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007 平城京の寄宿先「佐伯院」

 延暦7年(788)、真魚は平城京に上った。叔父の阿刀大足に伴われ、佐伯家か阿刀家かの誰かが付添い見届けにきていたであろう。才気にあふれていてもまだ15才の少年であった。
 平城京は、4年前の延暦3年(784)に桓武天皇により都が長岡京に遷され、すでに都城ではなくなっていたのだが、まだまだ都の機能を充分に残していた。
 上京した真魚はまず、中央佐伯氏佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院にしばらく滞在した。佐伯院は平城京5条6坊にあった。

 その佐伯院の旧跡に立ってみたいという思いが募り、その現在地を歩き調べてみた。

 往時の「5条6坊」とは今のいったいどの辺にあたるのか、参考文献をたよりに住宅地図と照合するのだが、所詮素人考古学では判明しないことがわかった。そこで思い切って奈良文化財研究所に電話をして「5条6坊」の現在地についての資料の提供をお願いした。応対に出てくださった文化財情報課の千田剛道さんが早速懇切な資料を送ってくださったので、ようやく見当がついた。
千田さんによれば、奈良周辺の文化財調査研究には一番詳しい奈良文研でも、佐伯院についての詳しい学術調査は行われていないとのことで、資料や先学の論文を参照して往時を偲ぶほかはない。

<図1> 平城京図
―奈良文化財研究所千田剛道氏提供―

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 <図1>は平城京の全体図である。図の右側(外京)の区画の中に興福寺元興寺とともに佐伯院の名前があり、その場所も示されている。外京区画の右端には東大寺も見える。佐伯院から左下(左京の右端)には大安寺が見え、広大な敷地を擁していたことがわかる。

 佐伯院から東大寺まで徒歩でおそらく1時間足らず、途中三論法相の官大寺元興寺や南都法相宗の雄興福寺に立ち寄れる。西に30分も歩けば当時国際仏教文化交流のメッカであった大安寺、朱雀大路の西にはかの鑑真和上の唐招提寺に薬師三尊の薬師寺の堂塔があり歩いて1時間弱、その北には西大寺も見える。

<図2> 現況と平城京復元図の照合

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 <図2>は、奈良文研の千田さんが作ってくれた「5条6坊」の平城京復元図と現況を照合した図である。1から16までの区画が「5条6坊」で、この図では佐伯院は「5の坪」に見える。「5条6坊」の全区画は約530m四方で、南側を東西に「五条大路」が、西側を南北に「五坊大路」が通じている。
 さてその「5の坪」の現在地はどこか。千田さんからいただいた地図を手に実際に同じ道を行ったり来たりして現地を歩いてみたのだが、市街地化して住宅やマンションや駐車場や商店や社屋が立ち並ぶ現況から、佐伯院の旧地を確認することはできなかった。おそらく、現在の奈良市八軒町東の交差点のかどにあるガソリンスタンドから東南の一帯が「5の坪」(佐伯院の旧地)と推定される。すぐ南にJR桜井線の線路が走っている。





 ところで佐伯今毛人が建てたという佐伯院はどんな縁起をもった寺であったのか、研究者の書いたものを紹介しておく。

 宝亀七年(七七六)の初め、佐伯兄弟は勅許をえて、東大寺から五町九反一九六歩、大安寺から一町二反一二四歩の土地を購入し、彼らの氏寺の敷地としたのである。

 ―略― その施入の勅書には、

 五条六坊園 葛木寺以東 地肆坊 坊別一町二段(百)廿四歩。
 四至 東少道、南大道、西少道并葛木寺、北少道并大安寺薗。

と記入されている。この勅書には、勝宝九歳正月四日に左京職が勘注した絵図が添えられており、その土地の所在を明確にすることができるのである。

 右に掲げた四至のうち、「東は少道」とあるのは五条七坊の一・二・三・四の坪の東を通る小路、「南は大道」は五条大路をさしている。西の「少道并びに葛木寺(かつらぎでら)」は五条六坊の六の坪と十一坪の間を南北に走る小路と、五坪にあった葛木寺とを示すものである。北の「少道并大安寺薗」は五条七坊の三坪と四坪の間を東西に走る小路と五条六坊十四坪にあった大安寺の井薗(井戸のある園地)をさしている。

 佐伯院の敷地は、以上のように、左京の五条六坊の十一~十四坪と五条七坊の四坪にわたっており、その総面積は、道路敷地をのぞいて六町二段二十歩(一八六二〇坪)であった。

 この広い敷地のどこに佐伯院の主な堂宇が建立されたのかは明確にしがたい。
 延喜五年の「佐伯附属状」には、

 五間檜皮葺堂舎壱宇 金色薬師丈六像壱躯 同色脇士日光月光菩薩弐躯
 檀相十一面観音像壱躯

と記載されている。

 右の堂宇は創建当時のもので、佐伯院の金堂であったと思考される。佐伯院は奈良市木辻町西辺に位置していたことは確かであるけれども、金堂すらが瓦葺ではなかったとすれば、遺瓦にもとづいて主要堂宇の所在地を究明することは望みがたい。この辺は人家がたてこんでいるから、よほど徹底した発掘調査によらぬかぎり、遺跡の上から所在地を決定することはむつかしいであろう。しかし条坊の実際から推定すると、その主な堂宇は、五条六坊の十三坪の一画に存したとみる可能性が多いのである。

  ―略― 真守の没後、彼の娘の氏子が有髪のままで堂守をしていたが、そのころから寺は退転しはじめた。昌泰三年(九〇〇)にいたって、東大寺別当の道義が佐伯院の建物を東大寺境内の東南部に移した。これが有名な東大寺東南院の起源であるが、その詳細はここでは省略しておきたい。(角田文衙『佐伯今毛人』吉川弘文館。傍線引用者)
 
 角田文衙氏の言う「五条六坊の十三坪の一画に存した」と、奈良文研の千田さんに作っていただいた平城京復元図と現況の照合図の「5の坪」は位置を異にする。角田氏の著書『佐伯今毛人』のP246に示されている「佐伯院の敷地」図では、「5の坪」はとなりの「葛木寺」である。そうなると、千田さんが提供してくれた図にある「5の坪」の「佐伯院」という表示は誤っていることになる。
 しかし角田氏の言う「木辻町の西辺」も「五条六坊の十三坪の一画」にはあたらない。「十三坪の一画」は今の北京終町一帯と推定され、だいぶ位置がちがってくる。後日また時間をかけて現地を調べてみたいと思っている。

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