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空海の生涯

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070 不滅の滅

 天長8年(831)5月、空海は悪瘡つまりタチの悪い皮膚の疾患を発症した。癰だともいう。
 癰は、黄色ブドウ球菌が毛包(毛穴の奥で毛根を包んでいるところ)や脂腺(皮脂を通す分泌線)に感染して増殖し、隣同士の複数の毛包や毛包のまわりに同時に炎症を起し、それが周囲の皮膚組織にも広がり黄色ブドウ球菌がつくるいろいろな毒素によって膿瘍ができる皮膚疾患である。今では抗生物質で治療するが、空海の時代はなすすべもなかったのだろう。皮膚の小さい傷や皮膚が湿った状態が長く続くと発症するらしく、高野山の草堂には湿気が多かったことを想像させる。

吾去ンジ天長九年十一月十二日ヨリ深ク穀味ヲ猒ヒテ専ラ坐禅ヲ好ム。

吾生期幾バクナラズ。仁等好シク住シ慎ミテ教法ヲ守レ。
吾永ク山ニ帰ラン。
吾入滅ニ擬スルハ今年三月二十一日寅ノ刻ナリ。
諸ノ弟子等、悲泣スルコトナカレ。
吾若シ滅スレバ、両部ノ三宝ニ帰信セヨ。自然ニ我ニ代リテ眷顧ヲ被ラレン。(『御遺告』)

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 空海は、天長9年(832)11月12日から五穀を口にするのをやめ、坐禅(念誦法)三昧に入ると弟子たちに言ってからは、ずっと弥勒菩薩の尊像の前に結跏趺坐し「慈氏念誦法」に明け暮れる日々であったかと思われる。時には金剛界曼荼羅を前にし、三昧耶会・微細会・羯磨会・降三世会・降三世三昧耶会に並ぶ「賢劫十六尊」のなかの慈氏菩薩(弥勒)に心を集中し、時に胎蔵曼荼羅を前に「中台八葉院」の東北の蓮弁に描かれている弥勒菩薩を心に観じ、その真言(オン バイタレーヤ ソワカ)を何万遍も誦じていたにちがいない。
 弥勒菩薩の心象は、空海が24才の時著した仏道選択の宣言の書『三教指帰』にすでに見えている。そのなかで空海は、自らを仮託した仮名乞児の乞食僧の姿を弥勒の兜率天にいく旅姿だと言っている。
 また仮に伝説としても、九度山にある高野山造営の政所で亡くなった母が弥勒菩薩になった夢告により、自ら弥勒菩薩の尊像を謹刻してそこに祀り慈尊院と名づけたという。空海が終生いかに弥勒菩薩を意識しつづけていたかの証左ではある。

 弥勒(慈氏、マイトレーヤ)は、兜率天(色欲・食欲に執着する欲界のうちの六欲天の第四、内院・外院があり、内院は将来仏となるべき菩薩のいるところ)の内院にあって、欲の執着から離れられない衆生に法を説く教化活動をしている菩薩で、釈尊亡きあと、釈尊の説法救済に漏れた者を救うため説法することを釈尊から認められていて、釈尊入滅後56億7000万年ののちに人間の世界に下りてくるという。
 実はこの弥勒菩薩への信仰が、空海の若き日に奈良法相宗の寺(法隆寺や興福寺)で盛んにあった。未来世救済の仏としての信仰のほかに、法相宗では第一祖を弥勒とするからであった。わが国での弥勒信仰観音信仰とともに仏教伝来とほぼ同時で、すでに飛鳥時代からあった。8世紀になって法隆寺の五重塔内や興福寺北円堂内に弥勒浄土や弥勒像が置かれた。
 空海は当然、奈良の都に上京してまもなくに、大安寺元興寺や興福寺や東大寺でこの事情を知ったであろう。勤操などから、大安寺が長安の西明寺を模したものであり、その西明寺はインドの祇園精舎に倣ったものであり、その祇園精舎は弥勒のおわす兜率天の内院をこの世に再現したものだということも教えられていたに相違ない。その大安寺と西明寺で空海は学んだ。弥勒への意識がこの頃から芽生えていたとしてもおかしくはない。奈良で仏教を学んだ空海にとって弥勒への想いは自然な憧憬であった。それが密教の観法によって、自己の内なるところで弥勒と一体化する経験を積み、よりリアルな自覚になっていったのではないか。

 空海は有限の時間としての62年の生涯を了える(滅)が、以後は兜率天において弥勒慈尊とともに無限を生きたい(不滅)と思ったのであろう。瑜伽観法の熟達者空海は、おそらく弥勒と一体の三摩地のまま生身を終えたのである。密法でこれを「不滅の滅」という。

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 『続日本後紀』には、空海の死後、東寺長者になった実慧が長安の青龍寺に送った手紙に、空海を荼毘に付したらしいことが書かれているという。
 一方、空海の死後130年を経た康保5年(968)に、仁海によって書かれた『金剛峰寺建立修行縁起』には、空海の顔色等は死後49日経っても変わらず髪やひげも伸びていたとあり、『今昔物語』には、東寺の長者である観賢が御廟を開け、空海の伸びきった髪を剃り、着衣や数珠のほころびを直してまた封じたことが記されている。

 このことが「空海は死んだのではなくこの世にまだ身を留め三摩地に入ったままである」(「留身入定」)という信仰に発展していった。最初は高野山内の弟子たちの間で起きたものであろう。時間の経過とともに師亡き後の山は人法ともに振るわず荒廃することもある。「空海は死んだのではない、いつもそこにいる」という戒めは、師の「令法久住」の願いを常に意識し自覚しつづける方便でもあったろう。さらにそれは、空海を信じて支えてきた土地の人々にも伝わり、朝廷の貴族や東大寺をはじめとする南都の僧たちにも伝わったであろう。やがて、高野聖が日本全国にそれを広めるほどになった。

ありがたや 高野の山の岩かげに 大師はいまも おわしますなる

「留身入定」信仰、つまりは大師信仰をまことに言い当てて妙の和讃である。

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 それにしても、空海は皮膚疾患の煩わしさに悩みながら最後まで忙しかった。
 悪瘡を病む前年の天長7年(830)、勅命により『秘密曼荼羅十住心論』十巻とその略本『秘蔵宝鑰』三巻を著した。
 翌天長8年(831)6月、病を理由に大僧都の位の返上を申し出るが、容れられず留任となった。
 同9月、最澄の弟子円澄たち十数名から密教の付法(伝法潅頂)を請われ、これを受け入れる。
 天長9年(832)正月、宮中の「金光明最勝会」を修し国家鎮護を祈る。つづいて紫宸殿において論義を行う。
 同8月、高野山ではじめての「万燈万華会」を行い、その願文に自らの人生の万感を記す。

恭ンデ聞ク、黒暗ハ生死ノ源、遍明ハ円寂ノ本ナリ。其ノ元始ヲ原ヌレバ、各々因縁アリ。
日燈空ニ繋グレバ、唯一天ノ暗キヲ除キ、月鏡漢ニ懸クレバ、誰カ三千ノ明ヲ作サンヤ。
大日遍ク法界ヲ照シ、智鏡高ク霊台ニ鑒ミルガ如キニ至テハ、
内外ノ障悉ク除キ、自他ノ光普ク挙グ。彼ノ光ヲ取ラント欲ハバ、何ゾ仰止セザラン。
是ニ於テ空海諸ノ金剛子等ト与ニ、金剛峯寺ニ於テ、聊カ万燈万華ノ会ヲ設ケ、
両部ノ曼荼羅、四種ノ智印ニ奉献ス。
期スルトコロハ毎年一度、斯ノ事ヲ設ケ奉テ、四恩ニ答ヘ奉ラン。
虚空尽キ、衆生尽キ、涅槃尽キナバ、我ガ願モ尽キン。
爾レバ乃チ、金峯高ク聳エテ、安明ノ培塿ヲ下シ睨、
玉毫光ヲ放テ、忽チニ梵釈ノ赫日ヲ滅サン。
life_070_img-05.jpg濫字ノ一炎、乍チニ法界ヲ飄テ病ヲ除キ、質多ノ万華、笑ヲ含ンデ諸尊眼ヲ開カン。
仰ギ願ハクハ、斯ノ光業ニ藉テ、自他ヲ抜済セン。
無明ノ他忽チニ白明ニ帰リ、本覚ノ自乍チニ他身ヲ奪ハン。
無尽ノ荘厳、大日ノ慧光ヲ放チ、利塵ノ智印、朗月ノ定照ヲ発カン。
六大ノ遍ズルトコロ、五智ノ含スル所、排虚沈地流水遊林、揔ベテ是レ我ガ四恩ナリ。
同ジク共ニ一覚ニ入ラン。(『性霊集』)

 同11月、高雄山寺を実慧真済らに任せ高野山に篭る。穀物を断って三昧の日々を送る。
 天長10年(833)、高野山金剛峯寺を真然に託し、実慧に後見させる。
 承和元年(834)2月、東大寺真言院において『法華経』『般若心経秘鍵』を講じる。『法華経』の講釈は生涯最後の講釈にもかかわらず、詳細な講釈書をつくったという。『般若心経秘鍵』は、空海最後の著作であった。
 同3月、勅により6人の高弟とともに比叡山に上り、西塔院の落慶法要に列し咒願師の役をつとめる。
 承和2年(835)正月8日より7日間、空海の願い出によって、毎年年初に行われてきた「金光明最勝会」に代り「後七日御修法」がはじめて宮中で行われた。正月から水分も断っていたといわれている。

同正月22日、真言宗年分度者3名を上奏、翌日認められる。
同2月30日、金剛峯寺定額寺として認められる。
同3月15日、弟子たちに遺誡を与える。
同3月21日寅の刻、入定。
同3月25日、仁明天皇は勅使を遣って喪料を供え、淳和上皇は弔書を送る。
同10月、嵯峨上皇が挽歌を贈る。

 長安の青龍寺では、一山粛然として皆素服を着けて弔意を示したという。

 奥の院に足を踏み入れると、そこは時間が止まったままの墓所である。鬱蒼とした杉の大木の参道を歩くこと約2㎞、御廟橋の向うに「貧者の一灯」を飾る参篭堂があらわれる。空海はその奥の「御廟」のなかの石室で今も結跏趺坐して印を結び、弥勒の三摩地に住している。
 「御廟」に向って香を手向け、合掌してその姿を念ずれば、弥勒の真言を唱える空海の太く低い声が聞こえてくるような気がする。

 オン バイタレーヤ ソワカ
Om maitreya svāhā オーム マイトゥレーヤ スヴァーハー、「オーン、慈尊よ、幸いあれ」)

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