置し、また他の階梯すべてを外側から包み込んでいる完全な悟りの境地である第十の段階、すなわち密教にまで至るという構造をもっている。仏教の全歴史をたどり直すことが、そのまま精神性の高みへの上昇となるのである。
<略>
 この十住心論の体系で、空海が大乗仏教への入口である第六住心として「心」を八つに重層する「識」の構造として捉えた法相宗の教えを位置づけていることに注目しなければならない。それはヴァスバンドゥ(世親、四〇〇~四八〇、または三二〇~四〇〇)によって体系づけられた唯識哲学に由来する。
 列島において空海の同時代の人で、空海とも密接な関係をもっていた法相宗の有力な僧侶であった護命(七五〇~八三四、『性霊集』巻十に護命の長寿をたたえる空海の詩が二編収録されている)。その護命の生涯もまた、空海と同様、『続日本後記』に記録されている(前掲、『國史大系』二九-三〇)。驚くべきことに、そこに残された護命の生涯の軌跡は、重要な点で空海のものと重なるのである。しかも、それは空海を文字通り信仰の道に邁進させた「虚空蔵求聞持の法」についての記事だった。護命もまた、若かりし時から山で修行を続ける求道者だった。そして十七歳で得度を受ける以前には「吉野山に入って苦行し」、その後も「月の上半は深山に入って虚空蔵法を修し、下半は本寺(元興寺)に在って宗旨を研精」する生活であったという(高木訷元『空海』吉川弘文館)。
 虚空蔵求聞持法を一心に唱え、険しい深山や人跡未踏の断崖を彷徨する。すると自らの声に応えるかのように山や谷や海から自然に響きが湧き起こり、虚空蔵菩薩の具現である明星が姿を現した。人間の声と自然の響きが呼応し合い、そこに仏が降臨する。空海の生涯にはそう記されていた・・・・・。護命たちは、吉野の比蘇山寺を中心にした「自然智」宗のグループに属していたのではないかと推定されている。「自然智」というのは、華厳経に由来し、「人間が本来有している一切のものをあるがままに認識することのできる智慧」を意味している(竹内、前掲書)。荒々しい自然のただなかで神の聖なる言葉を唱えることによって、自らの心の内部から励起してくる清浄な智慧。空海は、そのような自然の叡智すなわち自然の「心」の構造を説きほぐしてゆく唯識哲学を大乗仏教へ入る条件としたのである。そうして山谷を歩んでいた少年のある日、空海ははじめて吉野から高野へ到達したという。
<略>
 おそらく空海が残した記述のなかでも最も美しいと思われる、第七住心の一節。

  それ大虚寥廓として万象を越|気に含み、巨壑泓澄として千晶を一水に孕む。誠
  に知りぬ、一は百千が母たり。空はすなはち仮有の根なり。仮有は有にあらざれ
  ども、有々として森羅たり。絶空は空にあらざれども、空々として不住なり。色
  は空に異ならざれば、諸法を建てて宛然として空なり。空は色に異ならざれば、
  諸相を泯じて宛然として有なり。この故に色すなはちこれ空、空すなはちこれ色
  なり。諸法もまた爾なり。何物か然らざらん。水波の不離に似たり。金荘の不異
  に同じ。不一不二の号立ち、二諦四中の称顕はる。空性を無得に観じ、戯論を八
  不に越ゆ。時に四魔、戦はざるに面縛し、三毒殺さざるに自降す。生死すなはち
  涅槃なれば、更に階級なし。煩悩すなはち菩提なれば、断証を労することなし。
  然りといへども、無階の階級なれば、五十二位を壊せず。階級の無階なれば、一
  念の成覚を礙へず。一念の念に三大を経て自行を勤め、一道の乗に三駕を馳せて
  化他を労す。唯蘊の無性に迷へるを悲しみ、他縁の境智を阻てたるを歎く。心王
  自在にして本性の水を得、心数の各塵は動濁の波を息む。権実の二智は円覚を一
  如に証し、真俗の両諦は教理を絶中に得。心性の不生を悟り、境智の不異を知る。
  これすなはち南宗の綱領なり。
(『全集』一・五一四-五一五)

 大いなる空は静かに広がり、あらゆるものの形象を一つの大気のなかに含んでいる。巨大なる海は深く澄み渡り、あらゆるものの形態を一つの水のなかに孕んでいる。「一」というのはあらゆるもの、すなわち「多」の母なのだ。そしてそれを「空」として観想しなければならない。そのとき「空」は、すべてのものが仮に有るというこの現象世界の根本となる。「空」こそが世界なのだ。この現象世界はそのままでは真なる存在ではないが、「空」を基盤とすることで、そこに森羅万象があるがままに現象してくる。絶対の「空」は、「空」という概念さえ超え出て、「空」という言葉さえ否定し去ってしまう。つまり「空」とは、存在という観点からは決して捉えることのできないものなのだ。眼に見えるこの現象世界は、このような「空」と異なるものではない。だから、そこに存在しているとされるあらゆる区別は滅び去り、ただ「空」そのものとなった万物が、そのあるがままに現象する。現象はそのまま「空」であり、それ故「空」こそがこの世界そのものとなるのだ。それは静かに深い海とその表面に荒れ狂う波とを二つに分けて考えられないことと等しい・・・。
 空海は生涯、ナーガールジュナ(龍樹、一五〇~二五〇頃)が『中論』によって打ち立てた「空」の哲学を捨てることがない。『秘密曼荼羅十住心論』においてナーガールジュナ(龍猛)は、大日如来とその神話的な対話手・金剛薩埵から直接密教の教えを伝授された真言宗第三の祖として位置づけられている。そして空海がその最晩年に執筆したのが、「色即是空、空即是色」を説いた般若思想の根本経典『般若心経』(インドにおいては遅くとも三世紀頃までには成立、中論哲学が基本におかれていることに異論はない)の密教的な読解である『般若心経秘鍵』であった。
 空海の思想には、般若の「空」が貫徹されているのである。さらに空海は、この「空」を「無限」に、さらには「曼荼羅」に展開するために(第八住心と第九住心)、当時から偽経の疑いが濃厚であった龍樹造と言われる『釈摩訶衍論』を最大限に活用している。この『釈摩訶衍論』というのは『大乗起信論』の注釈書である。『大乗起信論』とは、仏教史の上で激烈な論争を重ねた、唯識派が主張する「アーラヤ(阿頼耶)識」と中観派が主張する「空」とを「真如」という概念のもとに一つに総合しようとした「如来蔵」の思想を最も分りやすく、なおかつコンパクトにまとめたものである。「如来蔵」とは、「真如」によって表現された二つの側面を同時に意味している。自らの内に如来になるための種子を孕んでいるということと、さらにはそれが意識の根源的な地平に広がる「アーラヤ識」が転変した如来としての意識――世俗の汚れに染まっていない鏡のような、つまりは「空」としての意識――に直接通じる道であるということ、と。人間は、そしてこの宇宙に生れたありとあらゆる生命は、はじめから如来の種子を自らの内に宿している。だからこそ万物はすべて如来になる可能性を秘めているのである。この思想が空海の『即身成仏義』の理論的な前提となったのである。
 『釈摩訶衍論』の重視は『十住心論』ばかりでなく、顕教に対する密教の独立と優位性を説いた『弁顕密二教論』、そして『十住心論』のエッセンスを抽出した『秘蔵宝鑰』ではより色濃いものとなっている。さらに言えば、空海二十四歳の時の作品『三教指帰』のなかで仏教の道を求めた仮名乞児が説く「生死の海」とそれを経てたどり着く「大菩提の果」の重要な部分に、すでにこの『釈摩訶衍論』の文章を利用した箇所が存在しているのだ――『三教指帰』における漢文の源泉を徹底的に調査した福永光司氏による(『日本の名著3最澄・空海』中央公論社、四七〇)。いずれも『大乗起信論』に説かれた「真如の法」の深遠さを説いた部分である。山野を放浪していた青年時代から国家の宗教政策の中枢に入ったその晩年に至るまで、空海の求めたものはまったく変っていないのである。
 そして空海が自らの体系の根本にこの「如来蔵」思想を置いたことこそ、千二百年を経て空海を現代に蘇えらせるための重要な契機となるのである。
<略>
 井筒俊彦が東洋哲学全体を構造化するための母型(マトリックス)として最後にたどり着いたのがやはりこの『起信論』であった。ギリシャのネオ・プラトニズムの哲学、イスラームの神秘哲学スーフィズムと接合可能なものとして、『起信論』の説かれた「真如」の可能性を詳述した井筒の遺書――『大乗起信論』の哲学、という副題が大きく付されている――『意識の形而上学』が刊行されたのは一九九三年のことであった(現在は中公文庫)。
<略>
 空海は密教に至るために、大乗仏教の「空」の思想に自らの思考の基礎をおいた(第七住心)。そして密教への直接の入り口にあたり、またさらには大乗仏教を完成させるものとして、空海が依拠したのが華厳宗の教えであった(第九住心)。その華厳宗の教義をまとめた本論を閉じるにあたって、空海が示したのが「海」の詩である。この一節は華厳経そのものに由来し、空海の手によって一つの詩のかたちに整えられたものなのである(第九住心はこの詩のあと各経典による蓮華蔵世界の密教的解釈が続き、そして終わる。そこから第十住心への飛躍がはじまるのである)。

  盧舎那仏の過去の行は、仏刹海をしてみな清浄ならしむ、
  無量無数にして辺際なし、かの一切所に自在に遍ず。
  如来の法身は不思議なり、無色無相にして倫匹なし。
  色相を示現するは衆生のためなり、十万に化を受くるに現ぜざることなし。
  一切の仏刹微塵の中に盧舎那自在力を現ず、弘誓の仏海に音声を震って
  一切衆生の類を調伏す。
(『全集』一・六三七)

 大宇宙の原理・毘盧舎那仏が過去に行った行為が原因となって仏が満ちあふれる広大な海、その大宇宙の隅々までをも清浄にする。
 如来の力は量ることもできず数えることもできない、限界をもたないものである。それはすべての時間、すべての空間に、思うがまま自在に遍在して尽きることがない。
 如来の法身とは、言説を超えた不思議そのものであって、色もなく、形もなく、それに比べられるものさえない。
 その如来がこの世界に顕われるのは、救いを求める人々のためである。無限にさまざまな変化のかたちをとって、出現しないところはない。
 仏が存するこの大宇宙の数限りない世界に、毘盧舎那仏の自由な力が発揮される。他を救うという誓願が広がるこの仏が満ちあふれる海に如来の音声が響き渡り、すべての生きとし生けるものをそれに従える。

 華厳の助けを借りて空海は、「空」の観想を、万物を発生させる「海」として、さらにはその海に自らの声を響かせて、生きるものすべてに「生」への指針を与える偉大なる如来の力として描き出した。これが大乗仏教の極限である。
 この時点ですでに重点はブッダという個人(如来の無数に顕われるさまざまな変化のかたち、応身)ではなく、それを自らの無限の表現のうちの一つとして生み出す如来(法身、毘盧舎那仏)に完全に移行してしまっている。そしてここにあらわされたような如来を、対象としてではなく能動的な主体として描ききったときに、密教の教えが成立するのである。
 「空」を瞑想しその境地を味わい尽くす「大空三昧」から、如来の無限の力を瞑想してその境地を如来として味わい尽くす「華厳三昧」へ。この華厳三昧こそ「海」の瞑想そのものなのである。まずは第九住心のなかから華厳三昧に関して述べられた箇所を引いておきたい。

  盧舎那仏、始め成道の時、第二七日に普賢等の諸大菩薩等と、広くこの義を談じ
  たまへり。これはすなはちいわゆる『華厳経』なり。爾ればすなはち華蔵を苞ね
  てもって家とし、法界を籠めて国とす。七処に座を荘り、八会に経を開く。この
  海印定に入りて法性の円融を観じ、かの山王の機を照らして、心仏の不異を示す。
  九世を刹那に摂し、一念を多劫に舒ぶ。一多相入し、理事相通ず。帝網をその重
  重に譬へ、錠光をその隠隠に喩ふ。
  つひんじて覚母に就いてもって発心し、普賢に帰して証果す。三生に練行し、百
  城に友を訪ふ。一行に一切を行じ、一断に一切を断ず。初心に覚を成じ、十信に
  道円なりといふといへども、因果異ならずして五位を経て車を馳せ、相称殊なら
  ずして十身を渾げて同帰す。これすなはち華厳三昧の大意なり。
(『全集』一・六〇二-六〇三)

 ここでは毘盧舎那仏自身が瞑想に入るのである。その瞑想は「海」の瞑想、「海印定」と呼ばれている。それは『華厳経』に説かれた「海印三昧」のことで、「海にすべてが映るように、仏の心の中にすべてのものが現れる瞑想」(宮坂宥勝による注、『全集』一・六五九)をいう。
 空を海へと転換させること。人間の心を如来の心として考えること。そこで、如来となった人間が観るものとはいったい何か。それは「この宇宙の根本原理である法の本性が完全に融合している様であり、山の王のように偉大な悟りへの契機を自らのうちに秘めている者である」。その者こそが、「この人間の心と仏そのものがまったく異ならないことを示すであろう」。如来の心は過去・現在・未来に流れるすべての時間を一瞬のうちに収め、逆に一瞬の瞑想を無限に長い時間にまで繰り広げることができる。そこでは「一」と「多」が相互に移入し合い、絶対的で平等な「理」と相対的で差別をもった「事」とが相互に重合し、融合する。その有様はまるで天界のインドラ(帝釈天)の宮殿にはりめぐらされているインドラの網(帝網)のようである・・・。おそらくこのイメージが空海の考えていた大乗仏教の到達点である。空海はこの如来の「海」の瞑想を、『秘蔵宝鑰』では美しい詩として書き残した(『全集』二・一一七-一一八)。そしてこの「海」を自らの身体として生きたとき、そこに空海の真言密教の根本教義が確立されるのである。
 『即身成仏義』に掲げられた有名な「頌」は次の通りである。

  六大無碍にして常に瑜伽なり 体
  四種曼荼各離れず 相
  三密加持すれば速疾に顕はる 用
  重々帝網なるを即身と名づく 無碍

  法然に薩般若を具足して
  心数心王刹塵に過ぎたり
  各五智無際智を具す
  円鏡力の故に実覚智なり 成仏
(『全集』二・二二五)

 ここに記された「重々帝網なる」という言葉は、第九住心の「海印定」にいう「帝網をその重重に譬へ」とまったく同じ情景を述べたものである。そのインドラの網について、空海はこう述べている(第九住心、前掲の「海」の詩の直前、『全集』一・六三二-六三六)。如来の清浄な身体とは、諸々の法がすべて同時に相即相入して、そこに始まりも終わりもない無限の世界が広がることである。それはインドラの網の結び目につけられた宝の珠と同じようなものなのだ。インドラの網とは、相互に光を反射し吸収し合う、明るく透明な珠が無数に結び合わされて織り上げられている。その珠の一つ一つには、他のすべての珠が映っている。インドラの宝珠はお互いにその姿を映し合い、一つの珠がすべての珠と関係をもち、すべての珠は一つの珠のなかにおのれの姿を見出す。 外の無限に開かれ、また自らの内にも無限を孕みもつ透明に輝く一つの小さな光の珠。それを自分の身体として思考せよ、そう空海は呼びかけている。そしてその身体を、森羅万象を成り立たせている自然へと開くのだ。『即身成仏義』の「頌」の前半部分を読み解いていってみよう。

 この世界を成り立たせている六つの要素(地・水・火・風・空という物質の五大と精神すなわち識大)は、お互いにさえぎることなく永遠に融け合っている。
 光という抽象的な形象から物質的な厚みをもった存在まで四種類の曼荼羅は、決してお互いに離れることなく重合している。
 如来の言葉・身体・意識とわれわれの言葉・身体・意識がそれぞれ触発し合い、重なり合うので速やかに悟りの境地に到達することができる。
 それら森羅万象すべてが無数の身体としてインドラの網につけられた宝珠のように相互に煌めき合い、そしていまこの場所に一つの如来の身体として現れ出る。

 空海は物質と精神の間に差別を設けない。この大宇宙を構成する要素は、すべてがすべてと関係し合い、その無限の関係を自らの内に包含した一つの身体として屹立してくる。「頌」の後半では、その身体こそまさにわれわれが自らの内に自然に具えているあらゆる物事を知ることができる智慧(一切智)に他ならないと述べられている。如来の身体とは如来の智慧であり、それはわれわれすべてに具えられた無数の心そのものでもあるのだ。それを理解したとき、誰もが仏になれるのである。それが空海の結論である。
 さらに空海は、このような「身体」、すなわち森羅万象を発生させる如来の「心」は、すべて「ことば」でできていると断言する。それが『即身成仏義』を受けて書かれた「声字実相義」の内容である。

  五大にみな響きあり 十界に言語を具す
  六塵ことごとく文字なり 法身はこれ実相なり
(『全集』二・二七四)

 地・水・火・風・空の五大は皆おのずから響きを発している。
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天・声聞・縁覚・菩薩・如来(仏)の十種の世界は、それぞれ独自の言語をもっている。
 われわれの認識の対象である色・声・香・味・触・法の六塵はすべて文字でできている。
 それらすべてを自らの内に兼ね具えた如来の身体(法身)こそが、この大宇宙の真実の姿なのである。

 空海にとってこの大宇宙を構成するのはダイナミックに流動する如来の身体であり、如来の心であり、如来の表現なのである。そして如来は何よりも、こちらからの呼びかけに応えるのだ。ここに、空海の生涯のなかで特記された出来事、あの虚空蔵求聞持法を唱えながら山谷を彷徨った時の体験の残響を聴き取ることもそれほど場違いではないだろう。自ら声に出して唱えた神の聖なる言葉にあらゆる自然が感応するのである。「幽谷、声に応じて、明星来影す・・・」と。
 この天上の神的な秩序でありまた地上の自然そのものの秩序である「ことば」―――共振し触発し合う人間の声、五大の響き、十界の言語、六塵の文字、そしてそれらすべてを内に包み込んだ法身の身体―――をイメージとして観照したもの、それを形象化したもの、それこそが空海の求めた曼荼羅に他ならない。空海はその曼荼羅を、自らなじみの深い自然の地に独力で建立しようとするのである。

 3
<略>
  生れ生れ生れ生れて生の始に暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し。
(『全集』二・五-六)

 このような生死の闇黒、生死の空虚を見つめ、それをいまこの場にいながら万物が照応する「空」に輝く光へと転換させなければならない。そのために空海は自然に帰ることを、自らの青春そのものであった「山」へ帰還することを決心する。そこに自らの曼荼羅を築き上げるのだ。
 少年の日にめぐりあった山の上に広がる「平原の幽地」高野。そこを入寂の地と定め、地上に実現された仏国土建設に着手する。そして死の三年前(天長九年、八三二)、完成された山上に寺院において万の燈と万の華を仏に捧げる万燈万華会を催した。生死の闇黒を無限の光と無限の華によって曼荼羅へと生まれ変わらせること。その時の願文(『性霊集』巻八、「高野山万燈会の願文」)こそ、空海が最後に書いた最も美しい曼荼羅であったように思われる。
 伝承(『御遺告』)によれば、この万燈会が終わった年の冬(十一月)から空海は「深く穀味を厭ひて専ら坐禅を好んだ」という。そして「吾、永く山へ帰らん」という言葉とともに山上での静かな死へと向かっていったのである(『全集』八・四八-四九)。

  恭んで聞く、黒暗は生死の源、遍明は円寂の本なり。其の元始を原ぬれば、各々
  因縁あり。日燈空に繋ぐれば、唯一天の暗きを除き、月鏡漢に懸くれば、誰か三
  千の明を作さんや。大日遍く法界を照し、智鏡高く霊台に鑒みるが如きに至ては、
  内外に障悉く除き、自他の光普く挙ぐ。彼の光を取らんと欲はば、何ぞ仰止せざ
  らん。
  是に於て空海諸の金剛子等と与に、金剛峯寺に於て、聊か万燈万華の会を設け、
  両部の曼荼羅、四種の智印に奉献す。期するところは毎年一度、斯の事を設け奉
  て、四恩に答へ奉らん。虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願も尽きん。
  爾れば乃ち、金峯高く聳えて、安明の培塿を下し睨、玉毫光を放て、忽ちに梵釈
  の赫日を滅さん。濫字に一炎、乍ちに法界を飄て病を除き、質多に万華、笑を含
  んで諸尊眼を開かん。
  仰ぎ願はくは、斯の光業に藉て、自他を抜済せん。無明の他忽ちに白明に帰り、
  本覚の自乍ちに他身を奪はん。無尽の荘厳、大日の慧光を放ち、利塵の智印、朗
  月の定照を発かん。六大の遍ずるところ、五智の含する所、排虚沈地流水遊林、
  揔べて是れ我が四恩なり。同じく共に一覚に入らん。
  天長九年八月二十二日
(『全集』六・五三八-五四〇)

 「虚空が尽き、救いを求める人の願いが尽き、悟りの境地も尽きてしまうならば、その時はじめて私の願いも尽きるであろう」。無常と「空」を生き抜き、さらにはそれを光と華の曼荼羅へと変えようとした空海の生涯を閉じるにふさわしい言葉ではないだろうか。

(道の手帖『空海』-世界的思想としての密教(河出書房新社)より抜粋、一部編者による段落替え・中略あり)


【関連サイト】


【参考文献】
★『神々の闘争 折口信夫論』(講談社、2004年、群像新人文学賞評論部門優秀賞、
 芸術選奨文部科学大臣新人賞)
★『近代論 危機の時代のアルシーヴ』(NTT出版、2008年)
★『光の曼荼羅 日本文学論』(講談社、2008年、大江健三郎賞、伊藤整文学賞)
★『霊獣-「死者の書」完結編』(新潮社、2009年)

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