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空と縁起の一考察 ⑦

第七回 仏の世界―存在と意識―

  ◆量子論と空海の直観-縁起と空の非分割-
 縁起について簡単な例を考えてみよう。例えば先の事故の例でいえば、AB二人の人間が同じ方向に歩いていたとしよう。Bは事故が起きる直前、何かのはずみでAに遅れたために、先に行ったAが事故に遭遇しBは難を免れたというようなケースはよくある。ある瞬間にBに顕前したこの何かのはずみ(急にショーウインドウが見たくなって立ち止まったとか、ふと迂回路を選んだとか)も「内臓秩序」から顕前するというのがボームの理論である。

 私はこれを「見えない世界」より出現する「縁」の不思議と考えている。逆にいえば「見える世界」(縁起の世界)は「見えない世界」(空の世界)より現れてくるということである。ボームは縁起論としてことさらに採り上げていないが、その考えは究めて示唆に富む。

 再度確認しておこう。ニュートンの力学に始まる自然観の特徴は厳密な決定論の志向である。宇宙という巨大空間は、因果律に支配され、機械論的であって、完全に決定的であると考えられていた。これによって、宇宙は微細な粒子によって構成されており、世界を構成するのは分離・独立して存在する不変・不可分の一群の素粒子(基本粒子)であり、それらが宇宙の基本であると想定するのが一般的であった。

 最初、この素粒子と考えられたものは原子であった。だが原子は原子核と電子からできており、原子核はさらに陽子と中性子に分割されることがわかった。まもなくこれらも転移を受けて数百種の不安定な粒子となることが見出され、現在では「クォーク」とか「レプトン」とか「バルトン」などと呼ばれるさらに微小な粒子を仮定して、これらの転移を説明しようとする。このような際限のない粒子の細分化は、最終的に宇宙は必ず完璧に説明できる構成単位があるに違いないという不動の信仰であった。

 だが、機械論的秩序を最初に問い直したのが相対性理論だった。アインシュタインは、粒子概念はもはや基本的と考えることはできず、宇宙(実在)を構成するものは「場」であると提案した。つまり相対論の要求を満たす法則に従う「場」こそ実在を構成するものとしたのである。アインシュタインの「統一場理論」は、機械論的秩序に相対論が呈した強力な疑義であった。ところが機械論的秩序に対してはるかに重大な疑義を提起したのが「量子論」であった。実際それは相対論が提起したそれをはるかに凌ぐものであるといわれている。
 
 相対性理論が旧来の物理学者の物質観に与えた影響とは、粒子の概念を根本的に修正したことである。量子論は相対論といくつか重要な点で理論の対立はあるが、両者がその根底において共通する原理は「分割できぬ全体性」である。

 この「分割できぬ全体性」に相応しい秩序概念を提唱したのがボームの「内臓秩序」である。彼は外からは確認できないままに情報全てが、全体性の中に<包み込まれている>という概念に到達した。これは旧来の物理学を支配してきた「顕前秩序」(明在系)と著しい対比をなす。なぜなら、「顕前秩序」においては、個々のものはすでに<引き出されている>からである。

 それに対して「内臓秩序」による探求は、宇宙が「不可分の全体性」であることから出発する。さらに「顕前秩序」を<引き込む>・<引き出す>という二つの運動を考える。

 そこから存在の基本的かつ普遍的なものを「内臓秩序」(暗在系)とし、「顕前秩序」(明在系)は前者の法則から二次的・派生的に流出し、後者の秩序が妥当するものは一定の限定された文脈中だけだと主張する(1)。

「内臓秩序」の最大の特徴も、相対論と量子論が認めるように「分割できぬ全体性」という宇宙観である。

高エネルギー理論物理学のフリッチョフ・カプラはこのようにいう。
「原子物理学の観測過程を注意深く分析すると、素粒子を独立した実在として考えるのは無意味で、実験の準備と測定との相互関連としてしか理解できないことがわかる。つまり、量子論は、宇宙の基本的な合一性を明らかにした。世界は独立して存在する最小単位に分割することはできない。物質の内部をどんなに探っても、『基本的構成要素』は見つからず、全体の中の部分がたがいに関連しあう複雑な織物としてあらわれてくる(2)。」

 空海も宇宙の「分割されぬ全体性」は夙に確信していた。例えば『声字実相義』では次のような問答文を設定している。

質問者「物質が分子に分解できるものならば、原子にも分割できる部分があるはずである。それなのに、物質にある分割できる部分は原子には存在しない(とあなたはいうが)、それは何故か」と。
 <色聚にまた方分あらば、極微にも方分あるべしや。然も色聚には分あり。極微にはあらず。何をもっての故に(3)。>
 それに対して空海は原子というものは分割できないと言い切り、次のように答えている。

空海「原子というものは、分割を押しすすめていった極限として想定した概念である。したがって、これは色なる集合(物質)に存在すると仮定したものであり、原子の中に、さらにそれより小さい原子があるということはない。だから、原子には分割しうる性質はないのである。」
 <極微すなわちこれ分なるに由って、これはこれ聚色の所有なり。極微にまた余の極微あるにあらず。この故に、極微には分相あるにあらず(4)。>

 しかしながら原子は原子核と電子によって構成されており、その原子核も陽子と中性子によって構成されているから、このかぎりにおいては質問者が正しく空海が間違っているように思える。しかし注意すべきは、訳文では原子となっているが、空海は今日の原子物理学でいう厳密な意味での原子を指しているのではないということだ。

 空海の時代、自然を構成するのは地・水・火・風・空の五大要素(五大形態)が観念されていた時代である(密教はこれに識大を加えて六大無碍)。それらを構成する最小単位を仏教では「極微」という概念しかなかった時代である。つまり空海の答える「極微」が分割できないという意味は、まさに「粒子の世界は基本的な構成部分には分割できない」という相対論や量子論とほぼ同じ概念だと考えられる。

空海は、物質は「分割できぬ全体性」として把握するしかないと直感していた。つまり一切の存在とは固定的実体的な原因(粒子の集合)によってその存在(在り方)を恒久的に得ているのではなく、物質相互の相依性(縁)を原因としてその存在(在り方)を世界に開示しているにすぎないと考えていた。だから一切の存在が何らかの原因によるとしても、その究極の原因(究極の粒子)を明らかにすることはできないのである。この主張は存在に関する『吽字義』でも繰り返し述べられている。 例えば、

「あらゆるものは必ず多くの原因から生じており、原因から生じたものにはすべて始めとか、その生ずる本となるものがある。この生みだす本の原因をさらに観察すると、その原因の原因があることになる。ところが、このように遡及していったとしても、最終的に根本原因を見出すことはできない」
一切の法は衆縁より生せざることなきをもって、縁より生ずる者は、ことごとくみな始あり本あり。今この能生の縁を観ずるに、またまた衆因縁より生ず、展転して縁に従はば、誰かその本となさん。(5)>

 しかし世界は存在する。ではこの事実をどのように理解すればよいのか。最終的な原因は突き止められないとしても、われわれにとって世界は明らかに存在するからだ。

 空海の世界観はこの点唯識瑜伽行派よりも積極的である。空海は世界の存在性(本質=真実)を概念的にも論理的にも説明することはできないが、この世界が存在するという実在性こそが真理であるとする。しかもこの事実を積極的・肯定的に受け入れることが仏の覚りの智慧(一切種智)であるという。

 ここに至って存在の根源は本から不生、すなわち因縁より生じたと考えるしかないが、空海はこのような存在性(真実=不生)の究極的の在り方を、[本不生際]という概念でとらえ、この在り方こそが全てのあらゆるものの根本(万法)に他ならないとした。
<かくの如く観察する時に、すなわち本不生際を知る、これ万法の本なり(6)>

 空海は究極的な原因を明らにすることは「不可得」(知ることはできない)という立場をとりつつも、宇宙は常に法身大日如来が「阿字」の一字をもって真理を覚らせていると観じた。つまり存在や現象は大日如来の説法であるとして認識していた。故に法界(真理の世界)はこの世の全てを包摂する。つまり「因」も法界であり、「縁」も同様に法界であり、因縁生起したものも法界にほかならないという。いいかえれば「縁起の世界」は常に法界と連結しているということになる。これが空海密教の宇宙観であるといえる。

 ところで法身の説法は宇宙において人間に顕示されるということは、宇宙(法界)と人間存在とのコミュニケーション(交流・交感)を原理的に認めなければならないことになる。このような前提は密教では自明の理であるが、この理屈は二元論(精神と物質の分離)の西洋科学では明らかに非合理なことであった。また科学至上主義の現代人にとっては怪しげな神秘主義(オカルティズム)と映ることさえあった。

 空海は日照りで苦しむ農民を助けるために盛んに請雨法行ったという伝承は各地にあるが、合理主義者はこれも伝説の域に封じ込めようとする。ついに密教の護摩供養や祈祷に至るまで、非科学的な呪術(まじない)と見る日本の進歩的知識人や科学者たちは決して少なくない。(その筆頭が脱亜入欧の福沢諭吉)しかし宇宙と人間の意識について、今日ではむしろ西洋の方から真剣に研究する科学者が頻出している。

 有名なブランドン・カーター(イギリスの宇宙物理学者)の提唱する「人間原理anthropic princilple」(1968)も、いわば脳と宇宙との関係である。カーターは宇宙の存在と人間の存在の間に密接な関係があることを公準としている。すなわち宇宙の物理的特性は人間の「意識によって生じえた」という事実と関係があるということである。(この「人間原理」の支持者としてはスティーブン・ホーキング博士が有名である。)

 オギュスタン・ベルク(フランスの地理学者)によれば、世界に意味があるとすれば、それはわれわれの世界への関係性の中にしか存在しえないという。つまり、われわれ人間を世界に存在させる諸々の関係は、そのこと自体によって、われわれを「倫理的な存在」として、その土台を据えるというのがベルク博士の考えである(7)。 

 いずれにせよ、今日ようやくたどりついたニューサイエンスの発見を、すでに1200年も前にわが国の空海が明言していたということに驚かざるをえない。フリッチョフ・カプラも世界的な理論物理学者であり、デイヴィト・ボームもブリジストン大学でアインシュタインと研究を共にし、アインシュタインから後継者と見られていたノーベル賞受賞物理学者であるが、彼らの研究の核心を空海はほぼ正確に答えているのだ。

 これをただ当時の学問や瞑想だけで把握できるものだろうか。私はもっと動的なはたらき(三密行)によって、空海もまた神秘的な世界と相応渉入したであろうと考えるのである。
ベルクの言い方をすれば、宇宙の倫理と空海の倫理が共振したのである。

 さて第三回で私は釈尊の解脱について、高度な覚りの瞬間には、超越的な何かと感応するのではないかと述べたが、これを「内臓秩序」のような、「ある隠された世界」から釈尊の深層心理に届いた神秘的なエネルギー(メッセージ)と考えてもいいだろう。逆にいえば釈尊の意識が「内臓秩序」に飛び込むとでもいうような運動である。これは勝れて心の透明な人間にはたらく神秘力のように思われる。しかし仏教はこれを特殊な人間に限ってはいない。本来万人にもはたらく本質的な能力だと認めた。如来蔵といい、仏性といい、成仏といい、その可能性を指した言葉ではないだろうか。

 つまり、人間は「縁起の世界」に支配されていても、「空の世界」とのつながりによって、現実に何らかの変化を起こす能力が潜在的に与えられているということである。物理学的にいえば、この力は「暗在系」に与えるある種の<ゆらぎ>のようなものではないかと考えられる。

 村上保壽教授のいうように、密教の主体性とは、カオス的無限定性から秩序へ向かうはたらきではなく、むしろ(日常性)からカオス(存在の実相)へと向かう「はたらき」であるとすれば、私はそれに倣って、密教の主体性とは、顕前秩序(明在系)から内臓秩序(暗在系)へ、すなわち「縁起の世界」から「空の世界」へと向かう「はたらき」であるといいたい。

  ◆人間はみな仏の子
 複素相対論で著名なフランスの物理学者ジャン・E・シャロン博士は、人間は「虚の世界」に属する実在で、「実の世界」とは別次元の世界の実在であると主張しているという。次元の違いから人間の世界が「虚の世界」とされるならば、他に異次元の「実の世界」の存在が推測される。これは一つのヒントを与える。

 例えば点と線だけの一次元の世界に住む生物がいるとしよう。そこに二次元の平面に住む別の生物が出入りすれば、一次元の生物は突然見えない世界から現われたり消えたりするように見えるだろう。さらに高さをもつ三次元の世界の生物が出入りすれば、二次元の世界の生物は同じような不思議を感じるであろう。

 われわれは一般的には四次元まで認識することができるが、もし「空の世界」がさらに多次元であれば現実に認識することは不可能である。もし「空の世界」からの情報があれば、ただ不可思議であり、いわゆる超常現象としか表現できない。また空海がいうように、「空」を呑むものが「仏」であるなら、「仏の世界」とは想像も及ばぬN次元としかいいようがない。

 しかしこれは一次元(点と線)が二次元(平面)を構成し、二次元(平面)は三次元(立体)を構成し、三次元は四次元世界をというように、つぎつぎ多次元世界を構成しながら、最終的には仏のN次元に包括されるということでもある。逆にいえば、われわれの日常である諸行無常の世界は、どのようにあがいてみても「仏の世界」に包まれているということになる。

 別のいい方をすれば、人は本来みな「仏の子」であるということである。空海が、衆生の心とは本来汚れなき満月のような心であると繰り返し語るのはそういう意味であろう。ただ日常的秩序世界の住人であるわれわれには自覚しにくいだけではないだろうか。「如実知自心」とはそういう自己に目覚めることではないだろうか。それが「明」という仏の智慧でもあろう。

  ◆宇宙の自己統一性と密教思想
 ジェイムズ・ラヴロックは、地球は自己統一性を志向する巨大な有機システムと見た。宇宙物理学者のエリッヒ・ヤンツは宇宙全体が散逸構造を持った自己組織化システムではないかと考えた(8)。ヤンツはそれを「宇宙の心」と呼んだ。彼は「神は創造者ではない。宇宙の精神なのだ」という。私はそれを「大日如来の心」と呼ぶ。

 大曼荼羅図はこのような宇宙精神(実相)を仏の尊像として描いたものであろう。松長有慶師は、曼荼羅の典拠となる経典を調べた結果、曼荼羅は今日のように平面に絵画的に表現されるものではなく、本来、宇宙の根源的な生命を、三次元ないし四次元的な空間で表現すべきものであるという。もともとそのような多次元的な象徴表現であった。すなわち、曼荼羅の宇宙観は物質・光・音・エネルギー、など現実世界に存在する一切のものが、次元を超えて、本質の上で結びついていることを示しているという(9)。

私は、曼荼羅は宇宙の自己統一性を表現していると考えるが故に、ミクロの命がマクロのいのちとつながっていると見る密教思想において、人間の「縁起」においても本来自己統一としてのバランスがはたらくと考える。如来の慈悲とは、実はそのことではないだろうか。
山折哲雄氏は、次のようにいう。
「龍樹以後、唯識説と並んで成立した新しい思想に如来蔵思想がある。(略)『般若経』の空の主張を徹底的に突き詰め、それを乗り越えたものとして如来蔵が説かれるのである(10)。」
大乗仏教では如来蔵と法身は同一の真如とされる。宇宙が不思議であれば、宇宙の子である我もまた不思議である。「空」から顕現した万物の命(色)は即ち「空」である。まさに「色即是空」である。ここにおいて「空」とは存在の無化ではなく、宇宙的大生命の肯定の理法となるのではないだろうか。それが「密号の空の覚り」であるように思われる。


<注>
(1) D・ボーム『全体性と内臓秩序』青土社
(2)  F・カプラ『タオ自然学』工作舎p.80
(3)『弘法大師空海全集』第二巻、筑摩書房 pp.284~285
(4)前掲書同頁p.285
(5) 前掲書同頁p.306 
(6) 前掲書同頁p.306
(7) オギュスタン・ベルク『地球と存在の哲学』ちくま書房
 (8) エリッヒ・ヤンツ『自己組織化する宇宙』工作舎
(9) 松長有慶『生命の研究―密教のライフサイエンス―』法蔵館 p.131
(10)『仏教文化辞典』佼成出版社 pp.32-33

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