エンサイクロメディア空海 21世紀を生きる<空海する>知恵と方法のネット誌

空海論遊

トップページ > 空海論遊 > 高橋憲吾のページ >  スカラベの愛 三島由紀夫と密教(3)

スカラベの愛 三島由紀夫と密教(3)

スカラベの愛

「心を鎧う」とは三島由紀夫が愛用した言葉である。かつて三島由紀夫の心理分析にロールシャッハテストを試みた心理学者片口安史は、三島の気質的特徴を「巨大なるスカラベ」と表現した。これはロールシャッハテストのインクのシミが「スカラベに見える」と三島自身が語ったことから、三島の極度に高い意識統制が、まるで堅固な心の鎧を着ている彼自身の精神状態を象徴しているとして例えた言葉である。スカラベとは古代エジプトの神虫、厚い鎧をもって自らの内部を鎧うカブトムシのことである。

ちなみに上記の心理テストによる分析結果は、まず「非常に理知的な人で、感情に溺れず、むしろそれを拒否し、自己統制の強い人」というのであった。しかし第二に「現実逃避的な態度と、強い知性的な適応の仕方を示している。つまり現実に直接触れることを避けながら、かえって冷たく現実を眺めている。ナイーブとか、素朴な面は全く出ず、逆に人工的で、自分を表に出さず、いつも鎧兜を着ている」とある。

第三に、「非常にクラシックな、古典的なものへの憧れという反応も出た、特に宗教的、さらに原始時代の踊り、中世の悪魔的なものに、彼の知的興味は活き活きと応ずる」またこのテストでは、かなり同性愛的傾向も認められている。

三島由紀夫が「巨大なるスカラベ」だとすれば、その甲冑は三島の何を覆い、何を防御し、何を隠そうとしたのか。鎧の内側の三島由紀夫とはどのような人物なのだろう。これは私ひとりの疑問ではなく、三島の生前から多くの文学者や文芸評論家や三島研究者がアプローチしてきた問題である。

無論私にあの天才的な作家の精神世界を十全に論じられるとは思わない。ただ三島由紀夫の「文学と行動」から三島の人間像を考えるとき、行き着くところは精神の根源的な問題、すなわち自己の魂の救済ではなかったかと考えさせられることがあるのだ。

これを三島の内面のという言葉でおきかえてみれば、三島由紀夫には「スカラベの愛」とでも形容したくなるある特異性を感じる。もしかすると三島は外からは窺い知れぬ自己の精神性に苦しんでいたのではないかと思えるのだ。

そのストイックな生き方に透けて見えるものは、ある切実な求愛である。その対象が文化概念としての美的天皇であれ、葉隠武士道であれ、自衛隊であれ、その根は同じではなかったかと思う。三島は内なる求愛を完璧に統制し、スカラベの甲冑で防御していたのではないだろうか。

私には三島の天皇観にこの求愛が感じられてならない。天皇に対する父なる愛の希求である。『文化防衛論』の中核に天皇を置くのもそのためではないか。「スカラベの愛」は、天皇を通してそこに日本文化の父性的な愛を希求していたように思われるのである。

三島文学に見る恋と愛

三島は『豊饒の海』を大正初年の貴族社会を背景に書き始めている。第一巻『春の雪』は松枝侯爵邸を舞台にして、侯爵家の若き嗣子松枝清顯(まつがえきよあき)と、幼馴染みである伯爵家の綾倉(あやくら)聰子(さとこ)との悲劇的な恋愛物語が展開する。

宮家へ嫁ぐことを決められている聰子は愛しい清顯と密会を重ねる。その罪の重さと裏腹の至福の中で聰子は純愛を貫き通すという、恋の至純がテーマである。やがて妊娠、二人の間に破局が訪れる。彼女は清顯から去り、現世との関わりを絶って仏門に入る。松枝清顯は弥陀に身を捧げた聰子を求めつつも、思いを伝えきれないまま、二十歳で病死する。清顯と同学年の学習院の親友本多繁邦が『豊饒の海』で起きる転生を見届ける語り部として第一巻から最終巻まで登場するする。

第二巻『奔馬』は昭和初期が時代背景となる。裁判官になった38歳の本多繁邦が剣道界で嘱望されている若者に出会うところから始まる。國学院大学の飯沼勲は19歳ですでに三段という名剣士で松枝清顯の生まれ変わりである。この汚れなき若者は腐敗した政財界に義憤を感じ、有志と共に昭和の「神風連(しんぷうれん)」を胸に一直線に革命に向かって突き進む。計画は挫折するが飯沼勲はただ一人で要人を暗殺する。そして責任をとって自刃することで天皇に対する忠義を果たすという行動小説である。勲の死もやはり二十歳であった。

『春の雪』は気高くて美しく、凛々しく、そして哀しい聰子が自らの愛に殉じて女の命を昇華していく物語である。女が愛に殉じるのなら男は何に殉じるのか。それに答えたのが第二巻『奔馬』における飯沼勲の生き方であろう。ここで勲は「忠義」に殉じることによって男の命を昇華させていく。剣を奪おうとする明治新政府に対して西欧風の穢れた模倣であるとした神道派の志士たちが起した熊本の叛乱。その「神風連」の生き方に感銘を受け、行動の後は腹を切って責任をとる武士の美学を自分も貫くのである。

三島由紀夫には忠義、大義という、ある至純なロイヤリティーに対する強い思い入れがある。三島の親炙(しんしゃ)した吉田松陰や、西郷隆盛や、神風連の武士たちや、2・26の青年将校たちにも通底する心性でもある。彼らの国学的主情主義は強靭な精神力を生むが、ときとしてファナティックな情念を伴うことがある。

では三島はファナティックであっただろうか。否、三島由紀夫は最後まで醒めていたと思う。彼は思想的信念を理知的に貫いており、むしろ行動においてファナティックになることができなかったと思われる。三島の冷静さは行動家というある意味<演技者>でありながら、同時に自らをモニターできる<演出家>でもあったことでわかる。本質的に「酔えない人」なのではないか。酔っているようでも醒めているのである。

多くの人が三島にどこか演技っぽさを感じるというのはこのためであろう。あまりにも意識化の作用が強すぎて、三島は普通の人がするようにある程度無意識に自然に立ち振る舞うことが出来なかった。まして「狂う」ことなどできなかった。

ただ確かなことは、ある尋常ならざるエネルギーが三島を大舞台に立たせたことである。陸上自衛隊東部方面総監部、戦前の陸軍士官学校、戦中の大本営陸軍部、そして東京裁判が開かれた象徴的な歴史的大舞台において、彼は憂国の武士を見事に演じきったということだ。

しかし、バルコニーで檄を飛ばした三島の心の内に、私は自己の魂の救済を求めるスカラベの愛の叫びがあったように思われるのだ。それは「あるもの」になりたいという切実な願望である。しかし自分はなれない。おそらく三島だけが知っていたこの悲劇性を、その昔、私は三島からそれとなく直感したことがあった。

三島由紀夫の「剣」

少々私的なことをさしはさむ。私は一度三島由紀夫と立ち合ったことがある。場所は広島県の江田島にある海上自衛隊の武道館である。江田島は旧帝国海軍の聖地で海軍兵学校があったところである。戦後は海上自衛隊の幹部候補生学校などの教育基地になっている。

ある晩夏の一日、三島由紀夫が特攻隊の遺書を読むために校内の「教育参考館」を訪れたことがあった。(『太陽と鉄』にも記されている)「参考館」を見学した後、「江田島の剣士と立ち合いたい」という三島のたっての希望から剣道の教官たちが稽古相手になった。私は兵学校と同じく江田島で4年間学ぶ海上自衛隊生徒の剣道部の主将をしていた。そのためかもしれないが、師範からわざわざ立ち合うよう命じられた。

時に私は18歳で三段、三島由紀夫の作品など読んだこともなく、ただ週刊誌のグラビアなどでよく見かける著名な作家という程度の認識しかなかった。だが三島が五段を取得したことだけは知っていた。当時剣道一筋だった私にとって、このとき三島由紀夫は文士ではなく剣道の対戦相手でしかなかった。

蹲踞(そんきょ)して竹刀を抜き、立ち上がった三島の姿勢と構えは正しかった。三島は「地稽古」のつもりだったので、私は裂帛の気合いとともに打ちかかった。「見敵必殺」は常在戦場、兵学校以来の伝統精神である。地稽古は互いに攻め合う実践型の稽古で実力が出る。

血気盛んな年頃の私は試合の気迫で猛然と打ちかかっていった。パン!パンパンパン!三島は連日猛稽古を積んでいる現役自衛官の相手ではなかった。

剣道は足さばきが基本であるが、30代半ばで習い始めた三島には完全に身についていない。「送り足」はできているが、打突のあとの「次ぎ足」が不十分なため一本打ちになる。踏み込んだ時、左後足が流れるため素早く次の攻撃に移れないのだ。つまり連続技が繰り出せないのである。

間合いと呼吸だけを計る試合において、一瞬の有効な一本をとるためには日頃の猛烈な連続技の稽古が不可欠である。剣道には三島が好んだボディビルの筋肉など必要なく、しかし脚力は必要である。瞬発力と一瞬の技のタイミングが勝負を決める。

私はほとんど「掛り稽古」に近い連打をあびせた。体当たりすれば三島の腰はふらつく。三島の下半身は意外と脆弱であった。私は高段位の教官たちのように、有名人にも適当に打たせる「引き立て稽古」などしなかった。上段者の三島に対して私にはその必要はないのだ。

というよりも、連日の猛烈な「掛り稽古」の動きがそのまま出たといったほうがいい。それにしても、師範はなぜ情け容赦なく獲物を追い詰める猟犬のような若者を「地稽古」に選んだのか?・・・三島はまったく相手にならなかった。

それでも三島はムキになって打ち返してくる。次は面、次は胴と、予め宣言してくるような馬鹿正直な大振りである。また三島は「合わせ面」や「抜き胴」といった華やかな大技を好むようだったが、これはスピードの速い相手にはほとんど通用しない。

私の方は身体が自由に動いて、竹刀が自在に、しかし的確に相手の隙に飛び込んでいく。試合で「小手有り」と旗が揚がったあと、無意識に相手の「出鼻小手」を打っていたことに気づくこともある。常に剣が意識を先取りするのだ。三島は意識が常に先行し、身体は不器用についてくるという感じである。

剣道は実力五段であれば70代でも息など上がらない、三島はこのとき40歳、しかし面(めん)金(がね)から吐き出される三島の息づかいはすでに荒かった。三島の不器用な剣は、しかし、打たれても、打たれても、必死で前に出ようとする。もう足元もおぼつかない。私の息は全くあがらず相手を観察する余裕さえあった。

やがて私は、ひたすら真っ正直に攻めてくる彼の剣道に、次第に胸の底が熱くなるものを感じてきた。技の巧拙を超えたある種の感動である。言葉にするなら生真面目さである。大真面目なひたむきさである。それは悲しいほどの途方もない誠実さでもある。そして思いを果しえない嘆きのようなものである。喘ぎながらもなお身を投げ出して竹刀を振るう三島は、何か悲愴で切実な意志であった。三島由紀夫の剣・・・それは「魂の剣」だった。

私はシャワー室で汗を流しながら話したあの少しかすれた声を思い出す。「機会があれば是非またやりましょう。お互い腕を磨いて」そういって三島は明るく哄笑した。細身だが引き締まった体躯。短く刈り上げた頭から滴り落ちる水は胸毛を際立たせ、濡れた笑顔の三島の目は輝いていた。命がみなぎっていた。謙虚で礼儀正しい人柄が道場の誰をも惹きつけた。なのに、三島の剣はどこかはかなげだった。

「静聴せい!」バルコニーの三島が叫んだ。「諸君の中に真の武士はいないのか。オレについてくるヤツは一人もいないのか!」三島の言葉は理屈を超えて私の胸に突き刺さった。このとき、私は駆けつけようと思えば可能な市ヶ谷に近い部隊にいた。

突然、私に外線が入った。入隊後一度も職場に電話などかけてくることのない故郷(くに)の母親からだった。「今、テレビを見ています。三島さんは純粋できれいな人です。『宴のあと』も『金閣寺』も読んだ。母ちゃんにはわかる。でも、お前は行かないで頂戴!お願い。あの人は本気よ、死ぬかもしれません・・・」

我に返った私は開けかけたロッカーの扉を閉めた。中には江田島を卒業する日、父が持たせてくれた居合刀の業物、備前長船清光の一振りがあった。バルコニーに立つ三島の叫び声が、かつて江田島で対戦した時、彼の発するあの甲高い気合と重なり、次第に赤子の泣き叫ぶ声のように聞こえていた。

あの日、命を賭けた三島に何も答えることが出来なかった私は、数年後、自衛隊を去った。そして後年「言葉の全く関与しない領域で現実に出会いたい」という三島の告白を読んだとき、私は三島由紀夫の苦悩を知ったのである。

三島由紀夫の告白とその後

三島由紀夫の実質的なデビュー作である『仮面の告白』(1949)は異様な作品で、文壇には衝撃を、社会にはセンセーショナルな話題を振りまいた。内容は主人公の成育歴をつづったもので、一人称で語られる「私」の生誕から青年になるまでのある内面の問題を描いた小説である。内面の問題とは「私の性の傾向」についてである。端的にいえば、「女を愛せない私」「性倒錯の傾向を持つ私」の告白で、三島由紀夫24歳の作品である。

人々はこれを一人称で書かれたあくまで「フィクション」として読んだ。しかし私には三島由紀夫の「素面の告白」として伝わってきた。人はあまりにも露骨な告白に対してはかえって疑惑を感じるものである。「仮面」と題することで、どこまでが虚構でどこまでが真相か判然としない読み手の心理を誘導したのであろう。

福田恆存は「『仮面の告白』は三島由紀夫の書いた作品のうちで最高の位置に位するものであるばかりでなく、戦後文学としても、のちのちに残る最上の収穫のひとつであろうとおもう」と評している(『仮面の告白』について)。

『仮面の告白』のような、内心の怪物を何とか征服したような小説を書いた後で、二十四歳の私の心には、二つの相反する志向がはっきりと生まれた。一つは、何としてでも、生きなければならぬ、という思いであり、もう一つは、明確な、理知的な、明るい古典主義への傾斜であった」(『私の遍歴時代』1964)

という三島由紀夫の回顧を、佐伯彰一は率直でしかも正確な自己表白だという(『三島由紀夫 人と文学』)。私も三島は確かに内面の怪物と格闘したのだと思う。三島は小説かエッセイのどこかで、「自分は人間ならぬ何か悲しい生き物である」と書いていたと記憶するが、それでも人の世を生きようと思ったとある。

これはあの名作『金閣寺』(1956)のラストシーンで、炎上する金閣寺を見ながら「生きようと私は思った」主人公の「私」の思いと重なっている。吃音障害をもったこの学僧の思いは、ある意味、「障害」をもった三島自身でもあった。

その後の三島は小説のみならず、エッセイストとして、劇作家として、舞台芸術家として数々の賞に輝き、ノーベル賞候補作家として世界に名を馳せる。一方舞台や映画出演、ボディビルや格闘技など、さまざまに活動範囲を広げて世間の注目を集め続ける。そして最後に自衛隊の体験入隊や「盾の会」の結成などをとおして、日本の将来を憂うる「文武両道の行動家」として生きるのである。

しかし私には、見た目には華やかな彼の人生が、彼自身を幸福にしていたとは素直に思えないのである。三島には「何かを隠して」生きていたように感じるのだ。行動家三島由紀夫も、実は「スカラベの仮面」だったのではないか。

人間は通常「生」の方向に喜びを感じるが、死を選ぶ人間にとって「生」が幸福であろうはずがない。むしろ三島にとっては「生」よりも「死」の方が救いだった。いやこれも少し違う。死ぬ事しか生きる道がなかったという方が正しい。そうだとすれば一体この特異性はどこからきたのであろう。

三島の「スカラベの愛」の成育過程を遡れば、どうやら乳幼時に原因があったことが伺われる。『仮面の告白』はほぼ正確に時系列で三島の成育歴が書かれている。彼は乳児のとき母親から無理に引き離され、祖母の独占的な囲いにおかれている。

『仮面の告白』ではこのように描かれている。

「生まれて四十九日目に祖母は母の手から私を奪いとった。しじゅう閉(た)て切った・病気と老いの匂いにむせかえる祖母の病室で、その病床に床を並べて私は育てられた」と。

祖母は祖父を憎み蔑(さげす)んでいたとあるので、満たされぬ愛を孫に向けたのかもしれぬ。またこのようにも書かれている。

「祖母が私の病弱をいたわるために、また、私が悪い事をおぼえないようにとの顧慮から、近所の男の子たちと遊ぶことを禁じたので、私の遊び相手は女中や看護婦を除けば、祖母が近所の女の子のうちから私のために選んでくれた三人の女の子だけだった。ちょっとした騒音、戸のはげしい開け閉(た)て、おもちゃの喇叭、角力(すもう)、あらゆる際立った音や響きは、祖母の膝の神経痛に障るので、私たちの遊びは女の子が普通にする遊び以上に物静かなものでなければならなかった。私はむしろ、一人で本を読むことだの、積み木をすることだの、恣(ほしいまま)な空想に耽(ふけ)ることだの、絵を描くことだのの方を、はるかに愛した。(略)」

この文章から想像できることは、彼は「お部屋の中」で育てられているということである。ここは三島と密教を考える上で最重要な点である。私は自然と交換することができない人間は、密教の教える宇宙のエネルギー、つまり法身大日如来の説法は感受できないだろうと思う。

密教では「法身」が働いて、現象世界も、その活動も、そこにあるものの救いも現出するとして、これを「大悲胎蔵」という。仏の大いなる慈悲が、あたかも母の胎内における胎児のごとく蔵せられているという意味で、その図式を「大悲胎蔵生曼荼羅」略して胎蔵界マンダラという。

宇宙を見上げて大自然と交流すれば、大日如来は肌で感じられイメージしやすいものである。私は「理法身」や「智法身」や「理智不二」だのという難解な密教学を学ばなくても、自然の中で育った日本人ならだれもが抱く感覚ではないかと思う。

空海の幼児期は詳細には解明されておらず伝説的領域を出ない。だがわずかな文献でも史跡や伝説と組み合わせてみるとおおよそ真魚(空海の幼名)像は浮き彫りにされる。

空海は周知のように讃岐の豪族佐伯氏の出身である。生家跡の「善通寺(四国八十八ヶ所第75番霊場)」は善通寺市内にある。幼い頃は母親(玉依姫)の実家(熊手八幡)のある現在の多度津町まで約5~6キロの、母の里帰りについて善通寺市から頻繁に行き来していたことが推察できる。それを証拠立てる「海岸寺」や「仏母院」などの史跡も多い。

つまり子どもの頃から行動半径が広く活動的だった。三豊市の標高382mの山岳寺院「弥谷寺(四国八十八ヶ所第71番)」には真魚が少年時代にここの岩窟で学門に励んだ跡があり、7歳のときには標高480mの我拝師山の「捨身ヶ嶽」から飛び降りたりして、結構香川県内の山中や自然の中を動きわっている様子が伝わってくる。この行動的性格は成人してからも高野山や四国の山中や辺地を跋渉していることからも頷けるのである。

また自身が『三教指帰』で記したように、若い頃は修験道の極致とされる木食草衣の原始的な修行に明け暮れている。虚空蔵求聞持法を修するため人跡未踏の山岳や人里離れた海岸の洞窟で修行に励んでいる。空海の密教開眼はこの原始的な修行による大自然との交感が基礎になっていることは否定できないだろう。

空海にとって世界とは、波の音や、風のそよぎや、鳥獣の声や、月や星々の光りの中にあった。宇宙そのものが彼の命であり、この世の存在や現象も言葉以前にあったのである。

空海は「法は本より平等にして是もなく非もなし、理は往来を絶す。諭(おし)ゆるに声唱にあらず。これを視れどもその色を観ず、これを聴けどもその声を聞かず。湛として虚空の清浄無染なるがごとし。あに大道にあらずや」(『五部陀羅尼問答偈讃宗秘論』)と、法身大日如来の説法とは何たるかを説いている。

恵果が空海と会った時、ひと目で空海の適正を見抜いたのは、空海の梵語力や学識の高さもさりながら、第一は、おそらくすでに空海の身体から放たれるこの密教的資質であったろうと思われる。

恵果は唐王朝歴代の信望を一身に集めた不空三蔵の直弟子であり密教七祖である。空海はわずか三か月というスピードで伝法大阿闍梨の灌頂を受け、その伝授一切を引き継いだ。

千人の弟子の内から抜擢されたのは、何よりも空海の有する人間の始原性といおうか、聖性といおうか、霊性といおうか、ある神秘性のようなものがみなぎっていたからだと思われる。

それに比べて、外遊びを制限された三島は室内で空想を楽しむ少年に育つ。彼にとって世界とは思い描くものであり、外界は本で学び知性で理解するものであり、観念によって、すなわち言葉によってなぞるものとなっていった。類(たぐい)まれな言葉の才能が、彼の世界を、空想的に、自由に、詩的に、放恣に思い描くことを可能にした。こうして三島の文才は磨かれ、文芸家三島由紀夫が形成されていったと思われる。

6歳で学習院初等科に入学、中等科に進学した12歳ではもう創作を始めている。16歳で『花ざかりの森』(1941)を発表した時から三島由紀夫のペンネームを用いている。19歳(1944)の5月、赤紙によりすでに徴兵検査で第二種乙種合格していたが、本籍地の兵庫県(『仮面の告白』ではH県と表示)での入隊検査に際し、軍医の誤診によって即日帰郷を命じられる。

入隊は三島にとって戦死を意味していたが、この誤診によって一命をとりとめたという喜びと、虚弱体質のために戦士から拒まれたという思いが彼の生涯のコンプレックスになっていた。自分も戦場で戦って死にたいという思いと、そのような英雄的な死から肉体的に拒まれているという複雑な思いが、戦後は「余生」という独特の人生観を抱かせた。

三島は戦争が終わって「いよいよ生きなければならぬと決心した時の絶望と幻滅」を語っているが、それは多かれ少なかれ戦中に青春を過ごした世代に共通する戸惑いの感覚であったと共感する同世代の人もいる。しかしそれだけだったのだろうか。

即時帰郷を命じられた同年の9月、学習院高等科を首席で卒業し、10月、東京帝国大学法学部に入学してからも盛んに執筆活動をする。昭和22年三島由紀夫22歳の9月、東京大学法学部法律学科卒業。同時に高等文官試験行政科に合格、12月大蔵省銀行局に入省する。

しかし三島は23歳の時、創作に専念すべく大蔵省を退官した。そして翌年24歳で発表したのが件の『仮面の告白』であった。告白を終えた三島はその後どう生きたか。

青白く神経質で貧弱な肉体をもつ三島が、小説家という夜の思考生活から、真昼の太陽の下に現れたのは30歳を過ぎたころである。30歳から始めたボディビルで筋肉を鍛え、青白い肌は日光浴によって褐色となる。「鉄の塊と太陽」との出会いが三島に肉体を付与し、文弱の徒は文武両道を目指すようになる。

名誉五段などと揶揄されつつも、ともかく武士のストイックな生き方に自信を得たころ、三島は第二の「告白」をする。それが『太陽と鉄』(1968)である。現在読み返すとそれはあたかも遺書のようである。

このエッセイは単行本として出されたものだが、翌々年出版された『三島由紀夫文学論集』(1970)の筆頭に再掲載されている。序文にはこうある。

...本書の柱として「太陽と鉄」が収載されたことは、その喜び内でも最大のものだ。(略)「太陽と鉄」は、私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなものであり、二元論的思考の発生の生理学的必然性の物語でもあるが、日本の風土のなかでは、「一如」はあっても二元論はない。それは又、西欧的な意味の「劇」を成立させる基盤がないことでもある。

私が二元論者であること、文学と行動とどちらをも等分に重視すること、私の政治的思考が極端な対立状況に傾きがちなこと、・・・・全く、「物が二つになるが悪しきなり」という精神風土で、この態度は一体何たることであろうか。私の「絶対矛盾的自己同一」はそもそもどこに存在するのか。

私が外界について論ずるときに見出す問題性は、ありていに言って、すべてこの自己の問題性から生じてゐた。それがけだし私の評論を書く根本動機であった。美を論じても、風景を論じても、政治を論じても、演劇を論じても、私の問題性はそもそも私の内部にあったのである。(『三島由紀夫文学論集』)

ここでいう三島の二元論とは「精神と肉体」のことである。「認識と存在」といってもいいだろう。普通の人間は精神と肉体の乖離性に悩むことはあまりない。三島は精神が常に先行し、肉体の存在感、現実感が希薄であった。つまり精神と肉体が乖離していたのである。「物が二つになるが悪しきなり、私の『絶対矛盾的自己同一』はそもそもどこに存在するのか」、という問いかけはここに起因していると思われる。

だから三島は、外界(=存在)を論じるときに見出す問題性は、「そもそも私の内部にあったのである」と告白するのである。その内部の問題性とはどのようなものか?『太陽と鉄』の冒頭部分でこのように説明している。

つらつら自分の幼時を思ひめぐらすと、私にとっては、言葉の記憶は肉体の記憶よりもはるかに遠くまで遡る。世のつねの人にとっては、肉体が先に訪れ、それから言葉が訪れるであろうに、私にとっては、まづ言葉が訪れて、ずっとあとから、甚だ気の進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしてゐたところの肉体が訪れたが、その肉体は云ふまでもなく、すでに言葉に蝕まれてゐた。 まづ白木の柱があり、それから白蟻が来て、これを蝕む。しかるに私の場合は、まづ白蟻がをり、やがて半ば蝕まれた白木の柱が徐々に姿を現はしたのであった。

ここで三島は、自分にとっての言葉を白蟻に、肉体を白木の柱に隠喩している。言葉の発達が異常に早かった三島は外界を感覚よりも言葉の形象によって把握するという、ある意味で言葉の天才の障害とでもいうべき資質をもって育っていることがわかる。

三島は通常「言葉の天才」と評されるが、空海もまた「言葉の天才」である。ではどこが違うのか。ここまで述べてきたことで明らかなことは、空海には言葉が生まれる前の大いなる沈黙の世界があるが、三島にはどうやらそれがなかったように思われる。宇宙の沈黙は「無」ではなく豊饒なる「空」のことである。「阿字の世界」といってもよい。「阿字」とは密教で「仏」をさす。

三島は自分にとって外界の認識が生まれつき言葉によって蝕まれていたという。例えば赤ん坊は現実をまず五感をとうして認識する。この世で初めて出会うのは母親の優しい眼差しであろう。優しい声、お乳の匂い、味、おっぱいの柔らかさ、言葉の発達とともにやがてそれらが感覚を伴った言葉として意識されていく。仏教ではこれを眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識で説明している。

ところが三島は「意識」のみが異常に発達していた。肉体の感覚よりも先に言葉を媒介にして現実を認識するという異能の持ち主であった。言葉による現実は果たして彼に現実感を与えたのであろうか。三島はこのことを芸術論から解説する。

言葉による芸術の本質は、エッチングにおける硝酸と同様に腐食作用に基づいてゐるのであって、われわれは言葉が現実を蝕むその腐食作用を利用して作品を作るのである。(略)言葉は硝酸が銅に対応するように、現実に対応してゐるとは云へない。言葉は現実を抽象化してわれわれの悟性へつなぐ媒体であるから、それによる現実の腐食作用は、必然的に、言葉自体をも腐食してゆく危険性を内包してゐる。(略)このやうなことが、一人の人間の幼時にすでに起こっていたとゐっても信じられない人が多かろう。

しかし私にとっては、たしかに我が身の上に起こった劇であり、これが私の二つの相反する傾向を準備してゐた。一つは言葉の腐食作用を忠実に推し進めて、それを自分の仕事としようとする決心であり、一つは、何とか言葉の全く関与しない領域で現実に出会はうといふ欲求であった。

前者は「何とか生きなければならぬ」とした、いわば生活者の決心であり、後者の欲求は「現実に出会うために」行動家になろうとする決心だった。そして「言葉の全く関与しない領域」で実存するために、彼は剣道の鍛錬が最も適していると思ったのである。

あらゆるスポーツがそうであるように、反射神経にすべてを賭ける瞬間、身体が勝手に動くのである。言葉は消え純粋に肉体だけの存在になる。「剣禅一如」というのも武芸者は技の極致では無念夢想であるという真義だ。

果たして三島は言葉のまったく関与しない領域で「現実の世界」に出会うことができただろうか。普通の人間が無意識にやっていること、私はそれすらも通常の人間以上に「意識的」な努力が必要だったのではないかと思われる。後年三島の作品を読むうちに、私はかつて三島の剣に感じたあの思いを果しえない嘆きの意味を理解したのである。

認識と存在

そういう三島が存在の謎を説く唯識に傾倒したのは想像にかたくない。彼がいうように「言葉は現実を抽象化してわれわれの悟性へつなぐ媒体である」のなら、その悟性が「外界を再び形成する」という唯識学には大いに関心を引かれたであろう。

唯識は巷間よく「全てのものは心が作り出したものである」「存在は夢・幻のような実体のないものだ」といわれ一般の人は戸惑うことがある。だが創作家である三島由紀夫には馴染みやすかったのではなかったか。演劇も小説も全て作者の心が生み出す虚構の世界だからだ。いや、三島は実人生そのものを夢・幻のように実感していた。彼にとっては人生そのものが虚構であり人生という舞台の演技だった。

若い頃から三島と親交の厚かった石原慎太郎はこのよういう。「結局、あの人は全部バーチャル、虚構だったね。最後の自殺劇だって、政治行動じゃないしバーチャルだよ。『豊饒の海』は、自分の人生すべて虚構だったということを明かしている、最後に自分でそう書いているんだから、つらかったと思うし、気の毒だったな」と語っている。(「三島さん、懐かしい人」(2010.9.14特別インタビュー)。しかし仏教の造詣も深い石原ですら三島の仏教理解を論評したことはない。

石原の書いた三島由紀夫論では『月蝕』(1979)があるが、個人的な親交の厚さから、文壇仲間の知らない三島の裏話を暴露するような内容が多く、作家としては絶対にかなわない三島に対する対抗心や嫉妬心を感じるもので、他の三島由紀夫論と比べなくとも私の評価は低い。それは三島の「自殺劇」の本当の悲しみに迫ろうとしないからである。

生育的にも、知能的にも、体格的にも、身体機能も、すべて恵まれて育った健康優良児のような石原慎太郎に、「障害者三島」の抱くコンプレックスや悲しみが本当にわかるはずはない。だから石原は「仏教的三島論」を書かなかったのではないだろうか。

三島の悲劇を仏教的に考えれば、三島は「空」のニヒリズムを脱却できなかったか、もしくは意識的に脱却しようとしなかったか・・・そのように思える。論理的な三島は「色即是空」は十分に理解できた。「色即是空」は理論でもわかるからだ。だがここで立ち止れば「一切皆空」で、一歩間違えると虚無の世界となる。

しかし「色即是空」のあとすぐに「空即是色」と反転するのだが、ここは言葉ではわかりにくいところである。京都学派は「色即是空」を否定の論理と見た。有名な<即否の論理>である。「AはAではない。故にAである」という禅問答のような哲学。

つまり「色(存在)は即ち非存在(空)である」とすると、現実の存在はまさに夢・幻であるという世界観になる。しかし「色即是空」は肯定の論理なのである。これは一般的な解説とは異なる私の個人的な解釈であるが、文字の通りに読めば「色は即是れ空」であり、「空は即是れ色」であるということで、どこにも否定の意味はないのだ。

もしかすると「空」を禅の「無」に近づけた京都学派の影響が三島の仏教理解にあったのかもしれない。でなければ「私の『絶対矛盾的自己同一』はそもそもどこに存在するのか」、という問いかけはないはずである。

さて、唯識は人間の心の深層を極限まで掘り下げた学問である。西洋心理学における無意識の発見は19世紀を待たねばならないが、仏教では2~3世紀頃すでにその研究が始まっている。(『解深密経』)4世紀頃にインドの学僧アサンガ(無着)やヴァスバンドゥ(世親)よって大成されたといわれる唯識は心の構造論といってもいい。

私は唯識の入門は存在論で説くよりも認識論として説いた方がわかりやすいと思っている。「すべてのものはもっぱら認識の仕方、心の在り方による」すなわち「すべては心が作り出す」というのは、もっぱら認識論である。唯識の真髄は正にこのことである。

原始仏教や大乗の中観・空思想は、諸法(モノ・コト)を認識する心を眼・耳・鼻・舌・身の五感と、意(識)六識で捉えており、深層心理学的な理論は展開していない。それに対して唯識はこの六識マナ識(末那識)、アーラヤ識(阿頼耶識)を加えて八識とし、生命科学にまで通じる深層心理の研究をしてきた。

すなわち六識の根底に、欲望や我執などのいわゆる煩悩に支配される識があり、これが第七識とされるマナ識である。潜在的自我意識のことである。マナ識はフロイトの無意識(本能=エス)というよりも、通常は意識に昇らないが、努力すれば意識化できる無意識の領域という意味では、前意識(Vorbewusste)に近いかもしれない。

マナ識を言い換えると「無意識に心の奥で自分を中心にして思い量る心・分別する心の働き」のことである。唯識学派のダルマパーラ(護法)はこれらを我癡(がち)、我見(がけん)、我慢(がまん)、我愛(があい)という四つの基本的な働きでとらえている。(『成唯識論』)

七識よりもさらに深い深層意識が、第八識とされるアーラヤ識という超意識である。個人が生きている間に積み重ねてきた行為(業(カルマ))の経験とその結果の記憶が、この八識において「種子(しゅじ)」となって蓄積されて行く。ために蔵識(ぞうしき)ともいう。唯識ではアーラヤ識の種子輪廻転生と考えられてきた。現代的にいうと生命情報のようなものでDNAを想像すると理解しやすいかもしれない。しかし、輪廻転生の瞬間は唯識の方がはるかに感動的で神秘的な説明をしている。

ちなみにアーラヤとはサンスクリット語で「蔵」のこと。年中雪で覆われているヒマラヤは、ヒマ(雪)のアーラヤ(蔵)という意味である。アーラヤ識を、ある集団の蔵識という単位でとらえるなら、ユングの集合的無意識アーラヤ識に近いものだと思う。周知のようにユングは東洋哲学の影響を受けている。

6世紀になると西域から中国に来たパラマールタ(真諦)はアーラヤ識のさらに奥にアマラ識(奄摩羅識)を立て九識説を説く。天台・華厳は九識である。アマラ識「根本清浄識」とされ、いわゆる個々人の仏性をさす。八識の生命エネルギーは、個という意味でまだ執着(煩悩)の色づけがある。しかしこの第九識の回路を開くことによって、一気に菩薩のエネルギーに転昇できるといわれている。

密教はさらに一切一心識を立て十識説である。ケンリツダヤ識(乾栗陀耶識)とは宇宙に躍動する万物の根源エネルギーの背景にある、法身大日如来宇宙意識=仏識と感応できるということらしい。

私の理解では、大日如来とはアマラ識が根本清浄識であることを保証し、その覚りの境地(仏識)を曼荼羅やコスモロジーの風光をとおして絶えず説き続けている仏であろうと思う。ここまで人間の無意識は通じているということであるが、これ以上は事相(三密行)を伴うと思われるので、在家の私の見解は控えたい。

人間は自分の無意識の心を見ることは難しい。しかし深く瞑想をすることによってたどり着ける。そうすると自分の心は汚れない満月のような心であることに気がつくと空海は繰り返しいっている。いわゆる仏性のことである。修行を積めばそこで自分が宇宙の法身如来と一体になることが体験できる。ここでようやく凡夫の心(認識)が、実は幻のような現実(煩悩の世界)を作っていることをありありと知るのである。

九識はまた華厳の一即一切重々無尽であらわされるところの、現代物理学がようやくたどり着いた境地を語っている、日本人はこの不思議な世界に1200年も前から親しんできた。しかし仏教がこの究極の超意識の存在に気がついたのは科学実験ではない。修行と瞑想によってである。

あるいは心身まるごと自然の中に飛び込むような体験をしたものは理屈よりも直感でわかることがある。まさに「言葉の関与しない領域」である。つまり世界は理知だけでは存在の何たるかはわからないのである。三島は理屈では十分理解をしていたと思う。しかし実感が湧かないのである。これが彼の根源的な苦悩でありコンプレックスではなかったか。

『豊饒の海』を読む限り、三島は法相宗の八識までの講義で終わっている。無着や世親が大成した唯識は、確かにカルマに汚れた否定的な側面のアーラヤ識を八識説で説いているように見える。同時に『摂大乗論』ではアーラヤ識を抱えているからこそ人間は覚れると繰り返している。しかしこの基本的な唯識のメッセージに三島の心が動いた様子はない。これが私の三島論の大きな問題である。

では三島は『摂大乗論』を読まなかったのだろうか。いや三島は無着の『摂大乗論』も、世親の『唯識三十頌』もつぶさに読んでいる。これは『春の雪』で聰子が出家した法相宗の尼寺「月修寺」の門跡が、聰子に清顯の危篤を知らせにきた親友の本多邦繁を追い返す場面でも知れることだ。そこで三島は門跡に『摂大乗論』を見事に語らせている。

本多邦繁とは松枝清顯の学習院の学友で、80歳を過ぎるまで生きて、清顯が輪廻転生を繰り返していく不思議を見とどける、いわば『豊饒の海』全体の検分者的存在である。そして彼こそはこの大長編ドラマの「認識者」であり、三島由紀夫その人でもあった。それはあくまで「見る」認識者であって「行動する」存在者ではない。

もう一人三島がいる。各巻の主人公は「行動する三島の分身」でもある。松枝清顯は雅(みやび)の世界、「文」に生きる芸術至上主義者の三島自身であり、忠に殉じる飯沼勲は「武」に生きる三島である。

物語は男と女の愛の問題を超えていよいよ佳境に入ってくる。第三巻『暁の寺』では、主人公シャムの王妃ジン・ジャン(月光姫)をとおして同性愛が描かれる。飯沼勲はジン・ジャンとなって転生する。

裁判官になった本多は、その職業柄、神秘を身辺に寄せつけない法律家の現実主義と、輪廻転生を目の当たりにした神秘との狭間におののく。法の世界に生きてきた理知主義者本多の唯識哲学との格闘がここで展開される。ここに至って認識と存在が三島の最大の問題意識であることを読者は理解する。

三島由紀夫は武士になり得たか

三島は虚弱体質のために幼いころから直射日光に当たることを医師から禁じられていた。「お部屋の中で育った」この青白き少年は、15歳のときこのような詩を書いている。

「それでも光は照ってくる。

 ひとびとは日を賛美する

 わたしは暗い坑のなか

 陽を避け 魂(たま)を投げ出(い)だす」

三島は回想する。「何と私は仄暗い室内を、本を積み重ねた机のまはりを、私の『坑』を愛してゐたことだろう。何と私は内省をたのしみ、思索を装ひ、自分の神経叢の中のかよわい虫のすだきに聴き惚れてゐたことだろう」(『太陽と鉄』)

言葉の世界だけを偏愛してきた三島は、30歳を過ぎたころ太陽の下に飛び出し、肉体を伴った実存になろうとした。「人生の認識者」が「人生の行動者」になろうとしたのである。三島と密教を対置してみれば、このときの三島のベクトルは、陽の方向、昼の方向、生の方向、誤解を恐れずにいえば密教の方向に向いていたように思う。しかし結局「死」を選んだ。

三島文学のテーマには挫折や悲劇性、破滅というものが多く、頻繁に「死」が登場する。モチーフも真っ赤な夕焼け、灼熱の太陽、血潮、雪、殉教、悲劇、破滅など「死」のイメージにつながるものが多い。私は三島の中にある「死」に魅かれる体質が、最終的に唯識から先に進もうとしなかった要因ではなかったかと思う。まして言葉を凌駕した密教的世界は困難であった。

精神と肉体の二元論に悩んだ三島は、こうしてみると「一如の日本人」に憧れ、武士に憧れたいわば「西洋人」であったともいえる。彼のこの感覚は、ヴィクトリア王朝のコロニアル様式で装飾された白亜の「三島邸」一つ見ても察せられることである。それはugly Victorianと呼ばれるバロック趣味の、色彩のあくどいゴテゴテした趣味で露悪趣味か成金でもなければとても普通の日本人の好む家ではない。

一方武士の館は実用第一で、装飾を省き簡素で質実剛健である。三島が本当に武士の心構えで暮らすならば、武家屋敷の式台のような、秋霜烈日な日本建築を好むはずである。つまり三島は日本人ならやすやすと入っていける自然を採り入れた住居空間を好まなかったのである。

このことから三島は日本人としては「西洋的な感性の持ち主」であったことがわかる。そしていつの頃かはわからぬが、自分がもっとも「武士の本質」から遠い存在であることに気がついたはずである。

自分は日本人とはどこか違う。自分の本質は本当のところ武士ではない。この自己否定はその絶望だけでは終わらなかった。何よりも、自分が戦ってきた敵「文化防衛の相手」が実は自分自身であった!

この究極の絶望と羞恥が、極端に武士を装って割腹自決をした深層心理ではなかろうか。本物の武士さえ絶賛しそうな、あの見事な割腹自決はその悔しさの証左である。

フランスの実存主義者がいうように「実存は本質に先立つ」ものならば、行動の責任をとって見事に割腹した三島は、まさしく武士として実存したともいえる。

三島にとって美学とは何か

三島は「美」を生涯のテーマとしている。彼の文学に「美学」は不可欠である。『仮面の告白』のプロローグにはドストエフスキーの美における一節が引用されている。また『美について』(1949)『美に逆らうもの』(1961)『美の襲撃』(1961)『おわりの美学』(1966)『存在しないものの美学―新古今集珍解』(1961)等々、直接「美」について書いたものも多い。

これらのことから審美主義・耽美主義者と評されることもあるが、三島の場合は美術や芸術上の「美」の概念とは異なるものである。前にもいったが、三島にとって「美とは正しさ」のことである。「美しき天皇」日本の正しい姿の象徴であった。正義であり倫理なのである。つまり哲学的な概念なのだ。

一方「密教の美」とは宇宙秩序の美しさであると私は考える。湯川秀樹博士をはじめ世界の多くの物理学者や自然科学者が密教に感動するのはこの宇宙秩序であろうと思う。

密教を自然科学的な美であるといえば密教学者からの反論もあろう。そもそも密教、あるいは大乗仏教の多くは、主客未分の次元(空=無自性)を前提にしているので、主客分離を前提とする科学の世界を引き合いに出すこと自体密教学から外れるではないかと。

そういう反論があることは認める。しかし私はいま「学問密教」を語ってはいない。仏教アカデミズムの立場で密教を説くと専門家以外には難解すぎると思えるので、方便として実体的・実感的密教論を語っている。その上で私はあえていいたい。「密教の美」とは「宇宙秩序の美しさ」であると。そこには三島的な正義も倫理もない。

それに対して三島の美学は「生き方の美」である。武士道の美学にも通じるそれは「正しさ」のことでもある。例えば公のために尽くす、忠義、正直、誠実、勇気、忍耐、潔い、等々である。日本人が「生きて虜囚の辱めを受けず」と集団自決するのも、バンザイ突撃も、特攻隊が潔く散華していくのも武士道的な美学が流れているが、それは死の親近性を自ずと高いものにしがちである。そこで「美と正しさ」について考えたい。

そもそも善悪とは何か。エーリッヒ・フロムは、「悪」とはネクロフィリア(死という概念そのものを欲し愛する)だとし、「善」とはバイオフィリア(生物あるいは生命システムに対する愛情)としている。そうすると「潔く死ぬこと」は悪の範疇に入り「生」は善の領域に入る。

アメリカの極東陸軍司令官ダグラス・マッカサ―は、3万の日本軍がフィリピンを侵攻した時、10万の兵士を置き去りにしたまま家族といっしょに逃げ出した。武士道的な美学からすればこれは「美しくない=正しくない」行為である。日本軍の将校なら兵士と共に最後まで戦い、負け戦なら潔く責任を取って自決するが、マッカーサーは生き延びて「アイシャルリターン」でリベンジをする。簡単には死なないのである。

このように考えれば武士道的な美学は「滅びの美学」に行きがちである。松陰にしろ、西郷にしろ、白虎隊にしろ、神風連にしろ、赤穂浪士にしろ、最後はみな滅びの美学で完結している。大東亜戦争は日本の武士道的な死の美学と、フロム的、あるいはキリスト教的な「生」の合理主義との戦いであったとも考えられる。

だが日本人をもう一度考えてみよう。「滅びの美学」すなわち「死の美学」は武士が出現してからの、比較的新しくて、限定的な階層に見られる倫理観である。現代人は忘れているが、日本人は本来「生の美学」であった。それこそが密教なのである。

三島は華やかで技巧的な『新古今和歌集』を好んだが、私は大自然に対する感動や人間の愛を謳いあげたおおらかな『万葉集』に本来の「やまとごころ」があると思っている。大和魂はもともと軍国主義的な精神ではなく、文字通り「大いなる和の精神」であり、いわば「生の美学」ではなかったか。

顕教(仏教)は人間の生命力を「欲望=煩悩」と捉えて禁欲主義に走りがちである。しかし人間の生理的本能まで修行によって克服すべき「欲望」と見れば、生命力そのものを否定するしかない。鎌倉新仏教の傾向に見られたように極端な自己否定はニヒリズムに行き着くのだ。常在戦場の武士が禅と結びつくのも鎌倉時代である。

しかし密教は人間の生命力を「欲望」ではなく「欲求」であるとした。生命維持のための根源的な欲求は否定されるべきものではなく、人間を含む生物の成長はそもそもそこから始まるのだ。そうすると「欲求=成長」という生物学的・自然科学的な視点も加わる。これは宇宙の秩序である。つまり密教は「欲望(煩悩)」ですら「成長」のチャンスになりうる(煩悩即菩提)というポジティブな視点に陽転させものである。

空海は「真言秘蔵は仏仏相伝えたもう」という。これは人語によって世界を把握しようとした三島にはわかりにくい。また空海は「密語は仏親(みずか)ら宣べたもう、経は人に従って伝訳す」と、顕密の違いを語る(『五部陀羅尼問答偈讃宗秘論』)。つまり三島は人語(顕教)である経典(唯識)までは理解したのである。

奈良仏教(南都六宗)があれほど最澄に抵抗し空海に好意的だったのは、政治的な背景があったとしてもそれだけだろうか。無論奈良の諸学派に、密教を受け入れさせるだけの学識が空海にあったことはいうまでもない。そればかりでなく、彼らが密教を受容したのは、日本人の本質が共鳴したところがあるのではないか。それが「生の美学」である。

密教学などに全く無知な庶民に至るまで、宗派を超えて日本中で弘法大師が絶大な人気者であり続けたわけは、密教のもつ生の肯定を肌で感じるからであろう。これは死後の往生を願う浄土教とは感覚的に異質である。また哲学的な曹洞禅や臨済禅などとも庶民の受け止め方は異なる。

曹洞宗では面壁といって、壁に向かって坐る。臨済宗はその反対で壁を背にして坐る。いずれにしろ「禅堂」で静かに瞑想する。剣でいえば京都の吉岡道場の室内剣法に似ているかもしれぬ。

対して武蔵は立ち木を相手に野生的な自己流であったらしい。自己流であっても名門吉岡を破った。真剣勝負でも一度も負けなかった。いわば野外の実践剣法であった。一乗寺下り松の野外戦でも多数の敵を相手に勝利したといわれる。

私の密教もいわば自己流である。密教学というよりも実感的な密教である。野外に飛び出せば百の理屈より法身が実感できるのだ。

改めて考えれば、現代の四国遍路の何がそんなに面白いのか不思議ではないか。霊場札所の境内はどこも同じようなもので、普通なら何ヶ寺か巡拝すれば飽きてこよう。そこでやることは灯明と線香を上げて納札を入れて経を読むことの繰り返しである。このようなことを野越え山越え八十八か所で繰り返す。

しかも四国をぐるりと回るこの宗教的行為は、一回の結願で終わらず何十回も回る。このような循環運動を喜々として繰り返す遍路は、外国人から見れば少しアタマがオカシイのではないかと思われるかもしれない。

空海密教を背景にもつこの宗教的な「世界的価値」については、第4回で詳述するつもりだが、実は遍路のこの不思議な循環的宗教行為は、いまやグローバル・スタンダードになりつつあるのだ。誇張すれば万国共通といっていい感覚なのである。

最近二度目の結願をした。私が初めて四国を回った16年前と明らかに変わっていたことは外国人が非常に増えていることだった。遍路衣装に身を整えた金髪娘が「大師堂」に向かって大声で「般若心経」を唱えている。荷物を担いだ初老の白人の歩き遍路や、同じく青い目の夫婦遍路が「ナムダイシヘンジョウコンゴウ」と高唱している。

宿坊では勤行にも真剣に参加するし、韓国の団体ツアー遍路なども増えており、今やお大師様は彼らにもっていかれそうな気すらした。彼らは空海のことや密教のことなど、四国の婆さんたち以上にわからないだろう。それでも遍路世界の何かに惹かれているとしか考えられない。

密教は間口が実に広い。「生の美学」とは「性」におおらかな「生命賛歌」のことでもある。その理由を大日如来という宇宙神(真)が『般若理趣経』の中で説法している。性=生は「菩薩の位」であると。そこに「宇宙善」の根拠が何たるか示されている。言うまでもなく『理趣経』は真言宗の常用経典である。

スカラベの愛 三島由紀夫と密教(4)へ

Copyright(c)2009-2018 MIKKYO 21 FORUM all rights reserved.