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047 独自の「顕教」「密教」構想

 大同3年(808)6月19日、朝廷は太政官符を発し、空海を在唐20年の留学義務から解くよう民部省に申し送った。
空海の国禁犯しの罪は許されることになった。おそらく「請来目録」に示された唐の最新の仏教移入を朝廷は歓迎し、空海の正統密教第8祖の地位にも評価が集まったのであろう。
 ただ、この許しが間をおかず空海に知らされ、それを受けて空海がただちに太宰府を出たかどうかはわからない。大同2年(807)4月29日の大宰府公文書では、空海は大同4年(809)はじめまで約1年半観世音寺に留まらなければならないことになっている。

 しかし確たる根拠はないのだが、空海は大同3年の7月はじめに20年の留学義務を解かれることを知らされ、夏の間に上京する船に便乗して太宰府を発ったのではないか。太宰府にそれ以上留まっている理由がないからである。
 田中少弐など親交のあった大宰府政庁の役人や観世音寺の僧たちが、さまざまな便宜協力をしてくれたことは想像に難くない。観世音寺を辞する時は田中少弐の家族ほか大勢の縁人が見送ったであろう。

 空海は平安京には直行しなかった。
 翌年の大同4年(809)7月中旬、空海は太政官符によって京の高雄山寺に入るのだが、その官符は和泉国司に下されたもので「空海をして京に住せしめよ」という内容のものだった。このことから、太宰府を出た空海は和泉の槇尾山寺に一時期いたことになっている。槇尾山寺は、その頃大安寺勤操が管理する寺であった。おそらく大同3年の夏から翌年の7月にかけて約1年、空海はそこに止住していたであろう。

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 槇尾山寺には、唐から帰った空海にいち早く会いたいはずの人たちが次々と押し寄せたにちがいない。おそらく勤操は阿刀大足とともにここで空海を待っていたであろう。この寺に一時滞在することを空海に勧め朝廷などの根回しをしたのも勤操であったろう。大安寺や元興寺東大寺興福寺の旧知が毎日のように来て長安での日々のことを熱心に聴き、空海が将来した日本では初見の経軌や真言讃や曼荼羅等を閲覧し、恵果和尚から与えられた付嘱物に目を丸くしたと思われる。
 他方、彼らは京や南都の仏教事情や国家事情についても、多岐にわたって情報を空海にもたらした。そのほとんどが桓武天皇の庇護のもとで栄達の道を進む最澄にいらだち、権勢を失いつつあった南都仏教勢力やそのサポーターである貴族たちの現状を嘆いたであろう。

 空海は、太宰府では長安の日々の余韻にひたりつつ持ち帰った経軌類の整理や、『金剛頂経』の復習や、三摩地法の習練熟達や、世間への流布に余念がなかったが、南都仏教の人たちの話を聞くうちに「顕教」と「密教」の峻別と同時に、自らの「密教」を南都仏教の事情や国家事情と調和させる必要を直感した。
 後の『弁顕密二教論』 『十住心論』 『秘蔵宝鑰』に示される空海独自の教判や、その裏づけとなった「法身説法」「声字実相」「即身成仏」という空海密教の中心思想はこの槇尾山寺の時期に構想され、大量の論拠経証や巧みなメタファーが動員され、論理化され、編集に編集が重ねられ、次第に熟成をしていったのではないだろうか。それとともに、釈尊にはじまる仏教史と仏教思想の系譜を自らの密教のなかで完結してみせることと、また現下の国家仏教や国家事情の動向をどう重ね合わせるか、その大胆な構想が「十住心」として体系化されつつあったのではないか。

 南海電鉄「河内長野」駅からタクシーで30分、国道から分かれて槙尾山への道をたどると、はばの狭い道が右に左にカーブしながら住宅地を抜けていく。ややあって山地にさしかかると急に民家がなくなり山里の風景に変わる。行く手に何軒かのみやげ店らしい建物が見えてくるとそこが西国三十三ヵ所第4番札所の槙尾山施福寺の門前で、坂道の両側に茶店や駐車場がある。かつてここを巡拝した折に団体の昼食をお願いした「槙尾山会館」は老朽化が激しく廃屋のようになっている。
 歩くにはちょっと急な坂道を踏みしめ、満願滝弁財天を右に見ながら登って行くとまもなく山門である。ここから本堂のある境内まで、普通の足で上り30分下り20分の難所である。参道の山道は整備されているが、自然石の階段でしかもずっと連続している。大げさに言えばあえぎながら登るといっても過言ではない。体調のすぐれない人にはちょっと無理であろう。

 登りはじめてまもなく、立派な仁王門に出る。山道の途中ところどころ滝が落ちていたり、道のわきには石仏もあらわれたり、「弘法大師姿見の井戸」があったり、そういう場所では一息を入れながら登っていくので時間が意外とかかる。やがて、ひと登りしたところの右手に古めかしい「大日堂」が現れる。
 山道は途中からなお急になり普通の石段になる。胸突き八丁である。ここを何とか過ごすと大師が20才で剃髪したという「愛染堂」が見えてくる。その左手の上が「本堂」のある境内で、その手前に大師の髪を祀る「御髪堂」がある。今は西国観音霊場で観光客にまじって観音巡礼の人たちも多いが、大師の旧跡と聞くと誰もが疲れた足をそちらに向けお参りをしていく。
 「本堂」前にやっと到着すると冬でも汗をかいている。「本堂」の前でご本尊十一面千手観音を拝し、しばし所願成就をお祈りしたあと境内の茶屋で休憩する。ここからは眼前に葛城山系の山なみが一望できる。この高みと静寂が空海の大胆な構想をたすけたのではないか。

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