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043 密教伝法の祖師善無畏・金剛智の聖蹟参拝

 朝はまだ底冷えのする2月下旬に長安を発ち、空海は一日行程で「驪山」の温泉に到着した。往路はまったく温泉気分もわかず玄宗楊貴妃の愛の離宮に目をやる暇とてなかったが、帰国の最初の夜空海はここでゆっくりと温泉につかり「虚しく往いて実ちて帰る」法幸をじっくり味わったであろう。

 「華清宮」はもともと帝王と愛妃の離宮としてあるいは皇帝の保養地として重用されてきた。西周幽王はここで寵妃の褒似と遊興し、始皇帝はその身体を癒し、唐の玄宗は宮殿を建て秋から春の離宮として楊貴妃との悦楽の日を送った。
 楊貴妃は718年蜀州の官吏の楊家に生れ、楊玉環といった。生来の美貌により、16才にして後宮に入り玄宗の子の妃となった。740年、玄宗が華清宮に滞在中に宦官の薦めで召された。美貌の上に聡明でまた歌舞音曲にすぐれていたため、玄宗はすっかり玉環に心を奪われ、日を追って寵愛するようになった。745年には皇后に次ぐナンバー2の貴妃として遇されるようになり楊貴妃と呼ばれるようになった。玄宗は毎年秋から春の間この「華清宮」で楊貴妃と過ごすようになった。

 白楽天(白居易)は、この玄宗と楊貴妃の「華清宮」での日々を長恨歌にして残した。

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漢皇色ヲ重ンジテ傾国ヲ思フ、御宇多年求ムレドモ得ズ。
楊家ニ女有リ初メテ長成シ、養ハレテ深閨ニ在リ人未ダ識ラズ。
天生ノ麗質ハ自ラ棄テ難ク、一朝選バレテ君王ノ側ニ在リ。
眸ヲ回シテ一笑スレバ百媚生ジ、六宮ノ粉黛顔色無シ。
春寒クシテ浴ヲ賜フ華淸ノ池、温泉水滑カニシテ凝脂ヲ洗フ。

春宵短キヲ苦シミテ日高クシテ起ク、此レ従リ君王早朝セズ。
歓ヲ承ケ宴ニ侍シテ閒暇無ク、春ハ春遊ニ従ヒ夜ハ夜ヲ專ラニス。
後宮ノ佳麗三千人、三千ノ寵愛一身ニ在リ。

姉妹弟兄皆土ヲ列ネ、憐ム可シ光彩ノ門戸二生ズルヲ。
遂ニ天下ノ父母ノ心ヲシテ、男ヲ生ムヲ重ンゼズ女ヲ生ムヲ重ンゼ令ム。
驪宮高き処靑雲に入り、仙楽風に飄って処々ニ聞コユ。
緩歌謾舞絲竹を凝らし、日ヲ尽シテ君王看レドモ足ラズ。
・・・・

 ここから5日、天下の険の「潼関」を越え、空海は「函谷関」の上りに入った。「函谷関」は三ヶ所ある。
 最も有名で古いのが、洛陽長安のほぼ中間あたりにある秦の時代の関所である。戦国時代の紀元前3世紀後半、韓や魏など東方の国の兵を防ぐためにつくられたものである。今、「函谷古道」とその周辺に当時の矢倉や望楼などが残っている。
 そこから約5㎞ほど洛陽よりのところにの時代のものがある。紀元3世紀の三国志の時代、魏の曹操が西方の漢中張魯馬超らを攻略するためにつくった。今、烽火台が残っている。
 そして一番洛陽よりで洛陽から西方約30㎞のところにあるのが、武帝の代に将軍楊僕がつくったものである。ここにも古道や城門が残っている。

 「函谷関」の危険な山道をようやく切り抜けると2日で「硤石」に出る。往路も悪路だったが、狭い上にけっこうな往来があって馬車も馬上も揺れに揺れ対抗してくる上り下りの馬車がすれちがうのに難儀の連続であった。
 長安を出てから1週間、洛陽の郊外に届いた。空海はまっすぐ「龍門石窟」に向った。往路は大使らと「大盧舎那像龕」に表敬参拝をした程度であったが、帰路は密教伝法の阿闍梨として是が非にも参拝をしなければならない聖蹟がここにあった。

 この龍門には、『大日経』を請来してこれを自ら漢訳し、さらに『大日経疏』一行とともに著した善無畏三蔵の眠る広化寺と、『略出念誦経』などの『金剛頂経』系の経典・儀軌を唐土にもたらし、それを自ら漢訳した金剛智三蔵の眠る奉先寺があった。
 広化寺と奉先寺は、両祖の埋葬後、密教の徒が詣でる聖蹟になっていた。真言伝法の第8祖阿闍梨となった空海は、密宗の学徒として学恩に報ずるほか現在の立場上是が非でも立ち寄り両祖の墓前に香華を手向けなければならなかった。

 広化寺は、龍門山(西山)の北の高台にあった。最初その地に善無畏三蔵の遺骸が埋葬され供養塔が建てられた。その後758年に三蔵の仏果増進のためそこに広化寺が建立され、以後善無畏の法脈につながる『大日経』系の密教を奉ずる密僧は皆ここの土になったという。

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龍門広化寺、善無畏三蔵供養塔

 奉先寺は、唐の高宗の時代の創建といわれ西山で一番古い「古陽洞」の南の高台にあったが、近年まで場所不明であった。今は故地に碑が建てられている。「龍門石窟」中、今、奉先寺といわれている有名な「大盧舎那像龕」のことではない。金剛智三蔵は741年洛陽の広福寺で没し龍門に葬られた。その2年後、奉先寺に供養の塔が建てられた。こちらには金剛智に連なる『金剛頂経』系の密教に従う末徒が以後ここに埋葬されたという。


龍門、奉先寺跡
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龍門、奉先寺跡に建つ碑

 善無畏・金剛智両祖の墓参を済ませたあと、今度はゆっくり時間をとって壮大な「龍門石窟」寺院を拝観した。ここは、敦煌の「莫高窟」や大同の「雲崗石窟」とともに中国の石窟寺院を代表する仏跡であった。伊闕の谷、伊水(河)の両岸に、北魏の文帝時代から・唐さらには北宋にかけて造営された巨大な石窟群が展開している。当初は「伊闕石窟寺」と呼ばれた。
 北魏時代からの石窟がある龍門山(西山)には、1300余の洞と800近い仏龕(木製や石窟の厨子のなかに仏像を刻んだもの)と、40からの仏塔と97000余の石仏と3700にもなろうという石碑の大半があった。

 空海は先ず、「大盧舎那像龕」に向ったであろう。今は「奉先寺洞」といわれている。この洞は、「龍門石窟」でも最大級のもので、岩山の山腹に幅33.5m、奥行38.7m、高さ40mの巨大なドームを掘り、正面中央に伊水に臨み高さ17mからの盧舎那仏が坐し、迦葉阿難の二大仏弟子と2菩薩・2天王・2力士の合計9体の大尊像が刻まれている。唐の高宗の勅願によって、672年に開削され3年9ヶ月を要したという。

 次に「大盧舎那像龕」のすぐ南にある「古陽洞」を拝観した。北魏の時代に造られたドーム型の最古の大石窟である。正面2段の台壇に釈迦如来像が坐り、その両脇に脇侍の菩薩像が対向して立っている。左右の壁には、三層に分かれて大きな仏龕があり、この洞の全体に多数の小さな仏龕が彫られている。この洞に隣接するやはり北魏時代の「火焼洞」「石窟寺」、さらに南の「極南洞」にも足を運んだ。

 今度は逆戻りし、やはり北魏時代の「魏字洞」「普秦洞」「蓮華洞」を拝し歩き、なお唐代の「恵簡洞」「獅子洞」「万仏洞」と、飽かず中国人の秀でた石工技術と仏教美術と信仰心に心を打たれながら拝観しつづけた。
 北側の「賓陽洞」にも寄った。「賓陽洞」は今は三洞(南洞・中洞・北洞)あるが、この時は北魏時代の中洞だけであったろう。中洞には前かがみの巨大な釈迦如来を中心に両脇侍菩薩と迦葉・阿難の二大弟子の五体が刻まれている。壁面には「維摩変」「仏本生故事」「皇帝礼仏図」「皇后礼仏図」「十神王像」が刻まれていた。このうち「皇帝礼仏図」「皇后礼仏図」は革命後に盗掘に遭い、今ニューヨーク(メトロポリタン美術館)とカンサス(ネルソン美術館)にあるという。

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 次いで対岸の香山(東山)に回った。こちらには龍門山(西山)の方が彫り尽くされたため、唐代に開削された「看経寺洞」や三洞からなる「擂鼓台洞」や「大万五仏洞」など、7つの窟がある。
 空海は「大万五仏洞」南洞に坐す触地印に住する大日如来を仰ぎ見て感嘆した。真うしろの対岸には「大盧舎那像龕」の盧舎那仏が対峙していた。

 空海は龍門で二人の祖師に報恩謝徳の誠をささげ、石窟寺院の雄壮巨大な仏教美術を堪能し、勇躍して洛陽に入った。
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 洛陽では何よりも先に善無畏三蔵が『大日経』を漢訳した大福先寺に参じた。奈良の西大寺で最初に天平写本の『大日経』を拝した時、よもやその訳経の故地に足を踏み入れることなど想像もできなかった。つい半年前恵果に従ってその内奥も極めた。空海は『大日経』の感慨を胸に大福先寺の山門をくぐったであろう。しかも、大安寺栄叡普照の努力によってこの寺から日本に渡った道璿東大寺大仏開眼呪願師をつとめたことも、その道璿の紹介によって鑑真以下の律僧が日本に招かれることになった事情も承知していた。

 洛陽で、空海は郊外の白馬寺にしばし留まったものと思われる。白馬寺は中国仏教史上最古の仏教寺院である。紀元1世紀の中頃、後漢明帝が夢のなかで「金人」(金色の仏)を見て仏法に帰依し、12名の使いを大月氏国に派遣し仏典を求めさせた。大月氏国は中央アジアのトルコ系遊牧民族だった月氏が紀元前2世紀の後半アフガニスタン北部に展開していた大夏(トハラ(トカラ)族)を征服して建国をした国であるが、その頃は旧大夏の部族のなかから貴霜(クシャーナ)翕候がほかの4部族を統一し、東アフガニスタンから北部パキスタンさらに北西インドを征してまもなくのカドフィセス1世の時代であっただろう。
 明帝の使いが行ったのはインド仏教の聖地ガンダーラ地方だったに相違ない。ガンダーラはもともと北西インドに栄えていた王国であり、紀元前時代から仏教が盛んであった。インド・グリーク王朝時代のメナンドロス1世とインド僧のナーガセーナの問答『ミリンダ王の問い』は漢訳仏典の『那先比丘経』として今も残っている。またガンダーラは、紀元2世紀の頃仏教への帰依の厚かったクシャーナ朝第4代カニシカ王の時に絶頂期となり、ギリシャ・ペルシャ・シリア・インド等の美術様式を融合した仏像や石工レリーフなど多くの仏教美術を誇った。

 それから3年経った紀元67年、摂摩騰竺法蘭という二人のインド僧が仏典『四十二章経』と仏像(金人)を白馬の背に載せ洛陽に来た。明帝は夢がかなって大いに歓喜し中国初の仏教寺院を建立し「白馬寺」と名づけた。『四十二章経』は摂摩騰と竺法蘭が訳出した最初の漢訳仏典といわれているが、そのなかに明帝が大月氏国に使いを送った記述があり、南斉から梁にかけての後代に中国で考案・編集されたものと考えられている。

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摂摩騰と竺法蘭の墓所

 白馬寺の住持は空海のために1室を用意し数日を過ごさせてくれたであろう。住持は空海を摂摩騰と竺法蘭の墓所にも案内し、伝来当初の仏教についていろいろな逸話を話してくれたと思われる。空海は、唐代にインドや中央アジアを出自とする高僧が大乗や密教の経典・儀軌を唐土にもたらしその漢訳にもつとめた例をいくつも知っていたが、すでに紀元後すぐから帝王自ら仏典を西方に求める動きがあったことや、仏典がこの国にもたらされるには仏教発祥国のインドを中心にギリシャ・イラン・パキスタン・アフガニスタン・シルクロード周辺の広範囲で興亡する王朝や民族間の動向が深く関与していることを思い知った。
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 そして、恵果から受法した「金胎不二」の密教が、空間軸でいえばアジアのほぼ全域を包含し、時間軸でいえばその地域の国々の歴史や仏教の歴史を内包する国際的なスケールの宗教であり、それらが皆今わが一身に摂受されていることに改めて誇りと幸せを感じたであろう。今、白馬寺の境内に空海大師の像が建っている。

 洛陽は、中国を代表する古都の一つであった。たびたび王朝の首都となり、盛衰をくり返してきた。春秋時代がはじまる紀元前770年、西周の第12代幽王が自らの乱脈悪政により諸侯の信頼を失い、犬戎(周辺遊牧民の一派)にも攻められついに「驪山」で殺されてしまった。その後、太子の宜臼が即位して平王となり、都を長安近くの鎬京から雒邑(洛陽)に遷したのである。
 紀元後1世紀から3世紀前半の後漢(東漢)の時代また都となり、以後三国時代の英雄曹操を初代の王とする曹魏、司馬炎が建国した西晋、そして華北を制した北魏、300年ぶりに分裂国家を統一した隋、そして後唐の都となった。空海が滞在した頃の洛陽は長安に劣らぬ大都市で、城内のそちこちに名所旧跡を残す古都であっただろう。

 空海はこの洛陽で数日を過し、もう一度善無畏三蔵ゆかりの大福先寺に表敬し別れの挨拶をした。住持はその日も慇懃に迎え、別れ際に大変苦渋に満ちた言い方で意外なことを願い出た。まもなく密教が廃される危険が迫っているため、この寺に所蔵されている密典を預って欲しいというのである。その真剣な態度に心を打たれ、空海はその夜を大福先寺で過し経巻を点検した。密教伝法の阿闍梨として断れない緊急判断であった。翌日、たくさんの密典を馬車に積み洛陽を辞した。判官らは、空海の立場がもはや留学生を越えている現実を、ようやくわきまえられるようになり、空海だけは特別行動を許可されるようになった。

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