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041 般若三蔵の華厳とサンスクリット指南

 使院(公館)に入った空海は、大使らの新年朝賀の任が終ると待ちかねたように城内に出かけた。世界レベルの国際都市らしく行き交う人も多く活気に満ちていた。空海は先ず、寄宿先となる西明寺をたずねた。
 西明寺は延康坊(右街「西市」の東南区坊)の西南の隅にあった。使院のある宣陽坊からは「朱雀大街」をはさみほぼまっすぐ西である。
 近年NHK取材班が往古の西明寺の故地を現地の役場や史料館の古い地図によって調査をしたところ、当時の延康坊が今の西安市の(「朱雀大街」にある「西安市国税局」を目印にしてその西方の「西安市紅纓路派出所」がある)「紅纓路」周辺一帯であると推定した。

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西明寺推定故地付近 (西安市紅纓路付近)
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西明寺推定故地付近 (西安市紅纓路付近)

 656年、高宗則天武后が、病弱だった皇太子の病気快癒のために創建したと伝えられ、玄奘三蔵の指導によりインドの祇園精舍(の一院)に倣ったものといわれている。祇園精舍は弥勒菩薩のおわす兜率天の内院をこの世に再現したものであった。奈良の大安寺はこの西明寺(の一院)を模して造られた、いわば西明寺日本版であった。空海はそのことを大安寺で勤操などから何度も聞いて知っていた。いざ現実に荘重な正門の前に立ち、大唐一といわれる西明寺の大伽藍を目のあたりにして心底から驚嘆したであろう。

 まるで皇城に入るのと同じ気分であったろう。空海の目にはすぐ、明らかに中国人とちがう顔立ちや服装の異国の僧が何人も広い境内を往来し、そちこちで話に興じている姿が映った。あのなかに今から自分も交わると思うと空海は胸の高鳴りを抑えられなかったにちがいない。
 日本の留学生はこの西明寺に寄宿する習わしであることも大安寺で聞かされていた。だから、自分も西明寺に滞留するであろうことは想定していた。

 ここに、在唐30年にして空海と入れ替わりに大使葛野麻呂とともに帰国する大安寺の永忠がいた。早速空海は、帰国の準備を調え大使らと合流する直前の永忠をたずねた。もう60才を越えているような老和尚であった。
 永忠はわが息子のような若い空海の手をとり、慈しむように唐の仏教事情や長安の仏教寺院の実情やここでの留学生活や各国の留学僧の様子などについて話してくれた。空海はとくに、華厳『大日経』梵字悉曇の然るべき師の有無について聞いたであろう。永忠は華厳教理にすこぶる詳しかった。
 永忠はすぐ醴泉寺般若三蔵の名を口にしたであろう。そして先ずは、般若を訪ねることを勧めた。般若はインドの学僧で『四十華厳』(華厳経最終章の「入法界品」)を漢訳した人であり、当然梵字・悉曇には明るく、おそらく華厳宗の当代澄観と親しいので華厳と密教の親和性についてもよく知っているのではないか、澄観の『(大方広仏』華厳経疏』には華厳教理と密教体系との融和が書いてあると言ったであろう。さらに『四十華厳』訳出の際には、般若三蔵の弟子で、この西明寺の円照という和尚も手伝ったから、円照に般若を紹介してもらうといいとも言ったかと思う。その後、長安を発つまでの間、永忠は空海を円照に紹介したであろう。

 1月もあっという間に過ぎ、大使らは任務を終え2月11日帰国の途についた。長安に残る空海は、大使らと永忠を東の灞橋まで見送った。中国の故事に従い、ここで河べりの柳の小枝を折りそれを大使らに手渡し別れを惜しんだ。長安から西に行く時は渭水のほとりで同じように別れを惜しむのである。

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灞水にかかる灞橋
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廿四年仲春十一日、西明寺ノ永忠和尚ノ故院ニ留住ス。(「請来目録」)

 その日空海は担当官吏の案内で寄宿先の西明寺に移った。空海が案内された居屋は何と永忠が30年前に西明寺にきた時に使った部屋であった。

 西明寺のある延康坊の西北の角を一筋交差して渡ると「西市」があった。ここはシルクロードを通ってくる西域のさまざまな文物が陳列され販売されている大バザールであった。雑多な人種と言葉と宗教と服飾と生活文化が同時に入り込んでいた。

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西市大規模再開発地
 当時長安の城内には、僧寺尼寺合わせて90を越える仏教寺院や15ほどの道教の「観」のほか、2つのネストリウス派キリスト教(景教)寺院(波斯寺、後に大秦寺)、4つのイスラム教(胡教)・ゾロアスター教(祆教)の寺があったという。こうみると数の上では中国独自の道教がさほど振わず、仏教ほか外来の宗教が道教を圧倒しているように思われるが、朝廷をはじめ中国人は依然政治や生活の根底で道教を信奉していた。

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道教寺院(道観)
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 ちなみに「大秦景教流行中国碑」で有名なネストリウス派キリスト教(景教)とは、5世紀の前半の431年、東ローマ帝国(首都コンスタンティノポリス、今のイスタンブール)で、コンスタンティノポリス総主教であったネストリウスの「マリアを「神の母」としない」神学解釈がエフェソス公会議で異端とされ、ネストリウス派の教徒たちは東ローマ帝国を追われて小アジアからササン朝ペルシャへと活路を求め、ペルシャで発展した後の635年、僧阿羅本(アラボン)によって長安に伝えられた。唐の太宗はこれを保護し、高宗は景教寺院を造らせ、空海らが長安に入った年の正月に崩御した徳宗までの約150年間隆盛であったと「大秦景教流行中国碑」は伝えている。「景」とは、太陽を崇拝する点で、太陽の赫々と輝き照らす光のことを意味するという。
 イスラム教(胡教)はシルクロードのオアシス諸国、主としてウィグル族の人たちが文物とともにもたらし、ゾロアスター教(祆教)はペルシャ人の商人たちとともに入ってきたと思われる。

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大秦景教流行中国碑
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イスラム寺院「清真大寺」
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ゾロアスター教寺院の聖火

諸寺ニ周遊シ、師依ヲ訪ヒ択ブ。(「請来目録」)

 空海は、水をえた魚のように毎日西明寺を出て諸寺を訪ねた。
 先ず、第3代高宗が亡き母の追福のために648年に建てた大慈恩寺を訪ね、インドに求法の旅をして膨大な仏典を持ち帰った玄奘三蔵の要請によって、経典の保存のために建てられた大雁塔を仰ぎ見たであろう。そして塔内を見学しながら奈良の薬師寺での唯識論の講筵を懐かしく思い出していた。

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 玄奘(602~664)は、若くして大乗仏教唯識思想に関心をもち、唯識思想を学ぶのに必須の(インド唯識学派の無著が著した)『摂大乗論』を10代で学んだ。20才で「具足戒」を受け、さらに『瑜伽師地論』『唯識三十頌』等の唯識論を学ぶため629年国禁を犯してインドに赴き、北東インドのナーランダー寺(大学)で戒賢Śīlabhadra)のところで瑜伽行と唯識論を修めた。在印中、各地の仏跡を参拝しつつ657部に及ぶ大量の大乗仏典の梵本(サンスクリット原典)を収集し、645年長安にそれを持ち帰った。有名な『西遊記』のもととなった『大唐西域記』はその紀行記である。
 それのみならず、玄奘は持ち帰った経典の漢訳につとめ、642年から太宗の勅命によってはじめた訳経は『大般若波羅蜜多経』(『大般若経』)六百巻など76部1347巻という膨大なものになった。
 玄奘の訳経事業は「新訳」といわれ、鳩摩羅什Kumārajīva、344~413)らの「旧訳」に対比されている。訳語の選択が旧訳とちがうという意味である。
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 次いで小雁塔のある薦福寺に足を運んだ。ここは則天武后が夫高宗の追善のために684年に建てた寺で、玄奘の仏典将来と訳経事業を崇敬してやまなかった義浄(635~713)が、671年に海路インドに渡り695年やはり大量の仏典を持ち帰ってここに納めた。707年、その仏典の保管のため経蔵として小雁塔が建てられた。義浄はここで、実叉難陀Śikṣānanda)ほかの訳経家とともに56部230巻もの大乗経典の漢訳を行った。空海はこの実叉難陀訳の『八十華厳』仏陀跋陀羅Buddhabhadra)訳の『六十華厳』とともにさんざん勉強してきた。奇しき法縁である。

 空海はまた、自分がその生まれ変りとまで思慕する不空三蔵ゆかりの大興善寺をたずねた。大興善寺は長安城の真ん中、「朱雀大街」に面して左街の端にあった。ちょうど、延康坊の西明寺から薦福寺・大興善寺・大慈恩寺へは東南方へのほぼ直線上に位置していた。
 大興善寺は靖善坊のすべてを敷地としていた。3世紀後半、西晋時代の武帝の時代に創建された古刹で、隋の文帝の582年、インドの那連提耶舎Narendrayaśas)や闍那崛多Jñānagupta)や達摩笈多Dharmagupta)らの訳経僧がこの寺に入って、もたらした梵本経典59部278巻を漢訳した。さらに、玄宗の時代に善無畏金剛智・不空らもこの寺で密教を伝授した。

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 善無畏(Śubhakarasiṃha、637~735、伝法の第5祖)は、インド・マガダ国の王族の家系で、13才にして王位につき、その治世は国民の支持するところとなったが、兄らの反乱に遭い出家する。インド各地に遊行した後、当時インドにおける密教の一大拠点となっていたナーランダー寺で達摩掬多(Dharmagupta)から『大日経』系の密教を学び、たちまち師位の潅頂を受法し、師の命によって密典のサンスクリット原典をたずさえ716年に長安に入った。時の皇帝玄宗はこれを国師として厚遇し、住坊として興福寺の南塔院を与えた。晩年の724年に洛陽大福先寺に移り、『大日経』七巻を漢訳し、同時に弟子一行(伝法の第6祖)に筆録・加註させ『大日経疏』十四巻を残した。735年、長寿を全うし洛陽の広化寺で没した。

 金剛智(Vajrabodhi、671~741、付法の第五祖)は、インドの王族あるいはバラモンの出自で、10才の時ナーランダー寺で出家し、最初大乗仏教思想の双璧である中観・唯識の両方を兼学した。後に南インドにおいて『金剛頂経』系の密教を修学し、志して海路により唐土を踏んだ。720年、洛陽に入り、さらに長安にも入城して玄宗の保護を受け、『略出念誦経』ほか主として『金剛頂経』系の密教経典や儀軌を約20年にわたって漢訳した。741年、洛陽の奉先寺で滅した。同じ時期長安・洛陽にいた善無畏と交わった事蹟は残っていないが、互いに教授し合ったという伝説がある。

 不空三蔵(Amogha(vajra)、705~774、付法の第6祖)は、北インドのバラモン出身の父と西域の康居人(現在のカザフスタン、シルダリヤ川一帯を治めた遊牧民)の母をもち、早くに父を亡くして10才の時には入唐し、15才の頃長安で金剛智の室に入った。20才で具足戒を受け、師から主に『金剛頂経』系の密教を学んだ。742年、弟子含光・恵弁らとともにインドに向かい途中のセイロンで龍智(不詳、付法の第4祖、(善無畏の師)ナーランダー寺の達摩掬多だともいう)に出会い梵本の経典500部を手に入れ、746年長安に持ち帰った。
 玄宗に重用され、宮中において請雨止雨法などを修して呪術的祈祷密教を行い、とくに「安禄山の変(安史の乱)」の際朝廷軍を動かした。不空の国家密教(密教ナショナリズム)は後に空海も倣うところがしばしばあったように、大興善寺において国家安穏のために『仁王経』の再訳や講演を行い、国家安泰・万民豊楽のために潅頂道場の開設と潅頂の恒久的執行を奏上したりもした。771年、自ら訳した『金剛頂一切如来真実摂大乗現証三昧大教王経』のほか、漢訳密典77部101巻の目録を宮中に上呈し、773年大興善寺で生涯を終えた。

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 空海はさらに、右街「西市」の一筋北、醴泉坊の醴泉寺をたずねた。ここに長安滞在中最も厚恩を蒙った般若三蔵がいた。この時は、永忠に勧められた通り西明寺の円照に同行を頼み、同じ遣唐使船で渡唐した霊仙もいっしょであったかと思われる。霊仙は後に般若のもとで『大乗本生心地観経』の訳語をつとめる。禮泉寺旧地推定地域に建つ病院

幸ニ中天竺国般若三蔵、及ビ内供奉恵果大阿闍梨ニ遇フ。
膝歩接足シテ彼ノ甘露ヲ仰グ。(『性霊集』)

 般若(Prajñā、734~810)は、北インド罽賓(カシミール)の出で23才の時ナーランダー寺に学び、インド各地を歴遊した後南インドで達摩耶舎Dharmayaśas)から密教を受法し、781年海路入唐し翌年長安に入った。
 786年には、ネストリウス派キリスト教の大秦寺にいたペルシャ僧の景浄(アダム)とともに胡本(イラン系ソグド語などの原典)の『六波羅蜜経』を漢訳したが、その時ははたせず後年梵本から漢訳した。それが『大乗理趣六波羅蜜経』である。
 般若は崇福寺や慈恩寺で華厳経典や密教経典など多くの仏典の漢訳に尽力し、『四十華厳』四十巻、『六波羅蜜経』十巻、『守護国界主陀羅尼経』十巻、『大乗本生心地観経』八巻などを残した。

 空海は幸いに般若に謁することができ、問いに答えて入唐留学の目的を吐露したにちがいない。室戸の窟で成就した虚空蔵求聞持法の奇瑞を話し、24才の時に書いた『三教指帰』も見せたかもしれない。空海の唐語は長安ではわりとよく通じた。般若は空海の唐語のうまさや仏教理解の深さに驚きながら、『六十華厳』『八十華厳』や華厳教学について、『大日経』住心品について、梵字・悉曇、真言陀羅尼について、空海がどの程度理解をしているのかおそらく質したであろう。空海は、その都度明快に答えた。般若は突然目の前に現れた日本の若き僧をまじまじとみつめつつ、今度は中国古来の漢籍や文芸に話を移した。般若はさらに驚いた。中国の古代史から帝王論から儒家道家の思想から詩文・墨蹟から道教の道術や信仰に至るまで、聞くそばから的確な答えが返ってくるのである。さらに、空海はソグド語やゾロアスター教やマニ教や景教のこともよく知っていた。空海には霊威を感じるオーラがあり、言葉には独特の迫力もあった。般若は、即座に空海の異能を見抜いた。
 それ以来、空海の醴泉寺通いは毎日のようにつづいた。般若が留守の日は牟尼室利三蔵が相手をしてくれた。醴泉寺通院の主目的は、当面梵字・悉曇すなわちサンスクリットのスキルアップだった。基礎はほぼできていた。しかしまちがいがいくつもあった。二人のインド人三蔵の生きたサンスクリットは空海の言語の異能を強く刺激したであろう。

 空海はほぼ毎日この語学練磨に集中した。日本ではわかりえなかった音韻や修辞や訳語を知り真言・陀羅尼のわけを知った。真言・陀羅尼には霊力(シャクティ)が内在していて、この異次元のコトバは(大日)如来が発するものであることもわかった。空海は、般若や牟尼室利の口から発せられる本場のサンスクリット音に接しながら、大学寮を出奔して以来求めつづけていたインド世界の正体をはじめて実感した。2月からはじまったサンスクリットの濃密な習得は、5月になるとサンスクリット音を聞いて漢訳語と唐語と和訳語がほぼ同時に頭に浮かぶほどになった。単語の一つ二つわからないものがあっても全体としての意味を直感できるようになっていた。サンスクリット独特のコンパウンド(複合語、六離合釈)ほか語法や修辞にも通じた。

 般若は『四十華厳』の漢訳をしていた。『四十華厳』は『六十華厳』や『八十華厳』の最終章である「入法界品」(善財童子という仏教に帰依をした童子が、53人の善知識を訪ねて教えを乞い、その教示に従って菩薩行を重ねる旅のはてに、最後の普賢菩薩のところで真如法界に相入できる物語、独立した経典の形態)に当る。
 空海が西明寺で親交をもっていた円照『貞元釈教目録』には、般若が漢訳した『四十華厳』の梵本はインド烏荼国(オリッサ)の清浄師子王が書写し唐の高宗に献上したものだとある。
 東インドのオリッサは今、『大日経』の成立地として有力視されている(頼富本宏『大日経入門』)。
 そのオリッサに近い東インドのいくつかの地名が「入法界品」にも登場して重要な役割をはたしていると頼富先生は指摘しておられる。オリッサはまた、『大日経』の漢訳にあたった善無畏の出自にかかわる地であることを『宋高僧伝』が伝えている。オリッサを基点に、善無畏と『大日経』と『四十華厳』と般若三蔵そして空海が結縁する。

 空海が華厳経華厳教学に詳しいことを知って、般若は『四十華厳』のオリジナルテキストを見せてくれたのではないか。そして唐ではすでに法蔵の「十重唯識」から澄観の「四(種)法界」の時代に移っていて、般若は『四十華厳』の訳経にあたってその澄観の助力をえたことなどを教えてくれたであろう。

 唐の華厳宗五台山清涼寺の澄観(第4祖)の時代になっていた。澄観はしばしば長安にきて般若ゆかりの崇福寺に滞留し『大方広仏華厳経疏』(『八十華厳』の註釈、以下『華厳経疏』)などを講じ「四種法界」を説いたらしく、般若の『四十華厳』の訳経にも協力し「詳定」までしている。
 空海は東大寺で法蔵の『(華厳経)探玄記』 『(華厳)五教章』を学び、その「十重唯識」説を頭にたたき込んでいたのだが、澄観の「四種法界」を聞くのははじめてであった。空海はそこで、「一切皆空」の理とその理の顕現である事物・事象が一体的に矛盾なくある世界(「事理無碍法界」)から、「一切皆空」の理が脱落し事物・事象のみが重々無尽に妨げなく相互相入している世界(「事事無碍法界」)に至る教説を聞いた。

 般若はつづけて、澄観は『大日経』の言う「五字」や『金剛頂経』の言う「三十七尊の出生」を依用して華厳教理を解釈していること、すなわち澄観には止観()ばかりでなく密教への深い理解と傾斜が見られることを言ったかと思われる。そして手元にあった『華厳経疏』を空海に見せ、参考にするように勧めたのではないか。空海はこの『華厳経疏』を持ち帰っている。「十住心」体系の構想に大いに役に立った形跡がある。

 華厳は「有教無観」といわれるように、精緻に達した大乗教理をもちながらそれにもとづく観法をもたなかった。法蔵は形式的に天台智顗『小止観』を依用し、澄観も独自の観法を用意するに至らなかったとみえる。理が脱落する「事事無碍法界」は禅で観じることはできるが、密教のように身体まるごと集中加速して「重々無尽」の「帝網」(因陀羅網、インドラ・ジャーラ)のなかに相入する即時的至高体験(「即身」)はできない。禅は「海印三昧」を「見性」はできても「即身」ではない。虚空蔵求聞持法の熟達者空海は「事事無碍法界」に納得しながらしきりに「即身」を考えていた。

 澄観の『華厳経疏』あるいはその自註『大方広仏華厳経随疏演義鈔』には、華厳経の教説や修観門を『大日経』や『金剛頂経』や『金剛頂経』系の経軌の引用もしくは援用によって註釈する態度が顕著に見られ、澄観の密教傾斜がわかる。
 澄観が、時代の一部を同じくした不空三蔵や恵果和尚の密教(『金剛頂経』系)に通じていたとしてもおかしくはない。華北の五台山にも密典が逐次もたらされていたであろうし、長安では親交のあった般若三蔵のもとで密典の読解も行われたであろう。おそらく善無畏三蔵が講じ弟子の一行が筆録し自ら註釈を加えた『大日経疏』も読んでいて、一行がしばしば華厳経の教説を用いて成仏の速さや修道法といった『大日経』の主要な教理を註釈している態度を知り、澄観は逆に密教の教説を依用して華厳経の教説を解釈する発想をえたかもしれない。

 澄観が、南北二宗の禅を「華厳五教判」の「頓教」に比定していわゆる「教禅一如」の立場をとり、それが弟子の宗密(華厳宗第5祖)により華厳と禅が合金作用の状態になったことはよく知られたことであるが、澄観の華厳と密教の関係については特定の研究者以外にあまり知られていない。

 空海は、『大日経疏』『四十華厳』はもちろん『華厳入法界四十二字観門』『華厳経入法界品頓証毘盧遮那字輪瑜伽儀軌』『梵字文殊五字真言儀軌』『文殊問字母品』『華厳経心陀羅尼』など、華厳と密教の融合補完を意味する経軌も持ち帰っている。空海はこれらの文献を精査しながら後の空海密教の主要部分を構想したであろうことは容易に想像がつく。

 話を戻す。
 空海は『四十華厳』の修学と同時に、『大日経』中、「具縁品」以降の各章についても教えを乞うたであろう。般若は苦笑いし、この経は理解するよりも然るべき阿闍梨からその三摩地法の伝授を受け、自らその曼荼羅海会の仏尊と瑜伽しなければ(一体となる観法ができなければ)会得できたことにはならず、それが密教というもので、今の長安では青龍寺の恵果和尚が最高の依止師であり、私はその任にない、と言ったに相違ない。
 さらに般若は言葉を次いで、恵果の密教とは「金胎不二」といい、善無畏と一行が骨折った『大日経』だけではなく、金剛智と不空が尽力した『金剛頂経』とともに不二一体(「二而不二」)とする総合的密教で、両部の大法を恵果一人から伝授してもらえるいい時期であるが、恵果の健康状態からして残された時間に余裕がないことをつけ加えた。

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