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空と縁起の一考察 ①

はじめに
「縁起と空」は仏教思想の核心である。「縁起」とは因縁生起の略語でブッダの説いた一種の存在分析学である。仏教では万物(モノ・コト)は因と縁とが結合(因縁和合)した結果成立するとして、これを「縁起する」という。因と縁によって生起する諸法(万物・現象)は、また因と縁によって消滅もする(縁滅する)。これが仏教の説く「法」(縁起の理法)である。この道理から本来この世に絶対的なもの、恒久的なもの、固定的なもの、本体的なものは一切存在せず、諸行(現象)は無常であり、諸法(万物)は無我であるという。

 故に「私」という存在もまた絶対的なものではなく、今在る自分は因縁和合によって縁起した存在、つまり一時的に、仮に現象(因縁仮和合)しているにすぎないものであるから、私もまた無常であり無我である。そこから仏教思想は、煩悩の主体である「私」も、煩悩の源泉である「執着心」も、本体のあるものではないとする。

 無我とは自性(本体)がないという意味である。私とは、私という自性をもたぬ私が本来の「私」であることになる。そのような「私」の存在を、すでに「私」と呼ぶに値するものか常識では首を傾けたくもなろうが、哲学は常識を疑うところから出発する。仏教ではこの矛盾を孕んだ存在形式を「空」と捉え、大乗経典の原型といわれる『般若経』では「空」をその最高真理とした。

 ブッダは「縁起」を説いたが「空」についてはむしろ沈黙を守った。龍樹(ナーガールジュナ・西暦150~250年頃の学僧)は『中論』でこの「空」の論理矛盾を合理的、論理的に展開し、さらに論理全体を否定して、その底に潜む神秘主義を肯定したとされている。思想上の時系列からであろうか、この二つの命題は一般的に「縁起と空」という語順で表記されることが多い。

 私はこの命題を考察するにあたって、あえて「空と縁起」と語順を変えてみた。その理由は、「縁起したものは空である」(色即是空)という大乗仏教の初歩的な伝統に若干の疑問をもっているからである。ブッダが沈黙を守ったという存在(事物)の根本原理とは何か。すなわち「空」とは何かを再度自問したいからである。たとえ在家の戯言と一蹴されようともあえて自分の仏教を語ろうと思うのは、それが私にとっての『空海論遊』だからである。

 本論は少し長くなるので、数回にわたって連載することにする。なお、本論稿は高野山大学大学院、平成21年度修士論文(密教学)として受理された自身のものを原文とし、本サイトのために注釈を入れながら、簡明に再構成したいと思う。各回の論考のつながりを示すために、まず全体の流れを以下に表記する。

 第一回 宗教とは何か
 第二回『弁顕密二教論』に見る空海の仏教観
 第三回 釈尊と密教
 第四回 密号の「空」と顕教の「空」
 第五回 密教と科学の出会い
 第六回 存在と縁起
 第七回 仏の世界―存在と意識―
 第八回 仏教の役割


第一回 宗教とは何か

◆宗教としての仏教の目的
 仏教とは何かを問うときに、私は松長有慶師(元高野山大学学長・現高野山真言宗総本山金剛峰寺座主・高野山真言宗管長)の次の言葉が浮かんでくる「およそ百年ほど前から、仏教学もヨーロッパの文献学研究の方法論を用いて、実証的な研究が急速に進歩した。だが最近になって、仏教学の研究方法を再検討すべきであるという声が、急激に高まりはじめている。もともと宗教は人間の苦悩を取り除き、精神的なやすらぎを得させることを目的とするといってよい(1)。」

 仏教の目的は私にとっても実にこの言葉に集約されている。ところが仏教哲学という言葉もあるように、私をながく迷わせてきたものに、仏教は果たして哲学か宗教かという問題があった。ある仏教学者は、仏教をどのように定義するかによって人それぞれだと答えられた。ちなみにその人の意見は個人的には宗教だといわれた。その違いは哲学とは主に「知」を扱い、仏教は「死」を扱うからだと答えられたが、「むしろ密教的なものこそ本来のインド宗教の基盤をなすという意味において、密教こそインド民衆の中に育った仏教である(2)」という金岡秀友氏の意見にしたがうなら、インド宗教としての仏教は「死」よりもむしろ「生」を中心として発達したといえるのではないだろうか。

 高野山大学大学院・乾仁志教授は「仏教は単に現世だけの問題を対象としているのではなく、輪廻思想に見られるように過去・現在・未来の三世のことを対象にしており、その意味では、生と死というのを問題にしているといった方がよいかもしれない」と答えられ、とりあえずもっとも収まりのよい答えだった。

 一方、河合隼雄氏は「仏教は哲学、宗教、科学などを未分化のままで包摂しつつ壮大な体系をもっている(3)」という。石飛道子氏は『ブッダと龍樹の論理学』(株式会社サンガ、2007年)で、ブッダを不世出の哲学者だという。釈迦も龍樹も偉大な「哲人」なのである。しかも龍樹はインドが生んだ最大の「論理学者」であるという。

 とすると、仏教とは科学であり、論理学であり、哲学でもあり、宗教でもあると定義するのがもっとも正解に近いのかもしれないが、このように仏教の定義を広げることは、かえって私には仏教の目的が見えにくくなるような気がする。金岡氏のいうように、密教的なものがインド宗教の基盤をなし民衆の仏教であるとすれば、私は大乗仏教の発展の最後に華開いた密教がもっとも宗教としてふさわしいように思われる。
 宗教の定義はわが国においては宗教学者の数ほどあるといわれるが、私自身は神仏の実在性を確信することをもって宗教と定義づけたいと思う。それが「人間の苦悩を取り除いた精神的なやすらぎ」を保証すると考えるからである。

◆哲学思想から宗教へ
 現代人は宗教よりも哲学の方が、哲学よりも科学の方が真理を解き明かす学問だと考えているように私には見えるが、果たしてそうであろうか。科学における真理とは事物の唯物的客観的認識である、一方哲学における関心は、この認識に関する認識を裁く審判である。何に依って裁くのか、人間の「知」に依ってである。では「知」によって最終的な審判を下せるのか、人間の「知」の無謬性は一体何が保証するのか、その答えが「理性」である。しかし、カントが理性の問題を批判したように、哲学とは一方で理性を疑うことでもある。そうなると神の存在が問題となる。これが形而上学、即ち第一哲学である。

 しかし、釈尊の教えは神を中心にしてはいない。となれば、仏教における最終課題とは再び人間自身の問題に帰着せざるを得ない。それは確かに「知」の分野ではあるが、では「知を愛する」(哲学する)人間(という存在)は何に依って現存あらしめられているのか。釈尊の問題意識はおそらくここから出発し、この究極的な答えを覚られたとき、釈尊は哲学者を超えて仏陀になられたのではないかと考える。

 もし釈尊が哲学や科学というものを超えたとすれば、「知」だけではなく、何か直観に訴えてくる神秘的な「力」によってこの世の真相を把握したのではないかと考える。私はその「何か」を実感する力、身の内にあって身の外にもある何かの力、自力を発揮させる他力とでもいうべきその実在性(実在物ではない)を認めるところに宗教の特色があるように思う。大乗仏教がいうところの如来蔵、真如、仏性は、本来この「何か」を確信するところに成り立つ思想ではないかと思う。これは釈尊の説く教えが本来哲学ではなく「救い」を目的としていたことに由来するものと考えられる。

 言語思考によって説明し表現されるものを哲学というならば、空海は言語を超える世界を実相として説いている。釈尊は無師独覚と伝えられるが、一方、仏教史はその釈尊を神格化する過程で、時空を超えた仏の存在にこだわった歴史でもあったといえる。換言すればそれは「神聖なる何か」の追求であり、究極的には神仏の探求とも考えられる。

 以上のような問題意識から、空海の『弁顕密二教論』をテキストとして仏教の本質を考察したいと思う。『二教論』を採用したのは、空海がいまだ仏教の究極の教えは明らかにされていないという立場で本書を書いている点に注目したからである。(続)

(1)  松長有慶『生命の探求・密教のライフサイエンス』p.163、法蔵館、1994年
(2) 金岡秀友『空海弁顕密二教論』p.47太陽出版、2003年
(3)  河合隼雄『宗教と科学の接点』p.30 岩波書店、1990年

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