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空海と最澄

 空海と最澄の交友はこれまでに多くの研究者によって論じられてきたが、ここではいくつかの視点から交友の背景と二人の違いを考えてみたい。

 1・決別の原因
 周知のように空海と最澄の交友は最終的に決別に終る。一般的に決別の原因とされるのは、空海のもとに預けた泰範(最澄の愛弟子)の帰山拒否や、空海による『理趣釈経』の貸与拒否が挙げられている。他にもさまざまな見解があるが、武内孝善氏(高野山大学大学院教授)は「根本的な要因は、ふたりの密教観、密教受法の方法にたいする見解の相違にあった」としている。(『空海素描』高野山大学)

 それに対して竹内信夫氏(東京大学大学院教授)は武内教授の指摘の妥当性を認めながらも、なお密教観の違いを理由とすることに否定的である。何故なら「そのことは空海にも最澄にも最初からわかっていた」ことで、空海は最澄の密教観を知ったうえで入壇を許し「十八道真言」を授与しようとした事実を挙げている。(『空海入門―弘仁のモダニスト-』ちくま新書)

 では一体何が決別の原因か。
 空海が最澄を受け入れた理由は、密教の包摂性によるものとする竹内信夫教授の説明で十分であろうが、なお具体的にいえば、空海は最澄の密教観、密教受法などの未熟性についてある程度「わかっていた」上で、最澄の密教受法の請願を受け入れたものと考えられる。喩えていえば学力不足を承知の上で生徒を引き受けた進学校のようなものである。とすれば、学校側(空海)としては、引き受けた以上、その生徒の学力を引き上げる責任を追うことになる。一方生徒(最澄)は教師の指導に素直にしたがって努力する責任が生じる。この場合、生徒(最澄)の方も当然自分の学力不足を認識していなければならない。
 であれば、学習者である最澄と、先生(阿闍梨)である空海を対等に並べて、「ふたりの密教、密教受法の方法にたいする見解の相違」とするのは問題の前提がおかしいのではないだろうか。また、竹内信夫教授のいうように、二人は最初から違いがわかっていたとするなら、この違いは生徒と教師の立場の違いでなければならないが、そのようには理解していない。
 空海と最澄が決別に到ったのは、おそらく最澄がなまじ密教をかじっていたために、ある程度学力があると思っていたことと、一方空海は、引き受けた責任上、きちんと教えようとしたこと、つまり最澄の雑密的な未完の密教に対して、空海は純密・正密をもって応じたところに両者の齟齬が生じたものと考えられる。
そうであれば、そうなるべく理由があるはずであろう。その背景を考えてみる。
 2・修学経緯
 まず最澄の密教の修学経緯である。天台教学を学ぶために唐に渡った最澄は、天台山での修学の帰途、たまたま善無畏系の順暁から密教を学ぶが、それは彼本来の入唐求法の目的ではなかったということが挙げられよう。しかも最澄の受法した密教は、空海が長安の恵果阿闍梨から相承した正統密教ではなく、いわば二義的な地方密教であった。
 帰国後、最澄は自分の学んだ密教の不備をさとり、「自分は入唐したが真言は学ばなかったのであなた(空海阿闍梨)から真言の秘法を学びたい」と申し出ている。一刻も早く「伝法灌頂」(真言密教で法灯を伝授する儀式)を望む最澄が、何ヶ月ほどかかるかと空海に質問したとき、空海に「私と三年勉強してください」と答えられて嘆いている。最澄はせいぜい三ヶ月で十分だと考えていた。(『伝教大師求法書』)
 長澤弘隆師(真言宗僧侶)は「最澄はおそらく灌頂というものをよく知らなかったのではないか」と推測している。また「『伝法灌頂』は一定の密教修行を成満したものでなければ許されない。空海の当時は修行の成満以外にも密教の根機に富むことが条件であったことも考えられ、安易に受法がかなうものではなかった。」と解説している。(『空海ノート』長澤弘隆著 ノンブル社)
 「最澄さんは三年かかる」これは最澄の機根(資質・能力)を見た空海の偽らざる気持ちであったろう。後世天台宗はこれを下臈である空海の不誠実・傲慢と非難するが、空海はただ正統な密教授法をもって答えただけである。現代でも、例え優れた学者であっても専門外の分野で未熟であればその学位は授けない。これと同じであろう。どうも最澄は何か急いでいた感がある。これについては「4・動機」で考察したい。
 3・機根(根機)
 密教の「伝法灌頂」では何よりも受法者の機根を見る。私見によれば機根の第一は仏者としての精神的純粋性だと考える。師が見極める弟子の機根とはこのような精神面を含んでいるはずである。空海は入唐後、師の恵果阿闍梨に面接したあとに三ヶ月後には受法されているが、空海の機根がそれほど勝れていたからであろう。恵果は空海をひと目見た瞬間それを見抜いた。加えて「伝法灌頂」に欠くことのできない梵字・悉曇(サンスクリット語)における空海の能力が抜群であった。空海はすでに「伝法灌頂」を受けるに十分な資質と能力を備えていたのである。一方、密教修学を願い出た最澄は梵字・悉曇に関する知識も持っていなかった。これについては「5・空海の失望」で例証する。
 4・動機
 次に最澄が密教を必要とした動機である。最澄は新都平安京の仏教界でリーダー的立場にある天台宗の官僧である。入唐の目的は天台法華一乗をより深めるために天台宗本山(天台山)にて修学することであった。ところが密教まで関心をもったのは最澄の旺盛な向学心であったとも推測できるが、それよりも世俗の要請を感じていたことがより大きな理由であったように思われる。世俗の要請とは、畢竟、最澄のスポンサーである桓武天皇の要望であった。
 桓武天皇は儒教的倫理観にもとづいた現実主義者であったといわれている。それだけに仏教においても現世利益を強く求めた。これは桓武帝だけではなく平安時代以前から支配層全般の傾向であった。私たちは平安時代にみやびな王朝文化の世界を想像しがちであるが、しかしその裏は権謀術数の飛び交う権力闘争が渦巻き、呪詛、怨霊、祟りといった不安におびえる政争の絶えない時代でもあった。つまり政争に敗れて非業の死をとげた怨霊の調伏や魂鎮めを陰陽道や修験道など雑密的な呪術に求めるという側面があった。
 平安京遷都は一般的には腐敗した奈良仏教から決別した桓武天皇の大英断と評価されている。だが、実際は大和の旧勢力の祟りと怨霊に悩まされた桓武天皇が、ほうほうの体で逃げ出してきたというのが真相だったようである。特に桓武天皇の晩年は怨霊に苦しめらており、最澄は密教の呪法を歓迎する桓武天皇の期待に答えなければならなかったのだろう。同時にまた貴族の現世利益の要望に応じるためにも密教を収得する必要があったように思われる。
 最澄が円密一致の立場(天台法門と真言法門とのあいだに優劣を認めない)をとったにもかかわらず、天台宗本来の「止観業」(止観を学修する学科)にわざわざ「遮那業」(密教学科)を設置した理由の大半はこれではなかったか。「法華一乗と真言一乗は異なること無し」(最澄の空海宛の書簡)とするならば、はたして「天台大学」に同じ学部を二つも設置する必要があったのか。「経」は『法華経』を所依とし、「行」は止観(天台宗独自の観法)を専らとする最澄が、改めて密教の「行」を必要としたのは、密教の霊験(現世利益)を求める朝廷の要請がはたらいた側面は想像に難くない。
 5・空海の失望
 私がここでいいたいことは、武内・竹内両教授のいう二人の密教観の内実ではなく、密教へのアプローチ、すなわち密教を必要とした動機とその取り組み方に、すでに決裂の萌芽がなかったかということである。
 私費で渡航した空海はただ純粋に密教を求めていた。国費で入唐した最澄が密教を修学した動機は、ざっくりいえば天台教団の経営上の問題であった。国家仏教の担い手としての教団維持である。帰国後二人の交友が始まるが、どうやら最澄にとって急ぎ必要なものは新来の密教であって、空海という人物(の志)ではなかったように思われる。この点が最澄を同志と見ていたであろう空海との決定的な違いであり、密教の取り組み方の違いでもあったように思われる。

 最澄の空海に対する度重なる密教経典の借覧依頼書(手紙)は慇懃である。しかしそうであればあるほど、空海は次第に自分とは異質な、ある種の世俗性と雑駁性を天台教団に嗅ぎとったのではないだろうか。「叡山ノ澄法師理趣釈経ヲ求ムルニ答スル書」(『性霊集』)に見るように、最澄ほどの名僧に今さら仏教とは何かを説く必要があるだろうか。あったのである。「伝法灌頂」の精神からすれば、少なくとも授法精神の世俗性は排除されなければなるまい。

 恐らく空海は、初めのうち、南都仏教(奈良仏教)に立ち向かう改革者としての最澄に理想的な僧侶の姿を見ていたのだろう。腐敗した旧仏教に新風を吹き込む気鋭の同志の姿である。だからこそ『請来目録』の借覧要請を快諾し、密教受法の約束もした。それは「論」(学問)に偏った南都仏教に対して、「経」(釈尊の心)に戻せと立ち向かった最澄に心意気を感じたからではないだろうか。「叡山ノ澄法師理趣釈経ヲ求ムルニ答スル書」にみえる空海の言葉にその思いが表れている。

「多宝の座を分かち、釈尊の法を弘めんと、この心、この契り、誰か忘れ、誰か忍ばん」(多宝の座を別ちとは、ここでは最澄と空海が相並んでの意)。
 空海はそのために、共にそれぞれが得意とする分野で仏法を弘めたいと思っていたようだ。次の言葉がそれを示す。
 「顕教一乗は公にあらざれば伝えず、秘密仏教はだだ我が誓うところなり」
聖徳太子以来の日本仏教(顕教)は、大乗の精華たる『法華経』を所依とする最澄さんでなければ正しく伝わらない。しかし密教は誓って私が果たしますという。これは同志間の役割分担のことであり、ある意味では戦略的な連携プレーを意味する言葉でもある。空海は最澄ほどの名僧であれば、多くを語らずとも互いの志は相通じるものと信じていたようである。次の言葉がそれを示している。
 「彼此法を守って談話に遑(いとま)あらず、(二人で話し合ういとまがない)不謂の志、(堅い約束を思えば、会って話すいとまはなくとも)いずれの日にか忘れん」
 人は損得打算や名誉のためではなく、相手の意気に感じて協力しようとするものである。その場合人は地位や肩書きよりも、人物そのものを見ているものである。空海はひたすら「最澄を見ていた」のである。

 しかし最澄は必ずしもそうではなかった。彼は自らの天台教学の完成のために空海を必要とした。厳密にいえば空海が請来した密教経典と伝法灌頂を必要とした。最澄は密教の未修部分を埋めるために空海の正統密教を必要としたのであり、空海という人物そのものではなかったように思われる。
 帰国後九州に逗留していた空海が、大同四年(809)七月下旬に入京したのを知るやいなや、最澄はいち早く手紙を出して、『請来目録』の中から選んでおいた書籍の借覧を求めている。(最澄は朝廷に提出していた空海の『請来目録』をすでに見ていた)
 最澄の経典借請の手紙は下記のように実に素っ気ないものである。

    謹啓 法門借請の事、合わせて十二部
      大日経略摂念誦随行法一巻
      大毘盧遮那成仏神変加地経略示七支念誦随行法一巻
      大日経供養儀式一巻
      不動尊使者秘密法一巻
      悉曇字記一巻
      梵字悉曇章一巻 
      悉曇釈一巻
      金剛頂毘盧遮那一百八尊法身印契一巻
      宿曜経三巻
      大唐大興善寺大弁正大広智三蔵表答碑三巻
      金獅子章並びに縁起六相一巻
      華厳経一部四十巻
  右の法門、伝法の為の故に、暫く山室に借らん。敢て損失せず。謹んで、治珍(経珍の誤字か?)仏子に付して以て啓す。
大同四年八月二十四日   下僧最澄 状上
(仁和寺蔵『伝教大師求法書』より)

 最澄が梵字・悉曇に未習であったことは、上記の借覧目録で明らかである。もし精通しておれば、『悉曇字記』や『悉曇釈』、『梵字悉曇章』(梵字の一覧表のようなもの)など、悉曇学の初歩的入門書の借用を申し込むはずはないからである(竹内教授の見解)。とにかくこれより二人の交友が始まるが、最澄が空海その人ではなく空海の所有する典籍類を必要としていたのは、その後の空海に対する行動を見ても明らかである。(二人の交友の経緯は長澤弘隆著『空海ノート』<四十九・平安京における密教弘法><五十五・良きライバル最澄の法城>に詳しい)。
 つまり最澄は「空海を見ていなかった」のである。空海は最後にこのことに気づいたのではないかと思われる。

 そもそも密教の師資相承とは人物対人物(心対心)を最重要視する。まず師がその人物(弟子の機根)を見極め、面受によって直接伝授するものとされる。密教付法の第六祖である不空も恵果にそのようにして伝法し、第七祖の恵果もまたそのようにして空海に密教を伝受した。であれば第八祖の空海もまた正統な方法で伝法しようと考えるのは当然であろう。
 しかし最澄のとった行動はそれに応じるものではなかった。最澄はこれまでのように書写を主とする修学方法で密教が理解できると思っていたのである。即ち密教典籍の借覧書写、筆受による独学、師と離れたところで弟子の代参による間接的な密教修学などは、密教の修法を根本から否定することにつながるものだった。これは学力不足の生徒が教師の指導にしたがわないで学力向上を求めるようなものである。故に師資相承の指導ルールにしたがって伝授しようとした空海が傲慢だとされる謂われはない。

 人物の有するこころ(志・機根)を見ようとした空海と、人物の有する学識(知識・技術・経典・論書)を見ようとした最澄との違いは実に決定的である。『理趣釈経』の借覧を断ったあの秋霜苛烈な手紙に、私は空海の最澄に対する苛立ちと強い失望感を感じる。ほとばしる空海の言葉に耳を傾けてみよう。

「 秘蔵(密教)の奥旨は文の得るとことを貴しとせず、唯心を以って心に伝ふるに在り。文はこれ糟粕(カス)なり。文はこれ瓦礫なり。(略)また古人、道のために道を求む。今の人は名利の為に求む。名のために求むるは求道の志とせず。求道の志は己を道法に忘るなり。」
 空海の最澄に投げかけた叫びには、仏法に帰依する僧侶の血を吐くような切実さがある。書物知識をカス、ガレキとまで言い切った行間に漂うのは空海の深い悲嘆である。(詳しくは本サイト<四国八十八ヶ所遍路「空と海と風と」第三十六回・第八十六番札所・志度寺>)

6・教育者としての観点
 比叡山天台宗は後の世に多くの名僧を輩出したことから、一般的に最澄は仏道教育者であったと評価されている。結果論からいえばそうなろうが、教育者としての「在り方」という点では、私はむしろ空海の方に教育者の姿を見るものである。
 教育者は一流一派の学問体系を整えて弟子に教授するものである。儒学者なら儒学を、軍学者なら兵法をというように。空海は密教の体系を「教相」(教義)と「事相」(実践・儀礼)ともに完璧な形で伝えている。しかし最澄は天台教学を完成させて弟子に継承したとはいえない。だからこそ最澄亡きあと、円仁、円珍が続いて渡唐して、改めて空海が請来した経典の全てと文献や法具を持ち帰り天台密教(台密)を打ち立てることになるのである。また鎌倉時代、多くの学僧が天台宗から「選別の仏教」に換骨奪胎したのも、やはり「天台大学」が、科目は多いが(四宗兼学)体系化できていなかったことに一因があったように思われる。
 最澄は後世弟子が自由に育つことを願って、意図して天台教学を未完にしたとは思えぬ。したがって天台教学を未完のまま引き継がせたことが、その後あまたの名僧を輩出したとしても、これをもって優れた教育者とするのは疑問である。結果をもって原因を目的化するなら、わが国の大東亜戦争も欧米の植民地からの、アジア解放の聖戦(利他の戦い)としなければなるまい。

 また教育者たるものは建学の精神を明確にしなければならない。最澄が比叡山の建学の理念を書き残したものがあるかどうか知らぬが、空海の学校創建は明文化している。空海は庶民の教育機関「綜芸種智院」を創設するにあたり、明確に建学の精神を謳い上げている。それは教育目的(人間教育)、教育環境、教師の資格や子弟の生活の保障、教育の機会均等など、今日でも通用するほど近代的なものである。(詳しくは本サイト<四国八ヶ所遍路「空と海と風と」第十八回))

 こういうと「綜芸種智院」は開校二十年後に閉校になったという反論がきそうだが、それは空海亡きあとの問題(主に経済上の問題)であって創立者空海の問題とするのは酷である。「綜芸種智院」はあくまでも私立学校である。一方「比叡山大学」は潰れなかったというのであれば、空海の「高野山大学」は今日まで続いている。空海も仏道教育者としてやるべきことはやっている。永続性をもって国家公認の延暦寺と経済的基盤の弱い私学を比較することは妥当ではない。

 7・仏者(密教僧)の資質
 さて、結局空海は密教僧として最澄に何を伝えたかったのか。まず考えられるのは霊性の高さではないかと思われる。宗教的感性の高さでもある。空海はそれを自分と共に修行し、最澄に三年間磨いて欲しいといったのであろう。密教僧の資質はいろいろあろうが、最大のものは霊性、即ち法身との交感能力である。少なくとも空海はそのように考えた。

 空海が三ヶ月で受法できたのならば自分もそのくらいでと最澄は思ったのであろう。しかし空海には七年間もの山岳修行の充電期間があった。私度僧時代の七年間、空海は吉野の山々をはじめ、日本の古代の神々のおわす霊山を渉猟し、その世界に身を沈め、その蔭にあるもの、すなわち大自然の神霊を感得していた。

 叡山に篭って止観と筆受(書物)を中心に仏道を極めようとしたのが最澄。それに対して空海は全身で神仏(法身)を求めた。空海は家も家族も栄誉も将来も、全てを捨てて山野を駆け巡り、大自然の中で考え求めた。何となれば、悟りを開くまでの七年間、王位も家族も捨てた釈迦がそのような苦行の道を歩んだからである(苦行林)。釈尊は書物で悟りを開いたわけではない。
 空海が書物(『大日経』)に出会うのは、たまたまそのような修行の途上であって、先に直接神仏と交感動交しようとしていた違いは大きい。密教継承の機根とはまさにこのことであろう。恵果はそれが空海に横溢しているのを直感したのである。

 最澄が密教をやりたいというのなら「密教をおやりなさい」といったまでのこと。密教をやりたいと言いながら『法華経』と同じであるとは一体どういうことか。密教を極めた上でいうならわかるが、最初から「法華経的」にやるのは紛い物である。この自明の理がわからない最澄に「公はこれ聖化なりやはた凡夫と当たるに為すや」と問うたのである。

 仏教の問答は真剣勝負であり、ときには相手を罵倒する厳しさもある。いやそれどころか空海は当初から最澄に請われるままに知識を提供している。巨費と命を賭けて唐より請来した目録の全てを上位者であり、ある意味ではライバルでもある相手に公開している。その上で例え目上であっても、正すべきは正さなければならないというのは、仏法に対する真摯な姿勢というべきであろう。つまりは最澄に中途半端はよしなさいと諭したのだ。中途半端は僧侶のやるべきことではない。それが「あなたは凡夫か?」という厳しい問いかけであった。

 8・学者と僧侶の違い。
 私は二人を考えるとき、最終的に学者と僧侶との違いにいきついてしまう。最澄は学者タイプの僧侶であった。空海は実践家タイプの僧侶であったと思われる。だが大乗仏教の精神が利他・慈悲であるからには、僧侶は学識もさりながらまず衆生済度に生きる実践者でなければなるまい。釈尊がインド各地を遊行して、悩める人々のための対機説法に生涯を捧げたところには、すでに大乗精神の心髄があったといえよう。
 空海の大先輩、私度僧であった行基菩薩が治水や架橋など多くの社会事業をなしたのも大乗の精神である。空海もまた治水灌漑工事や、学校や寺院の創設や、また鉱山開発(水銀鉱脈)など、済世利民の活動は八面六臂である。
 空海は高野山をして、最澄のように十二年間、山(比叡山)を一歩も出てはならぬという戒律は作らなかった。おそらく空海には、僧侶たるものは「庶民の中に飛び込むべし」という信念があったからだと思われる。密教学ではこれを『菩提心論』の「三句の法門」(菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を畢竟す)に求めるが、空海はそのような教義以前に、はなから僧侶とは衆生済度に献身すべきものだ(方便を畢竟す)と思っていた。

 かたや最澄が籠山十二年目に、まず社会的宗教運動として展開したのは、なんと比叡山に、一切経、つまり、当時日本に輸入されていた全経典を目録にしたがって写経し、経蔵に揃えることであった。つまり、山中での総合中央図書館の整備である。彼の異常とも思えるような文献蒐集熱は、空海の入唐請来目録が自筆で残っているほどである。(『最澄と天台本覚思想』栗田勇著 作品社)
 このことは世俗を厭い、山林で修行する血気盛んな三十一歳の最澄の宗教的事業としては奇異な感じをうける。しかしこれこそは学者たる最澄の本望であったと思われる。
 最澄の精神は引き継がれ、経典整備の事業はその後も比叡山天台宗では徹底して行われ、天台宗は「総合大学」として発展するのである。鎌倉新仏教は「比叡山大学」で学んだ学僧たちから生まれてきたことを考えれば、最澄を教育家とするのは確かに一面の評価ではある。しかし、やはり仏道とは何か、大乗仏教とは何かという問題が残る。

 はたして天台教学を学んだ優秀な学僧たちの多くが比叡山を離れて行った。法然・親鸞・日蓮など、真摯に仏道を模索した学僧たちほど、籠山して学ぶよりも民衆の中に飛び込み、それぞれ大乗の精神を追求したのである。しかも彼らが開いた宗派仏教は、元々最澄が空海によって触発され、その後比叡山が確立した台密を吸収することによって生まれた民衆仏教だったのである。

 真言教学は空海一代で見事に完成されたために、ほとんど脱皮する余地を見ぬまま継承されてきた。これを硬直化と批判するむきがあるやに聞く。しかし祖師の教義を時流に合わせて何でもかんでも社会化することがはたしてよいかどうか。例えば今日の臓器移植問題を方便畢竟だの菩薩行だのといって仏教側が奨励することが正しいといえるのか。(詳しくは本頁『臓器移植問題』①②③及び長澤弘隆の頁)。
 真言宗がやるべきことは、むしろ、弘法大師の志を汲み取り、神仏習合の平和共存の密教思想が日本文化の基底にあることを、広く世に知らしめることであるように思われる。それには、お山(高野山)にいて教義を説くだけではなく、民衆の中に飛び込んで身近に寄り添う方途をさぐるところから開始されるべきではないだろうか。

 以上は私の見た空海と最澄の交友論にすぎない。少々最澄に厳しい見方をしたが、私は最澄が嫌いではない。19歳で国家公認の官僧であった最澄が、順調すぎるわが身を恥じて、エリートコースを捨てて叡山に籠山した純粋さが好きである。その凄まじい自己凝視の精神、真面目で愚直なまで生一本で、完璧なモラリストたらんとする最澄に感激さえ覚える。にもかかわらずどこか不器用な生き方に人間性の温もりまでも感じるのだ。それだけに、密教には目もくれず、最後まで法華一乗を貫いて欲しかった。権力の誘いを敢然と拒絶する強さがほしかった。空海はきっとそういう孤高の最澄を生涯の友としたかったように思う。












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