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空と縁起の一考察 ②

第二回『弁顕密二教論』に見る空海の仏教観

 空海は顕教よりも密教が優れていることを示すために『弁顕密二教論』を著して立宗の宣言書とした。私は永い間、密教は大乗仏教の系譜にありながらも顕教とはどこか次元が異なっているように感じてきたが、私が『二教論』をとり上げるもう一つの理由は、その内実を探りたいからである。九顕一密とは何か。この違いを空海独自の言語感覚に焦点を合わせて『二教論』から言語論を中心に考察しようと思う。

 結論めいたことをいえば、『二教論』の要諦は、言語で著わされた仏教の真義を、経典や論書から読み取る「秘訣」を紹介しているように思われる。言語の意味空間を、本質的、直観的、総合的に捉える力、いわば紙背を読み取る肝心を紹介することにあるように思われる。
 空海は本来その力を万人は備えているが、受け取る人の執見によって隠れているのであって、経典の深い義理は衆生の機根によって現われるという表現で示している。『二教論』のメタファー「天鬼の見別」「一水四見」の譬えはそのことであろう。「一水四見」の天人の見識(瑠璃宝厳の池)こそが仏教の見識である。密教の立場からすればいわゆる「密教眼」によって、つまり言語の本質を把握することによって成就するものではないだろうか(1)。
 もし空海の著作が一筋縄ではいかぬとすれば、まさに読み手側の「密教眼」が試されるからだろうと思う。そうであれば私も「密教眼」(といえるかどうかは別として)にならって、ともかく『二教論』を読み、空海の喩釈・注解にこめられた主張を咀嚼するという作業を通して仏教の真義を探りたいと思う。作業は以下のように進める。

  1. 『二教論』からは要所のみを抽出した。
  2. 念のためにまず原文を紹介し、原文の趣旨を損なわないように、また空海の真意を汲み取るように心掛けて[大意]にまとめた。 [大意]中の[ ]は原文中の語句、( )は私の補足である。[大意]をまとめるにあたっては、『弘法大師空海全集』第二巻、金岡秀友『空海弁顕密二教論』、宮坂宥勝『空海コレクション1』、中村本然『辯顕密二教論を読む』を参考にした。
  3.  大師の論述・喩釈も、同様に[空海・大意]と標示してまとめた。原文が煩わしい場合は現代文の[大意]のみを読みつないでも文脈は通じるはずである。   
  4. [解釈]は私の「読み」であって、『二教論』が必ずしもそういう形で叙述していない部分もあるが、その底に伏在している空海の思想の構造を読み解くために、私なりの道筋で組み立てなおしてみたささやかな思考実験でもある。

◆言語の深秘に迫る顕密の相違
 <原文>『辯顕密二教論』巻上(沙門空海撰)
 ◇顕教と密教
夫佛有三身、教則二種。應化開説名曰顕教。言顯略逗機。法佛談話謂之密蔵。言祕奥實説。(中略)若據祕藏金剛頂經説。如來變化身爲地前菩薩及二乘凡夫等説三乘經法、他受用身爲地上菩薩説顯一乘等。並是顕教顯教是也。自性受用佛自受法樂故與自眷屬各説三密門。謂之密教。此三密門者、所謂如來内證智境界也。等覺十地不能入室。何況二乘凡夫誰得昇堂。故地論釋論稱其離機根、唯識中觀歎言斷心滅。如是絶離並約因位談非謂果人也。(中略) 問顯密二教其別如何。答他受用應化身隨機之説謂之顯也、自受用法性佛説内證智境是名秘也。問應化身説法諸宗共許、如彼法身無色無像、言語道斷。(以下略)
[空海・大意]
「そもそも仏には三身(法身・応身・化身)があり、その教えには顕教と密教の二種類がある。顕密の違いを答えれば、応化身の仏が衆生の機根に合わせて言語でわかりやすく説いたものが顕教であり、[自受用法性佛](法身)がみずからの覚りの境界(真理そのもの)を、ありのままに自受法楽のために説くのが密教である。(中略)密教は機根と言論を離れているが故に言語道断といわれる。(以下略)」
[解釈]
さて『二教論』の序論において、空海はまず顕密の違いを解説する。すなわち、言語・理論で説く顕教は論理性が高く、密教は言語を超えた体験性(事相)を肝心とするという意味ではないだろうか。法身の説法は衆生の言語を離れるとは、顕教の説法と密教の説法との根本的な相違を言語の深浅において述べたものだと思われる。

 ◇法身の説不
問、應化身説法諸宗共許。如彼法身無色無像、言語道斷心行處滅無説無示。諸經共説斯義、諸論亦如是談。如今何儞談法身説法、其證安在乎。答、諸經論中往往有斯義。雖然文隨執見隱、義逐機根現而已。譬如天鬼見別人鳥明暗。
[空海・大意]
「質問する。応化身の説法は諸宗いずれも認めるところであるが、法身は色も形象もなく、言葉で表現される手立てもないのにどうして法身が説法をするといえるのか。答えます。法身の説法はこれまでの顕教の諸経論にも著されてあるが、読み手自身の執見が経論の真実の意味を隠してきた。天鬼の見別や人鳥の明暗の譬えなどはこのことである。」
[解釈]
密教の教えはこれまでの諸経論でも説いてあるのだが、読み手が文字面にばかりに固執しているため、自らがその真義を隠してきた。つまり意味の真相が把握なされていないということであろうか。確かに文言にとらわれすぎると「木を見て森を見ず」の議論になる場合が多い。空海のこの言葉の裏には、教相のみにとどまらず事相の肝心を籠めているように思われる。問答決疑で早くも空海独特の言語観および神仏観が開示されていると思われる。

 ◇伝匠の談不
問、若如汝説諸教中有斯義。若如是者何故前來傳法者不談斯義。答、如來説法應病投藥。根器萬差針灸千殊。隨機之説權多實少。菩薩造論隨經演義不敢違越。是故天親十地馳因分可説之談、龍猛釋論挾圓海不談之説。斯則隨經興詞非究竟唱。雖然傳顯法將會深義而從淺、遺祕旨而未思。師師伏膺隨口蘊心、弟弟積習隨宗成談。爭募益我之鉾未遑訪損己之劍。(中略)馳胸憶而會文、驅自宗而取義、惜哉古賢不甞醍醐。
[空海・大意]
「では諸経典にこの義(法身説法)があるにもかかわらず、なぜ歴代の諸経の伝法者たちは私のように法身説法を説かなかったのかというと、[如来](応化身)の説法は機根に応じて千差万別の方便で説いたからである。したがって天親(世親)の『十地経論』は因分を可説とし、龍猛の『釈摩訶衍論』には[性徳円満海]は談ずることができないと説かれている(果分不可説)。これらは応化身の教説にしたがって経典を解釈すればそのようになるという意味であろう。故に応化身は究極の説法ではない。とはいえ、顕教を伝えてきた学匠たちは甚深なる真意(法身の説法の深い意味)を会得していた。しかし理解し易い顕教から勧め、内実を隠してきたために弟子たちは"法身は説法しない"という定見をもつに至った。また指導者の中にも自宗の立場、教義にしたがって意味を解釈するため、弟子たちは法身説法の真実を究める暇もなかった。まことに惜しいことである。」
[解釈]
方便が目的化すると、ときに本末転倒することがある。思弁や知的論理で、現象の背後の本体的なものに迫ろうとする形而上学は、あくまで手段であるという空海の考えが表れているのではないか。いわゆる学問仏教といわれる哲学的論述は、むしろ長引く教義論争に脚をとられて所期の目的達成を遅らせると考えたのではなかろうか。三劫成仏(顕教)と即身成仏(密教)の相違の意味するところでもあろう。

 ◇釈論による顕密の分位
龍猛菩薩釋大衍論云。一切衆生從無始來、皆有本覺無捨離時。何故衆生先有成佛後有成佛今有成佛、亦有勤行亦有不行、亦有聰明亦有暗鈍、無量差別。同有一覺皆悉一時發心修行到無上道。本覺佛性強劣別故如是差別。無明煩惱厚薄別故如是差別。若言如初者此事則不爾。所以者何、本覺佛性圓過恒沙之諸功徳無増減故。若言如後者此事亦不爾。所以者何、一地斷義不成立故。如是種種無量差別皆依無明而得住持。於至理中無關而已。
[大意]
「衆生全てに本来本覚(仏性)があるにもかかわらず、成仏に遅速の差はあるのか、という疑問に答える。その理由をそれぞれの能力、すなわち仏性の強劣や煩悩の差のためだと考えるのは正しくない。本来備わっている仏性に個人差はないからだ。また無明による煩悩の厚薄によるものでもない。そのようにさまざまな差別を考えること自体が無明によって生じるのである。本来の仏性に関わることではない。」
[解釈]
このように空海は『釈摩訶衍論』を引用し、まず機類の利鈍について説く。続いて五重の分位、即ち五重問答について述べる。

 ◇五重の分位
(便宜上①から⑤まで番号を挿入)
①若如是者、一切行者斷一切惡修一切善、超於十地到無上地、圓滿三身具足四徳。如是行者爲明無明。如是行者無明分位非明分位。
[大意]
「①もしそうであれば、修行者が一切の悪を断ち一切の善を修めて修行の段階を完成して、この上なき境地[無上道]に到り、法身、報身、応身、の三身のはたらきが完成され、常、楽、我、浄の四つの徳をそなえることになるが、それは仏の境地[明]に到ったかといえば、そのような行者は無明の境地にあり仏の境地ではない。」
[解釈]
次に空海は五重の分位、即ち五重問答について述べる。問答①は法相宗であり顕教にカテゴライズされる。つまり厳しい修行を成就した者だけが徳を修めて成仏できるというのは真の仏性を理解していないという空海の思想が読み取れる。

②若爾清淨本覺從無始來不觀修行非得他力。性徳圓滿本智具足。亦出四句亦離五邊。自然之言不能自然。清淨之心不能清淨。絶離絶離。如是本處爲明無明。如是本處無明邊域非明分位。
[大意]
「②では人間には清浄本覚は先天的にそなわっているので、修行を必要とすることも仏の力[他力]の助けを得る必要もない。本来の仏の智慧を具足していることになる。これでは[四句]や[五辺](有・空・亦有亦空・非有非空、および非々有非々空)の認識論を超越しており、通常の言語も清浄の心もはるかに隔絶しているとしかいいようがない。これは仏の境界であるか、それとも無明の境界であるかといえば、無明の境界である。」
[解釈]
②は三論の批判であろう。おそらく空海は三論宗側から発問されるであろう上記のような問い自体を問題視したのではなかろうか。すなわちあまりにも形而上学的認識論(空の相対的分析)に埋没することは仏教本来の意義からは遠ざかるといいたいがためこの部分を引用したように思われる。

③若爾一法界心非百非背千是。非中非中背天背天、演水之談足斷而止、審慮之量手亡而住。如是一心爲明無明。如是一心無明邊域非明分位。
[大意]
「③もしそうなら、絶対的真理の世界にある心[一法界心]は空の立場からの否定的表現[百非]でも、仮有の立場からの肯定的表現[千是]でも把握することができない。また第三の空にも仮有にもかたよらない中道でもない。であればこの上なき真実[第一義]ということも当たらないから、論述することも、具体的に思惟する方法もない。このような心は悟りというべきなのか、無明というべきか。このような心は無明による偏った境界であり、仏の境界ではない。」
[解釈]
これは天台宗の三諦を語っているように思える。「一法界心」は中道でも第一義にも当たらないから、思惟したり論述したりすることを不可能とするのは無明であるとしいている。逆にいえば可能であるということか。三諦を超えた世界(密教)があるという龍猛菩薩の主張を紹介しつつ、[一法界心]は知的思考を超越して実感できるという空海の主張が込められているようである。
④三自一心摩訶衍法、一不能一假能入一。心不能心假能入心。實非我名而目於我。亦非自唱而契於自。如我立名而非實我。如自得唱而非實自。玄玄又玄。遠遠又遠。如是勝處爲明。如是勝處無明邊域非明分位。
[大意]
「④一心に独自の本体・現象・作用[三自]をそなえる大乗の覚りは衆生の言葉を仮に用いたものであるが、その奥に表される覚りは衆生の概念よりはるかに幽遠な境界である。このように考える境界は仏の境界であろうか、それとも無明の境界であろうか。このような勝れた境界もまだ仏の境界ではない。」
[解釈]
これは華厳宗をさす。冒頭の三自とは三自一心摩訶衍法のことで、十玄縁起・理事無礙の華厳宗に相当する。中国の仏教者たちは漢訳仏典を解釈し、独自の教理体系を築いていく際に中国伝統思想の概念を「理」に用いた。その場合「理」は普遍的・抽象的な真理を表すことが多く、特に個別的具体的な事象である「事」と対になると、現象の背後にあって現象を現象たらしめている理法を意味する。華厳教学では「理」は最も重要な術語となり、理事無礙、つまり普遍的な理法と個別的な事象とが一体不可分で、矛盾なく調和しているという華厳教学の特徴を示す言葉となった。
空海は華厳を第九住心にしているように、華厳学を高く評価したが、まだ完全ではないと見た。これは『釈衍論』の思想でもあることがわかる。おそらく龍猛にとっても空海にとっても、密教とは、華厳の幽遠な世界を思弁によって認識する(形而上学)ことよりも「実践」によって体感することであるといいたかったのではないだろうか。

⑤不二摩訶衍法唯是不二摩訶衍法。如是不二摩訶衍法爲明無明。
[解釈]
不二摩訶衍の法は「明」の領域であるか、というこの⑤の問いに対して答えは記されていない。答えは不二摩訶衍法が「明」であるということなのだろうが、何がどのように「明」なのかは記されていない。これに対する空海の喩釈は次のようなものである。

 ◇大師の喩釈
喩曰、已上五重問答甚有深意、細心研覈詣極、一一深義不能染紙、審而思之。
[空海・大意]
「以上の五重問答には甚深なる意味がある。よく考慮してその真意を究めよ。一々の深い意味を言葉で紙上に表現できないので充分に思慮して、その深い意味を研究せよ。」
[解釈]
こちら側にボールが投げ返されるときである。まさに読者の「密教眼」で真意を洞察せよということであろう。これは空海が常に読者に期待したことであったようだ。『般若心経秘鍵』でも、経典の顕密の判定というものは、使われている文字や言葉のみに依るのではなく人の見方のよるのだ。「顕密は人なり」「声字はすなわち非なり」(顕密在人、聲字即非)との言葉にもあるように、これは空海を読むときの要諦であると考えられる。このように冒頭で読者に「密教眼」の心準備を促しておいて、続けて不二摩訶衍法の重要なポイントを挙げている。

 ◇果海の問答
又曰、何故不二摩訶衍法無因縁耶。(略)離機根故。何故離機根、無機根故。何須建立、非建立故。:是摩訶衍法諸佛所得耶。能得於諸佛。(略)所以者何、離機根故。 
[大意]
「何故不二摩訶衍法には因縁がないのかというと、機根を離れているからである。何故か、それは相応する機根がないからである。では何故この法を建立するのか。実は一般的な意味での建立ではない。(略)要するにこの教えが究極の法を説いてはいても機根に応じた説法でないからである。」
[解釈]
つまり相手の能力に応じた相対的な説き方以外の説法があるということであろう。これは法身説法に通じる点で、無因縁・無機根であるという前提から、顕教の説法とは次元の異なる説法であることが知れる。

是摩訶衍法諸佛所得耶。能得於諸佛。諸佛得不故。菩薩二乗一切異生亦復如是。性徳円満海是焉。所以者何、離機根故。離教説故。
[大意]
「ではこの無因縁・無機根の摩訶衍の法(仏)は、それらの源である大乗の諸仏を摂めうるのか。能く諸仏を摂めうる。逆に諸仏はこの法を摂めうるか。否である。二乗(菩薩や声聞や縁覚)や一切の衆生[一切異生]も同様にできない。不二摩訶衍の諸仏は、完全な仏の本質そのもの[性徳円満海]であるから、機根や経典の説を離れたものだからである。」
[解釈]
つまりここでも、相対的な諸仏の教説では絶対真理の領域[性徳円満海]は体得できないという。だが絶対的真理の世界は大乗の諸仏や二乗や衆生を受け入れているという。これは本人が気がつかぬとも、元より救われている究極の「法身の世界」があるということではないだろうか。しかもそれが密教の世界であると。

諸佛甚深廣大義者。即是通總攝前所説門。所謂通攝三十三種本數法故。此義云何。言諸佛者即是不二摩訶衍法。所以者何。此不二法形於彼佛其徳勝故。大本花嚴契經中作如是説
[大意]
「[諸仏深甚広大義]というのは、大乗仏教の法の全てに通じる教え(今まで説いた法門を総括していることを表す)という意味である。不二摩訶衍法の諸仏は、他の教法で覚った仏(三十二種の因仏)と比較するとはるかに勝れているという意味のことを、『大本華厳契経』の中に、二つの仏の優劣で説かれている。」

若爾何故分流花嚴契經中作如是説。盧舍那佛三種世間爲其身心。
三種世間攝法無餘。彼佛身心亦復無有所不攝焉。盧遮那佛雖攝三世間而攝不攝故、是故無過。
[大意]
「もしそうであるなら、なぜ流布している『華厳契経』の中に教主たる盧遮那仏は人間の世界と、自然の世界と、仏の世界(三種世間)全てに遍満していてそれを身心(十身具足の仏身)としていると説かれるのか。そのわけは、[盧遮那仏]は[三世間]を摂めるといっても、因分は摂めても、果分を摂めることはできないという意味における三世間であるからだ。だから因果を完成した[不二摩訶衍法]の諸仏は、因仏より勝れていると説く大本は、流布本の説明と違いはない。」
「解釈」
続けて不二摩訶衍(果分)の諸仏が自性法身であることを明かして、詳細については『金剛頂経』を紹介して秘密蔵への関心を促すのだ。空海は次に顕教の果分不可説の根拠を紹介する。

◇華厳章疏による果分不説
華嚴五教第一卷云。今將開釋迦佛海印三昧一乘教義略作十門。初明建立一乘者、然此一乘教義分齊開爲二門。一別教二同教。初中亦二。一是性海果、當是不可説義。何以故、不與教相應故。即十佛自境界也。故地論云因分可説果分不可説者是也。二是縁起因分即普賢境界也。
[大意]
「今まさに釈尊が、海にあらゆるものが映るように、全てのものを映し出す心の静まった状態[海印三昧]で、一乗(華厳)の教義のあらましを説こうとされて、十に大別された。最初の建立乗は、特別に勝れた菩薩に説かれる[別教](華厳経)であり、もう一つは[同教](法華経)である。[別教]の中にまた二種あって、一つは仏の境地[性海果分]であり、これは説くことができないという旨である。なぜなら教えを説く言葉と相応しないからである。即ちこれは盧遮那仏が自ら体得する独自の境界なのである。したがって世親の『十地経論』には、修行の段階は説くことができる[因分可説]が、覚りの境地は説くことができない[果分不可説]と説かれるのである。別教のもう一つは、衆生の機縁に合わせて説かれた教え[縁起因分]である。」

◇十玄縁起無礙法門(華厳宗)
又中卷十玄縁起無礙法門義云。夫法界縁起乃自在無窮、今以要門略攝爲二。一者明究竟果證義。即十佛自境界也。二者隨縁約因辯教義。即普賢境界也。初義者圓融自在一即一切一切即一。不可説其状相耳。如花嚴經中究竟果分國土海及十佛自體融義等者即其事也。不論因陀羅及微細等。此當不可説義。何以故、不與教相應故。故地論云因分可説果分不可説者即其義也。
[大意]
「あらゆるものが互いに縁となって現われて起こってくる[法界縁起]は自在極まりない。主要な点を略して二つ挙げると、第一は究極の悟りの境地[究竟果証]を明らかにするもので、即ち盧遮那仏が自ら体得した境地である。第二には縁に従い、因に関連させて教義を説明したものであり、普賢菩薩の境地である。初めの究極の悟りの教えとは一切が完全に自在に関わり合い、一が即ち一切であり、一切が即ち一である。この究極的悟りの様相は説明することができない。『華厳経』に説く究極の仏の世界や教えはまさにそれにあたる。この境界は教義を説く手段と相応しないため説明することができない。故に『十地論』には因分可説、果分不可説が説かれているのである。『華厳経』と同じ意味なのである。」

問、義若如是何故經中乃説佛不思議品等果耶。答、此果義是約縁形對爲成因故説
此果。非據究竟自在果。(中略)
[大意]
「では何故『華厳経』の中の「仏不思議法品」などに仏の覚りの境地[果]を説いているかといえば、この仏不思議法品は衆生の立場に立って悟りを説明するために、分かり易く、相対的な表現を借りて論じているからである。究極的な覚りではない。(中略)」

又云、問上言果分離縁不可説相。但論因分者、何故十信終心即辯作佛得果法也。
[大意] 
「次に、覚りの境界は縁を離れていて、言葉では説明できないものであって、覚りに至るまでの状況は説明できるというのであれば、何故、菩薩行の初段階の終るころ成仏をなす[作仏得果]という教法を説くのかという疑問に答える。」

答、今言作佛者、但初從見聞已去、乃至第二生即成解行、解行終心因位窮滿者、於第三生即得彼究竟自在圓融果矣。由此因體依果成故。但因位滿者勝進即沒於果海中。爲是證境界故不可説耳。
[大意]
「それは修行の初段階が終ると、次に華厳宗でいう[三生成仏]という段階を経て次第に仏果を得るという意味である。第一の生は、『華厳経』を見聞し、第二の生では華厳の教えを学問で了解し、実践修行する段階に進み、この段階の終わりに修行段階を究めつくした行者は、第三の生でその究極の自在な仏の境地を得るのである。これは修行の階位によって相対的に成り立つものである。但し、修行の階位を究めつくした者は、さらに勝進して覚りの海の中に入ることができるが、これは覚りの世界そのものであるから説明できない。」

◇大師の喩釈
喩曰、十地論及五教性海不可説文、興彼龍猛菩薩不二摩訶衍圓圓性海不可説言懸會。所謂因分可説者顕教分齋、果性不可説即是密蔵本分也。何以知然、金剛頂経分明説故。有智者審思之。
[空海・大意] 
「『十地論』および「華厳五教章」に説かれる究極の覚りの世界は説くことができないという文と、前述の『釈摩訶衍論』に説かれる究極の覚りの世界は説くことができないという文は、内容が一致している。つまり因分可説という立場は顕教の教えであり、(顕教側から)果性不可説とされる、まさにその覚りの世界を説くのが密教の本分である。このように知るその根拠は『金剛頂経』に説かれてある。智慧ある者はつまびらかにこのことを思うべきである。」
[解釈」
真言密教の根本経典となる『金剛頂経』を紹介しながら、仏教の究極を実践(三密行)に置く空海の仏教観が語られているが、私はこれを空海の宗教観と見ている。私は顕教を言語で説く哲学性の高さにおいて評価し、密教を言語を超越した神秘的な実践において評価するものである。

◇天台章疏による果分不説
天台止観第三巻云。此三諦理不可思議無決定性實不可説。若爲縁説不出三意。
一随情説(即随他意語)、二随情智説(即随自他意語)、三随智説(即随自意語)。
[大意]
「天台大師の『摩訶止観』三巻にはこのようにある。この空・仮・中の三諦の真理は衆生の思慮の及ぶところではなく、衆生の論理では決定し得ない。もし機縁にしたがって相対的に説明するならば、随情説、随情智説、随智説の三つの説き方がある。」

不識三諦大悲方便而爲説有門空門空有門非空非有門。是諸凡夫終不能見常楽我浄眞實之相。各執空有互相是非如彼四盲。
[大意]
「三諦を知らない凡夫の為に、仏は大悲の方便をもって、有門・空門・空有門・非空非有門を説明して理解を促すが、諸々の凡夫はついに常・楽・我・浄という真実の姿を見ることができず、おのおのが理解した空、有にと執われて互いに非難しあうこと四盲の如くである。」
「解釈」
まさに「空」についての大激論である。空海はここで不可思議極まりない「空」を、三諦による覚りの説き方として三通り(随情説、随情智説、随智説)を紹介している。この箇所を引証した意図は何か。おそらく「空」は説明の及ぶところではなく、もしも三諦を形而上学的な理解をするならば、仏との入我我入は困難であることを示唆しているのではないか。同時に「空」を哲学的に論争する無意味さを暗に批判したものと考えられる。

所以常途解二諦者二十三家。家家不同各各異見執自非。雖飲甘露傷命早夭云云
[大意]
「同時に真・俗の二諦の解釈ですら二十三の見解の相違があり、それぞれが自らの見解を主張しあって他を非難する。さながら仏の教え(甘露)を飲み(学び)ながら傷つけあっているようなものである。」
「解釈」
この二諦についての論争も、哲学論に傾いた顕教の様子が目に浮かぶ。そのような学問仏教はむしろ仏の教えから遊離するというのであろう。空海は『摩訶止観』三巻を引きながら、龍樹の空の理論展開を、もし論理学として引き継ぐ学説で停滞すれば、一般学僧にとってあまりにも難解であり、成就するには迂遠であると考えていたのではないか。実際、龍樹の論理は通常の言語感覚では容易に及ぶところではない。

随智説三諦者、從初住去非但説中絶於視聽眞俗亦然。(中略)若一若三皆絶情望。尚非二乗所測、何況凡夫。(中略)如是説者名爲随智説三諦相。即是随自意語也。
[大意]
「随智説の三諦とは、ただ中道の真理だけが仏の悟りの境界であるとするばかりでなく、真も俗もいずれも衆生の思慮を越えていて説くことができないとする。(中略)あるいは中道という言葉を使い、あるいは三諦という言葉で表現しても、衆生の思い描くことは不可能で、たとえ声門や縁覚さえはかり知ることができないのだから、まして凡夫では全く知りえない。これが髄智説の三諦であり、仏の自身の意(こころ)を語る教説[随自意語]である。」

◇大師の喩釈
喩曰、此宗所観不過三諦一念心中即具三諦。以此爲妙。至如彼百非洞遺、四句皆亡、唯佛興佛乃能究盡、此宗他宗以此為極。此即顕教關楔。但眞言蔵家以此爲入道初門。不是秘奥、仰覺薩堹不可不思。
 [空海・大意]
「この天台の観ずるところは、空・仮・中という三諦で表現される覚りの段階にすぎない。だがこの摩訶止観で否定的表現を重ねても[百非]、論理的分析を重ねても表現が及ばず[四句皆亡]、その境界はただ仏と仏とだけが互いに究め尽くことが可能である[唯佛興佛乃能究盡]とするのは、天台にかぎらず、他の宗ともに究極の覚りとしている。これが顕教の要点といえよう。しかし、真言密教においてはこれを入門の入り口とする。だから天台宗は覚りの究極[秘奥]ではない、求道者はよくよく考えるべきである。」
[解釈]
要するに空海は天台摩訶止観による三諦の体得では真に仏の境界に入我我入することは難儀だといいたかったのではないか。たとえ難儀を克服してたどり着いたところが初門では、最終ゴール(唯仏与仏)に到達するのはいつのことか。つまり顕教は修行方法が劣っているといいたいのだ。
顕教による「空」の理解を究極の奥義とするのなら第十住心に位置しなければならないが、そうはなっていない。三論宗は第七、天台法華は第八住心である。とすれば、空海の空観は中観派の「空」をさらに密教的に究めたものではないかと推論される。ある意味で次元の異なった地点における「空」の覚りが、果分可説・即身成仏の確信につながったように思われてならない。この問題は第四回(密号の「空」と顕教の「空」)・第五回(密教と科学の出会い)で精述する。

◇『入楞伽経』の説文(天台宗の教義)
楞伽経云。佛告大慧、我為曾行菩薩行諸聲聞等依無餘涅而興授記、大恵我興聲聞授記者爲怯弱衆生生勇猛心、大恵此世界中及餘佛國有諸衆生行菩薩行而復楽聲聞法行、爲轉彼心取大菩堤、應化身佛為応化聲聞授記。非報佛法身佛而授記莂。
[大意]
「仏が大慧に告げられた。私は昔菩薩の修行をしている声聞たちの中で、無余涅槃に入ろうとしている者に将来必ず仏に成ることの励ましを授けた。それは修行に精進努力する心を起こさせるためである。この世界には菩薩の行を行いながら声聞の教えを修行するものがいるので、彼らを大乗の道に導くためである。この成仏の予告は、仮に声聞の姿を示した応化身の私が声聞のために授けるのである。だから、報身仏や法身仏として授けるのではない。」

◇大師の喩釈
喩曰、依此文法華經者是應化佛所説。何以故、爲應化聲聞等佛授記莂故。或者談法身説甚誣罔而已。
[空海・大意]
「この経にあるように、『法華経』は人々を導くために相手に 応じて現われる存在である応化仏によって説かれたものである。(中略)ある者が「法華」を真理そのものである法身仏の教説であるといっているが、それは甚だしく人をあざむく誣罔の主張というべきだ。」
[解釈]
誣罔とは、おしつけがましい偽りという意味である。この手厳しい批判の対象は誰を指しているのか。ある者とは、最澄の密教理解(円密一致の立場)に対する抗議の意のようにも受け取れる。だが最澄と決別したのは弘仁七年で、『二教論』は弘仁六年頃に書かれたという説もあることから、当時、他にも最澄のような主張があったとも推測できるし、あるいは自身の主張を補強するために設定した架空の人物であったとも考えられる。

◇法相章疏による果分不説
引証文献は慈恩法師の『大乗法苑義林章』巻第二。法相宗系の論書の説の紹介。二諦義の説文で世俗諦を四種、勝義諦を四種挙げ詳細に解説されてある(内容省略)。

◇大師の喩釈
喩曰、此章中勝義勝義廢詮談旨聖智内證一眞法界體妙離言等、如是絶離即是顯教分域。言因位人等四種言語皆不能及。唯有自性法身以如義眞實言能説是絶離境界。是名眞言秘教。金剛頂等經是也。
[空海・大意]
「この『大乗法苑義林章』に説かれる四種の勝義諦のうち、第四の最高の真理を[勝義勝義]・[廃詮談旨]・[聖智内證]・[一眞法界]・[體妙離言]などというが、このような絶離の境を説くのは顕教の領域である。因位(修行の段階)にある人たちの四種類の言説(相言説・夢言説・妄執言説・無始言説)の及ぶところではない。ただ自性法身だけが如義真実なる言説をもって、この絶離の境界を説きたものうである。これを[真言秘教]という。『金剛頂経』などの経典がこれである。」
[解釈]
空海の解説は明瞭である。顕教は最高の真理である勝義勝義を言語や思慮を絶した世界と見るが、それは人語で思考するからそのように言わざるを得ないのである。勝義勝義は所詮人間の言葉をもって説かれるところではない。法身仏のみが如義言説という真実の「仏の言葉」で説いているのであり、密教の教えはそれを真言秘教という。人語で法身の内証に迫ろうとすること自体、根本的に限界がある。哲学的思考は人語思考の領域を出ないから、顕教としては、仏の絶対的境界は言語表現を超えた絶離(果分不可)というしかないのだ。空海はそのようにいいたいのではないかと思われる。

◇三論章疏による果分不説(『智度論』より三論宗の教義)
大智度論第五云。(略)又卅一云、復次離有爲則無無爲。所以者何、有爲法實相即是無爲。相者則非有爲。但爲衆生顚倒故、別説有爲相者生滅住異、無爲相者不生不滅不住不異。是爲入佛法之初門。
[大意]
「また『大智度論』第三十一巻には次のように説かれている。現象([有為])を離れて絶対の真理([無為])はない。何故なら現象の本当の姿は絶対の真実だからである。しかし、絶対の真実の姿は現象そのものではない。ただし、人々は誤った見方をしているために、相対的に分別して、現象の姿(有為の相)とは、生起[生]・生滅[滅]存続[住]・異変[異]と捉え、絶対の真実の姿(無為の相)とはそれとは逆の[不生]・[不滅]・[不住]・[不異]であると説くのである。このような理解は仏法に入るための初門なのである。」
[解釈]
『大智度論』引用巻五の内容は省略したが、上記の引用はそこで説かれた『中論』の「八不」を究極の真理として尊重する三論宗に対するものである。この引用で想像できることは、空海の「空」に対する見方は、三論宗に留まっていないということである。ために、「仏法に入るための初門」と説くのであろう。

◇般若灯論の説文(真諦の無相)
(原文)
龍猛菩薩般若燈論觀涅槃品頌曰、
彼第一義中、佛本不説法、佛無分別者、説大乗不然、
化佛説法者、是事則不燃、佛無心説法、化佛非是佛、
於第一義中、彼亦不説法、無分別性空、有悲心不燃、
衆生無體故、亦無有佛體、彼佛無體故、亦無悲愍心。
 (略)
ここは全文読み下しにする。
「龍猛菩薩の『般若燈論』觀涅槃品の頌に曰く。かの第一義の中には、仏もとより説法したまはず 仏は無分別者なり 大乗を説くこと然らず 化仏説法すといわば、この事 則わち然らず 仏は説法に心無し、化者は是仏に非ず 第一義の中に於いて 彼また説法せず 無分別性空にして 悲心有ること然らず 衆生無体の故に また仏体有ること無し かの仏 無体の故に また悲愍の心無し。」
[解釈]
ここに説かれる第一義の仏とは真理の本体である法身仏のことであろう。法身仏の特徴(自性)とはどのようなものかについての説明であろうと思われる。上記の原文をわかりやすく現代文にまとめてみる。
「かの第一義の中では仏は(人語による)説法はしない。(人語を超えていれば思慮も分別もないから)大乗を説く事もない。故に化仏(応化仏・変化仏)が真理を説くということは適切ではない。つまり応化仏の仏説は方便である。故に化仏は真の仏ではない。法身仏は本来限定された対象に向けて真理を解くことなど考えてもいないのである。なにしろ無分別性空であれば、(顕教でいうところの)慈悲心などあるはずが無い。生きとし生けるものという実体はないし、(顕教でいうところの)仏という実体もない。仏の実体がないのに、(顕教でいうところの)慈悲心があるわけがない。」
[解釈]
この意味をどのように理解すればよいのだろう。もし、法身の本性は「空」であるあると考えれば、法身仏は「空」という姿(自性)でもって究極の真理(顕教の説く慈悲ではない)を明かしているように思われる。以上のように読み取れば、顕教(三論宗)の説く「空」とはニュアンスが異なってくるように思われる。

分別明菩薩釋云、此中明第一義者,一相故所謂無相。無佛亦無大乗。第一義者是不二智境界。汝説偈者正是説我佛法道理。今當爲汝説如來身。如來身者雖無分別以先種利他願力、爲大誓莊嚴熏修故、能攝一切衆生於一切時起化佛身。囚此化身有文字章句次第出聲。不共一切外道聲聞辟支佛故、而爲開演二種無我。(中略)第一義佛爲説法因故、不壊我所立義亦不壊世間所欲。又云、第一義中如幻如化誰説誰聴、以是故如來無處所、無一法爲得。
[大意]
「分別明菩薩の注釈によると、この中で明かされる第一義とは本来仏教は絶対平等であって差別を離れているから[一相]、限定的に表現される様相はない[無相]。仏という特別の姿もなく、大乗という格別な教法もない。第一義というのは、比類なき真実の智慧[不二智]である。故にこの頌は正しく仏法の道理を説いている。今ここに、仏身(の奥義=如来の身)について述べよう。仏身とは無分別の境界とはいっても、それ以前に、あらゆる生きとし生けるものを救済しようとの大いなる誓願に添って仏の真実の智慧を実現されたのであるから、全ての衆生を救い摂め取って、仮に姿を現した仏の身体(応化身)を生み出し、この応化身によって、文字や章句をもって教えを説き示されるのである。第一義諦の仏(真理の本体=法身)があるから、応化身が顕現することができ、また相応した衆生の教化ができるのである。(中略)この第一義が即ち応化仏の説法の因(もと)であるから、私の二諦の意味は世間の説と矛盾しない。また第一義の中にはこれといった固定説はないので、幻のようであり、変化のようでもあるといえる。一体これを誰が聴き、誰が説明するであろうか。この故に如来には説法の場もなく、とくに説かねばならぬ教えというものもあるわけではない。」
[解釈]
空海は要するに顕教のいう仏(応化仏)の出身地(故郷=本体)を覚らせようとしているのではないか。つまり、法身如来は本来応化仏(顕教)でいうような意味での説法の意図はない。何故なら真理の本体そのものであるからだ。しかし如来は真理の顕現という形で大慈悲心を発揮されている。それを応化仏は文字や言語という方便によって個別、限定的に慈悲を発揮するのだが、法身の慈悲は次元が異なる。法身如来の慈悲とは、例えば森羅万象や連綿と続く万物の命そのものである。そこには大乗経典に著された言語以前の「沈黙の言語=秘密語」ともいうべきものがある。だから大乗の根源は真理の本体である法身如来であり、応化身による教化(顕教の説法)もみなそこから方便として派生している。空海はそのように主張したかったのではないか。

◇般若の絶離
又觀邪見品云。般若中説、佛告勇猛極勇猛菩薩、知色非起見處、亦非断見處、乃至受想行識非起見處、亦非断見處者、是名般若波羅蜜。今以無起等差別縁起令開解者、所謂息一切戯論及一異等種種見、悉皆寂滅是自覺法、是如虡空法、是無分別法、是第一義境界法。以如是等眞實甘露而令開解、是一部論宗。  
[大意]
「『般若経』の中に次のように説かれる。仏は[勇猛極勇猛菩薩]に告げられて、五蘊のうち、色は本来「空」という本性であるから、これに偏った認識を与え[起見]たり、認識そのものを断じ[断見]て「空」にとらわれたりするところでもない。五蘊の他の受・想・行・識についても同様に、偏見を与えたり、またそれを否定して断ずるところではないことを知ることを、[般若波羅蜜]と名づけるとある。今、偏見を起こしたり、それを断じるなどの区別を生じる縁起が本来ない、ということの理を説いて理解させることは、一切の無意味な議論や、一致、相違[一異]など、偏った見解をやめて、ことごとくみな寂静の真実の様相を実現することでもある。それが自覚の法であり、虚空のように広大な法[如虚空法]であり、妄想を離れた唯一絶対の境地の教えである。このような真実の甘露をもって説き明かしているのが『般若燈論』の主旨であると。」

◇大師の喩釈
喩曰、今依斯文明知、中觀等息諸戲論寂滅絶離以爲宗極、如是義意皆是遮情之門、不是表徳之謂、論主自斷入道初門、有意智者留心九思之。
[空海・大意]
「この文によって明らかであろう。『中論』などの三論宗の宗義においては、諸々の戯論を息めて、寂滅にして絶離した境界をその究極とするのであるが、そのような趣意はみな否定的な解釈によって凡夫の迷情を遮する立場[遮情門]であって、密教の解釈によるような積極的に真理を表示する立場[表徳門]ではない。このことは『大智度論』の論主みずからが仏道に入る初門と断言しているのである。心ある賢者は、注意してこのことを繰り返し思慮すべきである。」
[解釈]
空海のこの喩釈は何を言わんとしているのか。中論は無益な論議(有・空)から離れて、存在の真実の有り様を知る智慧(中道)が究極的な覚りだというが、このような教義は、全て人々の迷いの心を払うための初門の教えであるという。だがそれは積極的に真理を表すための教えではないという。何故なら煩悩を否定するあまりに、自分の中に本来感謝して余りある無限の得を見失いがちであるからだ。われわれ人間を取り巻く自然はわれわれに無限のエネルギーを与えている。いたずらに人間を煩悩具足と否定するよりもこの事実を、われわれに備わった徳として肯定的に受け止めるべきである。自然が不思議であれば我もまた不思議である。であれば我と自然は感応道交する。真実は止観のように内なる無の境地にだけ求めるものではない。大自然の中に身をおいて積極的に宇宙を仰げ、遮情門は一面的であり、いのちの源である法身仏の実感とは別義である。私にはそのように読み取れる。

◇密教の果分可説(『智度論』の説文)
龍樹菩薩大智度論卅八云、佛法中有二諦。一者世諦、二者第一義諦。爲世諦故説有衆生、爲第一義諦故説衆生無所有。
[大意]
「仏法の中に二つの諦(真理)がある。一には[世諦]であり、二には[第一義諦]である。迷いの世界である世諦のために衆生はあると説き、覚りの境地である第一義諦にためには、仏や衆生の区別はないから、衆生という固定的なものはないと説くのである。」

◇深秘の二諦 (番号は筆者挿入)
復有二種、①有知名字相、有不知名字相、譬如軍立密號有知者有不知者、復有二種、②有初習行、有久習行、③有着者、有不着者、④有知他意、有不知他意者、(離有言辭知其寄言以自宣理)爲不知名字相、初習行、着者、不知他意者故、説無衆生、爲知名字相、久習行、不着、知他意者故、説言有衆生。
[大意]
また二種類の人がある。①名字(名称)の意味を知る者とそれを知らない者とがある。例えば軍隊において[密號](暗号)を使用するとき、その意味を知る者と知らない者とがあるのと同様である。また別の二種類の人がいる。②仏道において初心の者[初習行]と、久しく修行している者[久習行]があり、③また、執着する者[着者]としない者[不着者]とがあり、④あるいは他の人の真意を理解する者[知他意]と理解しない者[不知他意者](言語を用いながらも言葉の差別・相違などにとらわれて、言葉の真意を理解せず、自分の判断で浅略な解釈をする者)とがある。
したがって、このような名字(名称)の真の意味[名字相]を知らぬ者や、初修行、着者、不知他意者には衆生なしと説き、名字の真の意味を知る者や、不着者、久習行者、知他意者には、真実そのものの世界には衆生ありと説くのである。」
[解釈]
ここでは仏と衆生の有無についての説き方が世諦と第一義諦によって区別されていることが述べられている。はじめの二諦は大乗の説き方である。次に、説かれる対象が①から④まで四種類の基準に分別されている。こちらが密教の二諦(深秘の二諦)を説く対象者だと思われる。しかし論旨は一見大乗と矛盾しているようでもある。大乗では、はじめは世諦においては衆生あり説くが、第一義諦では仏と衆生の区別はないから衆生なしと説く。
しかし深秘の二諦では、仏道の未熟者には衆生なしと説き、まるで大乗の最高の真理(第一義諦)を説いているようにも聞こえる。逆に第一義諦を知る者には衆生ありと説き、まるで大乗の世諦を説いているようでもある。この真反対の説き方のうち、後者で分類された方が密教が説く対象であろう。即ち、名字の真の意味を知る者や、不着者、久習行者、知他意者には、真実そのものの世界には衆生ありと説くというのが、実は密教の説き方であろうことは次の空海の喩釈によって知れる。

◇大師の喩釈
喩曰、初重二諦興常談同。次二諦有八種人。爲不知名字相等四人、説眞諦中無佛無衆生。爲後四人故、説眞諦中有佛有衆生。審思之。
[空海・大意]
「初めに説く二諦は大乗の常識的な解釈である。後に説く二諦の説明には八種類の人々が示されている。名字の意味を知らないなど四種類の人のためには、第一義の真諦の中に、仏も衆生もないと説き、後の四種類の人のためには、真諦の中に仏があり衆生があると説く。この点をよくよく考慮すべきである。」
[解釈]
  空海は以上の解説をもって、常識的な大乗の解釈と密教の解釈の違いを諭しているようである。即ち①から④までの人々の区別によって、後に説く二諦の区別(密教による深秘の二諦)の違いを示唆しているが、多くを語らず、よくよく考慮せよというにとどまっている。読者の密教眼が試されていると感じるのはこのようなときである。
  ではここで、言語の意味分節の視点から空海の主張を見てみよう。そのために密教による第一義諦の理解を、①の名字(名称)の真の意味[名字相]を知る者と知らぬ者、④の他人の真意を理解する者と理解でない者という、いずれも言葉(名字)に関連する区分から考えてみたい。
わかりやすくするためにごく簡単な例を挙げる。表面的な言葉にのみ執着して相手の心が理解できなかった小学校の先生(不知他意者)の話がある。あまりにも有名な話なので出典が混在しているようだが、私の聞いた話では、小一のテスト問題で、「雪がとけたら何になる?」との設題に対して、双子の姉のアーちゃんは「水になる」と答えて大きな丸をもらったが、妹のマーちゃんは「春になる」と答えてバツをもらった。
理科の問題だから一応はアーちゃんが正解である。しかし、「春になる」という答には、北国に住むマーちゃんの春を待ちわびるみずみずしい実感がこもった実に子どもらしい答えではないか。
姉は正解たる「文言」を答えた。妹は不正解たる「真実」を答えてバツをもらった。しかし「雪がとけたら春になる」という答えは、単に固体が液体になるという変化のみならず、マーちゃんは自然界をまるごとつかんで「世界を答えた」ともいえるのではないか。これは言語というもののはたらきを考えさせる単純な一例にすぎない。

言葉のもつ分節化のはたらきは、世界と存在の分析でもあるが、反面言葉には連続した意味空間・意識空間がある。その中から他者が今どういう意味でその言葉を発したか、その真意を汲み取れるのがこの場合「知他意者」であると『智度論』は語っている。
密教的視点から見ればマーちゃんが真理を答えていることになる。児童教育とは、本来、言語知識を裏づける情操を育てるべきでありながら、「雪が解けたら春になる」という答えを単に間違いとした先生は教師としてやや問題があるといえよう。宗教教育を廃絶した戦後教育(受験教育、偏差値教育)が、実はこのような「不他意者」たる教師を多く生み出していることは、教育現場にいた私の痛感してきところである。

もう一つ例を挙げたい。唯物論者と詩人との言語機能の違いである。詩人の言葉は感動(意識)を伝えるものである。「小川のせせらぎが春を歌っている」と感じるのは詩人の言語魂である。だが、H2とOの化合物が万有引力の法則によって下方に移動して、その動きが空気を振動させて鼓膜に伝わるというのが、唯物論者(科学者)の言語機能によるせせらぎの分析である。そして彼らはそれが現実界の分析であると信じている。
両者の違いを言葉のはたらきでいえば、言語機能には双面構造があるということを意味する。「雪が解けたら水になる」というのは「存在分節」であり、「雪が解けたら春になる」というのは「意識分節」である。しかし「存在分節」で認識する外界の現実とは、もともと「意識分節」に依ることは、唯識学の究めたところである。
詩人は初夏の爽やかな風を「緑の風」と表現することがある。だが緑色の風というものは存在しない。緑色と風とは「存在分節」では無関係である。だが詩人の魂では「緑色の風」は実体として存在する。我々の眼に映る現象界は通常「存在分節」の世界であるが、その世界に住みながら、非顕在態としての法身仏を認識するのは「意識分節」によることは明らかである。

龍樹はこの認識能力の持ち主を八種類の区分によって四種(知名字相・久習行・不着者・知他意者)を挙げる。ここでようやく龍樹独特のパラドキシカルな論理が解ける。つまり、法身仏を実感できる知名字相・久習行・不着者・知他意者にこそ、「仏あり、衆生あり」と、あの世諦のごとき真理を説くというのである。

ここでもまた、同じ言葉を使っていても意識レヴェルによって内容は全く異なることがわかる。仏・衆生の有無の説き方を、龍樹が大乗の説き方とは逆の述べ方をし、わけてもこの言語(名字)のもつ意味意識の多様性・多重性のなかから、真の意味[名字相]を「密号」という比喩で語っていることに注目したい。密教でいう法身の密語とはこの「密号」のようなものではないだろうか。
空海は華厳学に関して一級の学者でありながら、一方では優れた詩人であったことを考えれば、彼の意識は言語空間を自在に飛び回り、名字は自在に[名字相]に変化して常に彼に何ごとかを語りかけたと思われる。そして彼もまた自在に文字や言葉を操った。(空海の書体や詩)
空海は言語機能、というよりも、そこに言葉の神秘力(霊力・真言・自然との道交)を知悉した上で、『二教論』を書いているといえよう。この密教的な意識については、第六回(存在と縁起)において再度触れることにする。続いて空海は仏の説く名号の相、即ち「密号名字」について引証する。

◇密号の典拠
所謂密號名字相等義眞言教中分明説之。故菩提場經云、文殊白佛言、世尊以幾所名號於世界轉。佛言、所謂名帝釋名梵王名大自在名自然名地名寂静名涅槃名天名阿蘇羅名空(中略)名有名不有(中略)名海名大海名日名月名雲名大雲名人(中略)名眞如名眞如性名實際名實際性名法界名實名無二名有相。文殊師利、我於此世界成就五阿僧祇百千名號、調伏成就諸衆生。如来無効用無量種眞言色力事相而轉。
[大意]
「いわゆる[密号名字]の相に関しては真言の教えの中に明らかに説かれている。故に『菩提場經』にはこのようにある。文殊菩薩が仏に申し上げた。仏[世尊]はいくつの名号をもって、この世界において教えを説かれたのですか。仏は次のようにお答えになった。いわゆる帝釈と名づけ、梵王と名づけ、大自在と名づけ、自然と名づけ、地と名づけ、寂静と名づけ、涅槃と名づけ、天と名づけ、阿蘇羅と名づけ、空と名づけ、(中略)有、不有、(中略)海、大海、日、月、雲、大雲、人(中略)、真如、真如性、実際、実際性と名づけ、法界と名づけ、実と名づけ、無二と名づけ、有相と名づける。文殊師利よ、私はこの世においてあらゆる名号を全て如来の名として成就し、諸々の衆生を教え導いてこれを成就した。如来は意図的なはたらきはないが、限りない種類の[眞言色力]の事相(三密)をもって真理を表すのである。」
[解釈]
仏の説く言葉(名号)はこのように現象世全体にいきわたり、しかもその悉くが如来の名号でもあるという。その中に、空があり、有があり、不有があり、実があり、真如があり、法界などがある。仏(世尊)によると「色」も「空」も如来そのものであると説かれている。
このような空海の引用する経典を読むたびに、私は密教における「空」とは、中観派の「空」にとどまっていないように思わざるを得ない。密教が自覚した最高の住心がもし中観の「空」の覚りであるなら、第七住心が最高位となるはずであろう。秘密荘厳心を中観を超える第十住心とした理由はなにか。
真言の教えでは[密号名字]による「色」と「空」が如来そのものであるということは「色」も「空」も如来においては不二であるこということになる。おそらくこれが密教の立場である「表徳門」につながるものではないだろうか。
となれば、「色即是空」「空即是色」とは果たして否定を潜り抜けたあとの肯定の形而上学(正・反・合)なのかという疑問が生じてくる。ここにおいて空相という存在実相から覚りに導く「即非の論理(2)」は「遮情門」であり、密教では、むしろ「即肯定の理」を含意しているのではないかと思われる。
第十住心とは顕教の次元を超えたところであるならば、「空」の覚りも「如来の世界における空」という前提で考えなければならないのではないだろうか。
私は「色即是空」「空即是色」を、文字通り「色と空」をそのまま「相互肯定」であるとするのが「密号名字」としての「空」ではないかと考える。やや混乱を招く表現だが、これについても第四回(密号の「空」と顕教の「空」)で考察したい。

◇『釈論』の説文(五種の言説)
龍樹釋大衍論云。言説有五種。名字有二種。心量有十種。契經異説故。論曰、言説有五、云何爲五。一者相言説、二者夢言説、三者妄執言説、四者無始言説、五者如義言説。楞伽契經中作如是説(中略)。
[大意]
「言葉には五つの種類があり、名字には二つの種類があり、心の計らいには十の種類がある。五つの種類の言葉とは、[相言説]・[夢言説]・[妄執言説]・[無始言説]・[如義言説]である。『入楞伽経』の中にこのような五つの種類の言葉の意味を説いている(中略)。」 

◇『金剛三昧経』の説文
三昧契經中作如是説。舎利弗言、一切萬法皆悉言文。言文之相即非爲義。如實之義不可言説。今者如來云何説法、佛言、我説法者以汝衆生在生説故説不可説。是故説之。我所説者義語非文。衆生説者文語非義。義語者皆悉空無。空無之言無言於義。不言義者皆是妄語。如義語者實空不空。空實不實。離於二相中間不中、不中之法離於三相。不見處所如如如説故。如是五中、前四言説處妄説故不能談眞。後一言説如實説故得談眞理。
[大意]
「『金剛三昧経』に次のように説かれている。舎利弗のいうには、全ての教えはことごとく言語・文説である。しかしこの言語表現の相自体はそのまま真実とすることはできない。真実そのものは言語に表現することができないからである。それなのに、如来はどのように真実を説こうとされるのか、と。
仏のいわれるには、私の説法は真実であって文言ではない。衆生の説は文言ではあるが真実ではない。だからこそ私は説くのである。その言葉が[如義語]というものである。義語意外は全て妄語である。如義語は真実の「空」であり、相対的表現による「空」ではない。「空」はそのまま真実であり、相対的表現による「実」ではない。「空」とか「有」という二つの基準(二相)を離れ、またその中間という偏った基準にもあたらない[不中]。真実の中の法[不中之法]はまさに空とか有とか中という三つの基準[三相]を離れている。どこという一定のところを示すわけではなく、ただ真実そのものの境界(如如)をそのままに説く(如説)そのもの[如如如説]だからである。つまり[如義言説]だけが真実の理法を説く事が可能なのである。」

◇十種の心量
心量有十、云何爲十、一者眼識心、二者耳識心、三鼻識心、
四舌識心、五身識心、六意識心、七末那識心、八阿梨耶識心、九多一識心、十一一識心。如是十中、初九種心不縁眞理、後一種心得縁眞理而爲境界。今據前九作如是説離心縁相。
[大意]
「また心の計らいには十種類ある。[眼識心]・[耳識心]・[鼻識心]・[舌識心]・[身識心]・[意識心]・[末那識心]・[阿梨耶識心]・[多一識心]・[一一識心]である。この十のうちで、初の九種類の心は真理を思慮することができず、最後の[一一識心]のみが真理を思慮し、しかもこれを境界とすることができる。いまは前説の九種類の心によって"[心縁の相](主観的な思惟の対象)を離れる"というのである。」

◇大師の喩釈
喩曰、言語心量等離不離之義此論明説、顯教智者詳而解迷。
[空海・大意]
「諭していう。言語や心量に関する離・不離の意味は、この言説の相を離れ、心縁の相を離れる、などの説は、この『釈摩訶衍論』に明らかに説いているところであるから、(特に第五の如義言説や、第十、一一識心などの意義について)顕教の智者たるものは、熟慮して迷執を払うべきである。」
[解釈]
金岡秀友氏は、一一識心とは平等一如の真実の理を会得する根本智で、真如門に属すると注釈されている(3)。 仏の平等一如とは生きとし生けるもの全ての命の平等性をいう。さて、その中で哲学するのは人間だけである。「知を愛する」ことをもって他の生物よりも勝れていると考えるならば、それは究極的に「いのち」の差別である。
つまり、言語に依る教説は、最後まで仏の境界は説けないということであろう。まさに、仏の所説とは義語(真実)にして文語(亡語)にあらず、衆生の説とは文語にして義語(真実)にあらず、である。わざわざ顕教の智者と呼びかけるぐらいだから、空海には彼らが釈尊の教えに従う僧侶というよりも、釈尊の言説を自分の宗義や思想で解釈する哲学者に見えたのかもしれない。

◇『菩提心論』の説文(密教の即身成仏)
金剛頂發菩提心論云。諸佛菩薩昔在因地發是心已勝義行願三摩地爲戒、乃至成佛無時暫忘、惟眞言法中即身成佛故是説三摩地法。於諸教中闕而不書。
[大意]
「この書には諸仏・菩薩は、その昔、修行の段階にあって、覚りを求める心を発し、以後、最高の真理を表す(勝義菩提心)、行を修し願(利他)を起こす(行願菩提心)、そして三密行により心を仏の境界に一致させる(三摩地菩提心)をその戒めとしたのである。そして成仏に至るまで、しばらくも忘れることがなかった。ただし、真言の教法によってのみ、即身成仏することができるのであるから、三摩地の法を説くのである。これは他の教説には記録がないものである。」

◇大師の喩釈
喩曰、此論者龍樹大聖所造千部論中密蔵肝心論也。是故顯密二教差別淺深及成佛遲速勝劣皆説此中。謂諸教者、他受用身及變化身等所説法諸顯教也。是説三摩地法門者、自性法身所説秘密眞言三摩地法門是也。所謂金剛頂十萬頌經等是也。
[空海・大意]
「この論は大聖・龍樹菩薩の造った千部もの論書のうちでも、とくに密教の肝心を論じたものである。したがって、顕教と密教の区別・深浅、および成仏の遅速や勝劣については、みなこの『菩提心論』において論じられている。本論でいう"他の教説"とは、[他受用身]および[変化身]などの教えであって、これは顕教である。これに対して、"三摩地の法を説く"というのは真実そのものを自らの本性とする[自性法身]が説かれる秘密真言の三摩地のことである。これはいわゆる『金剛頂』十万頌の経典などのことである。」
[解釈]
空海はここで真言教法の三摩地が肝心であることを説いている。つまり顕密の優劣が成仏論にあるという、密教最大のテーマに触れているのだ。『菩提心論』の引証は、大乗経典の中ですでに龍樹菩薩も密教を論じているという証明でもあろう。
もしかすると空海は思想的に見て龍猛の著作と考えていたのではないか。空海は龍猛と龍樹を同一人物と考えていいたかどうか、筆者にはやや疑問である。空海があえて訂正しなかったのは、穿って考えれば、『二教論』を著した時期が、新来の密教の理論武装とその正統性を宣揚する必要があったからではないか。なにしろ龍樹は八宗の祖とされるほどの人物である。晩年の『十住心論』では、龍樹菩薩ではなく龍猛菩薩の『菩提心論』とある。

◆『二教論』における空海の主張
 このように引証文献の扱いに周到な配慮をめぐらせつつも、空海の主論は「言語論」が根底にあることがわかる。仏(法身)の言語とはどういうものかという問題である。逆にいえば、顕教側がそれさえ会得できれば文献の引証は不要とさえ考えたかもしれない。ここまでが『二教論』の上巻である。
 今回は空海のいう如来の言語とは、思弁的思考を支える人語よりもはるかに深い意味であることを明らかにすることが目的であるので『二教論』の引証は以上とする。
 以上のように真言密教にとって文字や言葉は法身如来の象徴であった。密教の特徴である象徴性を正しくいうならば、それは諸々の密教法具を指すのではなく、森羅万象を法身仏の説法の象徴(秘密語)として聴くことであろう。そこに密教の神秘性もあると考える。
 空海は『分別聖位経』に説かれる仏自らの本性(自受法楽、理・智法身の境界)や、「法身仏は心の内のさとりの境界を説き、応化身はこれを説かない」と説く『入楞伽経』なども引証しながら、密教と顕教の相違の理由を説く。わずかでもこの理がわかれば迷いの霧はたちまち晴れて顕教の限界のかんぬき[関鑰]は自然に開かれるというのも、空海が本書で主張したかったことである。何故なら真の仏説とはまさにそこにおいて知りえるからである。『二教論』の上巻で、空海はまずこのことを主張したかったものと考えられる。(続)

<注>
  1. 天鬼の見別=『摂大乗論』巻下、『大日経疏』第一などに説かれる「一水四見」の譬え。同一の水を、天人は瑠璃宝厳の池と見、人は清らかな冷水と見、魚は住処と見、餓鬼は膿血と見るように、一般には立場によって見方が異なることを示す。『二教論』で引用されているが、空海はこの場合、立場の違いというよりも、当人の心位によって見方が異なるとしている。心位すなわち「密教眼」である。
  2. 即非の論理―鈴木大拙の考案した般若思想の論理。「Aは非Aであるが故にAはAである」という存在の公式化。西田哲学の絶対矛盾的自己同一の宗教的基盤となった。上田閑照が「私は、私ならずして、私である」(『私とは何か』岩浪新書2000年)というのも原点は西田哲学である。これが禅のいう無の境地だとしても、私はここに思弁哲学(弁証法)の傾向を見るものである。
  3. 空海弁顕密二教論』太陽出版p.147、2003年

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