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道場荘厳と密教の象徴性


密教はしばしば象徴哲学であるといわれる。密教の修法は、例えば禅宗のように装飾性を削いだ無の世界に悟りの境地を見出すのとは異なり、その行法には多くの法具を用いて作法の手順等も細かく定められた儀軌にもとづく「道場荘厳」というものがある。密教学理論を教相というのに対して行法は事相といい、両者は密教における車の両輪とされている。そして「道場荘厳」のような事相には密教のもつ象徴的性格が表れているといわれる。


さて、「道場荘厳」にいう「道場」とは、本尊と行者が融合一体化する聖なる空間を意味する。荘厳とは飾るという意味で、修法に必要な場所である道場を飾るということである。何のために荘厳するのかといえば、そこに本尊を迎えて供養するからである。供養する場所は「大壇」といわれるので「壇上荘厳」のことでもある。密教は難解だといわれるが、厳粛な「道場荘厳」の修法儀式を実際に見聞すれば、密教儀式の特徴や、「密教とは何か」ということが感覚的に理解できるだろう。


真言密教における荘厳は、それらの一つ一つが悟りの世界を表す法界の道具立てである。例えば曼荼羅図などを用いる背景には「果分可説」の密教思想がある。この点は重要で、密教は神秘的で象徴的に見えるが、実は現実における衆生救済の宗教的儀式であり、一人行者の即身成仏だけをめざすものではない。同時に死後の世界を説こうとするものでもない。


では大壇荘厳の意味と内容について具体的に見てみよう。大壇とは大曼荼羅壇のことであり、曼荼羅の諸尊を勧請し、本尊と行者が「入我我入」の三昧に入って諸尊を供養する修法壇でもある。大壇の方形は大地を表す。この大地は行者の堅固不壊で不動なる菩提心とされる。壇は行者の心壇である。また方形の各辺は四智を表し、壇全体を法界体性智として五智輪円の大曼荼羅とみなすのである。壇上には壇敷という白布が敷かれ、壇の周囲は壇引きという白布で覆われる。聖なる空間である大壇の四隅には、障礙や煩悩が入らないように金剛橛という杭が打たれている。その杭を金剛線と呼ばれる五色で撚り合わせた紐でつないで道場を結界するのである。大壇には塔、瓶、輪、羯など三昧耶形の仏器の外に、六器、火舎、灯明などの供養具を置く。故に「大壇」は「供養壇」ともいわれる。


分かりやすくいえば、道場は本尊を迎える客間であり、壇は賓客を饗応するテーブルである。そこであたかも眼前に本尊の仏国土を再現するかのように観想し、本尊の姿を明瞭に観じるのである。本尊は神秘の法身仏である。修法の所作は、遠方から本尊を自宅に迎える接客作法さながらで、迎えの車を送り、長旅をしてきた賓客に閼伽水を献じて洗足をすすめ、お坐りいただく座を提供する。右手に大日如来の五智を象徴する五鈷を握り、左手で五鈷鈴を振って妙音を奏でて歓迎の意を表す。この振鈴に続いて、塗香、華鬘、焼香、灯明、飲食の五供養をなす。この五供養は先の閼伽水と合わせて、六波羅蜜の実践と功徳を表している。


このような一連の儀礼的な所作を通じて、行者自身が本尊と一体であることを観じる「入我我入観」の念誦法が始まる。自身を曼荼羅上に置き、同じく曼荼羅上の本尊に相応して両者が不二であると観じるのである。以上のような一連の行法は、確かに象徴的に見えるが、実は本尊と交流するための、自覚的で具体的な手順なのである。


一連の所作は、一見加持祈祷の儀礼に見えるが、そうであればただ見栄えのための儀式にすぎなくなる。大師の性格からして意味のないことはやらない。観念的な議論や儀式を重宝するような人ではないからだ。そこには必ず意味がある。


したがって「道場荘厳」での所作や法具類を指して、密教を象徴的だとするのはやや皮相な見方であろう。厳密にいうならば、「道場荘厳」そのものに密教の象徴性があるのではない。もしそれを例えるなら、登山家の装備品のようなものではないかと思う。法具類は山頂に到達するのに必要な地図やコンパスのようなもので、所作は安全な登山方法のようなものであろう。それらは象徴ではなく、あくまでも「実用的な道具」と「実践法」ではないかと思う。


つまり登山家が安全に登頂するために経験上考案したプロの装備類と同じで、密教の先達は本尊と交流するために「道場荘厳」を考案したのであろう。つまり「道場荘厳」や法具類に密教の象徴哲学を見るのではなく、それらは密教を明らかにするための実用品だと考えられる。これらの道具や手段を法式どおりに活用すれば、まさしく目的を達成できると実証される必需品に近いものではないだろうか。


目標の達成とは神仏との一体感である。そのためには神仏の加持が求められる。神仏の力は絶大で人間の欲望がそれを悪用すれば破滅も招く<詳しくは、当サイト「高橋憲吾のページ」『臓器移植問題③菩薩行の盲点』>。であればこそ、密教の行法は師資相承、今日まで厳正に伝授されなければならなかった。密教の「伝法灌頂」では何よりも受法者の機根を見るといわれる所以でもあろう。


では密教の象徴性とは何を指しているのだろう。思うにそれは宇宙万物・森羅万象が「法身の悟り」をシンボライズしているというところにある。法身は実相である限り、万物はそれぞれの存在形態と生命形態をもって象徴的に法身の悟りを説く。一匹の蜂も、小枝にそよぐ一枚の葉も、虹も雲も如来の象徴である。空海の「果分可説」とは、これら宇宙万物を通して如来の説法を解読した確信によるものであった。絶対的真理(真如)は現象界の事物を超えたものであるにしても、しかし現象界の事物を通じて悟ることができる。空海はまざまざとそのように実感した。


五大に皆響きあり、十界に言語を具す

ろく六じん塵ことごとく文字なり、法身はこれ実相なり。

『声字実相義』


三密はせつど刹土にさまね遍し けんこん乾坤はけい経せき籍の箱。

『性霊集巻一』


などの空海の言葉は、みな密教のもつ象徴の本質を語るものであろうと思う。


密教は全ての存在に生命的識大を認め、相互の関連性を明らかにする重層的・総合的な生命理論である。万物は宇宙の中に存在しており、人間もまた宇宙の中にある。人間それぞれが小宇宙として大宇宙に包まれている。「自分が宇宙であり、宇宙が自分である」という関係性をつかみとることが密教の原点となる。そしてこの二つの宇宙が結局は同質であることに気づくならば、人間は誰しも自らの心に秘められた宇宙の真理を通じ、大日如来という宇宙生命と一体化することができる。即身成仏の原点がここにある。


ろくだい六大 むげ無碍にして常にゆが瑜伽なり  体

ししゅまんだ四種曼荼 おのおの各 離れず  相

三密 加持してそくしつ速疾にあら顕わる  用

じゅうじゅう重重 たいもう帝網なるを即身と名づく  無碍

ほう法ねん然にさ薩はんにゃ般若を具足して  

しんじゅ心数・しん心のう王、せつ刹じん塵に過ぎたり

おのおの各 ご五ち智・むさい無際ち智を具す

えん円きょうりき鏡力の故にじつ実かく覚ち智なり  成仏

『即身成仏義』




≪参考文献≫

『真言宗の法式・道場荘厳』添野智譲 著

『別行次第秘記』浄厳 著


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