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020 雑密修験から大乗瑜伽行思想へ

 インドには古くから瞑想の伝統があった。インダス文明の遺品のなかに、瞑想する修行者とみられるイコンがあることが知られている(エリアーデ)。

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モヘンジョダロ、瞑想のポーズ
をとる シヴァ神と思われる姿の
牛の印章
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瞑想する行者(あるいはシヴァ神)の印章



 紀元前13世紀、ユーラシア大陸の中央部近くから出て現在のイランやインド半島に侵入し、インドではインダス川流域を中心にインダス文明を展開していた土着民のドラヴィダ人を征服したアーリア人も、この土着的な瞑想の伝統を受容しさらに発展させた。

 彼らは宇宙の根本原理ブラフマンbrahman)を最高原理とするヴェーダVeda)聖典を編纂し、その読誦や解釈に通じた司祭僧(バラモン)が主宰するバラモン教を拠りどころとした。そのヴェーダ聖典で最古の『リグ・ヴェーダ』(Ṛg-veda)の讃歌のなかに、「ヨーガ」(yoga)という言葉がたびたび登場し、「(牛車を引く複数の牛の頸と頸をつなぐ)くびき」の意味として使われ、後の「ブラーフマナ」(Brāhmaṇa)や「ウパニシャッド」(Upaniṣad)では人間の内なる根源(アートマン(Ātman)、真我)が宇宙の根源たるブラフマンに「同一化」する意味として用いられる。いずれも「結ぶ」「つなぐ」「連結する」といった意味をもつ語根「yuj」の意趣にかなっていっている。

 以後、彼らはドラヴィダ人と混血しながらインド・アーリア人として定着するのだが、瞑想の伝統もまた森林修行者の間に定着していった。熱帯モンスーンの気候風土のなかで乾季には歩き雨季には一処に止まって坐る森の修行者たちは、土着の瞑想法を次第に進化させシステマティックなものにしたのである。
 それが「(ヒンドゥー)ヨーガ」といわれるもので、四世紀頃にパタンジャリ(Patañjali)によって「八支のヨーガ」(aṣṭa-aṅga-yoga)を説く聖典『ヨーガスートラ』(『Yoga-sūtra』)が著され、ヨーガ学派といわれてインド六派哲学の一派をなすようになった。余談であるが、この『ヨーガスートラ』の註釈書『ヨーガスートラ・バーシュヤ』(『Yoga-sūtra-bhāṣya』、ヴヤーサ(Vyāsa)造)の全文和訳並びにヨーガの行と思想の研究が私の修士論文であった。

 釈尊は、紀元前4~6世紀の時代に、まだ未発達だったこの(ヒンドゥー)ヨーガの伝統に従い瞑想修行を練磨した。「六師外道」といわれた釈尊のライバルたちも、ジャイナ教Jaina)の始祖マハーヴィーラMahāvīra)も同様であった。
 ヨーガの行者は煩悩の制御のために定められた禁戒を実践するほか断食や自分の身体に苦痛を与えるほどの苦行(「タパス」(tapas))を行う。釈尊はそれにも従ったが、六年を経ても解脱しなかった。釈尊は、結局苦行を捨て、マガダ国を流れるネーランジャラー川(尼連禅河)のほとりのガヤー村で村娘スジャータから蘇乳(今のヨーグルト)の施食を受け、体力を回復してピッパラ樹(菩提樹)の下で瞑想中ついに開悟したのである。
 ヨーガの行は、『ヨーガスートラ』の冒頭にあるように、「心(の作用)を制止すること(citta-nirodha)」で、すなわち身を慎み、一定の坐法によって身体を固定し、入息・出息の呼吸を調え、六感のはたらきを体内に向け、意識を外界から遮断して内なる対象に集中し、意識が対象と一体化して心の作用がなくなる、という行法である。
 仏教の瞑想法ではこれを「」(śamatha、奢摩他)という。釈尊はこの行法により人間「苦」(執着心)の根本原因として自己の内奥にあって消えることのない「無明avidyā)」(自己保存本能、人間共有の根源的な我執)を自覚するに至り、「老死」「生」「有」「取」「愛」「受」「触」「六処」「名色」「識」「行」「無明」(「十二因縁」)を順逆に観想する「」(vipaśyanā、毘鉢舎那)によって「無明」の超克に成功したのである。

 仏教の瞑想法は「三昧」「三摩地」(samādhi)とか「禅那」「禅定」(dhyāna)などと言い表されるが、総じていえば「瑜伽(ヨーガ)行」であり、その内実は「止」と「観」の行である。
 「止」とは『ヨーガスートラ』のヨーガと根本は同じで感覚器官のはたらきを制御し、心を外界から遮断して落ち着かせ、心の認識作用である意識も次第に制止して、心を内なる対象に一点集中させることである。「観」は「止」の状態で事物事象の本質や真実を直観し、その直観の内実をヴィジョン化し心のスクリーンに映し出し、その状態を保つことである。
 仏教の瑜伽行は、この「止」と「観」が同時に行われること(「双運」)をいい、その行中に行者の心が認識作用である「識」だけの状態になるのを唯識という。
 小乗部派の上座部や(説一切)有部は瞑想中に行者の心に去来する煩悩や認識作用をさかんに問題にした。有部にいた無著Asaṅga)・世親Vasubandhu)の兄弟はそれぞれ『唯識二十頌』『唯識三十頌』を著し、それらの心理分析と遮断法を大乗の「無我」の立場から論じ、「唯識無境」と認識主体である「識」の「仮有」、すなわち深層意識としての「マナ識」(第六識)と「アーラヤ識」(第七識)を主張した。これが大乗仏教思想の中核の一つ瑜伽行派唯識学派)である。『唯識三十頌』は、後に護法Dharmapāla)によって註釈されそれを玄奘が漢訳した。それが南都法相宗の寺院で盛んに講じられた『成唯識論』である。薬師寺の講筵や論義も『成唯識論』が中心であった。法相とは「法(存在や現象)の実相」の意味である。

 如空は、深山幽谷や海浜洞窟の行場に坐し、口に真言を唱え、心を宇宙(仏)に集中させ、それと一体になる修行を練磨するに従い、奈良の官大寺で講じられている法相(瑜伽唯識)の唯心論的瞑想心理学に関心を強くしたのはまちがいない。もちろん、求聞持法の成就者として仏教正統の瞑想法である「止観」の中身も知りたかった。法相では、成仏までにどのくらいの時間を要するかも知りたかった。
 おそらく如空は、南都法相の有力法城である薬師寺の講堂によく足を運び、法相の学僧論師による難解な論義に耳を傾け、『阿毘達磨倶舎論』 『大毘婆娑論』『瑜伽師地論』 『唯識二十頌』 『唯識三十頌』さらに『成唯識論』を学び、また慈恩大師窺基や玄奘三蔵など法相の祖師たちの論書を諳んじたであろう。さらにまたその法相を「有」の論として批判する三論の中観思想とその論理法にも関心をもち、龍樹『中論』 『十二門論』 『大智度論』や、提婆『百論』や、三論宗の祖嘉祥大師吉蔵の『三論玄義』 『大乗玄論』 『中論疏』 『二諦章』といった論書も参照したことであろう。

 この頃の空海が、南都仏教の論学を理解し、かつ重要な論書の内容を記憶に留めたであろうことが後に大きな意味をもつことになる。唐に留学した時の空海は南都六宗の教義を説く漢訳仏典や大乗思想にすでに通じていた。この頃に学んだ仏教教理の基礎知識は密教の理解にとって大きかったに相違あるまい。
 法相唯識では、人間の五官のはたらきから深層意識まで瞑想のなかで仏智(サトリ)に転換可能だとする(「転識得智」)。眼・耳・鼻・舌・身のはたらき(「前五識」)は「成所作智」に、「意識」(「第六識」)は「妙観察智」に、「マナ識」(「第七識」)は「平等性智」に、「アーラヤ識」(「第八識」)は「大円鏡智」にと。密教はこの「四智」に「法界体性智」を加え、法身大日如来の「五智」とした。長安での空海はこの辺はすでに心得ていたはずである。また法相唯識では成仏までに三大阿僧祇劫という永遠に近い長い時間がかかることも承知していた。

 今から約1300年前の白鳳時代、天武天皇によって皇后(後の持統天皇)の病気平癒祈願のために藤原京に建てられたのが薬師寺の草創である。その後平城京の遷都にともなって、養老2年(718)に六条二坊の地に移された。白鳳文化を象徴する伽藍には、金堂をはさんで東西に二つの三重塔を配置し、講堂・回廊・僧坊・経蔵・鐘楼・食堂・中門・南大門そして東院が並び建っていた。しかし薬師寺式伽藍配置と呼ばれた壮麗雄大な大伽藍も何度かの失火・兵火に遭い、幾度かの復興にもかかわらず創建当時の姿を残すのは東塔のみである。

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 先の貫主高田好胤師による昭和の大復興事業で建立された金堂がまだ真新しさを残すなか、今もなお伽藍の復興が進められ往時の大官大寺の復興のなかでは際立ってめざましい。
 『般若心経』の写経勧進を中心とする大復興事業は多くの人々の共感をえた。この大復興は現在も継続されていて、平成三年には法相宗の祖玄奘三蔵を祀る「玄奘三蔵院伽藍」も大伽藍の北側の地に完成した。「大唐西域壁画殿」には、平山郁夫画伯が十年の歳月をかけて画いたというシルクロード描写の壁画が架けられている。

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 長安での空海は、玄奘三蔵ゆかりの大慈恩寺にもしばしば詣で、大雁塔を仰ぎ見ながら薬師寺の伽藍に思いをはせ三蔵の妙訳になる漢訳仏典のかずかずに目を通したことであろう。

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