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022 華厳を修め『三教指帰』を著す

 「華厳国家」の象徴である「盧舎那仏」を擁し、国家仏教の最高機関として朝廷貴族の帰依を集め、律令国家の中核たる国分寺システムのトップの総国分寺であり、平城京の宗教的国家的シンボルである東大寺に如空は満腔の思いで足を運んだにちがいない。華厳ほか『法華経』 『仁王経』 『金光明最勝王経』などの護国経典も学ぶためであった。

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 大安寺勤操は、空海にとっていわば南都仏教勢力における最大にして最高の理解者であり外護者であった。阿刀大足は、奈良における空海の内護者であり、しかも長く造東大寺長官を務めた朝廷の高官で東大寺のすべてに通じていた。二人は、東大寺の別当をはじめ役僧に至るまで、如空すなわち空海の天賦の異能をつぶさに伝えていたであろう。やがてそれは事実として東大寺山内や僧綱所にも知られることとなったに相違ない。
 東大寺の僧たちが驚いたのは何といっても漢籍や詩文や仏典や註釈書や論書に明るくまたそれらをよく諳んじていることであっただろう。さらに、学解や記憶の能力ばかりでなく虚空蔵求聞持法ほかの成就法に熟達し、真言陀羅尼をいくつもいくつも早く正確に唱える能力にも感嘆したであろう。

 東大寺には、まだ金鐘山寺といわれていた天平12年(740)に唐で法蔵に華厳を学んで帰ったという大安寺の審祥(新羅の僧との説がある)が、東大寺初代別当となる良辨に招かれて『六十華厳』法蔵『探玄記』をもたらし、それを講じたといわれている。講義は1年に20巻のペースで3年間にわたり、鏡忍・慈訓・円澄を助手とし南都仏教の学僧16人が聴講したという。
 如空はこの東大寺で法蔵の華厳教学にふれ、その原典である『六十華厳』『八十華厳』を書写し、自ら持して佐伯院の自室で難解な教理をじっくり独習したであろう。そして華厳教学の理解が進むにつれ、南都仏教いや仏教思想史のほぼ全容を捉えた感慨をもったと思われる。

 東大寺は、天平13年(741)、聖武天皇の発願によって都の総国分寺を兼ねる大和国分寺として造営され、最初「金光明四天王護国之寺」といわれた。ご本尊は、東大寺が華厳思想にもとづく仏国土(蓮華蔵世界)の中心であることを表すため、巨大な宇宙仏「盧舎那仏」(大仏)とした。諸国の国分寺は釈迦如来や釈迦三尊や薬師如来を本尊としたが、総国分寺である東大寺にはその本地身の法身「盧舎那仏」を安置した。大和朝廷はこの国を「華厳国家」とみなしたのである。

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大仏開眼の導師菩提僊那
 本尊の「盧舎那仏」は東大寺造営直後の天平13年に造顕の詔勅が発せられ、天平19年(747)に本格的な鋳造がはじめられ、天平勝宝元年(749)にようやく完成した。天平勝宝4年(752)4月には大仏開眼供養法会が盛大に行われた。この開眼法会には聖武上皇・孝謙天皇も文武百官を行幸させ、導師をインド僧の菩提僊那がつとめ、呪願師を唐僧の道璿が、ベトナム伎楽をベトナム僧の仏哲が奉納した。仏教伝来以来の盛儀であったと伝えられる。

 それから数百年の後、平家治世の時代に創建当時の大伽藍は平重衡の南都焼討ちの際興福寺とともに灰燼に帰してしまった。翌年東大寺復興の職についた俊乗坊重源は、高位の朝廷貴族や幕閣からの寄進のほかに民衆にも広く呼びかけ、重源の勧進帳を持った僧侶や山伏が全国を巡り歩いたといわれている。
 こうした官民一体の寄進によってようやく伽藍の復興が成り、建久6年(1195)、後鳥羽上皇の行幸のもと、鎌倉将軍源頼朝も多数の兵を率いて参列し、落慶大法要が行われた。この復興事業は多くの鎌倉美術を生みだした。南大門と運慶作の金剛力士像などは、その代表的なものである。
 時代が下り戦国の世の永禄10年(1567)に三好・松永の乱が起き、三好三人衆が大仏殿に陣を張ったために松永久秀の夜討ちにあってまた大仏殿は焼失してしまった。その際大仏の頭部が焼け落ちてしまったという。
 その後江戸時代も元禄時代に入ってようやく公慶上人の手で復興事業が実施され、宝永6年(1709)に大仏殿が完成して今に至っている。堂宇・大仏ともに創建当初のものからすると縮小されているが、それでも世界最大の木造建築物として現在も威容を誇っている。寺内の彫刻には奈良時代・平安初期・藤原時代を通じての名品も多い。また東大寺文書はじめ古文書類・書籍・工芸品など貴重な文化財を豊富に保存している。

 如空はすでに24才になろうとしていた。19才の頃に仏教にめざめ奈良の大学寮を飛び出してから約5年、大安寺の勤操や戒明に仏教教理や虚空蔵求聞持法の手ほどきを受け、金剛葛城の山々に伏し、吉野大峯熊野の険しい行場を跨ぎ、四国の太龍岳室戸崎石鎚山で求聞持法に熟達し、槇尾山寺にて勤操に従い剃髪得度して沙弥となり、南都に戻って元興寺三論や異国の僧と交わり、唐招提寺で「四分律」を学び、薬師寺・興福寺等で法相に習熟し、東大寺で護国経典と華厳教学を学んだ。

 延暦16年(797)、想像であるが、如空は久しく佐伯院に腰を落ち着ける。かつて目をかけてくれた今毛人も7年前にこの世を去っていた。しかしここは慣れ親しんだ佐伯氏の氏寺。この落ち着いた環境で如空は処女作『聾瞽指帰』を書く。さらにそれを再編して『三教指帰』とする。書き終えたのはその年の暮12月であった。

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 儒家と道教と仏教の全容をかなりの精度で見据えた如空は、法琳の『弁正論』をはじめとし『文選』や『芸文類聚』や『初学記』、さらには『淮南子』 『顔氏家訓』 『韓非子』 『儀礼』 『孝経』 『孔子家語』 『後漢書』 『史記』 『周易』 『周礼』 『荀子』 『春秋左氏伝』 『尚書(書経)』 『隋書』 『神仙伝』 『世説新語』 『戦国策』 『荘子』 『楚辞』 『抱朴子』 『毛詩』 『礼記』 『老子』 『列仙伝』 『呂氏春秋』 『論語』などの漢籍と、『観仏三昧経』『大乗起信論』『大乗法苑義林章』『六十華厳』『虚空蔵菩薩聞持経』『金剛般若経』『金光明最勝王経』 『大智度論』 『仁王般若経』『涅槃経』 『十住毘婆沙論』『普曜経』『方広大荘厳経』『法華経』『法華文句』『梵網経』『摩訶止観』 『維摩経』などの仏典を、片っぱしから手元に置き、自らの心品転昇や偽らざる知的懊悩を噴出させるように、時には知的憤懣をぶつける表現も使い、儒・道・仏三教の比較批判を戯曲仕立てで著わし、ついに仏教への確信を宣言する。引用された仏教の経論を見れば、この頃の空海が釈尊の仏教から大乗の華厳に至るまですでに修めていたことがわかる。

 当時朝廷の官僚になる年齢のタイムリミットは25才であった。その直前、如空は仏教への発意を新たにし、世間世俗の栄達と決別したのである。

 この時期、如空こと空海の仏教教理理解がどのくらいのレベルに達していたかは『三教指帰』の本文を熟読すれば一目瞭然で、釈尊の「四諦」「八正道」、仏教の世界観、修道法、諸戒律、実践徳目、菩薩の「十地」に至るまで、正確にして精緻な基礎知識がそこに見える。19才で大学寮を出奔し『聾瞽指帰』(『三教指帰』)を書く24才までの5年間で、空海は大乗仏教の集大成といわれる華厳教理のレベルまで仏教の理解が進んでいたとみなしていい。

 『聾瞽指帰』(『三教指帰』)を書き終えた如空は名を改めて「無空」となる。華厳教理に通じて大乗の「空」を超え、「無空」を自覚したにちがいない。以後7年間史書の記録から姿を消す。いわゆる「空白の7年」である。

 ここに『三教指帰』に詳しい松岡正剛氏の要文がある。氏が3年の歳月をかけて毎夜綴りウェブ上に公開した「千夜千冊」の1冊『三教指帰・性霊集』の一部である。ここにご本人の許しをえて掲載し、それをもって『三教指帰』の理解に供したいと思う。

 延暦16年、西暦797年のこと、中国では澄観が華厳哲学を、陸羽が茶経を仕上げ、バグダッドにはハルーン・アル・ラシッドの大図書館「知恵の宝庫」が完成し、アーヘンにはカロリング朝が設けられてアルクインの宮廷哲学が開花していたころである。空海も負けていなかった。
 この著作は戯曲仕立てのレーゼ・ドラマというべきもので、当初は『聾瞽指帰』(ろうこしいき)と表題されていた。漢の枚乗「七発」に「瞽(めし)いたるを発(ひら)き、聾(みみつぶ)れたるを披(ひら)く」とあるのに由来する。
五段構成になっている。亀毛(きもう)先生論、虚亡(きょむ)隠士論、仮名乞児(かめいこつじ)論、観無常賦、生死海賦の、三論二賦だ。これまで空海が収集検討した諸家諸見に対するすべての反駁は、ここに爆発し、結晶した。
 ここで空海は何を書きたかったのか。阿刀大足や岡田牛養や味酒浄成らには儒教批判としての亀毛先生論を、ただ神仙に遊ぼうとする青年たちには道教批評としての虚亡隠士論を、そして大安寺や東大寺の僧と我と我が身の佐伯真魚に対しては、仏教思想仮説としての仮名乞児論をつきつけたのだ。
 空海は執筆にあたっての感情を、序文に「ただ憤懣の逸気をそそぐ」というふうに書いている。かつて『史記』の著者がやはり「憤懣を舒ぶ」と自序にしるしたものだった。かくて天才の憤懣の連爆はとどまるところを知らないものとなっていく。8500字の漢文である。それがみごとな四六駢儷体で綴られ、驚くほどの該博の知が縦横に披瀝されていく。その大半は中国の漢籍漢文漢詩からの自由自在な引用になっている。
 その一字一句の出典を調べた福永光司さんによると、とくに『文選』『芸文類聚』『初学記』を辞書代わりにフルにつかい、そこに『史記』『漢書』『三国志』『世説新語』『顔氏家訓』などからの語句を組み入れ、さらに儒教論では四書五経を、道教論では老荘をはじめ『淮南子』『抱朴子』を駆使し、仏教論では『法華経』『金光明最勝王経』をそうとうに精読している跡が見えるのを筆頭に、ほとんど南都六宗の経典のすべてが動員されているという。もって恐るべし。
 ユーモアにも富んでいる。登場人物が五人いるのだが、最初に舞台があくと中央に館がセットされていて、そこでは主の兎角公子が母方の甥の蛭牙公子の粗暴・賭博・女色・傲慢におよぶ非行ぶりに手を焼いている。そこで3人の賢者をよんで蛭公に教唆教誨をたれてもらおうというのだが、その主が兎角(とかく)で、甥が蛭(ひる)なのである。
 招かれた儒者の亀毛先生は舌で枯れ木の花を咲かせるほどの弁舌人士、タオイストの虚亡先生は蓬髪でボロボロ、なんであれ仙人の身に託して話す。仮名乞児はツルツルの頭でおんぼろ錫杖と破れた木鉢を手にする乞食のような坊主。空海はこのように登場人物すべてを徹底してカリカチュアしてみせた。
 もっともこの配役立てにもモデルがあった。司馬相如の「子虚上林の賦」というものだ。そこに子虚・烏有・亡是の3人が登場していた。
空海の『三教指帰』はさまざまな意味において日本思想の開闢を告げるものである。
 第一に、日本で最初の儒教論を萌芽させた。このことについてはほとんど指摘がなかったことだが、これはもっと評価されてよい。中世に「和学としての儒教論」が出るまで(これを和儒というのだが)、日本は儒教思想を儒学としてうけとめたことはなかったのである。それを、わずか24歳の空海がやすやすとやってのけていた。
 第二に、タオイズムについてこれほど深い理解を示した著述は、その後の日本思想界にはまったくあらわれなかったといってよい。ぼくも厳密には調べていないけれど、おそらく明治の岡倉天心や内藤湖南まで、日本人はタオイズムを理論的につかめなかったのではあるまいか。
 第三に、ここには最初のブッダ論がある。仮名乞児に託して語っているものであるが、空海がブッダに連なりたい者であることが断固として示されている。『三教指帰』が出家宣言書であるといわれるのは、このためだ。
 第四に、『三教指帰』は日本最初の「無常の思想」の表明をなしとげた。「無常の賦」という漢詩も挿入されている。これは聖徳太子の「世間虚仮・唯仏是真」につづく表明である。日本仏教がつねにこうした「無常」を媒介にして転換していったこと、すでに太子と大師において実験済みだったのである。
 そして第五に、ここには空海の圧倒的な編集方法が縦横無尽に駆使された。これこそはのちの空海がいたるところで発揮する「方法の魂」の実験だった。それを一言で特徴づけるなら、やはり「断片から総合へ」「一から多へ」、そして「いかなる部分にも全体を響かせる」というものだった。
 こうして『聾瞽(三教)指帰』を書きあげた空海がどうしたかというと、そこからの消息がまったくつかめないままなのだ。次に空海の事績が記録にあらわれるのは、延暦23年(804)に藤原葛野麻呂を大使とした遣唐使船に乗船したということなのだ。それが31歳だから、実にそこには7年の空白がある。空海にとっての7年はわれわれの7年ではない。なにしろ20年間の入唐留学をわずか2年に圧縮できる人である。よほどの7年が送られたといってよい。

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