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臓器移植問題――③菩薩行の盲点

 臓器移植・脳死問題に関する日本人の意識には、肯定派・否定派・中間派など、さまざまな考え方があることは承知である。私は今、医学、政治、法律、経済など、俗世の価値や論理ではなく、「仏の真理」を求めようとしている。ところが、宗教家の間でも賛否両論のみならず、さまざまな意見が存在する。これは仏教者も同様である。

 例えば自ら仏教徒をもって任じる梅原猛氏は、脳死は死ではないという立場を示す一方で、臓器移植は「菩薩行」として肯定すべきであるとの見解を夙に表明している。(「脳死・ソクラテスの徒は反対する」(『文藝春秋』12月号、1990年)。

 このような考え方は「脳死問題」にも敷衍され、「脳死」を死と認めることに否定的な見解を示した脳死臨調の少数意見にもみられた。臓器提供はキリスト教の「愛の行為」にあたり、仏教の「菩薩行」とも矛盾しないであろうとの論述が見られるほどであった。

 ここでいう菩薩行とは、大乗仏教の「布施行」(布施波羅蜜)を指す。賛成派の仏教者はおおむねこの「菩薩行」に論拠を置いているといってもさしつかえなかろう。しかし菩薩行にこだわるあまりに、何か大切な点を見落としてはいないか、というのが今回のテーマである。

 まず、仏教学者の間で賛成派に見られる見解に「執着心」が挙げられている。臓器提供に反対するのは、死後も自己の肉体に「執着」しているからで、仏の教えの基本は執着を離れることである、というわけだ。菩薩は執着心を離れている、したがって仏教者は積極的に臓器を差し出すことが菩薩行にかなうとする。だが、執着を離れることを仏の教えというのなら、他人の臓器を移植してでも生き延びたいという患者の執着心はどうなるのか、仏教では執着心をこそ苦の因とする。それで本当に患者は救われるか。慎重派は当然そのように考える。

 あるいは、阿頼耶識の点から脳死を認める仏教学者もいるが、(阿頼耶識がもはや消失しているという脳死肯定論)この唯識論の立場は、人間を、「脳」を中心とした人格統合体と見る脳死臨調多数派の考えを、仏教理論が補強することになる。もし唯識理論を本気でそのように援用するのであれば、そういう学者は究極の差別主義者であることは、②の「知識階層の傲慢」で述べたとおりである。

 脳だけに生命の証である阿頼耶識を見るのであるなら、脳死後、心臓は脈々と血液を体内に送り、細胞は活動し、お産もし、髪の毛も身長も伸びていく生命の姿は、一体どのように説明するのか。これらは生命の証ではないのか。脳の意識活動は停止しても、一つ一つの細胞は懸命に「生きようとしている」。これこそが「命の阿頼耶識」ではないか。

 空海はインドの五大説(または四大説)に対して六大説をもって答える。六大とは世界を構成する地・水・火・風・空の物質的な五大原理に、生命的・精神的原理である「識大」を加えたものである。空海は『即身成仏義』において、顕教(仏教)では五大を「識」をもたぬ存在(非情)と見るが、密教では六大すべてを宇宙的な生命(法界体性)とみなすと説いている。くだいていえば、世界を構成する五大要素にも生命的象徴があるということだ。(空海が先見したこの宇宙の原理は、現代では量子力学の世界で最大のテーマになっている。)

 自然界の物質においてさえそうである。まして目下の話は人間の肉体の生死についてである。脳死をもって、まだ温かい人間全体を死と決定することは実に乱暴きわまりない。弘法大師を祖師と仰ぐ真言宗徒としては、「識大」の見地からも到底受け入れられるものではなかろう。

 余談に走ったが、ともかく菩薩行(布施行)をもって賛否を論じることは、菩薩行に自らが足をとられた観念論のように思えてならない。仏教学者の神学的論争に加わるつもりはないが、一応菩薩行を掲げる学者の論拠とする経典を検討してみる。

 まず『法華経』の捨身説話である。薬王菩薩は薬をもって人々の心身両面を治癒する菩薩であるが、『法華経』薬王菩薩本事品第二十三では、一切衆生憙見菩薩の生まれ変わりとされ、法華経の教えを受けた後に、わが身を燃やして仏の供養をする姿が描かれている。つまり身を投げ出して供養することが最上の布施行為だとして、本経受持の功徳を説いている。

 つぎに『金光明経』捨身品第十七では、飢えて死を間近にした虎を目の前にして、裸になってわが身を横たえ、噛み付く力のない虎の為に尖った竹で自らの身を傷つけ、崖から身を投げて、虎に自分の身体を施す様子が描かれている。法隆寺の玉虫厨子にも描かれている捨身飼虎の図である。これは菩薩時代の釈尊の「前世物語」として後世考えられたものである。

 これらをそのまま「布施行」の思想に援用するのは、どこか経典に呪縛された窮屈な理屈のように思える。思うに、このような説話は「布施行」というものの究極的な姿を象徴的に説くものであって、問題はそこから何を学ぶかであって、仏道に帰依する者に同じ行動を要請するものではなかろう。第一捨身飼虎は歴史上の釈迦の行為ではない。お釈迦さまは八十歳の天寿を全うされた。捨身の菩薩行を仏道の究極とするなら、衆生が兜率天に生まれ変わりたければ、六波羅密や三劫成仏を説かずとも、人間はみな飢えた狼を哀れみ、この身を餌食にすればさっさと成仏することになる。

 中世の立川真言流が『理趣経』をして男女交合を説く経典だと誤解したのはこの類である。オウム真理教の松本智津夫という俗物が「積極的に死をもたらし、より高位の世界へ意識を移し替え転生させる」という「ポア」なる教義の下に殺戮を正当化したのも、この経典の読み間違いであった。

 経典には仏の世界の物語が多く描かれている。それは喩え話であったり、詩であったり、いずれも人間の次元を超えて説くものが多い。極端な場合にはまったく矛盾する内容になることもある。これらは釈尊が相手の理解力や性格に合わせて最も相応しい説き方をされたということと(対機説法)、弟子たちの解釈の仕方によって微妙に異なって伝承されたということがある。それらを見極めぬままに、経典の言葉をそっくり人間社会の実践倫理に移すと大きな間違いにつながるのではないか。。

 しかしながらオウムの麻原彰晃を笑ってばかりもいられない。良識ある仏教学者も、ときに「真面目に考え、真面目に間違える」ときがあるからだ。脳死や臓器移植を菩薩行とする「神学論」(仏教論争)がまさにそれである。

 大乗仏教には、菩薩が実践修行しなければならない六種の行(六波羅蜜)があるが、捨身は他者を救うためにわが身を施す最高の布施波羅蜜と説かれている。しかしそれはものの順序が逆であろう。捨身は仏の供養が目的であって、仏に帰依するにはそのくらいの覚悟が必要だと言っているにすぎないのはないか。これが捨身行の本質であって、やたらに不惜身命を奨め、臓器を与えよと言っている訳ではない。

 実は空海も七歳のときに捨身の行を試みたという伝承が残っている。場所は空海の実家(讃岐の善通寺)から遠くない我拝師山の「捨身ヶ嶽」である。(精しくは本サイト「空海を歩く」<四国八十八ヶ所遍路「空と海と風と」>第三十一回・出釈迦寺)さて、問題はこのとき七歳の真魚(空海)は、「我、仏道に入りて一切の衆生を救わんと欲す。我が願いかなうものならば、釈迦よ現われて我に霊験を、さもなくば賭したこの身を諸仏に捧げん」と唱えて断崖から飛び降りたという内容である。注目すべきは「わが身を衆生に捧げる」とは言わず、「諸仏に捧げる」と言っている点である。つまりわずか七歳の子どもでも捨身行の意味(仏の供養)をちゃんとわきまえていたということである。

 菩薩行の引き合いに出される『大智度論』の「布施論」も、あくまで「菩薩の布施」が主論であると私は読んだ。菩薩は智慧に目覚めた方で、言い替えれば「無明」を「明」に転換された仏である。無明の衆生の布施とは根本的に異なることを、本論では次のように述べている

 「檀波羅蜜(布施波羅蜜)の如きは、般若波羅蜜(完成された智慧)を得なければ世界(世間)の有尽(有限)の法(今場合は事物)に埋没してしまう。」(原文=如檀波羅密 不得般若波羅蜜 没在世界有盡法中・『大智度論』巻八上)とある。

 つまり智慧なき凡人の布施は、世間の事物(打算・政治・思想)にからめとられてしまうことが多いと考えればよい。故に真の布施とは「般若の空」にもとづく無我の境地であると説くのはその為である。

 ここから布施の条件としての「三輪清浄」という考え方が示される。「三輪清浄」というのは「三輪體空」、「三事皆空」ともいわれ、布施をする人、布施を受ける人、布施される物、この三者がいずれも煩悩を離れ清浄(空)でなくてはならないという意味である。これを臓器移植に当てはめるならば、ドナーとレシピエントと臓器の三者が清浄でなければならないということである。でなければ臓器移植を菩薩行とはいえない。だがそのようなことは現実的にありえない。

 ある経済学者は、腎臓移植を推進するために、臓器供者という行為を賞賛するような社会的コンセプト作りが先決であるという。その論拠を『大日経』の菩提心(三句の法門)に見出している。具体的にはドナーの「評判欲」と「奉仕欲」を引き出し、それによって臓器提供の国民的モチベーションを高めるべきであるという、まるで日本移植学会の論文かと見まがうものを最近読んだ。

 すると、ドナーは「評判欲」に駆られて臓器を差し出し、レシピエントの方は密かに他人の死を待ち焦がれ臓器を待ちわびる。布施物としての臓器には必ず市場原理が働く。移植手術の恩恵に浴せるかどうかは、金の有る無し(経済格差)で決まる。はたしてこれが「三輪清浄」か?一点の曇りもない「三事皆空」という菩薩行か?『大智度論』にも評判欲や名誉欲の布施は不浄な布施であると否定されている。であれば、先の学者の依拠する菩提心(三句の法門の方便究竟)も恣意的な付会と疑わざるを得ない。何やら政治的目的のために密教学が利用された感がある。しかし仏教学的立場からこういう神学論争を大真面目に繰り返す学者は結構いるようだ。

 先の経済学者は密教学修士でもあり、その上で、臓器提供の運動の先頭に立つべきは、全国の真言僧侶66,100人の指導のもとで、信者数1,270万人が死体腎提供の運動を展開すべしと結論付けている。(註:献腎行為は死体腎移植であろうと脳死腎移植であろうと臓器移植にはかわらない。)だが菩薩行そのものは決して易行ではない。であれば、在家にまで理論化するのは、私には菩薩行の逸脱に思える。

 私は僧侶でも学者でもなく一在家の感覚でしか言えないが、そもそも菩薩行とは「菩薩の行」であって、一般人は出家者でも菩薩でもない。凡人は菩薩の前で煩悩と罪多きわが身を懺悔恥することしかできないのではないか。そのつつましい心から発した無心の献身的な行為が、ときとして菩薩を思わせるような崇高な行為を成すときがある。もともと臓器移植にしても、臓器を提供する人の善意や、受ける側の感謝が息づいていたはずである。そのような人間的な行為が、法的根拠と大義名分を与えることによって、やがて無感情な科学的データ処理と、需要と供給の経済的システムにすり換えられる可能性がないかと問うているのである。評判欲や、愛の贈り物という美名のもとに(ドナー・カードの普及)菩薩行を引き寄せて論議することはおおいに問題があり、場合によっては危険ですらある。

 その理由をもう一点だけあげておく。臓器移植の問題は、そこに臓器を渇望して嘆き苦しむ人がいればとにかく救済することだけが先行してはいないかということだ。仏教者はそれが仏の慈悲だと思い込んではいないか。先の経済学者も、大乗仏教の核心は「菩提心」であり、それは「慈悲心」であり、当然「利他」が強調されると述べている。であれば、人間の渇望するものは何であれ、利他することが菩薩行になる。

 クスリの切れた薬物患者には抜苦与楽の新たな麻薬を、人を殺してみたいと切望する異常者には殺人のチャンスを、日本にテポドンをブチ込むまでは死んでも死に切れぬと懇願する北の将軍様には、その道を開いてやればよろしい。我に何の打算も無く、無我の境地で、ひたすら利他に徹してキム・ジョンイルの願いに寄り添うのであれば完璧な菩薩の慈悲ではないか。

 冗談を言っているのではない。これがブラックユーモアに聞こえる人は、おそらく菩薩というものが解っていない人である。菩薩の功徳をナメてはいけない。菩薩とは本質的に願い事は何でも聞き入れてくれるのである。親鸞の「六角堂」での体験はそれを物語るものである。比叡山を下りて百日参籠に励む若き親鸞の煩悩(性欲)の火を消すために、「われ玉女の身となりて犯せられん」と、親鸞の願いをかなえて、その身を開いてくれたのは観音菩薩であった。菩薩にはそれほどの功徳があることを知るべきである。それは麻薬患者であろうが殺人願望者であろうが将軍様だろうが基本的に同じ原理がはたらくのである。

 こういうと、菩薩は悪人の味方をするのか、という反論がきそうだが、場合によっては悪人の味方さえするのが菩薩だと心得ていたほうがいい。この神仏の功徳のメカニズムを知る一部の邪悪な支配者は、古今東西の歴史上、神の名の下に悪魔を呼び出すことを何度も繰り返してきた。個人の欲望の成就を請け負ってきたのは「サタン」であり、その実績は歴然として無数にある。古代の魔法と呼ばれるものは当時の「科学」のことである。本来この世の理法について探求していた神秘学(科学)が、一旦エゴの支配下に陥った瞬間、人々は神(菩薩)の力を悪用して「サタン」を呼び出すのである。そして悲しいことに人々は悪魔を神と崇めてしまうことがある。

 「サタン」が人間の心を操るときに最も巧妙に使う手段が「欲望=利己心」である。例えば評判欲、名誉欲、奉仕欲などもそうである。簡単に言えば、何ごとも「やる気を出させる」ために、潜在的な利己心を利用するのである。巷で流行している成功哲学や能力開発セミナーなども、潜在意識(欲望)を活用して「やる気」を引き出し、目標を実現する。そうであるかぎり、殺人願望者にも将軍様にも、自己実現(邪な欲望実現)の神秘力の「原理」ははたらくのである。

 古代の魔法(科学)は中世の「黒い魔術」といわているが、魔法使いの「願いごと」を実現させるためには、他でもない「祈り」がその絶大な力を発揮するのである。この限りにおいては「神」も「サタン」も同じである。ただ、個人の欲望をかなえるのは万能の「神」ではない。「サタン」である。しかし魔法使いが祈っている相手は「サタン」ではなく「神」であることに注意すべきである。

 ちょっと魔法使いの祈りの言葉を一部紹介すると「・・・ああ、『最高の神聖』を有する神よ、私の意思ではなくおんみの意思が、おんみ唯ひとりの息子でありわれわれの主人であるイエス・キリストの助けにより遂行されますように。アーメン」(原典は大英博物館に保存されている『魔法科学大全』にある。スティーブン・ハッサンの『マインドコントロールの恐怖』には引用されている)

 ここで注意したいことは、魔法使いはイエス・キリストに祈っていることである。しかしその願いをかなえるのは、実はサタンであるということだ。古代より神に祈って悪魔を呼び出すという構図は、少し宗教史を検証すれば誰にでもわかることだ。サタンが現世利益を請け負うのは、人間の個我の欲望を満たしてやることによって、地上の人間を支配できることを誰よりも知っているからである。歴史上の支配者の中には、神の名の下にこのメカニズムを悪用して人類を何度も滅亡の淵においやっている。古代から近現代に至るまで、人類の戦争が全て神の正義の下に行われた事実が何よりの証拠である。

 釈迦もイエスも修行中にこのサタンの誘惑を試されたが見事に退けた。しかし凡人の多くはそうはいかない。神と悪魔との区別もつきかねる。神は個人的な欲望を満たしてくれるようなエゴイスチックな存在ではない。個我の欲望を超えた、何ものにも囚われることのない「自由の天地」を示すものである。仏教でいえば、縁起の支配を超えた仏の境地(涅槃)に導くものである。(このあたりの事情は『般若心経の真義』重松昭春著・朱鷺書房に精しい)

 菩薩に願を掛ければ、殺人願望者でも将軍様でも、基本的に平等の功徳を発揮するとは以上の意味である。しかし、サタンは現世での欲望はかなえてくれるが、その変わりに人間の魂を奪う。これが悪魔との取引である。(ゲーテの『ファウスト』にはメフィストフェレスという悪魔が登場してファウストとこの問題でやり合う場面がある)多くの人は無意識にサタンと取引をしていることに気がつかない。サタンは決しておどろおどろしい姿をして出てくるものではなく、愛とか幸福とか、真、善、美とか、奉仕と感謝とかいうスローガンを掲げて、実に見目麗しい姿で現われる。そして、人々の目をくらまして、「欲望という心のはたらき」に中にそっと忍び込むのである。そして、人は俗世の願望を満たせば満たすほど老死を恐れる。無限の欲望地獄に陥るのだ。サタンに魂を売った人間に、永遠に「やすらぎ」はこない。

 ここで気がついた人もいようが、悪人の願いをかなえるのは、本当は菩薩ではなく、菩薩の姿に身をやつしたサタンだということである。私が言いたいのは、菩薩の功徳を正しく引き出すのも、邪悪なものにするのも、ひとえに人間の意識にかかっているということである。問題は、今、自分は何をしているのかを見つめることである。もしかすると、自分もどこかで悪魔崇拝をしてはいないか、菩薩行の前に「それが正しいかどうか」を熟慮することである。それを見定めるのが「智慧」である。

 先の経済学者はあくまでも臓器提供を「慈悲心による利他行」とするために次のようにいう。

  大乗仏教の核心は「菩提心」である。端的には菩提心とは
  「智慧に基づいた慈悲」を表し、当然のことながら、「利他」が強調される。

 そうである。だから「智慧に基づかない慈悲」を「菩提心」とはいわないのである。当然のことながら「利他」ともいわない。

 釈尊は、実はそのことを私たちに迫っているのである。外なる神(サタン)に従うな、自己を灯明とし、法を灯明とせよという遺言はそういう教えである。私たちがサタンに魂を吸い取られていなければ、必ず「無明」の自分に恐れおののく瞬間がくる。そのときこそが目覚めのチャンスである。

 そもそも釈尊の説かれた基本は菩薩行ではない。釈尊はひたすら「法」(この世の理法)を説かれたのである。一般に「縁起の理法」といわれるものである。釈尊は実存(自己)の正体を見つめ続けられた。そして人間の生存にまつわる「苦」を引き起こすメカニズムが「無明」に始まることを悟り、「苦」からの解脱の道を示されたのである。飽くなき欲望の達成は無間地獄(悪魔の奴隷)に陥ることを誰よりも知悉されていた。

 ただ釈尊の言動は、あらゆる命を差別せず、哀れみと慈しみに満ちておられたので、弟子たちは仏陀の説く理法の中に慈悲心(存在の相依性)を見出したのである。そして仏陀を理想像とし、その生き方に学ぼうとする中で菩薩を生み出し、菩薩行を自分に課したのである。故に菩薩行は釈尊の主たる説法ではない。手段と目的がひっくり返ってはいないか。もし釈尊が生きておられれば、脳死や臓器移植と菩薩行をめぐる大騒動を見て、きっと「無明」に始まる「苦の連環」(十二因縁)とは、「まさにここにあり」と説かれるであろう。

 人生の不平等は生まれてきた人間の数ほどある。しかし、相対的にどんなに恵まれている人でも、どんなに悲惨な境遇の人でも、生老病死は平等にやってくる。もう一つの平等は仏の慈悲である。しかしこれは「無明」を脱した人間だけが得ることのできる永遠の「安心」である。仏との対話とサタンとの取引との、この微妙な違いはひとえに人の心にある。少なくとも、菩薩の前で自省の心をもつ人の心には、サタンは近寄りがたい。

 私は密教のなすべき菩薩行とは、寿命の長短に関わらず、自分の命はすでに仏の手の中で救われているという「安心(あんじん)」に目覚めさせることではないかと思う。如来の偉大な慈悲心(いのちの根源)を表す胎蔵界マンダラ(大悲胎蔵生曼荼羅)は、このことを告げていると思われる。

 私たちは時々の文明の価値観にマインド・コントロールされて、それが「正しきこと」だと信じがちである。諸行は無常であるのに、その時々の価値観を絶対的な認識(狂信)とするのは心の病でもある。無明という病のままに突っ走るとサタンの餌食になるだけである。空海はそれを次のように言う。

  心病多しといえどもその本は唯一つ、いわゆる無明これなり。
                     『秘密曼荼羅十住心論』

 釈尊の教え(八正道)にしたがうなら、脳死・臓器移植が本当に正しいことであるかどうか、まずはじっくりと考えることではないだろうか。仏教徒の私たちは、正見し、正思し、正業をなそうとしているのかと、沈思黙考することではないだろうか。それが「智慧」のはじまりではないだろうか。(了)

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