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024『大日経』の夢告

 『大日経』とは言うまでもなく、唐の開元13年(725)にインド僧善無畏三蔵が中国にもたらし、中国人の弟子一行の協力をえて漢訳をした『大毘盧遮那成仏神変加持経』(七巻)のことである。

 日本では、天平神護2年(766)に、朝廷の高官であり学者であり鑑真和尚の渡来の際に遣唐副使として随伴した吉備真備の娘で、従三位尚蔵の吉備由利『大毘盧遮那経』を書写し西大寺に奉納した国宝の「天平写経」が有名であるが、それ以前、善無畏三蔵の訳出後12年の天平9年(737)にわが国ではじめて書写され、天平19年(747)また天平勝宝5年(753)にも書写されていたことが「正倉院文書」(『写経目録』)に記されている。
 無空はその西大寺で天平写経の『大毘盧遮那経』を目のあたりにし知的昂奮を抑えられなかったであろう。それは件の『大毘盧遮那成仏神変加持経』(七巻)の書写に相違なく、あるいは善無畏三蔵が講じ一行が筆受し註釈もした『大日経疏』の玄昉請来本や西大寺の得清請来本にも出合っていたかと思う。

 『大日経』は、「婆伽梵」すなわち「毘盧遮那如来(大日如来)」が、金剛手菩薩(執金剛、秘密主)の質問に対して仏智(「一切智智」)をえるための根拠を説く教理部分(「住心品」第一)と、仏智をえるための具体的な成就法を説く実修部分(「具縁品」第二以下)とに大きく分けられる。

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 教理部分の「住心品」では、
 聞き手の「金剛薩埵(秘密主)」が説法主である「婆伽梵」(仏=大日如来)に「仏の智慧とはいかなるものか」と問うと、「婆伽梵」は答えて「菩提心を因とし、大悲を根となし、方便を究竟となす」という有名な「三句の法門」を説き、そのうち「菩提心」の「菩提」とは「実の如く(ありのままに)自心(の源底)を知る」こと(「如実知自心」)であるという。さらに、「心」について、本能的我欲のままの心から順次転昇していく心の諸相を説く。

 先ず「凡夫の心」(本能的我欲のままの倫理以前の心、空海の「十住心」の「異生羝羊心」)。そして「世間の八順心」(世間的な道徳に従う心や宗教を自覚する心、「十住心」の「愚童持斎心」「嬰童無畏心」)。さらに「六十心」(人間の心の種々相、宗教心も芽生えているがまだ我執にとらわれている心)があり、これを我執から離れられない「世間の心」だと言う。

 次いで、「三妄執を越え」れば「出世間の心」が生ずることを説く(「三劫段」)。
「三(大阿僧祇)劫(菩薩のサトリをめざす修行の時間、永遠にちかい無時間的な時間)」を『大日経』では「三妄執」という。「劫」の言語「kalpa」を善無畏は「vikalpa」(妄執)と解釈し、密教の行者が三摩地法(観法)によって瞬時にあるいは一生かけて超克すべき3種の妄執を説いた。すなわち「麁妄執」(初劫)、「細妄執」(二劫)、「極細妄執」(三劫)である。
 まず「麁妄執」(初劫)、『大日経疏』でいわれる「人我」(存在のすべてに超越者の個我を認める妄見)を克服し(「声聞・縁覚」(「十住心」の「唯蘊無我心」「抜業因種心」)の段階)、次に「法我」(存在のすべては自性より生ずる実有であるとする妄見)を克服し(「中観・唯識」(「十住心」の「他縁大乗心」「覚心不生心」)の段階)、そして「極細妄執」(三劫)(人法の我執を離れても、まだ能所の分別に執著する妄見)を克服する(「天台・華厳」(「十住心」の「一道無為心」「極無自性心」)の段階)のである。
 次に、この三劫において修行者に生じる「畏れなき心」(「無畏」)が6種(「六無畏」)説かれる。「善無畏」「身無畏」「無我無畏」「法無畏」(以上、初劫)、「法無我無畏」(第二劫)、「一切法自性平等無畏」(第三劫)である。
 次に、密教の行者がよく観察し「縁によって生ずるもの」と断ずべき妄執の十種(「十縁生句」)を説く。すなわち、「幻」(幻術師の手などの動き)、「陽焔」(かげろう)、「夢」(夢の残像)、「影」(鏡に映った姿に同じ)、「乾闥婆城」(蜃気楼)、「響」(やまびこ)、「水月」(水面に映る月影)、「浮泡」(水面に浮かぶ水泡)、「虚空華」(空中に花を見る錯覚)、「旋火輪」(火縄を回してできる火の輪)(十喩)。

 また実修部分の「具縁品」以下では、曼荼羅を建立する作壇法とその土地や方位の定め方、阿闍梨の要件と弟子の資格、密教戒、曼荼羅の構造、潅頂護摩真言など、密教の秘儀の諸要件や、「五大」(地・水・火・風・空)に相当する「五字」(ア・ヴァ・ラ・カ・キャ)を行者の身体の五ヶ所に配する「五字厳身観」、字・声・句・命息の「心想念誦」、種子・三昧耶形・尊形の「三種本尊観」などの観法が説かれる。巻七の五品は儀軌・供養法にあたる。

 『三教指帰』以後の空白の7年、空海はどこで何をやっていたのか。
その大半はおそらく、南都仏教とくに華厳教学の理解と『大日経』の解読によりサトリへの到達時間の遅速に関心が向いていたのではないか。それはやがて顕教密教の教判、「即身成仏」の着想、「十住心」の構築につながっていくからである。
 もう一つ、空白の7年はサンスクリットの修得に多く費やされていたと考えてよい。長安では空海のサンスクリットの実力が相当なレベルであったことが『三十帖策子』の赤入れ注記や『梵字悉曇字母并釈義』にあらわれている。文法書や辞書に恵まれた現在でも、10年間一生懸命勉強してやっと初級のサンスクリット原文が自力で読める程度である。空海にして7年、妥当な線ではないか。

 山や海浜で虚空蔵求聞持法を行じて虚空蔵菩薩と一体となる超常体験を積み重ねてきた如空にとり、宇宙大のスケールの華厳教学の探求はかなり刺激的であった。
 人間の五官がとらえる大自然や宇宙空間を、「」の理法の顕現つまり「法性」「真如」(真理性)の世界「法界」とみなし、そこでは無量無数の仏がそれぞれ一一の仏国土で教えを説き、その総体として「法界」を身体とする「法界如来」を想定し法身「毘盧遮那」といった。「一即一切」「一切即一」や「相即」「相入」といった仏教思想史の集大成というべき華厳の教理は、深山や海浜での修行と最上の仏教思想とが自己のなかで撞着するこの上ない概念工事であったろう。しかし仏教思想史の集大成ともいうべき華厳思想にして、「入法界品」の善財童子をしてもサトリへの道は永遠に遠かった。
 ところが『大日経』では、いくつかの観法を用意し、人間(行者)が身・口・意の「三密瑜伽」によって法身「大毘盧遮那(大日如来)」と一体となることにより即時即身に「真如」「法界」に入れるというのである。この成仏の時間の早さは、無空の山林修行の懊悩と南都の学解仏教への疑念の双方を払拭し、なおそれらを突き抜ける驚異の体系であった。

 加えて山岳修行のかねてより無空は、そのなかに言霊を宿し唱えれば霊威・奇瑞をあらわす陀羅尼、あるいは法身「大毘盧遮那」自らが自らを説く「真言」に強い関心をもち、かならずその原語であるサンスクリットをマスターしたいと考えていたに相違ない。言葉には天賦の才をもち、大学寮では短期間で唐語をあやつるまでになった無空にして当然のことであろう。
 無空はなんとか師をさがして飽かずサンスクリットの修得に励んだであろう。長安に渡った空海が、般若三蔵や牟尼室利三蔵についてサンスクリットの猛勉強をしたことは有名であるが、たった2年足らずであれだけの実力をつけることはいかに空海でも無理だといわざるをえない。サンスクリットを勉強した経験のある人なら容易に察しがつく。空白の7年の間に相当な時間と努力を傾注し修得につとめていたと思うのが妥当であろう。

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 この時期のいつの頃にか、無空は仏前に無二の法門に出合えるように祈ったところ夢のなかで『大日経』を感得し、大和の久米寺の東塔の下でそれを発見し一読したという。

夢ニ人有リテ告ゲテ曰ク、此ニ経アリ、名字ハ大毘盧遮那経ト云フ、是レ乃ガ要ムルトコロナリト。即チ随喜シテ件ノ経王ヲ尋ネ得タリ。大日本国高市郡久米ノ道場ノ東塔ノ下ニ在リ。
(『御遺告』)

 しかし空海には『大日経』の内容が理解できなかったため、唐に留学することを決意したということになっている。これが空海入唐の動機の定説である。最近はさらに、わからなかった「具縁品」第二以下の秘儀(事相)の部分の受法のために渡唐を決意したという、うがった説もある。
 当時、久米寺には天平写経の『大日経』のいずれかがあったのであろうか。史実には登場しないのだが、いずれにしても『大日経』のわからないところを受学するために入唐したのだという。
 とすると、この久米寺の件は、唐に向けて難波ノ津を出発する延暦23年5月、あるいはその直前に東大寺具足戒を受ける同年4月に比較的近い頃と考えるのが自然だが、それでは空海は空白の七年の間、入唐近くまで『大日経』を知らなかったことになる。であるなら、長安滞在の約1年とくに恵果和尚から受学が可能だった3ヵ月間の勉強がいかにも忙しすぎて、さすがの空海も不可能だと思うほかはない。

 ともかく長安での空海は学ぶことが多かった。『大日経』そして『金剛頂経』、両部の大法はじめ儀軌、そして般若三蔵のもとでの華厳やサンスクリット。しかもそれらのいちいちが後の代表作でわかるように並大抵の仏教知識ではとても理解できないほどの高度な専門知識を必要とする。『大日経』の一つとっても、とても短期間で修得できる代物ではない。まして『金剛頂経』はほぼ初見であっただろう。持ち帰った密典のなかに『金剛頂経』系経軌の多いことがそれを物語っている。さらに書法や漢詩文である。だから空海は奈良で法相華厳を学んだあとに、大安寺や東大寺で然るべき師をみつけ『大日経』をかなり精緻に勉強していたにちがいなく、その時期に久米寺の件を夢に見た。さほどにその頃の空海は『大日経』に敏感であった。そう思わなければ長安の日々が無理である。

 私は最近、空海入唐の主たる動機は梵字・悉曇つまりはサンスクリットの修得だと言うのに躊躇をしない。
 当時の遣唐使船が航路とした「南海路」は海上遭難が多く、文字通り命がけの渡海だった。事実、空海の乗った船も悪天候に見舞われ、難破船となった。危険な大海を命がけで渡るためには、「その方法しかない、そこへ行くほかはない」といったせっぱつまった事由がなければならない。
 密教に向う空海にとって梵字・悉曇つまりサンスクリットの修得は必須にして緊要で、南都ではそれが充分にかなわなかった。幸い、漢文や書や唐語は何とかはなる。であるなら「長安にいるというインド僧に伝授してもらうしかない」、そういう命がけのモチベーションが空海に起ったとみるべきである。

 近鉄橿原線・吉野線の「橿原神宮前」から徒歩15分、車で5~6分、昔吉野で神通飛行の術を習得した久米仙人の発願の伝説をもつ久米寺が静かにたたずんでいる。『大日経』を感得したという東塔の跡が、境内に入る左手にあり、大きな礎石がいまも残っている。

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久米寺「東塔」の礎石群
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