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空と縁起の一考察 ⑧

第八回(最終回)仏教の役割

  ◆仏教の役割
 一般に仏教では、煩悩はもともと無我であるはずの我に執着するところから生じるという。だが私はそもそも執着が一律に否定されるべきものではないと考える。否、執着は必要である。細胞ホロンの自由度は命への執着のことである。自然界はウイルスから動植物に至まで、みなある意味で生き延びることに執着している。人間もまた同様で、命に執着しなければ人類はとっくに滅亡していたであろう。

 これが宇宙の自己統一性に従う自然の摂理であるなら、仏教一般が説くように、執着心を捨てることは宇宙の意志に反することであり、ある意味では不自然なことでもある。

 密教経典である『理趣経』では、いわゆる命の執着を「菩薩の位」と観じている。この経典の真意は、万物は宇宙の摂理(そこに遍満する如来の智慧と慈悲)の自覚における執着を「菩薩の位」としたのではないかと思う。とすれば、否定されるべきは執着心自体ではなく執着の仕方であろう。

 ということは、人間は宇宙の摂理(如来の智慧と慈悲)に沿った形で「生」に執着すればよいということになる。いわば宇宙の主体と人間の主体の問題である。おそらくこれが人生における「中道」であろう。不殺生から始まる五戒や十善戒の倫理規範はその指針ともいえるのではないだろうか。

「苦」とはおそらく宇宙の意志(如来の慈悲)に逆行するような「生のあり方」に執着するとき、それが人の心に「苦」として認識されるのではないだろうか。与えられたもの以上の何かを渇望するとき必ず生じるストレスもそうであろう(求不得苦)。同じように「生」に執着していても、動植物に「苦」があるようには見えない。与えられた命を全うするのみである。

 ここで再び松長有慶師の言葉が思い出される。「もともと宗教は人間の苦悩を取り除き、精神的なやすらぎを得させることを目的とするといってよい。」やすらぎであり哲学的探求ではない。カプラもまた同じ意味で、「ブッダの説く教えは、形而上学的なものではなく精神療法である」と述べている。

 私は仏教を宗教とする根拠の一つとして、瞑想という意識のはたらきに注目している。私は瞑想は祈りの一種だと考えており、深い祈りはおのずと「苦の縁起」の改善につながるものと信じる。つまりわが内なる如来蔵が、仏性が、「空の世界」で如来とひとつになって顕在化してくるとき、「縁」は必ずその人をやすらぎの世界へと導くものと信じている。

 そのためには、人は「仏の世界」に包まれている喜びを実感できるようになるしかない。本来仏教の役割は、人の心をそういう「安心」(あんじん)の世界へ導くことではないだろうか。わが身口意を無心に「法身のリズム」に合わせて生きるならば、「縁起」はおのずからその人にとってあるべき形ではたらくのではないだろうか。

 異文化との相互理解の可能性を求めて、「空と縁起」について密教と科学の接点をさぐりつつ試論してみた。菩薩と人間と生き物と物質の世界とが、秩序をもって成立しているこの宇宙統一性の中に密教は如来の智慧と慈悲を観じた。科学はまだそこまでの確信に到っているようには思われない。

あとがき
 初めにお断りしたように、本論文は高野山大学大学院の修士論文を骨子に、本サイト用に書き改めたものである。したがって、いうまでもなく学位論文そのものではない。サイトの目的上、不特定多数を視野に入れたために、仏教用語の説明などの注釈が多くなり、仏教関係者には冗長でくどくなった。不備な点は多々あるが、これを今後の反省としたい。


























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