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空と縁起の一考察 ④

第四回 密号の「空」と顕教の「空」

◆場所としての「空」
 さて『二教論』で明らかなように、顕教で説く「空」は応化仏の解説だと考えられる。ここから、釈尊はいわゆる密号名字としての「空」を覚っていたが、衆生のためには諸法のすがたである「相」としての「空」を示された。これが顕教側では「空」のもつ否定的な側面として強調されたのではないか、というのが私の仮説である。

 「空」の名字を密号で眺めるならば、顕教による否定的な意味の奥に、逆に肯定的な意味があることは『菩提場所説一字頂輪王経』巻三に見たとおりである。それは空=如来というように如来の「相」であった。その如来の「相」(自内証)を説くことを、顕教では果分不可説としたのではないか。
 大乗仏教が基本とした哲学論理である龍樹の「空」は、龍樹が応化説の「空」を極限まで論理的に説き、その極限で第一義諦に至る道筋を示したように思われる。だがもし空=如来ならば、逆にいえば法身説による「空」もありうるということにならないだろうか。そして、空海は大日(大毘盧遮那)如来の説くその「空」に耳を傾けようとしたように思われる。

 古今あまたの高僧や仏教学者が研究してきた「空の哲学」を、密号から考察するというのは無謀といわれるかもしれないが、あえて私論を試みる。
 中村元博士は「中観の論理はそもそも基本的な態度として「空」の哲学は定まった教義なるものをもっていない」という(1)。石飛道子氏もまた「竜樹にかんする解釈は混乱のるつぼ」だという(2)。実際、「空」の経典とされる『般若心経』の解説書たるや古今夥しい数にのぼるが、解釈は実に多種多様である。立川武蔵博士が『空の思想史―原始仏教から日本近代へ―』(講談社)で著しているように、仏教史はまさに「空」をどのように解釈してきたかという歴史だったといってよい。

 おそらくこの不統一性の原因こそが言語の浅深によるもの、換言すれば「空」をどの視点からから説くのかという論者の視点の相違であろう。それは言語を通して現象の実相を感得する論者の心位(精神的ステージ)の相違によるものではないかと思われる。くだいていえば、応化仏の顕教世界(言語世界)で説くのか、法身仏の密教世界(直感世界)で説くのかの違いでもある。であれば、両者は当然覚りの内実も異なるはずである。『二教論』ではそのことも採り上げている。

大楞伽第二又云。(略)大惠應化佛所作應佛説、施戒忍精進禪定智慧故、陰界八解脱故、建立識想差別行故、説諸外道無色三摩拔提次第相。大惠是名應佛所作應佛説法相。復次大惠法佛説法者、離攀縁離能觀所勸故、離所作相量相故、非諸聲聞縁覺外道境界故。
[大意]
  『楞伽経』の第二に説かれる。大惠よ、応化仏が衆生のためにする仏の説法は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜行や、五蘊[五陰]、十八界[界]・十二処[入]・八識などの差別の相の建立や、仏教以外の諸々の教え[外道]による無色界の精神集中・心の安定[三摩拔提]への階梯の相を示される。これを応化仏の活動、応化仏の説法の相と名づける。また次に、法身仏の説法とは、心の対象を離れ、観るとか観られるという偏りを離れ、活動の相[所作相]や対象の相[量相]などの関係性を離れている。したがって、声聞・縁覚や外道による覚りの境界とは異なっているのである。
[解釈]
日本で最もポピュラーな経典である『般若心経』の「般若波羅密多」を六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・智慧・禅定)だとする解説書が多くみられるが、例えば上記の『楞伽経』の応化仏の言葉などから、解説者が顕教と混合してきたからであろう。『般若心経』の解説者(僧侶・仏教学者)がいかに弘法大師空海を読んでいないかの証左ともいえる。

 それでなくとも「般若波羅蜜多とは六波羅蜜のことである」などとは『般若心経』のどこにも書かれていない。書かれていないものまでを何とか言語化し、説明しようとするのは合理主義に犯された現代知識人の悪弊かもしれない。六波羅蜜という似たような文字からもっともらしい解説をこじつけるのであれば仏教が誤解を招く恐れがある(3)。言葉の意味をはるかに超越した般若波羅蜜多は、言葉(中国語)の訳出以上の験力(行)があるから音写のまま残したのである。

 さて、顕密の相違は仏の言葉の深浅を理解することから始まる。顕密は幾重にも深く重なっており、顕と密は相対的である。どのステージで説くかによって言語の深浅は異なる。それによって説き方も活動の仕方も異なる。これは三身の説法には各々分齋(領分)があるということである。

大師の喩釈
喩、今依此經三身説法各有分齋、應化佛者不説内證智境界明也、唯有法身佛説此内   證智。
[大意・空海]
今この経(『楞伽経』)によると、法身・報身・応身の三身の説法には、それぞれの領分[分齋]がある。応化仏が仏の内証である聖なる智慧の境界を説かないことは明瞭である。唯一、法身仏のみがこの聖なる境界を説くのである。
[解釈]
ということは「空」にも説法の深浅があるという推測が成り立つのではないか。ここから私は法身の説く「空」を想定し、それを密号としての「空」として、密教学の立場から考察してみたいというのが今回のテーマである。
空海は『金剛三昧経』の如来の如義語がそれ(密号の空)に当たるとしているように思われる。仏は、舎利佛の質問に次のように答えている。「如義語は実の空であり、相対的表現による空ではない。空という実であり、相対的表現による実ではない」と。
(如義語者、實空不空、空實不實如義語)

 相対的表現とは応化仏の説く「空」である。これは「空じる」という否定の連続(百非)であって、如来はそれを真実の「空」ではないという。では真実の「空」とは何か。また、「空」を「相対的表現による実ではない」ということは、逆に、絶対的表現では「実」であるという推論も成り立つ。絶対的表現による「実」とはなにか。中国語であえて「実空」と翻訳した理由は単に真実の空という意味のことか。それともそれ以外に意味があるのか。そもそも漢語の「実」とは、空虚の反対で「中が詰まっている」という意味がある。

 とすれば、例えば、『般若心経』講義の大家と絶賛された松原泰道師(元臨済宗妙心寺派教学部長・南無の会会長)が説かれているように、「空」とは「空しさいっぱいの情感」(空の第一の意味)であるとか、「空しいがままの充足」(第一の意味を空じた空の第二の意味)というような説明(4)とはおよそ異なるものとなる。
 こういうと、松原師のように禅を究めていない者には自覚されないものだと叱責を受けるかもしれない。しかし私は、仏教とは尻の皮が剥けるほど座らなくても救いの答えはあるように思えてならない。やはり「実空」とは「空しさ」ではあるまいと思う。故に「実空」とは何か、その内実をここで「密号の空」として考えたいのである。

 さて『八千頌般若経』には上座部のスブーティ長老が大乗について釈尊に次のように考えを申し述べる場面がある。

その大乗は、虚空とひとしく、きわめて広大であるために、神々、人間、阿修羅を含んだこの世間を超克していくものなのです。ちょうど虚空には無量、無数の有情を入れる余地があるように、この乗り物には無量、無数の有情を入れる余地があります。世尊よ、こういう仕方で菩薩大士たちにとっての大(きな)乗(り物)なのです。その来ることは見られず、その行くことも見られず、そのとどまることも知られません。そのように、世尊よ、大乗には発端も認識されず、終末も認識されず、また、中間も認識されません。そのように、世尊よ、かくてこの乗り物は(三時を通じて)同一なのです。そういうわけで、大乗、大乗といわれるわけです。

 これに対して釈尊はまことにそのとおりであるとスブーティ長老を褒め称えるのである(5)。

 ここでは大乗について重要な点が語られている。
  1. 大乗は虚空と等しく、神々、人間、阿修羅など無量・無数の有情の入れものであり、かつまた世間(縁起の世界)を超克するものである。
  2. その大乗という空間にも似たその入れ物・乗り物は、無始無終でとどまることもなく、人知では容易に認識されないものである。

 ここでいう大乗が物理的な意味での空間そのものを指すものではないだろうが、まるで壮大な宇宙空間論のようでもある。大乗という大虚空に存在する無数の有情、そしてそれを乗せる(済度する)のもまた大乗という乗り物である。その理由は世間を超克する(縁起界を超える=苦の解消)からであるという。

 では釈尊が肯定したこの大乗を、釈尊が示唆した密号の「空」だと仮定して、真言宗の解説に耳を傾けてみよう(松原泰道師は禅の臨済宗、高田好胤師は法相宗)。「空」とは何か、宮坂宥洪師(真言宗照光寺住職)の著書『新釈般若心経』に次のようなくだりがある。

例えば、水の入っていない空(から)の容器があるとします。この場合、「容器は空」です。でも、「容器が無」とはいえませんね。容器はあります。無いのは水です。「無」と「空」の違いはこれで明らかでしょう。無いのは容器ではなくて水です。インド人は、このことを「容器には水の無がある」と表現します。もし容器に水があれば、容器は「水の場所」です。ないと容器は「水の無の場所」です。「無の場所」が「空」なのです。お分かりいただけましたか(6)。

ここではまず「空」を場所(入れもの)という比喩で語っていることに注目したい。

 また山折哲雄氏は「空」を次のように説明している。

「空」はサンスクリットでシューニャ(1[nya)という。ここで、この同じシューニャの語がインド数学ではゼロを意味することに注意しよう。インド数学のゼロがインド哲学や仏教で説かれる「空」と同一のことばによって表現されているのである。インド数学による記号としてのゼロは、単に表現されないクラスを指示しているにすぎないのであって、けっしてそのクラスの非存在性を指示しているのではない。すなわちそれは、非存在=空虚そのものを意味するのではないのであって、数の体系の中のゼロという一定の価値を表している存在なのである(7)。

 として、このゼロの考え方がインド仏教の根底に流れていることを強調している。これを幾何学的図形におけるタテ軸とヨコ軸の座標を例に、X軸とY軸に沿って展開する記号群を、その根源のところで支えている決定的な原点がゼロ記号であって、この支点がなければ、そもそもX軸もY軸も成立し得なくなるという解説で「空」を説明している。

 確かに数直線でもゼロを基点に正の数・負の数が無限に展開するし、微分積分でも同じような考え方はできる。微積分でいえば、仏教が自己を五蘊仮和合と分析的に見たように、自己を微分するという考え方である。この例は重松昭春氏が『誤解された経典―般若心経の真義』(朱鷺書房)で述べているが、微分の結果、遂にはY=0となる。これを私は「色即是空」と考える。次にゼロは全くの「無」ではないことは、ゼロを逆に積分すれば無数の定数が生まれることで証明される。更にそれを積分すれば無数の一次関数が生まれ、無数の一次関数を積分すれば、さらに無数の二次関数を生み出す。これを生活次元でみれば具体的な存在が多数形成されるということになる。つまり「空」は縁起の世界(われわれが認識している現実世界)を生み出す基底として存在するという考えが成り立つ。私はこれが"密号の"「空即是色」であると考える。

 この例で私が言いたいことは、「密号の空」とは諸法を生み出す根源であり、また諸法を支える根源的な「場所」と考えられないかということである。つまりは縁起の世界とは別次元に存在する不可視なる「実空」である。これをわれわれの日常レベルの相対的な「実」と考えるからわかりづらいのであって、もう一度舎利佛に答えられた仏の言葉を思い出してみよう。「如義語は実の空であり、相対的表現による空ではない。空という実であり、相対的表現による実ではない」。 
この「場所としての空」という命題については、第五回で理論物理学の側面からから再度考察しようと思う。

◆『般若心経』に見る覚りの階梯
 空海は『般若心経秘鍵』で、「この経典についての注釈家は多くいるが、この奥深いところを読み取った解釈はまだない」と述べている。(釋家雖多未釣此幽)。
 「未だ此の幽を釣らず」というこの「幽」とは、すなわち、大般若菩薩の偉大な心髄の真言の覚りの境地を指している。つまり『般若心経』は密教経典であるということだが、ある意味で、われわれはここでも主体的な「密教眼」が試されているのである。空海はこの経典を、顕教を含めた包括的な見地から、最終的には密教経典であることを論証しているが、しかしそれを受け入れるか否かは、やはり読者の密教眼次第であるとして、ボールをこちらに投げ返えしているからだ。

 「密教眼」とは理屈ではなく、くだいていえば素直な感性のことである。では『般若心経』で最も問題視される冒頭部分を見てみよう。

 一般に流布している小本『般若心経』では、五蘊を皆空と照見した観自在菩薩が「空」を説く場面から始まる。舎利子と呼びかけたあと、いきなり色不異空、空不異色、・・・と説く。ここが第一関門。ここで現代の多くの解説書はそのまま「色(現実)」を「空しい」だの、存在の正体は実体や本体のない「無」であり、しかも無のままの「有」である、などというから一般読者の多くはわけがわからなくなるのである。しかし仏教研究の権威がそのような解り難い訳注を書いているのだから無理もないといえる。例えば代表的なもので中村元博士の訳注はこのようにものである。

物質には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。(このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである(8)。

 この説明で色即是空・空即是色が理解できる人は、中村元・紀野一義博士のような仏教学の大家ぐらいであろう。また「Aは非Aである故にAである」という表現は、鈴木大拙師のような禅の大家は別としても、一般的人にとって、普通、にわかには理解できない。

 しかし、実は『般若心経』では「色」を含む五蘊(色・受・想・行・識)の存在性をいきなり「無」と否定しているわけではないのだ。漢訳の『般若心経』は原文(サンスクリット語)とやや異なっているのだ。原文は「五蘊あり、しかも、それらは自性空である」となっている(9)。
 つまり自分は有であると認める段階が「五蘊あり」で、次にその存在根拠とは五蘊仮和合(縁起上の存在)にすぎないと覚る第一段階である。日常的存在としての自己が解体される瞬間である。そこでまず存在の諸行無常を実感する。空海はこれを小乗のレベルとしている(『十住心論』・『秘蔵宝錀』第四)。これは小乗のいう「人空」にあたるだろう。
 次に「五蘊皆空」である。
 観自在菩薩はそのレベルを通過して、「五蘊は皆空なり」と洞察するのである。これは大乗のレベルの「法空」を覚り得る段階であろう。自己の正体を五蘊仮和合と見極めても、五蘊さえも自性空であることを覚ったときが大乗の「空」の感得なのである。仏教では五蘊という煩悩の根拠、迷いの境地はこの「空」の覚りにおいて消滅するとされる。だから鳩摩羅什(350~409)や玄奘三蔵(602~664)はここに「度一切苦厄」を挿入したのであろう。(『般若心経』全文は当サイト・<空海アカデミー>「般若心経梵文和訳ノート」・「般若心経は真言を説いたお経」を参照)

 宮坂宥洪師は『般若心経』を仏の覚りに至る階梯と見ている。師はインドのサールナート考古博物館にある四層の仏伝レリーフにインスピレーションを得て、『般若心経』を精神の成長の階梯と見て、四階建て建物の比喩と、原書訳出による言語学的な分析とともに簡潔で分かり易い解説をしている。
 一階は幼児レベルのフロア(出発地点)、二階は世間レベルのフロア(世間における自己形成のレベル)、三階は舎利子レベルのフロア(無我を知る小乗レベル)、四階は観自在菩薩レベルのフロア(空を見る大乗レベル)、屋上は仏陀の居るところ(人知を超えたレベル)としている(10)。
 では我々もこの経典に沿って四階の大乗のフロアまで昇ってみよう。但し四階のフロアに昇るには、一つ整理しておきたい問題がある。「密教21フォーラム」は観自在菩薩が「空」を説く前に、「ここでは」「ここにおいて」という意味の「イハ」(iha)という語が漢訳の『般若心経』では欠落していると指摘している(11)。
 つまり「舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」を現代語にすると、「舎利子よ、"ここにおいて"色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空であり、空は即ち是れ色である」という意味になるのである。

 中村元・紀野一義両博士もこの点は見逃してはいない。しかしこの「イハ」を「この世においては」と訳している。「密教21フォーラム」の説では、両博士のサンスクリット原文訳出の不備を指摘した上で、「この深い境地において」と言い直している。「この世」という客観的な場ではなく、覚りに達した「菩薩の境地」である。精神的な場である。
 この指摘は単に語義上の問題からだけではなく、そのように言い直さなければ文脈として『般若心経』の「主題」が、つまりこの経典の真義が通じないという主張からである。一般的に、『心経』は『般若経』六百巻の詳要と説いたお経だとか、「空」の哲学書(「空」の解説書)だとかいう通説が流布しているが、そのこと自体が、いかにこの経典が誤解されてきたかを物語っている。
 「イハ」を「この世」ではなく、「観自在菩薩が瞑想によって到達した境地」とする先述の主張は、「空」を説く四階のフロアを観自在菩薩の境地とした宮坂説とも通じる。いずれも原典(サンスクリット語)に忠実な真言宗らしい指摘といえよう。

 さて、もし四階のフロアである境地を、言葉を換えて「真如・法界」と考えれば、私には観自在菩薩の深い境地とは、単にこの世の次元にとどまらず、仏の世界から観えた真実と受け取られる。
 そうであれば、「この世において」という中村博士の訳は、この世における諸法の実相(空相)をさとらせるための顕教的な意味合いに限定されることになる。しかも松原泰道師・高田好胤師など、日本の仏教を代表する高僧は、そっくり中村博士の解説を踏襲しているのである。真言宗としては『般若心経』の真義を正しく布教するために、禅・法相僧の限定的、あるいは恣意的ともいえる解説に異を唱えたものであろうと思わる。『般若心経』は人生の心構えなどを説いたものではない。

 さてここで強調したいことは、「イハ」を「観自在菩薩の境地」とすれば、それ以下の文意(舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色)の内実が変わる可能性があるということだ。
 一般的には「色即是空」とは事物(色)の無常性、消滅性を強調して、「空」は否定的表現だとされている。しかし菩薩の境地であるするなら、「空」は別の視点を考えさせる。

 私はこの点について次のように考えてみた。つまり、空とは二つあり、一つは<この世における否定的な相としての空>、もう一つは観自在菩薩が観た<仏の世界における肯定的な空>である。前者が応化仏(顕教)の説く「空」、後者が法身仏の説く「秘密の空」である。
 もし後者の「空」を前提とすると、それに続く文脈の意味も変わってくるように思われる。私は「秘密の空」では、「色不異空」も「色即是空」も、字義文脈通りに「色」と「空」はイコールという意味ではないかと自問してみるのである。もしこれまでの「即否定の論理」(京都学派)が究極の真理でないとすれば、「秘密の空」とは相対的世界の空相を超越したもうひとつ高次元の世界のことではないだろうかと。これが私のいう「密号の空」である。

 今回のタイトルである<密号の「空」と顕教の「空」>とは、すなわち存在の本質としての「自性空」と、仏の世界(場)そのものを指す「空」とである。そして前者の「空」を主に顕教が哲学的な否定論として強調し、後者の「空」こそは、祈りの言語(マントラ)を通して密教が覚る仏の世界(肯定の世界=密号の空)を示していると思われるのだ。無論この二つの「空」は一つの真理を次元の違いから見たものであるが、一応後者を「密号の空」と隠喩してみたのである。
 空海は文字、文言には浅い意味と深い意味があると盛んに主張している。「空」一文字にしても多くの解釈が成り立つのは、「名字」は所詮「仮名」であり、その背景に隠された「法性」の神秘を説明できないからではないだろうか。しかし、文字の深秘は法性を表していることを実感した空海は「密号の空」を知りえていたのではないか。
 『般若心経秘鍵』において空海は「一一の字は即ち法なり。此の一一の名は皆、世間の浅名を以って法性の深号を表す」と述べている。
(一一字即法此一一名皆以世間淺名表法性深号)

◆『般若心経』は誰が説いたか
 しかし空海は『般若心経秘鍵』において深号(密号)の「空」だけではなく、顕密両方の「空」を紹介していることが読み取れる。というよりも、密号・深号の「空」が顕教の「空」の背景にあることを理解させ、「空の論理学」(顕教)の背景が「空の世界」(密教)であることを悟らせようとしているように思われる。その理由が『般若心経』説いた二人の教主の紹介である。一人は釈尊、そしてもう一方は大般若菩薩が説いたという空海の解説である。

 したがって、東寺の三宝(我宝・頼宝・杲宝)や高野山の宥快などのように、『般若心経』の教主を、後者の空海の説から法身大日如来とみる真言僧たちが現われたことは十分にうなずける。私は、この経典は法身大日如来が応化身を通じて説き明かしたとする密教の理解こそがどのような解説よりも腑に落ちるのである。
 そもそも経典は誰が説いたか、この点について高野山金剛峰寺管長・松長有慶師は次のようにいう。

経典そのものに対する見解についても、密教の観点は特異である。経典は仏説を記した書籍というにとどまらない。空海の密教眼で見る経典観はさらにスケールが大きい。この現実世界に存在する山川草木をはじめ動物植物、天地自然、森羅万象ことごとくが、密教の眼から眺めると経典として映る、と自作の詩の中で大胆に詠いあげる(12)。

 師はまた根来山の頼瑜も教主を生身の釈迦、故にこの経典を顕教の経と見做す一方で、空海が秘密の慧眼をもって密教の経と見做したとする説をとりつつ、別の箇所では変化法身と見るという、両様の説を打ち立てていると述べている。
 であれば、いずれにせよ同じ「空」についても、顕教の視点と密教の視点を改めて考えざるを得ないのである。松長師は空海の密教眼から眺めたこの経典を次のようにまとめられている。

まさに大宇宙そのものを経典として、その中に仏を見る密教眼からすれば、経典を釈尊が説こうが、だれの経説であろうが、大日如来の直接の説法に他ならないのである(13)。

とし、「般若の空」は大日如来の説法とされている。これに随うなら、「空」とは法身そのものとも考えられるのである。
 私は第三回において、釈尊の解脱について、解脱されたその瞬間、ある種の超常体験をされたと考えて、その背後に法身仏に相当する「何ものか」を想定してみた。それを『般若心経』の教主論から伝達経緯でまとめると、次のような構図になる。法身大日如来→釈尊→観自在菩薩→舎利子。

 つまり釈尊は、衆生救済のためにあえて法身大日如来の説法のホンヤク者(応化身=顕教)の立場をとられたのではないかと推論するものである。そう、対機説法である。それに対して密教は直接法身の説く「法」(=空)を観想してきたのではないだろうか。空海のいう即身成仏とは、喩えていえば、いわば仏説の産地直送の鮮度と効用を説いたものである。釈尊の覚りの内実を本当に理解できるものにしかできないことであろう。

◆『般若心経』の文脈
 空海の『般若心経秘鍵』は学者の間で様々な評価があることも事実だが、私はこの経典を密教経典とする空海の解説がもっとも納得がいく。というよりも、この経典を密教経典と見る以外私には理解のしようがない。無論、私ごとき浅学非才の輩が解釈するなど不遜の極みではあるが、いまのところ「自分の理解」で語るしか方法をもたない。不備は承知の上で私論を述べる。

 さて、『般若心経』の前半は、観自在菩薩が実践する般若波羅蜜多の修行を、三階の小乗にいる舎利子へ、ダルマの瞑想指南という形で(釈尊に代わって)伝授されている。それが色即是空・空即是色等々で表現される自性空の自覚である。受想行識亦復如是と続くのは、受即是空・空即是受、想即是空、空即是想(以下、行・識も同様)という意味で、結局「五蘊皆空」の繰り返しである。
 だから舎利子よ、この(この世の)諸法は「空」という「相」(本性)をもっていると覚るべきである(舎利子、是諸法空相)。それ故にこの世の存在(現象)を言葉にすれば否定でしか言い表せないのだ(不生不滅、不垢不浄、不増不減)。ここまで固定的な存在はありえないという現象的存在の特徴としての「空相」の説法であろう。中村元博士が解説するところの顕教の「空」である。

 だが、ひとたび「空の世界」に入れば「空」の意味は一変する。それが「ここにおいて」という「イハ」の持つ重要な意味なのであろう。「空の世界」とは観自在菩薩の「覚りの世界」を指す。覚りの世界においてのみ到達できるリアルな世界であると思う。

 このリアルな覚りの世界においては、「是故空中」以下、五蘊皆"空"は、五蘊皆"無"と大転換していることに注目したい。是故空中(是の故に空の中には)以下の文章は、「故に空の"世界"の中では」という意味で考えなければなるまい。それが「無色無受想行識」以下、「無智亦無得」までである。ここは存在の「空相」を覚った段階で明かされる次なる「密号の空」、すなわち法身の「空」に転換されていると私は考える。

 したがってこの覚りの成果は、菩提薩埵をして、(般若波羅蜜多に依るが故に)、心無罣礙、無有恐怖、遠離一切顚倒無想、究竟涅槃ならしめたと最高の境地が述べられる。この究極の真実は仏陀の居られる屋上において、さらに念を入れて確証されるのである。『心経』の最後は三世の諸仏という至高の存在が現われる。三世諸仏もまた般若波羅蜜多に依って阿耨多羅三藐三菩提という至高の境界に至ったとある。

 つまり諸仏でさえ般若波羅蜜多に依るが故にとある。「依る」という原文サンスクリットは「~を拠り所にしている」という意味の「アーシュリトャ」であるから、仏といえども拠り所にするものがあったということである。
 この拠り所こそが『八千頌般若経』の中で、釈尊が智慧の完成(般若波羅蜜多)という呪術であると説くものであった。言い換えれば般若波羅蜜多とは「空の世界=屋上」に通じる「呪術」なのである。(繰り返すが六波羅蜜ではない)

 しかもこの屋上が覚りの究極のフロア、即ち「空の"世界"」であればこそ、縁起の世界での「空の"説法"」はもはや必要ではなくなり、顕教的解説はすべて「無」となるのである。つまりここからが、法身の内証である第二の「空」(空の覚り)ではないかと考えられる。

 故にこそ、五蘊皆"空"は五蘊皆"無"となるのである(無色無受想行識)。すなわち「六根」も無となり(無現耳鼻舌身意)、「六境」も無となり(無色声香味触法)、「六識」も無となり(無眼界乃至無意識界)、「十二縁起」の順観・逆観も無となり(無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽)、仏教随一とされる「四聖諦」も無となるのである(無苦集滅道)。

 かくして応化としての釈尊の説法はすべて消え去る。これが本当の意味での「諸法無我」であろう。ここにおいて諸法の空相が、実は法身の説く「空」へ導く応化の説法であったことをようやく知らされるのだ。残るのはもう一つの「空」、即ち、「空の世界」という「場」だけである。

 以上を今一度まとめると、前半は「有為の世界」(諸行無常=縁起の世界)で説いた「空」。これが相としての「空」。後半は「無為の世界」(諸法無我=空の世界)で説いた「空」。これは実相である。同じものを有為と無為のステージを変えて説かれたものだと考えられる。しかし「有為の世界」と「無為の世界」とは次元を異にするのである。

 観自在菩薩は諸法の「空相」を覚られた瞬間、即座に「空の実相」をも覚られた。五蘊皆空を照見された瞬間、一切の苦厄を度されたとあるのは、つまり有為の世界での釈尊の覚りが、無為の世界である「空の世界」に次元を超えてワープしたとものと考えられる。

 とすれば、釈尊を解脱させた「空の世界」が存在しなければならない。何故なら、釈尊はその世界の自覚おいて「涅槃寂静」されたと考えるからである。おそらくこの「空の世界」の実在性が、空海が『二教論』で引証した如来の如義語という「実空」なのではないだろうか。
 我々は普通四次元の世界までしか観念出来ないが、仏の世界がもしそれ以上の多次元世界であれば、「空」は異次元における世界ではないかとも考えられるのである。これについても第五回で詳述したいと思う。

◆『般若心経』は密教経典
 私には「空」は異次元の「仏の世界」だと思われるが、それは単に私の信仰だといわれるだろう。しかし仏教を救いの宗教と見る私の根拠でもある。その意味は、あらゆる命も、因も縁も、諸法をも生み出しかつ包摂するのは虚空(宇宙)であるが、しかしその真実の姿は「空の世界」であり、故にその背後には如来の慈悲の遍満する「仏の世界」が存在するという意味である。空海の次の言葉をどのように受け止めればよいか。
 「色を孕むものは空なり、空を呑むものは仏なり。」(全ての存在を包容するものは虚空であり、その広大無辺な虚空をも摂しつくすものは大日如来である。)(藤左近将監、先妣のために三七の斎を設くる願文)(14)

 『八千頌般若経』において、釈尊がスプーティー長老を褒めたのは、大乗の捉え方についてであった。大乗とは虚空と等しく無数の有情の入れ物であり、かつ世間を超克するものであるという内容に対して、私はまるで壮大な宇宙空間論のようでもあるといった。その大乗とは世間を超克するものである。

 何故大乗といえるのか。『即身成仏義』には次のような表現がある。

宇宙の真理たる大日如来は、大虚空と同様に障害がない。ありとあらゆるものを包含して永遠である。その故に<大空>というのである。(大空位とは、法身は大虚に同じて無礙なり。衆生を含じて常恒なり。故に大空といふ(15)。)

これは『八千頌般若経』の大乗の説明と同じである。

 では何故大乗が世間を超克できるのか。『大日経』には次のようにある。

この身体を捨てず、思うまま行動できる能力を得て、大空位において、思いのまま行動して、しかも身秘密を完成する、と。(この身を捨てずして神境通を逮得し、大空位に遊歩して、しかも身秘密を成す。)(16)

 これらの言葉から「空」とは「入れ物」であることがわかる。しかもそれが仏の世界と連動していることは、大日如来が大空位であるという解説で明らかである。しかも「大空位に遊歩する」ということは、大乗でいう世間を超克することに相当するものだろう。わかりやすくいえば、縁起の支配を超えた「自由」を得るということである。それが三密加持による即身成仏だと空海はいう。いうまでもないことだが、釈尊のいう「苦」とは縁起に支配されざるを得ない人間の存在形式のことである。仏陀とはそこから自由になられた方である。

 さらに空海はいう。

我、本不生を覚り、語言の道を出過し、諸過解脱することを得。因縁を遠離し、空は虚空に等しと知る(17)。

 「因縁を遠離し、空は虚空に等しと知る」とは「空の覚りが縁起の世界を超え、大空に等しいことをさとった」ということでありる。これによっても、虚空とは仏の慈悲に満ち満ちた「空の世界」の現われであると考えられる。

 『般若心経』は、この神秘的な「空の世界」を通じて、法身の境界に通じる道が般若波羅多という呪(真言)であると説く。「故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神呪なり、これ大明呪なり、これ無上呪なり、これ無等等呪なり」(故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪)と。六波羅密なぞとは一言も書かれていない。
 私にとって『心経』を読誦することは、仏陀が遠い過去より永遠に唱え続けておられる呪(真言)に参加させて頂くことに他ならない。宇宙の森羅万象のなかに充満する大日如来の慈悲に包まれていくような実感である。
 その呪とは即ち説いて曰く、ガテー、ガテー、ハラガテー、ハラソーガテー、ボージースヴァーハー。(即説呪曰、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提娑婆訶)
『般若心経』は明らかに真言を説いた密教経典である。

◆「阿字の世界」と「空の世界」
 松長有慶師の「チベット密教の修法」の解説は極めて示唆的である。万物を生み出す「場としての空」が密教観想の根底にあると思わせる報告がなされている。
 チベット密教の観想法である生起次第では「行者はまず空を観想し、そこから、忿怒尊や楼閣宮殿など、仏と現象界の一切のものを空より出現させ、また空に帰していく操作を自在になす。」と報告されている。しかもチベット密教の観想法は、大乗仏教の空の思想を根底として組み立てられているとある(18)。 
 インド密教を比較的忠実に継承しているといわれるチベット密教が、大乗の空をこのように万物を生み出す世界と関係づける思想は、真言宗の阿字観瞑想法に通底するものがあるように思えてならない。私のように教相だけから事相を語るのは差し控えるべきであろうが、阿字観の練達である大阿闍梨の言葉はこの思いを駆り立てずにはおかない。

 山崎泰廣師はその著『阿字観瞑想入門』(春秋社、2007)の中で『大日経疏』から引用して次のように書いている。

阿字を以って自身を加持するが故に即ち空に同じ。此の空の中に於いて、一切の仏法を成就すること、世間の万物の空に因って成ずることを得れども、空の本体は無想なるが如し。無想の中に於いて種々の形声を現ず。(19)

と、万物は空の現成の姿であると説いた部分を紹介している。また、

『因縁』の法とそして『空』とは、仏教の重要な特徴である。空とは"実体のないもの"とする表現がしばしばなされ、それは確かに空のもつ一つの要素ではあるが、一面の真理であって誤解も招いてきたように思う(20)。

とも指摘している。師はまた、

密教経典の宇宙創造は、単なる宇宙的神話ではなく、まことに壮大な科学的ドラマで語られていた。(略)近年ようやく辿りついた天体物理学の発想が、すでに千三百年も前に、密教行者の深い瞑想によって発見されていたことは、驚嘆に値する。

とも語っている。また、生命の海から這い上がった人類の命が、現代も当時の海水の塩分濃度と、体液の塩分濃度が人種や民族を超えて同じであることや、月や地球や太陽の生成年齢が同じという例を挙げ、すべて同一の生命体から生まれてきたものであると語る。そしてこれらの事実は、「ア」の一音から万物を創造したとする密教経典の真理を"追認"するものであろうと語っている(21)。
 師の「宇宙を視座とする真言密教」の件には、三密喩伽の修行法の説明として、阿字観瞑想はまず「宇宙を宝の蔵」だと見ることであるとして次のよう記している。

一般には、青く澄んだ虚空、すなわち宇宙は虚無真空と思われているのではないだろうか。虚空蔵とは、虚空は蔵である、しかもその本体はあらゆる宝物を生み出す如意宝珠である、と密教ではいう。無数の天体、そこに誕生した生命体も、考えてみれば全て虚空から生まれたのではないか。近年にいたって天体物理学は、宇宙は真空ではないということがようやくわかってきたようである(22)。

 師のいう密教と現代科学の関連性は、とりわけ現代人に密教を語る上でわかりやすい視座を提起していると思われる。今回のテーマ「密号の空」の譬えは、次回において科学的視点からさらに考察したい。


<注>
(1)中村元、『龍樹』講談社文庫、2002、p.129 
(2)石飛道子、『ブッダと龍樹の論理学』株式会社サンガ、 2007、p.16
(3)例えば松原泰道師は「般若波羅蜜多」を次のように説明する。
「具体的には、人間が人間として完成するために実践しなければならない六項目(六波羅蜜とも六度ともいう)を実践することですが・・・その第一が布施です。」
とし、布施行の内容を詳細しつつ、以下、持戒・忍辱・精進・禅定・智慧と般若波羅蜜多を六波羅蜜であるとの解説を続けている。(『般若心経入門』松原泰道、祥伝社、1972、pp93~103.)
当時薬師寺の管長・高田好胤師によって、『般若心経』を講義する第一人者と絶賛された松原泰道師の書いたこの本は、1972年の出版以来記録的なベストセラーとなり、第一次仏教書ブームのきっかけになったといわれ今日まで重版を続けている。そのせいか、以後、多くの仏教家によって書かれてきた『般若心経』の解説書のほとんどが松原泰道師に右へ倣えで、般若波羅蜜多を六波羅蜜と解説する有様である。これらは般若波羅蜜多の解説として基本的な誤りである。
(4)前掲『般若心経入門』pp.26~27
(5)梶山雄一訳『大乗仏典②八千頌般若経Ⅰ』中公文庫2001、p.38
(6)宮坂宥洪、『新釈般若心経』角川ソフィア文庫 2004、p.97
(7)『仏教文化辞典』佼成出版社、1989、p.44
(8)中村元・紀野一義訳註『般若心経・金剛般若経』岩波文庫171、2001、p.11
(9)宮坂前掲書p.75
(10)宮坂前掲書pp.83-88
(11)密教21フォーラム『密教メッセージ』No.8p.46
(12)松長有慶『空海般若心経の秘密を読み解く』春秋社2006、pp.20~21
(13)松長前掲書p.21
(14)勝又俊教、『弘法大師著作全集』第三巻、山喜房佛書林1989、p.316
(15)『弘法大師空海全集』第二巻、筑摩書房2002、p.223
(16)前掲書pp.222~223
(17)前掲書p.227
(18)松長有慶『密教』岩波新書179 p.p129~131 
(19)山崎泰廣『真言密教-阿字観瞑想入門』春秋社、2007、pp.86~87
(20)山崎前掲書pp.86~87
(21)山崎前掲書p.88
(22)山崎前掲書pp.61~62  

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