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空と縁起の一考察 ⑤

第五回 密教と科学の出会い

◆宗教に科学的視座を必要とする理由
 立川武蔵氏は「これからの社会は、文化、宗教の相互理解の上にしか成り立つものではないことも確かなのだ。われわれ日本人は、自らの文化的伝統を他の文化の人々に向かって、精緻な言葉によって説明するという伝統を養ってこなかった。」とし、「空」についても言葉を精緻にして一つ一つ論じて積み重ねていく態度の重要さを述べている(1)。
 では異文化社会における宗教の相互理解にはどのような道があるだろうか。これを密教学から考えるのが今回のテーマである。
 一つの可能性として、彼らと共有できる言語を活用することが考えられる。即ち科学理論の援用である。宗派の教義や伝統教学にサイエンスの視座を取り入れることに異論もあろう。しかし異文化相互理解の手段として、ここでは共通の言葉を模索してみたい。
 1と1の和はキリスト教でもイスラム教でも仏教でも2である。炭素と酸素が化合して二酸化炭素になる現象は異宗教社会でも共通の認識である。このような共通の認識を宗教に援用できるのは、実は密教が最も適しているのである。

 例えば石炭が燃えて炭酸ガスになるという化学変化を、普通炭素と酸素が化合して二酸化炭素になると説明されるが、これが世にいう因果論的説明である。しかし仏教は「因」よりもむしろ「縁」を重視する。つまり石炭が炭酸ガスを発生するには炭素という「因」が酸素という「縁」を得るだけでなく、実際に炭酸ガスを発生するには、さらに炭素つまり石炭に火をつけるというもう一つの「縁」が加わってはじめて化学変化を生じ、二酸化炭素という結果(果報)を生むのである。

 実際の「縁」のはたらきはもっと複雑であるが、問題を単純化すれば、同じ炭素という「因」があっても、その「因を変化させる縁」が異なれば、ダイヤモンドになったり石炭になったり、火力が異なれば因縁和合の果報はコークスになったりすることでもわかる。仏教はこの「縁」を重視する。つまり「因を変化させる縁のはたらき」である。この「縁」の重視こそが単純な因果論と釈尊の説いた縁起論との違いである。

 現代、欧米の科学の中ではこのような仏教の思想に着目し、積極的に東洋哲学を研究するニューサイエンスと呼ばれる研究分野が進んでいる。彼らはこれまでの西洋科学万能主義に矛盾を感じ、科学に根本的な反省や批判の眼差しをもち、積極的に東洋の神秘思想を注目する点が共通している。であるなら仏教は彼らとの対話の通路を閉ざす理由はない。むしろ進んで対話の道を開くべきであろう。宗教と科学は対極にあると思われてきたが、この二つの思想が交差することは、新しい世界観の創造につながる可能性があるからである。異文化との相互理解への道は、異宗教世界との共通概念の模索から始まるのではないだろうか。

 そのような視点から仏教哲学は有効である。わけても密教思想には科学的な普遍性を含んでいるが、日本では一般的にそのように受け止められていない。自国の知識人ですら、仏教といえば道元や親鸞たちの祖師が唱えた鎌倉新仏教に偏っている。明治以降を宗教思想史的にたどれば、福沢諭吉や中江兆民など開明派といわれる当時の知識人は、密教を蒙昧な淫祀邪教のたぐいと忌み嫌った。また西田幾太郎や田辺元らを中心とする京都学派も、禅の研究を根幹にした東洋思想であり、空海や密教を積極的に評価しようとしなかった。かつて日本を代表する思想界や哲学界においてもそうであったように、密教は仏教として永いあいだ正当に評価されてきたとはいえない。

 第五回は、教義や宗派を超え、また哲学者や一般の知識人や、さらに異宗教にも理解しやすいように密教思想に科学的視点からスポットを当ててみたいと思う。

◆「空」と「空間」
 第四回で述べたように、虚空蔵はあらゆる宝物を生み出すという。如意宝珠を割ってみれば一物もない空洞であるが、それは七宝万宝を生み出す「場所」なのである。同じように宇宙は虚無真空ではない。密教の言葉でいえば、万物の本源である「阿字の世界」でもある。

 これを物理学的な例で考えれば、「空」は空間に、「色」は物質に置き換えられよう。固体を加熱すると溶けて液体となり、沸点を超えると気体になる。さらに加熱すると、原子は壊れて電子と原子核になる。最後は原子核よりも小さい素粒子が溶けてエネルギーとなる。このように、物質の一部が消滅すると莫大なエネルギーに変わることは、原子爆弾や原子力発電の原理として私たちは知っている。

 相対論の認識では、物質はエネルギーの一形態にすぎないから、この逆をやれば反対の現象が起きる。これが非物質と物質との相互転換であるといわれている(2)。つまり、空間はカラッポの世界ではなく、消滅した物質のエネルギーに満ち満ち、またいつでも物質を生み出すことのできる「空」の世界(空間)なのである。

 まさに虚空は「蔵」である。このエネルギーの互換性については、インドのタントラの行者たちの間では古くからの常識とされていたのである(3)。
 つまり物質的実在としての「有」と非物質的実在としての「空」は、ともに形態を変えた「実在」であり、本質的に異なるものではないのである。まさに「色(物質)は即ち是れ空」であり、「空は即ち是れ色」である(色即是空・空即是色)。「空しさ」(禅思想)どころか「充実」であり「即否定の論理」(京都学派)どころか「即肯定の理法」である。

 ただし以上をもって科学と密教が同一であるというつもりはない。これは、時間、空間、物質が密接に結びついた相対論の解釈であり、後述するように「仏の世界」を証明するものではないと私は考えている。ただ、科学的な説明も一程度の説得力をもつだろうという一例に過ぎない。 
 おそらく古人は有とも無ともいえないこの空間に何ものかを直観したのではないか。仏教用語で「真空妙有」といわれるように、実体なきもの(空なること)であると同時に、それ故にこそ仮に存在するもの(空なるもの)を「妙有」と表現したとするなら、まことに言いえて妙である。

◆ニューサイエンスの世界観と密教思想
 ニューサイエンスが、これまでの科学を支えてきた世界観に対する根本的な反省や見直しをした背景には、地球環境汚染、生態系の破壊、人口爆発、資源の枯渇、核の脅威など、人類が直面する世界規模の深刻な問題があるといわれている。
 また文明論的な背景ばかりではなく、物理学上の問題もあった。これまでの物理学では説明のつかない現象に遭遇し始めたからである。例えばミクロの世界の「ゆらぎ」という現象がそうである。科学で説明のできない現象について、もし「その背後の何か」を問おうとすれば、いずれかの時点で科学と宗教が交差するかもしれない。彼らが東洋の神秘思想に注目するゆえんでもある。

 果たして密教は科学と対話できる共通の言葉(概念)と見識をもっているか。問題の所在をそこにおいて、ニューサイエンスの特徴を私なりに列記すると主に次のようである。
① 要素還元主義へのアンチテーゼ、
② 二元論的世界観の克服、
③ 存在の相互依存性、
④ 非連続的世界観から連続的世界観への転換、
⑤ ホロンと有機システム論、
⑥ 多次元科学の視点、
⑦ 超常現象の科学的研究、
⑧ 量子力学と意識の問題、
⑨ 全体性と内臓秩序、
⑩ 生命原理の尊重
などである。私は宗教の立場からここに「如来の慈悲」を付け加えたいと思う。これは第六回で論じるとして、まずは密教の思想と対比させつつ先端物理学に至る科学史を概括する。
 理学博士石川光男氏の『ニューサイエンスの世界観』(4)によると、西洋科学はガリレイ、ニュートンなどによって築かれた力学が前提で始まっているという。近代科学は、複雑な自然現象をいくつかの単純な構成要素に分解することによって、そのからくりをうまく説明してきた。それは世界を時計仕掛けのようなシステムと見なす機械論的世界観といわれ、微細な建築ブロックの集合体によって世界が構成されているという自然観である。このように、世界は分断化された部分の総和に過ぎないという自然観は、要素還元論ともいわれてきた。古代ギリシャ以来の原子論的概念は西洋特有のものである。

 だが、今日の量子力学の重要なテーマは、ミクロの世界から発見された自然の「相互依存性」である。釈尊がすでに紀元前に把握していた「相依性」(縁起・縁滅の理法)がミクロの世界の現象で現われたのである。
 例えば、電子の状態を観測するため、電子に電磁波を当てようとすると、被観測物である電子が乱されてしまう。これを物理学では「ゆらぎ」というが、観測が状態に影響を及ぼしてしまうため、結局のところ、観測目的である電子の状態は永遠に突き止められないという。これが因(電子)を変化させる縁(観測)による因縁生起である。

 このように自然現象は観測者の有無に係わらず、常に同じように起こるというこれまでの科学の前提(西洋的因果論)が成り立たなくなってしまったのだ。観測される自然(客体)と観測者(主体)を完全に還元できると考えた近代科学の前提は、ミクロの世界ではもはや成り立たなくなったのである。これは観測者と自然との相依性を示している証左で、空海はそのことを繰り返し述べている。
 二元論もまた、世界や事物の根源的な原理を、相背反するそれぞれ独立した二つの基本的要素から構成されるというものである。代表的な二元論として17世紀ルネ・デカルトの唱えた実体二元論がある。例えば肉体・物質といった身的実体とは別に、自我や精神、魂・霊魂と呼ばれる心的実体を明確に区分する考えである。その西洋の二元論の概念も成り立たなくなってしまったのだ。

 このように万物を分別するという西洋的な考え方は物理学でも見られる。石川氏によると、光の本質が微粒子であるか、それとも波動であるかという問題はニュートンの時代から長い間論争の種となってきたが、19世紀には光は波であるという結論に落ち着き、これが科学的常識となっていたという。だが20世紀になって、光を波と考えたのでは説明のつかない現象がいくつか発見され、光は波と粒子の二重性を持つと説明されるようになったとある。
 このようにミクロの世界では、これまでの科学的常識は役立たないばかりではなく、自然を理解するうえでの障害となり始めたのである。一つの実体をAかBかのいずれかに区別する二元論的論理構造は、自然界ではもはや通用しなくなり、その結果、還元主義的な世界観も大きく修正されることになった。

 かくして「全体は部分の単なるよせ集めではない」「全体は部分の総和以上である」という立場から全体をまとめてみようという立場「フォーリズム」(全包括論)が生まれた。しかしこの考え方では全体を見ることはできるが、部分に関するこまやかなことは何も解らない。一方、還元主義の考え方では、部分の性質をこまかく調べることができるが、全体をいくつかの部分に分解するという過程において何か見落としている恐れがあるという反省が生まれた。

 そこでフォーリズムと還元主義の長所を取り入れた新しい考え方の一つとして登場したのが、アーサー・ケストラー(1905~1983)の提案した「ホロン」の概念である。(下図)


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 ホロン(holon)とはギリシャ語で全体を意味するホロス(holos)に部分を意味する接尾語のonを組み合わせた単語であり、部分と全体は「相依」の性質を兼ね備えていることを表現している。
 図における有機体の相依性のモデルから説明すれば、例えば心臓のような器官は動物個
体から見れば「部分」であるけれども、心臓を形成している筋肉のような組織から見れば、
一つのまとまった機能を持つ「全体」である。同じようなヒエラルキーの関係は組織と細胞、細胞と細胞内小器官(リボゾーム・ミトコンドリアなど)などの間にも成り立っているとされる。
 従って、着目する対象は、「上から」見れば部分であるが、「下から」見れば全体であるというような二面性をもっている。有機体はこのような「ホロン」がさまざまのレベルで階層的に組み重なった構造をもっているという。

 ホロンの流動性とはホロンの自立性と他律性のことである。ミトコンドリアは細胞内を芋虫のように自由に動き回って必要な場所へエネルギーを送り届けるだけでなく、ある時は解体したり、他のミトコンドリアに侵入して融合したり、変幻自在の個性的な挙動を示すが、結局は細胞全体の秩序形成という機能に従うという。
 これはホロンに他律性が働くからであろう。ホロン全体のヒエラルキーから見れば自己調節機能であり自己統一性である。しかもそれは各階層で働く。有機体が環境の変化に対して驚くべき適応能力を示すのは、このような「ゆらぎ」に基づく柔軟性に追うところが多いといわれている。

 イギリスの科学者J・Eラヴロックは、地球全体もまた一個の巨大な有機体(生命体)と見なすことを1960年代に提唱した。彼は、地球を示すギリシャの女神にちなんで、それを「ガイア仮説」(地球生命圏)と名づけた。
 ガイア理論は、火星その他の惑星上の生命を探知する方法を大気分析によって調べることから始まり、その結果、地球の大気組成を安定化させているものは生物そのものであるという画期的な発見に到った。彼は人間もまた自然と生態系に働きかける大きな有機システムのホロンという考えを提唱した。
 ガイア理論はその後、生物相と海洋と地圏と大気との総合作用を検証し考慮に入れた上で、地球生理学とも呼ばれるようになり、生態学に継承された。そして地球全体の自己調節機能に人間が関係するという学説が、今日の地球環境問題に発展し、いわゆる現代のエコロジー思想の原点となった。

 ここにこれまでの進化論で考えられてきた、競争、闘争といった枠組みだけで生命システムを考えるのは一面的であり、地上のあらゆる生物は生存競争(自律)とともにバランスのとれた相互依存(他律)のもとで共存しているという全体性(統一性)への視座を開き、それはまた社会や文化の見方にまで拡げられつつある。

 このような世界観は、宗教的に見れば東洋的多神教の世界観に類似している。わけても密教の曼荼羅思想は個と全体の有機的相依性と統一性を象徴的に表しているといえよう。宇宙に遍満する無数の諸仏は大日如来の全体的な「いのち」につながるホロンとも考えることができるのである。大乗仏教の根幹思想である「如来蔵思想」、すなわち人間は「仏のいのち」を内包しているというのもこのような密教思想から説明できよう。

 そもそもデカルト的二分法は東洋には存在しなかった。道教の陰陽の概念は決して対立的な概念ではない。精神と肉体、男と女、剛と柔など、本来同一であるものの異なった側面を示す対極的な概念で、陰陽道は流動的にからみ合い、互いを内包し融合し合うバランスのダイナミズムである。
 理論物理学者のフリッチョフ・カプラ(1939~)は『タオ自然学』においてミクロの世界における二重性の構造が陰陽の概念に類似していることを主張した。タオとはタオイズム(道教)を意味する。カプラは仏教や道教などの東洋思想と現代物理学の類似性をいくつか指摘している。
 主観と客観の合一性、時間と空間の融合、対立概念の超越、万物の相互依存性などである。彼は仏教の「空」と道教の「タオ」の類似性を挙げ、ともに無限の創造力をもつ究極のリアリティーとした東洋思想に驚嘆している。カプラは「空」について次のように述べている。

東洋の神秘家の見方では、すべての現象の根源をなすリアリティは、あらゆる形を超越し、どんな説明も記述も寄せ付けない。そこでよく「無形」とか「空」とか言われるが、この「空」は、単に何もない状態をさしているのではない。逆に、すべての形の根源であり、すべての生命の源なのだ。『ウパニシャッド』にはつぎのように記してある。
ブラフマンは生命。ブラフマンは喜び。ブラフマンは空。喜び、まさしく空なり。空、まさしく喜びなり。『ウパニシャッド』

 仏教でも、究極のリアリティを「シューンニヤター」(空)とよんで同様な考え方をする。シューンニヤターとは、現象世界に形を生じさせる有機的な「空」である。タオイストも、同じような、無限の創造性をタオに帰しており、やはりそれを「空」とよんでいる。『管子』には、「タオは空であり、形がない」と記されており、老子もいろいろなたとえを使ってこの「空」を説明している。(中略)ふつうの意味の「空っぽ」をさしいてはいない。むしろ無限の創造力をもつ「空」をさしている。つまり東洋思想の「空」は素粒子論の「場の量子」とみなせるわけだ(5)。
 「場の量子」とは、物理学の2本柱であった力学と電磁気学を一つの枠組み内の統一した、現代物理学の基本的な考え方である。量子力学的には素粒子も場として記述されるので、素粒子と場とは統一的に扱われ、素粒子論も場の理論という。

 しかし仏教と同じように「空」を説く道教は、空海の『十住心論』では、たかだか第三段階に包摂されているにすぎない。この理由は何か。私には空海の前述(第四回・密号の空と顕教の空)の言葉がその理由を示唆しているように思われる。即ち、「色を孕むものは空なり。空を呑むものは仏である」と。
 カプラを驚嘆させたあの道教が把握した「空」は、空海に到ってはその背後に「仏」の存在が明確に謳われている。空を呑むものは仏である。これが法身如来の「密号の空」であることは繰り返し述べた。

 「ホロン」の提唱者であるケストラーは25年間にわたり生命科学を研究した結果、個と全体との関係において、個は同時にシステム全体の性格を帯びていることを論証するなかで、そこには秩序形成のループ(結び目)のようなものがあると主張する。
 ケストラーはそのループの背景を解明できていないが、彼が感じたであろう生命システム論の謎は、空海によって法界の真実相として夙に説かれたところである。宇宙の個々の命はまさに六大無礙にして常に瑜伽であり、重重帝網のごとしである(6)。

 イギリスの生物学者ライアル・ワトソン(1939~2008)は原子、分子のレベルから、動植物や人間まで、何十億年というスケールで生命の誕生と進化を研究した結果、そこに隠された神秘的な「流れ」を感じた。彼はそれを「ライフ・タイドLife tide」(生命潮流)と名づけた。
 地球は膨大な命の潮流が営む「生きた惑星」である。有機システムの連続性は、インドではバラモン教の時代から輪廻転生として説かれ、日本仏教では本覚思想がその本質を説いている。すなわち、有情・非情における仏性の普遍性を説く「山川草木悉有仏性」がそれである(7)。

 因果論はどうか。科学の世界でおきる非因果的な問題は、すでに1919年、ポール・カメラーが、因果的にはつながっていない複数の事象が空間的に一致して起きることを「連続性の法則」で説いている。カメラーは宇宙には物理的な因果律と共存しながら、多様性のなかに統一をもたらそうとする非因果的な原理が作用しているという。私はこの非因果的な原理を、仏教的には「因」に対する「縁の不思議さ」ではないかと考えている。また密教学的視点からは、これを大日如来の「識大」ととらえている。分析心理学の創始者であるカール・ユング(1875~1961)もまたシンクロニシティー(共時性)という概念において、離れた空間における連続性と背後の意志的な力について論及している。(このような不思議な力のはたらきについては「第六回・存在と縁起」で考察する。)

 アインシュタイン(1879~1955)にその独創性を認められた理論物理学者パウリ(1900~1958)はノーベル賞を受賞したとき、科学と神秘主義に関する見識の高い論文を書いている。論文の最後の方でパウリは次のように書いている。

今日、自然科学というものはあるが、そこにはもはや、科学哲学はない。基本的量子を発見して以来、物理学は、原理的には『全世界』を理解できるという、その誇り高き主張を放棄せざるをえなくなった。しかもこの苦境には、これまでの一面的な方向を是正し、科学は全体の中の一部にすぎないという統一的な世界観へむかう、さらなる発展の種子があるかもしれない、と。

 ケストラーはこの種の哲学的思考は50歳に達した科学者のあいだでは珍しいことではないというが、それは科学が仏教的視点に接近することではないだろうか。『十住心論』でいえば、俗世の真理から仏の真理に近づく第四段階(唯蘊無我住心)である。「俗世の真理」は背後の「仏の真理」に包まれていることを予感する瞬間であろう。

 相対理論に対してデヴィト・ボーム(1917~1992)が、隠された潜在的な世界を「暗在系」と呼び、それが目に見える普遍的な秩序世界、つまり「明在系」を包み込んでいるという「内臓秩序」の理論を提唱したのも、このような量子物理力学の新しい地平を背景にして現れたものである。
これら世界の先端物理学者や心理学者や思想家の探る世界は、私の見るところ、すでに1200年前にわが国の空海が説いたところである。彼ら科学者は、今日、宇宙の摂理、即ち法身大日如来の秘密語を聴こうとしているかのようである。

 東大の伊藤俊太郎博士は「西洋は明在系の探求、東洋は暗在系の探求」といったそうだが、してみると、私の知る空海はその両方を把握していた。というよりも、いわば言語的、顕教的な明在系世界は、いわば密教的な暗在系世界が顕現したひとつの投影であると確信していた恐るべき日本人であった。
 さらに驚くべきことに、空海は、暗在系(密教)に充満する仏の「識」をも明確に自覚していたということである。「量子力学と意識」の研究はまだ緒についたばかりであるが、空海はすでに体験的に知っていた。密教の特徴は、非情(無生物)にも宇宙の「いのちの象徴」があるとした点である。「いのち」すなわち法身の「識大」である。

 空海はインド哲学の五大説(または四大)に対して六大説をもって答える。六大とは世界を形成する地・水・火・風・空の物質的な五大原理に、生命的・精神的原理である「識大」を加えたものである。空海は『即身成仏義』において顕教では五大を意志をもたぬ存在(非情)と見るが、密教では六大すべてを宇宙的な生命(法界体性)と見なすと説いている。

いわく、六大とは五大と及び識となり(略)仏六大を説いて法界体性となしたもう。諸々の顕教の中には四等大をもって非情となす。密教は即ちこれを説いて如来の三摩耶身となす(8)、と。

 いわば空海は、世界は非生命的な粒子の集合体とする要素還元論に対して、そこには、生命的象徴である「如来の識大」を確信したのではないだろうか。だから、「心色異なりといえども、その性すなわち同なり。色即ち心、心即ち色。無障無礙なり」と言う。空海は物と心は本来一体であり、連続相依の関係であることを明確に説き明かしているのだ。

 物心一如であるなら宇宙でも石でも樹でも水でも交感することは原理的に可能である。(ボームは宇宙と脳は共調するという)まして人間同士は本来「我れと汝」の同体である。ユングのいうように、人間の意識も時空を超えて他者と相互に交流するのである。

能所の二生ありといへども、都て能所を絶せり。法爾の道理に何の造作かあらん。能所等の名はみなこれ密号なり。常途浅略の義を執して種種の戯論を作すべからず。かくの如くの六大法界体性所成の身は、無障無碍にして互相に渉入相応し、常住不変にして同じく実際に住せり。故に頌に『六大無碍常瑜伽』といふ。無碍とは渉入自在の義なり。常とは不動不壊等の義なり。瑜伽とは翻じて相応といふ。相応渉入はすなわちこれ即の義なり(9)。

 空海の論述はユングもボームも顔まけである。

 今日の物理学における物質と意識の問題の本質は、すでにわが国の空海によって説かれていたことである。空海の密教は蒙昧な淫祀邪教などではなく、十分に科学的根拠を含んだ宗教なのである。
 空海の験力は自然現象をも動かしたが(例えば請雨行法)、原理的に宇宙に識大がなければ人間と交感することは不可能であろう。三密加持はこれを可能にする。法身大日如来の識大が万物に遍在すればこそ、人間はこの根本的な「智」を自覚するのである。大宇宙の「いのち」の摂理が万有に働き、万物は法身に包まれて成仏する。いわんや人間においておや。これが「即身成仏」の理論の原点(三摩耶身)である。


<注>
(1)立川武蔵『空の思想史』講談社学術文庫pp.17-18
(2)久司道夫『原子転換というヒント』日本CI協会編 三五館
(3)松長有慶『生命の探求・密教のライフサイエンス』法蔵館p.130
(4)石川光男『ニューサイエンスの世界観』たま出版
(5)F・カプラ『タオ自然学』工作舎pp.236-237
(6)空海はそのループの神秘性が仏の実相であることを高らかに謳い上げる。
「即身成仏頌」
六大無礙にして常に瑜伽なり 体 
(宇宙のいのちの六大は、さえぎるものがなく、永遠に結びつきあい、とけあっている。体)
四種曼荼は各々離れず 相
(四種類の曼荼羅は、それぞれ真実相をあらわしてそのままに離れず。相)
三密加持すれば速疾に顕わる 用
(仏とわれの三密が、神秘的なはたらきによって応じあうとき、速やかに覚りの世界が現われる。用)
重重帝網なるを即身と名づく 無礙
(あらゆる身体が、帝釈天のもつ網につけられた珠のように、幾重にも重なり合いながら映し合うのを、名づけて即身という。無礙)
法然に薩般若を具足して
心数心王、刹塵に過ぎたり
各五智無際智を具す
円鏡力の故に実覚智なり 成仏             『即身成仏義』より

 (7)ただし釈尊が輪廻転生を積極的に説いたかどうかは学界では見解が分かれているようである。たしかに初期仏教成立以来、古層資料には輪廻という世界観を肯定した上で覚りの境地を言い表す文章が多い。しかしそれは輪廻思想が仏教に取り込まれ、同化していった過程であると理解することもできる。釈迦仏教はバラモン教に対立して生まれたとはいえ、当時ヒンドゥー教やバラモン教の世界観(輪廻思想=業報思想=血統思想=カースト制)が民衆の間に浸透していた状況にあって、新しい仏教が民衆の支持を得るために旧来の世界観を何らかの形で吸収せざるを得なかったとも考もえられよう。中国仏教が儒教思想を吸収したようにである(『盂蘭盆経』)。今日輪廻思想はあたかも仏教独自の思想と思われているが、最古層の韻文資料には、輪廻と業報を結びつける記述は見られない。最古の釈尊のことばをたどると、釈尊は輪廻思想に消極的であり、むしろ否定的である。(詳しくは『ゴータマ・ブッダ考』並川孝儀、大蔵出版)
 私は釈尊の見た生命の循環と業報輪廻とは似て非なるものではないかと考える。そもそも釈尊の教えは現世での修行(行為)によって覚りを得られるというものであり、生まれる以前の業や血筋によってその人の現世が決定づけられているとは考えなかった。ある意味で業報思想・宿命主義の否定論者であり、逆に実存的であり、自力本願であり、人類の命の平等と解放を主張したというのが私のブッダ論である。
 その意味からも釈迦仏教は本来的に「生」を中心としたものであり、まして死後世界(地獄や極楽浄土)を説いたものではない。大乗仏教のうちでも釈尊の現世中心の教えをもっとも忠実に引き継いだのが空海密教であると思う。当然のことながら、成仏とは死後のことではなく、現世における即身成仏となる。
(8)『弘法大師空海全集』第二巻、筑摩書房pp234-235
(9)現代語訳・・・前掲書同頁
「生み出すもの(能生)」と「生み出されるもの(所生)」との二者があるといっても、本来、すべてそのような「なす」と「なされる」との対立を離れているのである。あるがままの道理に、どうして造るとか作られるとかいう対立があるだろうか。「なす」「なされる」などの言いあらわしは、みな象徴的な表現(密号)によるものである。世間一般で用いられる皮相的な意味にとらわれて、さまざまに無意味な議論をなすべきではない。このような「六大」によって示される宇宙そのものより成る身体はさわりなくさまたげなく、互いに交渉し、応じあって永遠不変であり、そのまま真実にして究極的なあり方で存在している。それゆえに、詩に、「宇宙のいのちの六大は、さえぎるものがなく、永遠に結びつきあい、とけあっている」というのである。<さえぎるものがなく>とは「六大」が自由自在に交渉しあう、という意味である。(以下略)

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