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対談 東北だからこそ、グローバリズムによらない復興を

松岡正剛(編集工学研究所所長)
聞き手 長澤弘隆(密教21フォーラム事務局長)


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<長澤>きょうはお忙しいところ有難うございます。今から「東北復興に寄せて」といった観点からいろいろとおうかがいをしたいと思っておりますが、私どもは政府の復興会議ではありませんので、また震災や原発や都市整備や町おこしの専門家ではありませんので、かゆいところに手が届くようなお話ができるかどうか甚だ心もとない次第ですが、松岡さんの思うところを大いにうかがってまいりたいと思いますので、よろしくお願いします。
 実は、私まだ義援金も出していませんし、現地見舞いにも行っていませんし、被災した人たちに「らしい」ことは何一つしておりません。その気がないのではありませんが、このたびの災害はあまりに大きくまた深刻で、お金を出せばいいとも思えないし、被災地に行って「このたびはどうも」で済むとも思えず、もっと言えばこの大災害を言葉にして語ることすら不謹慎のような気がして、誰かと大震災のことでまとまったお話をするのは十ヵ月を過ぎてきょうがはじめてなんです。3・11のあと札幌に出張する予定があったのですが、私の寺も多少被災して事後処理に追われたり、東北地方を飛行機で上空からまたいだり、新幹線で縦断スルーパスしたりする気が起きませんでした。長渕剛が東北の人たちの前で謳うのをためらい、「歌なんか歌っている場合か、歌を歌うなんて許されるか」などと自問自答をくり返したと述懐していましたが、私は何もできないくせにお金も出せず言葉も出ず動くこともできませんでした。
 松岡さんはわりと早い時期に、東北にお入りになったようですね。WEB上に発表されている「千夜千冊」の一四一四夜『仙台学vol.11 東日本大震災』には、松岡さんが実際に被災地に足を運ばれた道筋を書かれていました。「陸奥(みちのく)の現在史」を浴びる感傷を慌ただしく確かめるためとも書かれていましたね。地震が発生した時は松岡さんはどこでどうされていたんですか。

■被災地の中に入って感じた「ただならさ」

<松岡>あの日の午後2時46分、私は東京の青山通りにいまして、かなり揺れました。すぐに地下鉄が止まり、タクシーもつかまらず、赤坂の事務所に戻るために歩き始めたんですが、伊藤忠本社の人たちが、ヘルメットをかぶって表に出てきたりしていた。そういう街の異様な光景だけではなくて、「ああ、これで東京もクラッシュするのだろう」という印象を持ちましたね。日本は戦後、何度もいろいろなことがありましたが、これはただならないことだと思いました。
<長澤>『千夜千冊』ではすぐに原発問題を取り上げ始められましたね。
<松岡>最初は岩波科学ライブラリーの『活動期に入った地震列島』という本です。『千夜千冊』ではずっと「連環篇」というシリーズをやっていて、そのころは遊牧民やアジアの問題を扱っていたのですが、もうそれを書き進めることができないと感じました。後に「胸の津波」と呼ぶことになるのですが、その時はだれにも津波が押し寄せているのだ、それが何かの喫水線、堤防を越えてしまった、という感じがしたんですね。そこで、新たに「番外録」というシリーズを始めました。3・11から5日目ぐらいに、止むにやまれず、何かを書かなければいけないと思って始めました。
 ただ、そのころはまだ、地震と原発を一緒に語ることは誰もしていませんでした。当然かもしれませんが、原発は原発問題として、その前の新潟の柏崎刈羽をはじめ、さまざまなことが議論されていましたし、一方地震は地震で、阪神大震災などと合わせて議論され、津波は津波で別に語られていました。「千夜千冊」は本のサイトですから、誰かの本を取り上げないと書けないので、すぐに東京中の大きな書店を回り、自分が関係している丸善も回ってみたのですが、今回起きたことを扱うにはぴったりしたものがなかなかありませんでした。最近やっと原発と地震や津波の両方を書く人たちも増えてきたので、今後も引き続き「番外録」で取り上げたいと思っています。
<長澤>震災を特集した「文藝春秋」を「千夜千冊」に取り上げたりもされましたね。あの中で、鴨長明の『方丈記』のことを思い出したということを書かれていたのが印象的でした。
<松岡>『方丈記』は文治元年の大地震のことを詳細に書いているんですね。そういうものを改めて読み直してみると、近代の技術が行き過ぎて自らが被ってしまったこと、また最高の技術を駆使した堤防が、プレートテクトニクスのような地下の「怒り」によってやすやすと破られることは全部つながっていると思いましたね。そして、この異常な体験をさらに言葉にしたり考えたりするには、やっぱり現場に行って身体化しなければいけないという思いになって、すぐにでも行きたかったんですが、家内が絶対に行かないでくれと言うので、ようやく5月の連休になってから適当な理由をつけて行くことにしたわけです。それが最初の釜石からだんだん下りてくるコースでした。
<長澤>実際に行ってみて、何を感じられましたか。俳句を詠んでみようとされたと書かれていましたよね。
<松岡>だめでしたね。まったく詠めませんでした。俳句ではなく短歌でもよかったのですが、たった五七五がどうしても詠めない。それなりに自分の体に入っている律動というものや、宗教的なことで言えばお経のようなことでもいいのですが、それを目の前に起きていることにマッチングさせれば、何かが近似値的に出るだろうと思っていたんですね。しかしなかなか言葉が出ず、ぱらぱらとメモのように残るだけでした。これは自分の中にある文脈や文体、あるいは記憶が持っている表現性までもが侵されたのだ、だからこういうものを単に癒すのではなくて、それに代わるものが出るまで何かを持ち続けていかなければならないと考えました。
 ちょうどお大師さんでいえば、南都六宗の持っている言語体系ではないもので何かを言わないと、この時代に合わないというようなこと。敢えて言えば、それに近いものが社会にも時代にも起こったのだろうと思ったんです。そのうちの一人である自分としても、そのことを表現してみなければならない、何かを出してみせなければならないと思ったのですが、難しかったですね。
 まだ5月でしたが、潮(うしお)がぐじゃぐじゃとして、強烈な悪臭も伴っていて、タイヤとかヘドロとか、実態がはっきり分からないようなケミカルと自然が混じっていました。映像的には皆さんがテレビなどでご覧になっているものとそんなに変わらないと思いますが、五感的には、何か「五行」の秩序が狂ったというか、「五大」が「地水火風空」になっていない、混乱しているという印象を持ちました。
<長澤>私の親戚の若いお坊さんによると、現地の知り合いの住職が「五大が腐ってしまっている、腐った五大だ」と言っていたそうです。密教やお大師さまが言う「五大」はピュアで「清浄」が原則なのですが、あの異臭、ゴミの汚さは現地に行かないとわからない、ということをさんざん聞かされたと言います。
<松岡>普通「六塵悉く文字なり」と言うのも、正常な日常の奥を見ようとして「塵」まで行くわけです。ところがそれが逆に自然の中から先に出てきてしまう。まさに「深秘(じんぴ)」が混乱をして出てきているようなものです。日常社会のなかで「深秘」を知るために「即身」、あるいは「即疾」ということを自分に課して、「三密加持」をしないと見えないものが、そういうことなしに先にあからさまにディスオーダーとして出てきた。だからこれは普通の体験ではなくて、自分の目、耳、舌、臭いといったものの、知覚の順序に対する挑戦だ、という印象がありました。
 8月にもう一度石巻に行ったときに見たのは、墓地の大混乱でした。墓石がありとあらゆる角度で倒れていました。まさにこういう時にこそ、経典にいわれる言葉をどこまで自分で取り戻せるのか、それを現場の中で取り戻すのか、やはり「深秘」まで下りるのか、そういったことが問われているのではないでしょうか。
<長澤>墓石も遺骨も根こそぎ津波に飲み込まれたところもありましたし、福島の浜通りでは崩壊したお墓が放射性物質で汚染されています。ストゥーパの思想もお大師様の「六大」も「六塵」も想定外の異様ですね。
<松岡>異様でした。本来鎮まるべきものが鎮魂にならない状態になっている。よく中国では尸解仙(しかいせん)と言って、一度鎮まった魂魄がよみがえって、魂(こん)と魄(はく)が離れてさまよっていると言いますが、まさにそういう感じがしました。順番になっているべき「五輪」も狂っている「火風空」の「空」が手前に転がっていたり、「地」はもうばらばらになっていたりする。こういったものを見て、ああ、これをこれから宗教はどういうふうに説明するのだろうと思いましたね。
<長澤>「法界」とか「法如」とか「法爾自然」とか、「あるがままにあること」「宇宙自然の法則性に従ってあること」というなかに、私たちは生々流転、つまり生成と消滅あるいは生と死ですね、それを見てきたわけですが、消滅とか死が破壊や悪臭を伴うところまで想定はしていなかった、少なくとも私たちがふれる仏教学では説明できないのが現実です。
 ところで、大晦日に京都の清水寺の貫主が毎年のように一文字の漢字を毛筆で大きく書きますね。昨年末は「絆」でしたが、確かに東北の人たちの我慢強さや辛抱強さ、家族や親戚や隣近所との助け合い、さらに全国から集まった義援金やボランティアの数、そういうものを指して「絆」という言葉が浮かんだ人がたくさんいると思いますが、でも、「絆」という一文字の美談で東北の被災地をひとくりにしてしまっていいのか、という思いがするんです。
<松岡>それは私も同感です。
<長澤>ボランティアに行っていたお医者さんからは、「現地はとにかく異様な臭いで、あのなかで毎日暮らしている人は大変」と聞きました。お医者さんたちは死体を扱ったりもしていますから、死臭もあるわけです。魚の腐ったにおいだけではなくて、人が腐っていく臭いも。そういう体験をたくさん、毎日のように積み重ねていたお医者さん方や自衛隊・消防隊の方もへとへとになっていたようでした。
<松岡>自衛隊の知人の話では、一番初期、ガレキになる前、倒壊した直後の混乱のなかで、何を順番として活動していけばいいのかがわからなかったと言います。普通は災害で家が倒壊しても、周りがきちんとなっていれば何からすればいいか、順番が何となくつくらしいのですよ。ところが全体に災害が起こっているために、まずゾーンニングをしなければならない。一挙に1万人が「せーの」でやるわけではなく、数十人ずつがやるわけなので、どこから手をつけるかを決め、その地域に気持ちをまず向けないと救済のプロジェクトにならないのです。
 しかも家が向こうにあり、手前に橋や道路や電柱などが無茶苦茶になっている。人命救助を急がなければいけないのに、まずは別のことから取り掛かる。死者と生者の差が場合によっては1メートルとか10センチの単位で分かれていることが有象無象となってやってきているので、生と死の峻別ができない時期がだいぶあったと言っていました。
 仮に救出できたとしても手遅れの方は放っておくしかない。まだ生存の可能性があるといわれる70時間、あるいは3日間は生者を優先しなければならない。レスキューの手順がそうなっている。でもその傍らには「放置された死者」がいる。意思を持たなければいけないのに、まず自分たちのなかで価値観の基準が崩れそうになる、そんなことも言っていました。
 確かにそうだろうな、という感じがしますね。それをぐっと圧縮して言うと、「絆」の逆ですよね。生と死すらバラバラになっているのだ、ということだろうと思います。そこにまで手を差し伸べて、思索したり、行動したりしなければならない。「癒し」とか「絆」という言葉では済まないことが起こったのだと思いますね。
<長澤>テレビも新聞も、非情な場面や悲惨な情景や無残な被写体はまず流しませんでした。美談のようなニュースばかり多かったのには、何か意図的のものも感じましたね。
 先ほど松岡さんが被災地を訪れた時に一句も詠めなかったと言われましたが、それは客観視するにはまだ早すぎるというか、言葉にして五七五の数に合わせる営みに持っていくにはまだ早くて、その現場でこぼれおちた言葉は、今はとっておこう、という感じでしょうか。
<松岡>そうですね。シェークスピアが『リア王』について、「世界の裂け目を書こうとしている」と書いていますが、そういう時は、狂った者を登場させるわけです。『ハムレット』も『マクベス』も、そうですね。秩序がつかない人物を一人想定して、それをキャラクターとして描く。それによって周りの登場人物、群像が正常であることとのバランスが取れて、世界の裂け目が表現できる、とシェークスピアは書いています。
 あるいは世阿弥が、老体とか女体とか軍体とか、あるいは翁というものを一方で立てておくと、「ものぐるい」という瞬間を描ける、というわけです。私たちは狂気や混乱がわからないわけではなくて、いままでもそのように表現できていました。けれども、全体そのものが混乱である、ということについては、長澤さんがおっしゃる客観というものに、まだ様式が向かえていないんだろうと思います。狂った主観を置くことによって客体や客観が描けるという様式が、あの事態のなかでは通用しない。東京にいても、そのような言語の混乱が連続している。だからまだ文学者もそれが描けていないのではないでしょうか。
<長澤>私は、義援金を市役所や地元の新聞社などの窓口に持っていくことがまだできていないわけですが、そういう第三者的というか、他人事というか、客観化した態度になれないんですね。それは人様が困っているからしなければいけないことではあるのですが、例えばそれを文章にしたり、人前で大震災のことについて触れたりする気にはなかなかなれなくて、今日が実は初めてなんですよ。
<松岡>ああ、そうなんですか。
<長澤>実は3月11日のちょうど1ヶ月後に、札幌で同じ宗派の皆さんから講演を頼まれていたんですが、その時には新幹線を乗り継いで青森まで行けるようにはなっていましたし、もちろん飛行機でも飛べたのですが、被災地をスルーパスしたり、その上を飛んでまたぐということができない心境でした。もちろん、自分のお寺も屋根瓦が落ちたりして軽度の被災があって、その善後策に追われたのが主な理由ですが、申し訳なかったのですがキャンセルをさせてもらいました。被災地に眼を背けていたわけではありませんが、どうもお金では気が済まない思いでした。
<松岡>義援金がだめとは思いませんが、それを普通にやってしまうと、安全から危険に対して手を差し伸べていることがもっとはっきりしてしまうわけですね。本当は地続きの何かがあるにもかかわらず、それをまたいでしまい、間を抜かして義援金という制度に託すと、それによって外れていくものがある。それをやりたくないという気持ちはよくわかります。

■日本が感じた喪失感とは何だったのか

<長澤>私自身は、栃木の自分のお寺で震度六弱ぐらいの体験をしました。来客の相手をしていたのですが、揺れの3分の2くらいのところで、このまま止まらないのではないか、ひょっとして終っちゃうのか、と我にかえりました。あの時は三つの地震が重なったといわれていますが、最後に起きた福島沖の地震がおそらく私のところでは相当大きくきたんでしょうね。境内に出ますと、近所の人やその日仕事に来ていた大工さんや板金屋さんが集っていて、旧本堂の屋根瓦が落ちてくるのを見ていました。そんなこともあるので、何か他人事とは思えないのです。
<松岡>しかも長澤さんの場合は、新しい本堂「大毘蘆遮那殿」を皆さんにお披露目をする落成式も現実のスケジュールに乗っているなかでの大振動でしょう。そういったことに差し掛かっていた人はたくさんいたはずです。
 だからこの体験は、「自分型の封印」というものがいろいろ起こりかねなかったと思います。結婚式が間近な人、卒業式が間近な人、あるいは旅に出る前の人、いろいろな人があの時に足止めを食らいました。それは此岸と彼岸ではないけれど、あるいは生と死ではないですが、何かそれに近いほどの断絶を皆さんが感じたのではないでしょうか。
<長澤>その後も3月11日のままというか、汽車に乗り遅れているという感じがしています。大震災のことを言葉にして、心の整理をするという気になりませんでした。そこで私なりに浮かんだ言葉が「喪失感」です。自分が何かを失くしたわけではないのに、何か大きなものを失くしてしまったといいますか、この震災によって、私たちみんなが、あるいは日本という国や社会が、何か大きなものを失くした、という感じです。
 特に東北ではおびただしい命が亡くなっていますが、また考えてみると原発もほぼなくなったと同様のレベルにまで壊されました。さらに当然、社会インフラである道路・鉄道・電気も、ケイタイの通信網もなくなり、テレビも見られず、行政の役場・学校・病院・公民館も波に流されたりしました。それに仕事もなくなり、生活の基盤である住居もなくなりました。このように膨大なものがなくなったわけですが、松岡さんが被災地に行かれて、喪失感という点ではどう感じられたのでしょうか。
<松岡>私が以前から考えてきたのは、日本人はあることを喪失しないと母国や母国の面影が取り戻せないということです。また、失うことが同時に創出である、創出は喪失を伴うという方法を持ってきたということです。花が散ることが花を歌うことの方法を孕んでいる。しかし、高度成長期から物質的経済的な豊かさを求めてきた日本人は、この方法を失ったのではないかという危惧があるんです。それでこの数年、「日本という方法」「方法日本」ということを言い続けて『日本流』などの本を書いてきたわけです。
 この国は本当にたくさんのものを喪失してきました。それが次の創発や創出を生めないでいるのは、やはり方法そのものを喪失しているからです。物質的なものだけではなく、家族とともに思い出も失くした方がたくさんいると思いますが、そういう方々が、それを逆転させ、あるいは裏腹にさせて思い描くものを持てるということができない。この数十年の間で、そのメソッドを失った、あるいは希薄にしたことを、今になって突き付けられたという印象を持ちました。
 私自身、釜石に下りて感じ始めたこともそれです。私はいままで多少はそういったことを訓練してきました。自信を失った人たちに対して、編集的にそれが復元可能であることや、新しいものに組み直せる可能性を示したりすることについては、多少なりともやってきたわけです。しかも、そういうものを今のうちに自覚的に持たない限りは、経済大国に浮かれているととんでもないことになるという警告も発してきた。にもかかわらず、その自分がまったく異星のような、月面のようになってしまった生命感の乏しい空間のなかで、取り戻せるものが何も見つからない。俳句一つ詠めない。そこに、二重の喪失を感じたという感じがします。記憶として断たれたものに対しては蘇らせる方法も力もあったはずなのに、それも失われている、という印象でした。
 もう一つは、今回の震災が「東北」という場所に起こったということですね。やっぱりここに起こったのだという、何とも言えない暗合を感じました。
 日本に国家というものが生まれた時、陸奥(みちのく)とあそこを呼んだのは、「道の奥」、つまりアウト・オブ・インフラストラクチャーという意味でした。日本は東北を国の内として認めなかったんです。「化外」あるいは「化外の民」と呼んだり、「蝦夷(えみし)」と呼んだりすることによって、征夷大将軍の征服対象となり、討つべきもの、服属させるべきものであるとずっとみなしてきました。その東北一帯に大震災が起こってしまったんです。これは高度成長期に喪失したどころか、千年にわたって日本が陸奥や東北に対して処置してきた仕打ちの逆襲ではないか。アラハバキや、怨讐が一斉に立ち上がった、逆上した、という感じですね。
<長澤>私にもう一つ、喪失感とともにつくづく思い知らされたことがあります。松岡さんも私も安保と学園紛争の世代ですね。この世代は、良きつけ悪きにつけ、学生時代に国家とか国家権力というものをいつもどこかで意識し、どちらかというと反権力の側に立つことにこだわりを持ち、アクションを起こしたりもしてきました。
 右も左も関係なく、国というのはそこに住む国民の生命と安全を最大限に守ってくれる機能でなければならないわけですが、まして進んだ近代国家であればなおさらです。しかし今度ほど日本という国が国民を守らない国、守れない国だと感じたことはありません。日本はそういう装置も機能も持っていなかったんですね。経済大国といわれてうぬぼれていた日本が、国民の命を守るところにお金も知恵も出さなかった。この過去への無念というか、残念というか、腹立たしさこそ、私たちの世代としては言わなければならないことだと思っているんです。
<松岡>ホッブズ以来、国家というのは国民の生存権の安危を背負っているものとされてきました。つまり、一人一人の生存によってしか、国は成立しないというところがわかった時に「国家」という概念が生まれたわけです。そこからすれば、民の生存権を保障できない国は国ではないということになりますね。
 もう一つは、国家というものはその奥に本来の母国というものを見据えているはずだと私は思っているのです。マザーランドがあった上で、現実の制度や生活を管理する、それらを動かす装置として国家が機能している。今度の震災で私が実感したのは、日本という国家がその母国をきちんと見ていないということでした。
 マザーランドとしての「東北」を我々がどこかで軽視していた。その仕打ちを食らったと思うのです。それは3月11日の午後、政府がしたことの足りなさだけではなくて、自治体から生活者・被災者に至るまで、奥行きとしての母国の量を減らしてきた、薄くしてきたのではないか、ということです。
 最初に、生と死の区分けすら分断された、と申し上げましたが、死の領域も薄くしたと言えるのです。生の領域も薄くしてしまったけれども、死の領域も、病院や救急車に頼るだけで、浄土を失っている。弥勒菩薩が降りてくる五十六億七千万年先ではないにせよ、かつてはもう少しパースペクティブがあったはずです。そういう浄土感覚を薄くして、生も薄くしているから、母国の量がものすごく小さくなっている。本当はあの時、みんな祖国や母国の喪失を何となく実感したと思うのですが、それすらも誰も口にできないというところまで追いやられています。これは一体どういうことなのかという感じがすごくしました。
<長澤>そうですね。母なる大地が揺れ、母なる海や川が人を襲い、まるでやさしい母が母に背くわが子をたしなめるかのようでした。母なるものが見えなくなって薄くなっている今の私たちへの警告だと思うべきでしょうね。
 装置としての国家の機能の話に戻って恐縮ですが、テレビで報道される体育館での避難生活を見ていて、もっとましな被災者保護の方法はないものかという意味で思いついたのですが、例えば、地方各地の(町の郊外で少し高台にある)ゴルフ場で、経営が立ち行かなくなっているようなところを国や自治体が買い上げ、各ホールのフェアウェーに一町内の人を収容できる戸建てまたは集合型の仮設住宅を建て、ラフ部分には電気・ガス・水道の配管を敷設し、グリーン部分の地下には非常用電源装置や食料・水等の備蓄設備を設け、クラブハウスに総合管理や医療施設や風呂・シャワー・洗濯などの厚生機能を置き、コース売店はコンビニレベルの買い物施設とし、いざという時には数万人単位の住民を収容し、最低三年間は自宅にいるのとほぼ同じ程度の避難生活が快適にできるようにする、それぐらいのことをしておくのが実は豊かな国なのではないかと思ったりするわけです。
<松岡>それはリスクとオプションということだと思います。どういうリスクがあったときにどういうオプションが用意できているか。今までの経済主義のリスクとオプションは、ハイリスク・ハイリターンであり、危険なことがあるとリターンが良いように投資をしておくというものですね。これは正のリスクとオプションなのですが、負のリスクとオプションではないのです。つまりリスクを最初から負にしないで、簡単に言えば金融資本主義やデリバティブの金融工学的なカジノ資本主義が成立しており、それが新自由主義などと呼ばれていますが、そうではなくて、浄土のような、死の領域のような側のオプションがもっと必要です。それが足りないために正が崩れると全部が負になってしまうんです。やはり、負の領域に潜んでいる装置が作動できるものを持っていないとだめだと思うのですね。インフラでいえば道路、港湾、娯楽施設といったさまざまなものの中にそのような装置を半分ぐらい、せめて10分の1でもよいから、持っていないと国家というものは成り立たないと思います。
<長澤>負のリスクとオプションには光を当てないできたという点ですが、何がそうさせてきたのでしょうか。
<松岡>一つはやはり経済優先主義でしょうね。通貨という記号に置き換えないと資産や価値を実感できない社会をつくりあげてきました。数値・記号にできない経済価値にはどんな産業も国家も手を出さないです。さらに政教分離によって、政治は宗教に手を出さないとしたので、浄土的なパースが全部失われたのではないでしょうか。
 かつてこんな経験をしたことがあります。四国の山奥にある過疎村の近くに高速道路ができたため、急にそこにお金が落ちてきて、そこで村長さんがこのお金を何か良いことに使いたいと、私の知り合いの建築家に相談し、私のところにその話がまわってきました。その村の歴史を調べてみると、熊野の霊場や熊野信仰とつながっていたんですね。それで補陀落浄土のコンセプトに基づく観光施設のプランをつくったわけです。ところが、反村長派のオンブズマンや新聞などが、これは政教を混同しているというキャンペーンをやり出し、結局、その建築家が責められる形となり自殺してしまったんです。そのために、計画全体に暗い影が落ちてしまい、歴史的な背景は持ち出さずに取り敢えず装置だけつくってなんとかオープンしたというわけです。
 その時も感じたのは、目に見える正の領域だけで、政治や経済というものがつねにチェックされていくということです。負の領域に回っているものについては、制度上や法律上は許されないとして、後ろのバックヤードがない状態で事を進めなければならないという事態がそのころからどんどん進んでいたのです。もう十五年ぐらい前のことですが、日本はこれからどうなるんだろうと思いましたね。座標軸で言えばX軸の両側やY軸の上下の両方に軸が伸びない日本になっていて、正の領域だけで繕うような仕組みになっている。四象限あるうちの、場合によっては一象限だけに日本が向かっているという気が非常にしましたね。

■「負の領域」を一手に引き受けてきた東北

<長澤>「負の領域」へのまなざしを、戦後の日本は経済優先主義のなかで見捨てた、軽視してきたということでしょうか。それは、まさに「東北」にも言えることでしょうね。古代史からひもといても、気候風土のためなのか、中央政府の政略的な意図なのか、時代時代によって違うと思いますが、東北は日本の「負の領域」を一手に引き受けてきた気がします。そこにあのような惨劇が起きるという、この気の毒さは、やはりもっと話題にしないといけないことだと思うんです。
<松岡>なぜ、東北がそういう扱いを受けてきたのか、その理由はいくつかあります。
 もともと日本では、社会というものが西から来ました。北九州や南九州から大陸文化が入り、その南や西から列島を上がってきたのです。もちろん北からも文化は入ってきたのですが、少ないんです。そして大和・畿内にとどまった政権によって日本がつくられたため、やはり「西半分の充実」と「北半分の放置」があった。縄文期まではそうではなかったのですが、西から稲作と鉄器が入り、それが東北では遅れたのがその原因の一つです。
 二つ目は今でいう人種差別ですね。当時は言語圏と稲作圏、鉄器文化圏と騎馬の戦闘能力が一致していたことに加えて、身体の特徴の違いもありました。今でも東北弁はわかりづらいと思うように、そういったしゃべり方の特徴によって異質者扱いをしていたと思います。
 三つ目に、後にアテルイの乱とか、伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)の乱のように、朝廷が治めようとすると反乱が起こりました。そこで「征夷大将軍」を棟梁にした将軍家が生まれ、その征夷=陸奥を征伐するという名称のまま、江戸末期まで継承されていったことです。
 そういったことごとに対し、東北に起こったことはいくつもあります。一つは藤原三代・四代、あるいはその前の安倍一族の活躍です。東北にも有力な豪族がいて、金やアザラシやラッコの毛皮などで北方貿易をし、経済力もつけていたわけですが、北前船が始まる前は長らく西日本や畿内との交流が閉ざされていたため、その産物力を中央が欲した時に反抗し、これが討伐の対象になります。やむを得ず安倍一族、藤原四代などが、そこに別国をつくろうとしたのですが、そこへ間が悪いと言えばその通りですが、武家勢力の源氏と平家が前九年、後三年の役で敵対し、東北の地で戦い合うわけです。私たちはこれを源平の戦い、あるいは鎌倉幕府の成立と呼び、それが西日本や、あるいはせいぜい鎌倉で起こったと考えていますが、実は最初に源平の戦いは全部東北で実験されているわけです。おまけに頼朝の弟の義経は藤原に逃れたために、それが討伐の対象となって弁慶の立ち往生みたいなことが起こります。
 つまり社会のニューウエーブの出現が、東北で実験されてしまったということが言えるわけで、明治維新の頃の奥羽列藩同盟もそうでしょう。その後の政府は屯田兵や札幌農学校のように、北海道を一番のニューウエーブの拠点にしようとしましたが、今度は東北はスキップされていき、近代以降、岩手県などは「日本のチベット」と呼ばれたこともあるぐらいです。
 こうして、東北は1000年以上にわたって「化外の民」の扱いをされてきました。なぜこうなったかは、今言ったような理由だと思いますが、それに対して陸奥の方々も抵抗できないのです。新渡戸稲造や宮沢賢治、あるいは石川啄木・太宰治・寺山修司のように、時々は抵抗者が現われましたが、やはり大きくはそがれて、えぐられた区域でしたよね。
<長澤>話がちょっと外れますが、最澄の東北進出を会津で止めた徳一の心底にあったものはいったい何だったのか、今お話を聞きながらふと頭をよぎりました。後世には毛越寺や天台寺が岩手県内にできて、立派に東北の天台の拠点になってはいますが、弘法大師の時代には、最澄の東北進出を阻止するように徳一が論争を仕掛け、8年間も続けてとうとう最澄は亡くなってしまうわけです。結局は進出できず、円仁の時代になるまで東北に入れませんでした。
 しかも徳一は奈良の藤原一族直系であり、確か仲麻呂の十一男か十二男ですが、それ故に藤原仲麻呂の乱の後、奈良の都に居づらかったのかもしれませんが、ともかく興福寺と東大寺で相当に学識を認められた徳一が、「化外」の会津に下向するという話からしてよくわからないところがありますね。さらにそれがおとなしくしているわけではなく、常陸や下野にまで教宣を拡張し、徳一勢力を拡大して、そこから北に最澄を入れさせませんでした。
<松岡>徳一共和国みたいにしていましたね。
<長澤>まさにその通りで、どうも陸奥(当時、会津は陸奥のなか)というのはもともと「中央」政権に対する抵抗勢力みたいなところがあって、父仲麻呂の死後不遇をかこった藤原氏の末席として南都を捨てた徳一にもそういう気概があったのかなとも思います。最澄は桓武の庇護を受けていましたし。
<松岡>徳一は、南都の鎮護国家の仏教というものの限界を、何らかの格好で見抜いたのだと思います。やはり南都六宗は全部中国がオリジンであり、あの広大な国の中でつくり上げたものが、小さな南都六大寺の中に入って行って戒律まで生まれ、最澄・空海はそれに抗したわけですが、徳一の時代にはその最澄や空海ですら、南都のおこぼれにあずかる者に見えたのだと思うのです。もちろん、今だからこそ、最澄や空海こそが良弁までの南都のひずみを超えようとしたのだと思いますが、当時はまだ孝謙・称徳天皇、道鏡のような人も登場している時代のなかで、徳一は軒並みコントラバーシャルに論争を挑んでいったのではないかと思います。そこに、最澄もひっかかったのだと思います。
 それとともに、やはり以前から坂上田村麻呂や高橋虫麻呂たちは、みな南都から東北に制圧に行っているわけで、やはり福島、会津の地で戦線を張っていた徳一にとっては、絶対阻止すべきものに映ったのではないでしょうか。
 少し話は外れますが、覚鑁(かくばん)が根来を守りますね。あれもなぜ根来あたりを守ったのだろうと私は最初思っていたのです。しかも『五輪九字明秘密釈』などを読んでみると、いわゆる普通の密教とは思えない。最初は、これは道教かと思いました。非常に土着的な密教のように思え、土の中から出てくるような日本に珍しいものだと感じました。
 徳一―最澄論争、徳一―空海論争は、今では徳一の方が教義に走っているような気もしますね。ただ、土地に根付いているという意味では、徳一は日本では珍しい宗教論争者だったと思いますね。
<長澤>仏教のなかで「布教」の二文字が出てくる文献に当たると、徳一の東北布教、民衆布教、信仰布教といった言葉が出てくるのが目立ちます。会津磐梯山の山麓から始まって会津一帯、そして常陸・下野に布教をしたといった言葉が、徳一に非常に顕著なんですね。それは土着的で、磐梯修験もそこに絡んできており、下野では那須あたりまで、常陸では筑波山までも来ていますね。
<松岡>空海も徳一の論争を浴びますね。空海は勝道上人についてはちゃんと日光開山を認めているし、勝道の功績を称える碑文を書いていますし、白山を開山した泰澄のことなども評価しています。徳一が会津、磐梯地方や常陸に布教して自分のデベロップメントを持っていたにもかかわらず、どうも最澄も空海もそれをアプリシエイト(評価)しなかったのではないかという気もするのです。徳一が嫌われたかどうかはわかりませんが、どうもそういうふうに評価をされていない。土着者に見えたか、土蜘蛛扱いにされていたような印象もありますね。
<長澤>その点ですが、これは私独自の見方ですが、空海と徳一はかなりの密度の関係にあったのではないかと思います。空海は徳一に慇懃丁重な手紙を二度も送っていますし、使いをやって密教経典の書写も頼んでいます。徳一が空海を批判したという『真言宗未決文』をよく読んでみると、徳一は密教理解で苦しんでいます。批判のように読める箇所は、南都の法相学では理解できない部分に見えますから、あれはいわゆる批判ではありません。
 それに、空海も親しかったであろう嵯峨天皇のブレーングループ(蔵人所)のトップが藤原冬嗣でした。冬嗣は興福寺南円堂の設計を空海に頼んだ藤原内麻呂の嫡男で、藤原直系である徳一とは縁続きです。しかも、空海が徳一に密教経典の書写を頼んだ頃、冬嗣は陸奥国の国司になっています。
 また同時に、空海が密教経典の書写を頼んだ東国の国司のなかには甲斐の藤原真川や常陸の藤原福当麻呂らがいました。真川は後に大臣となり、その後任に空海は奈良の大学寮時代の唐語の恩師浄村浄豊を推薦していますし、福当麻呂は内麻呂の五男で冬嗣の異母弟です。
 この相関図は偶然ではなく、空海が南都において築いた王法仏法の結果で、徳一は空海と敵対できません。空海の密教に戸惑いながらも冬嗣と空海の関係を尊重してこれを了とし、冬嗣・空海につくかたちで最澄と対峙し、法相対天台という大乗同士の論争に集中したのだと思います。
<松岡>なるほど。それで空海は最澄のような目に遭わないで済んだんですね。
<長澤>ついでながらですが、徳一が最澄の東北進出阻止を図った背景には、平安京造営で桓武の信認を得た新興勢力の和気清麻呂を藤原一族とくに冬嗣は好ましく思っておらず、その清麻呂に庇護されている最澄に対しても同様だったのではないでしょうか。要するに、陸奥国司として、朝廷の新興勢力としての和気氏の庇護の下にある最澄を陸奥に入れるわけにはいかなかったのではないかと。
 奇しくも、和気氏の氏寺だった高尾山寺(現、神護寺)に空海が入るわけですが、入山する際、それまでの住持だった最澄が住持の座をさっさと譲ったことになっていますが、これには清麻呂の娘を妻に迎えている藤原葛野麻呂が介在したと思われます。葛野麻呂は第十六次遣唐使船で正使の役を務めた人ですが、福州に上陸する際の難儀を空海がしたためた上奏文で助けられた経緯から、空海には恩義に応える立場にあったはずなのと、葛野麻呂の地位と立場からして藤原氏と和気氏の間を仲介することも地代の空海から察せられることで、和気氏も清麻呂の子の真綱・仲世の時代になっていましたし、義兄弟の二人を葛野麻呂が説得したに相違ありません。
 空海はそういう政治的なものをおそらく飲み込んでいたでしょう。王法仏法の一端として受け止めていたと思います。その辺の勘所のつかみ方は一流の人ですから。

■「東北学」から見えてくる日本の形成

<長澤>今日はせっかくですから、続けて「千夜千冊」の『東北学』(一四一二夜)についてうかがいたいと思います。著者の赤坂憲雄さんだけではなく、柳田国男・宮沢賢治・井上ひさしさんなど東北にゆかりの人の名前も頭に浮かべながらお話しいただけたらと思います。
<松岡>歌枕を含めた万葉・古事記の世界も、やはり白河の関で折り返しているわけです。当時、「日の本」というものは、北は外が浜(青森)から南は喜界島(鹿児島・奄美群島)とし、津軽の十三湊までは一応挙げているのですが、しかしそれはちょうど箱根の関で西と東が別国扱いになったように、白河の関のあたりに何か結節点があったと思うんです。東北はその向こうの国なんです。確かに、雪国であり、言語表現性が異なる国で、稲作は遅く入り、兜や刀、鉄器も遅かった点からすると、やはり後進地だったんですね。
 その一方で、もっと北からは後にアイヌと呼ばれる人たちが以前から少しずつ入っていました。例えば、北海道の地名と同じように、恐山も「ウソリ」というアイヌ語が本来の名前です。やはり、あのあたりは国内の大和言葉が使われない土地になっていたんですね。そこが後の賢治や寺山や太宰にも関係してくるのですが、ある凍てついた表現別景というべきものをずっとつくってきたと思います。
 これは井上ひさしさんにうかがった話ですが、井上さんが生まれた東置賜郡小松町(現川西町)はまだ陸奥の入り口でありながら、例の「吉里吉里国」を宮城と岩手の間に設定されているんですね。「それはなぜですか」と聞いたら、自分が白河の関をまたぐところにいることから、能因法師や西行や芭蕉があそこを越えていこうとした勇気はものすごく文芸的な憧れであったと言うんです。漂泊の民というものを自分が体験しない限りは、日本の文学はつくれないと思い、能因や西行や芭蕉がそれを起こしたのだとすれば、陸奥のぎりぎり手前のところに育ったものが漂泊の根拠としての自分の理想郷を三陸に置こうとすることは僕の夢なのですよ、と言われていました。
 このように、大和とは違う別の陸奥の言葉を持ったものを、自分の中に回路として体験させることが、東北文芸というもの、それは「東北学」と言ってもいいのですが、それを成立させたのだろうと思うのです。
 これは、日本に特殊なことではなく、地続きのヨーロッパ大陸のようなところでも、ランボーにしても、リルケにしても、あるいはゲーテにしても起こっていたことです。ゲーテは、イタリアという別国を体験することによって、自らの国土のドイツロマンに目覚めていきますし、ジェームス・ジョイスの場合は、アイルランドのダブリンからロンドンやパリに出たことでそれが起こりました。同じようなことが、日本の場合は、狭いながらも東北がそういう文芸の原型になっていると思います。もう一つそれが起こってきたのが琉球ですね。
 柳田国男が『北国の春』という有名な本を書いて、「ああ、この津軽の国にも稲が実って素晴らしい。瑞穂の国である」と喜ぶのですが、赤坂憲雄は、それは後の話であって、そこに柳田のようにフォークロアの原型を見いだすのは、おかしいのではないかというわけです。また、柳田の『遠野物語』にしても、佐々木喜善が昔語りを文学的に表現したものであって、決して日本のフォークロアの原型ではなく、それを一国の民俗学のメインに持ってくるのはおかしいのではないか、ということも赤坂君は指摘しています。
 これらを総合すると、やはり東北の表現社会は、漂泊というか、アウトオブスペースであったが故に、メインの中央の人たちや境界人たちが、それを取り込むことによってしか成立しない、何かの機縁を持ち続けていた、それに啄木・賢治・太宰・寺山らが次々に気がついていったのだと思いますね。
<長澤>今回の地震で、東北では多く部品工場が止まって部品供給ができなくなり、メーカー本体の生産ラインに支障をきたしました。トヨタがそのいい例ですが、やはり東北はメイン(本社・「中央」)ではなく下請け(服属)なんですね。東北以外に主力の本社があり、東北は末端の下請け工場という図式が高度経済成長期からできている気がします。その分、一家の働き手の出稼ぎが減ったかもしれませんが。
 この経済・産業の構図関係がどうもほかにも符合するんですが、例えば福島に東京電力の原発があることです。つまり、国策の原子力発電所が福島の双葉町や浪江町にあり、そこからずっと上に上がって女川から六ヶ所村まで、三陸という昔から地震の巣だとわかっている地域にも原発を並べていく、それを受け入れて地域の活性化に結びつけざるをえなかった町の苦渋は、これも東北の悲しい歴史の現実だったのかと考えさせられますね。
<松岡>柏崎から北陸もそうですね。「裏日本」という言い方があったように、やはり長きにわたって、北陸や出羽国以北、会津以北はやはり別国扱いをされてきました。その別国であるという意味は、かつてはそこを通過することによって、日本が成立するはずというものでした。井上ひさしさんが言うように歌心はそうなのですね。しかし政府や産業界はそういうふうには全然見なかった。ちょうど朝鮮半島やタイなどのよその国に工場をつくるのと同じようにしか見ていなかったんですね。
 もう一つ、東北問題として、二・二六事件を起こした青年将校の歴史もあると思います。多くの青年将校たちが東北の出身であったこと、東北の飢饉や身売りという状態に憤り、それが満州で贖えるというロジックに希望を持ちながら、結局満州もうまくいかなかったために、再び東北が負の舞台になったというのが、二・二六事件の真相だろうと思うのです。石原莞爾は福島ですね。やはり、あそこが分岐点になって入れ替わりながら、常に満州や東北が交換条件に、担保に入れられていたという印象がすごく大きいです。
 歴史を振り返ると、北前船が北海道の松前まで行き、東北から物産を取るのではなくて、もっと北から取ってしまったことも大きいと思いますね。そのために三陸のものが畿内に流れるのがものすごく遅くなりました。もし、藤原四代があそこで藤原王国のような、不思議な特区のようなものをつくっていたら、ひょっとしたら何かが変わったのかもしれません。だからこそ、頼朝があそこをつぶす気になったのは驚くべき計画ですね。先ほど源平が実験したと言いましたが、まさに当時の核実験みたいなことが起こされたわけです。何かそういうものに東北が使われてきた歴史があるんですね。

■東北だからこそ、グローバリズムによらない復興を

<長澤>繰り返しになりますが、私は今度の大震災があまりに衝撃的で、自分の気持ちに何か一区切りつけたりということができませんでした。
 歴史的にも、政治的にも、経済的にも、これまで「負の領域」を背負ってきた東北に、それをまたダメ押しするような地震と津波が押し寄せて沿岸部の町や人を破壊してしまいました。これは、あんまりではないかという思いですね。
 また、太平洋戦争で非常に苦しい経験をされた沖縄の人たちの立場からすると、今の普天間の問題こそ早く解決しなければならないのに、にっちもさっちもいっていない。
 この東北と沖縄という、日本のなかで最も手厚くしなければいけないところに、今なお悲劇が起きたり残ったりしていることをもう少し深刻に考えなければいけないはずだということが、私がたじろいでいる原因なのです。
<松岡>たじろがざるを得ない大きい宿痾(しゅくあ)の問題ですね。それは、柳田国男ですらそうであったように、です。もちろん柳田も東北に学び、沖縄にも学んだのですが、それを母国の領域としては捉えきれませんでした。多くの日本人は沖縄県民、東北圏民の人たちの思想や生活のレベルでは考えられなかった、ということだと思うんですね。
 青森や東北には「古布(こふ)」と呼ばれているものがあります。パッチワークですね。それはものすごく大事にされていて、画集や写真集になったり、たいてい端切れが郷土資料館に飾られたりしているのですが、とても何かさびしいもので、ちゃんちゃんこにしたらぴったりぐらいの印象のものです。ただ、刺し子なども含めて、非常に厚くて強いものです。または蓑も東北の産が多いのです。今やコシヒカリもあきたこまちも素晴らしい稲作技術となっていますが、長らく東北は、日本中の蓑細工を提供するという道具の生産力しか持っていませんでした。さらに布とか細工物、あるいは秋田の「曲げわっぱ」など、そういったものを見ているとちょっとかわいそうだな、という印象がすごくありますね。
<長澤>東北の人たちがそういう「負の領域」を背負ってきたということを、どう復興計画の中に入れ込むか、そういう思いがないとまずいのではないかと思います。
<松岡>私は、やはりグローバリズムによらない復興がよいと思います。結局、東北はもともとグローバリズムが届かなかった地ですね。だから今さらグローバリズムによって、あれこれを切り替えて、ほらすごいでしょう、というふうに言ってもらったり、感じてもらったりするようでは、それはだますことになる。沖縄もそうやってだましてきたわけです。
<長澤>地域振興施策の補助金は、まさにそれを集約したようなものですね。
<松岡>だから東北の持っている経済力や労働力や産品などをもう一度編集し直して、新しい東北を古代から組み立て直すのがいいのではないかと思っています。それには被災地だけではなくて、私は「奥の細道」と呼んでいますが、その回路全体をひとつのサーキットと考えて、そこに手を入れたり、お手伝いしたりするのがよいのではないかと考えています。
 もう一つはその奥に奥六郡という領域があって、アテルイや安倍一族の前九年・後三年の役の戦場ですが、最後にそこにはアイヌも入るのです。さらに奥六郡のさらに奥には安東将軍という日の本の将軍を名乗った人物の歴史とともに十三湊、津軽、八戸が並んでいています。六ヶ所村から下北半島から津軽半島に至る領域です。これらが今は漠然と東北と呼ばれているのですが、これをもう一度組み立てるのがよいのではないかと思いますね。
 その要訣はグローバリズムによらないことです。代わりに千年の東北の資産を再検討して組み直す。例えば、ねぶた祭りから相馬の馬追いまで、お祭りのなかに潜んでいるアイテムの拾い出しからやり直した方がいいと思います。どういうメタファーがそこに使われ、ああいったものになっていったかを見抜いていく必要があるのではないでしょうか。
<長澤>そういう編集をやり直すということですね。
<松岡>それから、これは長澤さんに教えていただかなくてはいけないことですが、東北における信仰風土というのは一体どういうものなのか。さきほど天台の話が出ましたが、曹洞宗も広まっていますし、浄土宗も真言宗もあります。この折り重なった、場合によっては傷ついた信仰風土をもう一度蘇らせることも大事ですね。それは広大な領域であり、曼荼羅のように複雑だと思いますが、チベット密教というものがあるように、今のブータンがそうであるように、東北というものを宗教風土から捉え直すことも必要だと思いますね。
<長澤>赤坂さんは『東北学/忘れられた東北』で仏教以前の土俗信仰に着目していますね。是非こういう時には、神社を含めた東北なりの民俗信仰のようなものを、ベーシックには捉えたいと思いますね。仏教も、東北の民俗の流れのなかで神社とともに自分のアイテムやコンテンツを再編集していくことが必要だと思います。宗派仏教では通用しないですから。
<松岡>民俗宗教もありますね。オシラサマのような。
<長澤>お祭りや生活に根差した土着的な宗教習俗のようなものが、やはりベースだろうと思いますね。震災でいろいろなものが破壊されましたが、幸いなことに地縁血縁、地域共同体といった人のつながりは、首都東京ではとても考えられないほど強く生き残りました。それが急に露わに見えたものだから、みんなびっくりして「絆」だとか言っていますが、東北の人にしたら当たり前のことだと思います。たしか、玄侑宗久さんがそう言っていました。そういう壊れなかったものは何だったか、という洗い出しも欲しいような気がしています。
<松岡>東北というのは、地図が二層になっていると思うのです。今の列島改造された地図が上に乗っているのですが、もう一つ下には違う地図がある。例えば、日本中の川のなかで、北上川だけが縦に流れているんです。あるいは山渓や、さらに言えばプレートテクトニクスにつながる、地層を含めた東北の地図があります。さらに本当はもう一層あって、真んなかに古代からの民俗の地図がある。この三層の地図を持っている地域なので、信仰風土も新しい信仰と中間の信仰と古い信仰が三層になっていて、こういうところが東京以西の人にはなかなかわかりにくいようです。
 それから、春秋夏が短く、冬が長いという季節感の違いも東京以西の人たちにはわかりにくいと思います。だからこそ、畿内がつくり上げた文化ではない東北の万葉集、東北の歳時記、東北の星座、東北の迷信といったものをもう一度洗い出す必要があると思っています。それは赤坂君がやってくれたことでもあるのです。日本の民俗学は、これまで雲南や照葉樹林といった東アジアとの関連に向かって研究が進み、今では長江文化と結び付けて考えたりしています。しかし、なぜか長らく東北に向かっていなかったんですね。だから赤坂東北学だけではなく、もっと広い目でも東北を捉え直したい。例えば東北の俳句はどういう違いがあるのか、ファッションはどういう違いがあるのかを見る。また、民謡は東北では特に豊かで、沖縄の三線(さんしん)と両極をなす津軽三味線がほとんど本土とは違うリズムを持っていて、そこに民謡というボーカリゼーションの違いも加わっている。その辺も全部洗い直す必要があると思っています。

■新しい東北社会に向けてお寺が担うべきもの

<長澤>今回の震災では、お寺が避難所になったり、引き取り手のない遺骨の一時安置所になったりしましたが、きょうの話の最後に、これからのお寺の立場についても、ぜひお聞かせいただきたいと思います。葬式仏教というものが、世の中の景気不景気によって時々やり玉に挙がって(笑)、我々も面食らうのですが。
<松岡>島田裕巳の『葬式は、要らない』のようにですか(笑)。
<長澤>今回、東北の人たちがガレキのなかから真っ先に亡き父母の写真を探し出したり、倒壊した家のなかに潜り込んで位牌を探し出し、小さな風呂敷に包んで仮設住宅に持ち帰ったりしている姿を見て、日本の仏教は葬式仏教でよかったな、死者を弔う宗教でよかったな、とむしろ思いましたね。死者への畏敬と鎮魂を積み重ねてきた日本の仏教こそ、「東北」的ですね。
<松岡>私も今回それを感じましたね。津波で全部流されたなかで、辛うじて流されずに残った泥だらけのアルバムとか国語のノートとかが、全部新たな仏壇・神棚に上げられていました。やはり最初に申し上げたように、生の領域と死の領域は、それなりのパースペクティブを両側に深く持っているわけです。この生と死をまたぐところで起こっている葬儀のようなことも、もう一度見直されると思います。ひょっとしたらアルバムや子どもが書き遺した国語のノートのようなものが、新たなトーテムとして、東北なりの新しい葬儀に今後登場する可能性もあると思うのです。それしか残っていないわけですからね。
 昔、遠野あたりに行くと、おじいさんやおばあさんとともに、早くに亡くなった子どもの御真影というか、精密な絵などがずらっと欄間に掛かっていたものです。そういう四世同堂というか、たくさんの生きとし生けるものが何かのオブジェとして、トーテムとして残るということは、日本の葬儀が江戸期につくり上げたと思うのです。それが実は、遺骨や位牌だけではなくて、形見やアルバムなども隣同士に置かれて実はつながっていくことができる。これが今回の震災の奥に見えてきた生と死の風景だなという気がしますね。
<長澤>加えて東北には大都市が失っている共同体がありますね。本当に小さな単位で、昔でいう「結」とか「組」とか「講」とか、あるいは「連」とか、そしてまた隣同士や寺単位の檀家さん、神社の氏子さん、そういうミニ共同体の結びつきが東北には厳然として生活の場で大きな作用をしていて、緊急の時にはそれがものをいうということを見させてもらいました。
<松岡>私は2011年10月から「週刊ポスト」で連載を始めたのですが、その最初に「氏神」を取り上げました。やはり氏子・氏神、檀那(旦那)寺・檀家といった単位は、網の目のように、しかし静かにずっと東北一帯に今でもあると思います。産土(うぶすな)、あるいは鎮守の森と言ってもいいんですが、この単位が再発見できるチャンスだと思いますね。
<長澤>そういう単位が地域ごとの伝統の祭りや歳時的な祀りごと、講といったものを支えている。そういうものが、東北は日本の他の地域よりもはるかに優れて残っているような気がするのです。
<松岡>一番残っていると思いますね。それから、食生活の単位も大事ですね。蓄えて食べるという食生活の単位も東北は他とは異なると思います。塩鮭をつくり、佃煮にし、漬物にするというような、時間を掛ける食生活が東北には堆積していると思います。こういう時間ごと、復興を考えるべきですね。
<長澤>私の世代ですと、東北というとどうしても上野駅にやってくる集団就職や出稼ぎの話が思い起こされます。出稼ぎのない東北、下請けでない東北、自立自尊、地場の産業で働き、自分たちの家族単位で生活を購える東北がどのようにすれば実現するのか、それが復興ではないかと思っているのですが、先ずはやはり第一次産業の大きさからしてその再編集でしょうか。
<松岡>その比率や分母をもう一度捉え直さなければいけないでしょうね。
<長澤>第一次産業で十分に暮らしていける「方法」についても、何か知恵が働かないかと思うのですが。
<松岡>結局、不作と漁獲量の減少、さらに山林が火事で失われるという三つのリスクをどうするかですね。この畑と山と海がコントロールできないために、二・二六の青年将校たちも騒いだわけですが、それをお金の対策に換えないで、一つは技能で立ち向かう。新しい科学技術や原発型のハイテクノロジーではない、土壌や海底や山林という時間が掛かるものに立ち向かうこと、それは組織的にいうと「結」と呼ばれるものですが、その単位として第一次産業はやはり組織から見直さないとダメだと思うのです。単に株式会社にして、競争させて、民営化で活性化しよう、というだけではだめだと思うのです。滔々たる流れのなかで日照りや水害、赤潮があり、好不調がどうしてもあります。それを見越したリスクとオプションを組み直す必要があって、その意味では新しい経済学の発生に向かう東北という観点が必要ではないかと思います。
<長澤>私の住んでいる地域でも、高校の進路指導の段階で、農家の子も商家の子もみんな高校の都合で進路の枠に入れられるわけです。例えば、私の出た高校でも、東大に何人、一橋に何人、東北大に何人と、高校の都合で、一家の後を担う息子の進路が決められていく現実がありますね。親は農業の若い後継者を確保したくても、高校の進路指導はそんなことおかまいなしです。その結果、息子は首都圏の大学に進んで、卒業後はどこかの企業に勤めて、首都圏にマンションか一戸建てをローンで買って、田舎には帰ってこない、田舎には年寄り夫婦だけが残っている、私の町もそうですし、おそらく東北でも同じでしょう。
 若い人口が大都市に流出しない地域経済こそが大きな問題なんです。そういうしがらみがいつの日か解けないと、地方の有為の人材がみんな首都圏に過密に集まってしまい、田舎が過疎化しています。お寺もそのあおりを受けて、檀家さんの世代交代とともに後がつながっていかない。これもおそらく東北のお寺が背負っている話です。やはり地域が食べられるだけの経済力がないと、何もかもが循環していかない。その一番大きなテーマを抱えているのがやはり東北だと思います。
<松岡>カール・ポランニーが言うように、経済が社会をコントロールするのでなく、社会のリズムや単位が経済をつくることが理想だと思います。そのことから言えば、東北は面積的には日本のなかでは大きい社会ですから、そのなかでまず社会の分析をして、それを経済に置き直すものをつくらないとなりません。場合によっては地域通貨というものが生まれてもいいと思います。また、特区が生まれてもいいし、相場のようなものも東北側がつくり出していいです。中央の流通経済の相場に合わせないで、東北の漁獲量や獲れ高でイニシアチブをとる。ちょうど産油国が世界に対してOPECをつくってオイルダラーの原型をつくっているようにです。
 東北にはあれだけの規模があるので、「中央」がつくり上げているオーダーやインディケーターではないものを先に東北側が主張する可能性はあると思います。そういう意味では学校もお寺も神社も、神社本庁型ではない、「東北型」が生まれた方がいい。七五三であれ、御守りであれ、とことん独自なものにしていっていいのではないでしょうか。
<長澤>今、東北のお寺はみんな沈み切って、希望と勇気を持って立ち上がるのにまだ時間がかかると思いますが、本当にそうなっていってほしいですね。今回はどこの宗務庁も一生懸命東北に足を運んで懸命に対策を講じているようですけれども、なかなか組織としてこういう緊急事態に対応するだけの能力は用意できていません。どこの宗派も末寺の壊滅的な状態に対する対策は悩んでいると思います。
 でも、東北のお寺には是非、黒石寺の裸祭りとか、生きる力を湧き立たせるような行事や祭事を担ってもらいたいのです。こういう惨劇のなかでも失われずに残ったものは、東北人が長く培ってきた精神的な強さ、あるいは密度の濃い人間関係です。お寺はその保存の担い手というか、東北における母なるものの場にもなるべきではないかと思うのですね。もちろん死者への畏敬と鎮魂は当然として。
<松岡>そうですね。これからがチャンスかもしれません。
<長澤>はい。本日は長い時間、いろいろと濃いお話をありがとうございました。

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