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065「請雨法」による密教祈祷

 日本の密教は、聖朝安穏・国家泰平・五穀豊穣・万民豊楽を祈ることからはじまった。
天皇の病気平癒を祈り、怨霊を鎮め、疫病退散を祈り、干ばつ飢饉の際に雨乞いを行い、 人々に代って罪過を懺悔(悔過)し、鎮護国家の護国宗教としてスタートした。
 ひとえに、南都の国家仏教勢力を避け長岡京・平安京へと遷都を敢行した桓武天皇が、南都仏教に代る護国仏教を最澄密教(台密)に期待をしたことにはじまる。そして嵯峨淳和は、桓武における最澄の役割を空海に付与した。

 空海もその辺は心得ていて充分それに応えた。多忙にもかかわらず気前がいいくらいに官寺の別当や宮中・僧綱所の役務を引き受け、命にしたがい潅漑用水や港湾の修築別当もこなした。さらに天皇が病に伏すと病気平癒の祈祷を行い、干ばつで飢饉が起ると雨乞いの祈祷を行った。その数は50回にもなったといわれている。
 しかし空海は畢竟、司馬遼太郎が言うように、国家という瑣末なレベルを突き抜け人類普遍の原理に直参をしていたようで、国家機関の中枢で「王法仏法」の生々しい現場に立ちながら和して同ぜず、わが道を行くがごとく超然としていたところがあった。空海のなかでは、世間世俗と真如法界とが即時的に速疾に対応していて、王法は仏法であり仏法は王法であった。

 天長元年(824)2月、空海は、折からの干ばつや飢饉を脱するため勅命により神泉苑で行われた雨乞いの祈祷に参じた。その功験によって3日間雨が降りつづけ、全国の田畑が潤ったといわれている。
 神泉苑は、内裏の南側にあり、二条から三条にまたがるほど広大で、美しい池庭をもつ禁苑であった。延暦19年(800)に桓武が行幸し、翌々年には雅宴を催して以来、天皇や朝廷貴族の宴遊の場になっていた。

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 その神泉苑の池に龍が棲んでいるといわれていた。龍はもともと空想上の生物で神獣・霊獣の一種である。中国では皇帝のシンボルであったり、道教の神(青龍、白虎・朱雀・玄武とともに四方神の一つ)に変じたりする。龍は水に棲み、春分に天に昇り秋分に水底に沈み、雨を司るという。
 平安京を「風水」で観ると、神泉苑の池は「龍口水」といわれ、「龍脈」(京洛を囲む山々)の「気」が(平安京の)「龍穴」に向って動くその軸線上にかならず配置される水場である。「龍」が動いている時はそこでかならず水を飲む。水を飲む所がなくなれば「龍」は逃げてしまい、「龍脈」の山々は存在しても「気」はなくなってしまう。神泉苑は「龍」を生かすための水飲み場だというのである。

 伝えによれば、西寺守敏は嵯峨天皇のおぼえめでたい空海を常日頃不愉快に思っていたが、空海を重用する嵯峨・淳和の二帝を逆恨みするまでになり、修法によって干ばつの飢饉を起すことを企み、三千世界龍神を全部捕らえて小さな水瓶のなかに押し込めてしまった。干ばつの飢饉に困った淳和はそれとも知らず守敏に雨乞いの祈祷をさせたのだが、17日目にやっとわずかばかりの雨が降っただけだった。龍神を自ら封じ込めてしまったためである。
 淳和は守敏に代って空海に雨乞いを命じた。しかし7日経っても雨は降らなかった。空海はおかしいと思い観法によって三千世界の龍神を探してみると、守敏によって皆が水瓶のなかに閉じ込められていた。そこで空海は、1頭だけ残っていたヒマラヤの北に棲む「善女龍王」を勧請すると、「善女龍王」が金色の8寸大の龍神の姿となり、身の丈9尺ほどの蛇の頭に乗って池に降り立った。淳和はその観想を空海から聞き、和気真綱に命じて御幣や供物を龍神に供えた。空海が修法を再開したところたちまち黒雲がわき起り3日3晩大雨が降りつづいた。
 守敏はこれを不服として空海をますます逆恨みしついに矢を放って殺そうとした。ところが、そこに地蔵菩薩が現れて矢を代って受け(「代受苦」)、空海は助かった。守敏はこれによって失脚し、以降西寺とともに歴史の舞台から姿を消したという。地蔵菩薩の背中には矢の刺さった傷が残った。その地蔵菩薩は今、「矢取地蔵」として羅城門跡公園の入口の小堂に祀られている。

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 この伝説の舞台となった神泉苑・東寺・西寺は、平安時代に民間から広まった「御霊会」の舞台でもあった。「御霊」とは、政治的に抹殺され現世に恨みを残して死んだ者の霊(怨霊)で、人々にタタリや災いをもたらすと信じられていた。その典型が疫病である。「御霊会」は仏典の読誦または講説や芸能の奉納によって霊鎮めを行い、疫病の退散を祈るものである。貞観5年(863)5月20日にこの神泉苑ではじめて行われた。
 「六所御霊」、すなわち早良親王(桓武の弟、皇太子)、伊予親王(桓武の第三皇子)、藤原吉子(伊予親王の母)、藤原仲成(薬子の兄、平城の側近)、橘逸勢文室宮田麻呂の各霊座が設けられ、『金光明最勝王経』『般若心経』が講じられ、さらに雅楽や舞楽が演じられたという。この日だけは神泉苑の四方の門が開けられ、京の人々が出入り自由となった。

 東寺・西寺にも御霊堂があり、「御霊会」が厳修されたという。やがてこれが京の町衆の催事・祭礼になっていく。平安京の南方の稲荷山に鎮座する伏見稲荷大社の「稲荷祭」は東寺と深いかかわりをもち、今もなおつづいている。桂川を隔てた松尾大社の「松尾祭」は西寺と関係していた。郊外の本社からある期間市中のお旅所に神輿で神を迎えて祭礼を行い、また本社に送り返すのである。両方とも京の町衆が自発的に展開した都市民の祭礼であった。今、全国から100万人を超える人を呼ぶようになった八坂神社の「祇園祭」もこの例に漏れない。

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伏見稲荷大社
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松尾大社
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祇園祭りの八坂神社

 空海の頃、干ばつのたびに宮中などで雨乞いの祈祷が行われた。当時この種の祈祷は、道士の独占的分野だったであろう。空海の密教はそれを容認しながらもそれの上をいった。空海は道士らの行う占術・呪術・道術もとうに経験し、同時に道教陰陽道の限界も知っていた。

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 神泉苑での雨乞いの祈祷の実際は、13世紀に奈良西大寺叡尊が写した「指図」によると、池の北側に修法壇をいくつかなかに設けた大きな仮屋を建て、13本からの幡を整然と立て、主尊として孔雀明王の図像が懸けられたことがわかる。13本の幡が立ち並ぶ様は余白にわざわざ拡大して描かれている。「四天王」と「八大龍王」(難陀・跋難陀・紗伽羅・和脩吉・徳叉迦・阿那達多・摩那須・優鉢羅)、または「四神」(青龍・白虎・朱雀・玄武)と「八大龍王」、それに本尊孔雀明王を表す幡ではなかったか。
 その仮屋の修法壇で、空海は自身で唐から請来した「請雨経法」を修したであろう。さらに『仁王経』やあるいは『雨宝陀羅尼経』(一巻、不空訳)も講じたであろう。後の『義経記』には「神泉苑の池にて仁王経を講じ奉らば、八大龍王も知見納受垂れ給う」とあると聞く。

 ところで、西寺の守敏とは、奈良興福寺の第3代別当を務め後に室生寺(元禄11年までは興福寺系の法相の寺)の創建に当たった修円僧都だという説がある。修円といえば法相の学僧で、密教にも造詣が深く、最澄・空海と肩を並べるほどの人でまた2人とは密接な関係にあったといわれている。
 また守敏は和語の音を五十音で規格化する問題でも空海と対立関係にあったといわれている。空海は悉曇字母をもとに五十音を依用し共通の母語を創ろうとしたが、守敏はヤマトコトバの発音を重視すべきだと主張した。結果、和語は五十音に規格統一されることになった。五十音はヤマトコトバの多様な音の変化を簡明に規格化し、体系づけられた音韻へ導くものだった。守敏のことは別としても、空海による母国語の真言化計画ともいえるこの事跡は事実であったろう。このことはカタカナ・ひらがな表記や、「いろは歌」の作者の問題や、そして日本古来のヤマトコトバの変遷や、わが国の国語の問題にも深く関与していく。

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