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人間の進化と真価 その①

◆ 人間は神の創造物か

 ダーウインは「生存」における個体進化の観点でとらえているが、人間の「生」とは肉体と精神の統一体のことである。深層心理を究めた唯識(大乗仏教)はそもそも人間の根源的な意識とは何かを問うた。フロイトは意識の根底に無意識(エス・イド)を発見し、そこに人間の根源的な動因である性欲動(リビドー)と攻撃性(死の欲動)を見て、「生」とは潜在的な超自我(スパー・エゴ)の発動にあるといった。はたして人間には「適者生存」と精神分析の動因以上の意味はないのだろうか。

 私見であるが、意識の深層部とはリビドーなどという性の衝動ではなく、宇宙の根源的ないわば「智慧」のことではないかと思う。唯識の「」とは精神分析のいう無意識(深層部の心)とは似て非なるものである。「」は心の奥にあって「生」を支える本質的なものである。本質的なものとは精神分析の欲動ではなく、もっと倫理的なものだといいたい。平たくいえば「生のあり方」のことである。

 唯識論は俗に仏教心理学といわれる。人間には八識があり、眼耳鼻舌身意といった感覚的な意識(心)を六識とする。その背後で働く第七識末那識(まなしき)はまだ煩悩に染められているので、フロイトが発見した無意識もせいぜいここまであろう。

 唯識ではさらにその奥にある第八識に、宇宙の意識を説く阿頼耶識(あらやしき)というがあると説いている(唯識は法相宗)。何より西洋心理学と異なるのは、唯識が「悟り」を目指したことで明白である。阿頼耶識が如来蔵自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)を指し示しているのはそのためである。

 たとえば地球環境学者のエリッヒ・ヤンツは、ダーウイン以来の「種の保存」という視点からの進化という問題の捉え方に疑問を投げかけている。進化のプロセスの意味を単に適応と生存の観点だけで考える生き残りゲームのようなイメージは、人間生活全般に悪しき影響を及ぼすとして否定的である。

 彼は生命とは単なる生存の意味を超えて進化し、また生命が適応する「環境」の方も、それ自身進化し適応するものだという。ミクロ、マクロの全レベルで自然のダイナミズムが相互に関係し進化をしているというのである。そこで人間が自然環境と相互に結びついているのは、人間存在にかかわる深遠な意味があるからだという。(『自己組織化する宇宙・The Self-Organizing Universe Erich Jantsch』)

 ヤンツは宇宙全体が散逸構造を持った自己有機体化システムではないかと考え、それを「宇宙の心」と呼んだ。彼は「神は創造者ではない。宇宙の精神なのだ」と主張している。
これはバチカン公認の「神による宇宙創成説」に正面から対立する宇宙物理学者の主張である。彼のような立場の科学者は近年増え始めている。

 さて、ヤンツの主張は密教的見地からはそれほど奇異な感じはしないはずだ。それは神を創造主ではなく「宇宙の精神」と呼んだところにある。密教僧なら直ちに大日如来の説法を思い浮かべるのではないだろうか。密教は宇宙からコトバならぬ言葉(秘密語)を聴くのである。宇宙は常にメッセージを発しているのだ。

 五大(ごだい)にみな響きあり
 十界(じっかい)に言語(ごんご)を具す
 六塵(ろくじん)ことごとく文字(もんじ)なり
 法身(ほっしん)これ実相(じっそう)なり
『声字実相義・頌』

 存在の五つの要素にはみな響きがある
 十種類の世界には言語が具わっている
 六つの基本的存在要素はことごとく文字である
 真理なる仏の身体が、あるがままの世界の姿である

 古代インドでは、宇宙は、地・水・火・風・空の五つの基本的要素の組み合わせから成り立っていると考えられ、仏教も一応その考えを受け継いでいる。それを「五大」という。宇宙の外面的な側面の五つの基本要素、現代の唯物論的な発想でいえば「物質」のことである。空海は「存在の五つの要素にはみな響きがある」という。現代的にいうとメッセージがあるというのだ。

 空海はそこに「識(心)」を加えて「六大」にした。『即身成仏儀』は「六大無碍にして常に瑜伽なり・・・」という頌から始まっている。(真言宗のお坊さんには釈迦に説法になるので紹介するのもはばかれるが、このサイトは一般の人も読むのでお許し願いたい)

 続く「四種曼荼(ししゅまんだ)各々(おのおの)離れず」というのは、マンダラ的に調和した世界への信頼で、それは信じ込みという意味での信仰ではなく、きわめて徹底した修行から生まれた空海の客観的実感であった。

 密教では生来人間の「識」の奥底には「宇宙の言葉=精神」を感知しうるセンサー(仏性)があると考える。人間の一生をセンサーの開発という成長視点に立てば、密教の目指してきたものが見えてくるだろう。

 ジェイムズ・ラヴロック(大気学者・化学者)も人間と環境との連動を主張する。彼の「ガイア理論」では、地球全体も一個の巨大な有機体(生命体)と見る。地球の大気組成を安定化させているものは生物そのものであり、人間も自然と生態系に働きかける大きな有機システムのホロンという考え方をする。自然科学の領域に関心を深めた哲学者アーサー・ケストラーの「ホロン理論」にしても、やはりミクロとマクロの相互関連と非分割の生態学を主張している。

 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のような一神教世界では、神を宇宙の創造主・造物主たる主体として認め、人間も万物と同じように神による被創造物としている。ということは、人間と神との間に連続性や、まして同質性などはなく、神と人間のあいだには超えがたい断絶があることになる。神が宇宙を創生したならば当然の帰結である。

 ところがヤンツは宇宙と人間との連続性を強調する。彼のいう「宇宙の精神」とは宇宙の自己目的性(自己組織化)のことをいう。彼はそこから地球・自然・生命・社会を含んだ創造的パラダイムを見るのである。では「宇宙の精神」が宇宙の自己組織化全体の中で、人間存在に深遠な意味があるということはどういうことか。

◆ 宇宙秩序の新しいパラダイム

 1967年になって新しい秩序原理が学問的に確立され、それは<ゆらぎをとおした秩序>と呼ばれた。この発見によって物理学はこれまでの理論の根本的な見直しを迫られた。まったく新しい動的体制で現れる時間的・空間的秩序は、流体力学的な構造を持っており、しかも自発的に生じる場合があるという。

 ごく大雑把にいえば、物質は周囲の環境とエネルギーの交換をすることによって自らを維持し、安定構造を自分で組織化していくような物理化学反応があるということだ。物質は絶えずエントロピーを生じ、増大したエントロピーを外部に散逸し続けているので、このような構造を「散逸構造」と呼んでいる。ヤンツはこれをさらに発展させて自己組織化宇宙論としてまとめあげている。ヤンツは生命とはある秩序を志向していると主張するのである。

 またオギュスタン・ベルグ(フランスの物理学者)によれば、世界に意味があるとすれば、それは私たちの世界への関係性の中にしか存在しえないという。彼は私たち人間を世界に存在させる諸々の関係は、そのこと自体によって、私たちを倫理的な存在として、その土台を据えていると主張する。宇宙にはそのような合目的性があるというのである。

 確かに人間はその成長段階において有機固体としての小宇宙(身体)を自己組織化している。あらゆる生命細胞が変化成長するはたらきは、それぞれの自己組織化といえる。生物学者のルパート・シェルドレイクは、この組織化のパターンを「形態形成」と呼び、「あらゆる自己組織化システムには全体性があり、それを決めるのがそのシステムに特徴的な形態形成場である」といった。

 つまり一見個別のような自己組織化システムは、常に全体との綿密な連係プレーがあるというのだ。たとえばヒトの場合、全ての細胞に同じ遺伝子情報が組み込まれているが、成長するにしたがって、心臓や肝臓などの組織に形成分化していくのは生命体の健康(身体全体・小宇宙)の目的に従うからである。

 ラブロックの「地球生命圏」(ガイア理論)の趣旨のように、地球という生命体の健康の状況に従うように、人間もまた形態形成されているならば、地球の一存在である人類は、宇宙の合目的に向かって自己組織化していると考えられる。全体的な生命体である地球において、この考えは同時に地球が太陽系に、太陽系は銀河系に、銀河系は大宇宙へと、より全体的な自己組織化システムへとつながっていくだろう。実に壮大なホロニックな宇宙論が展開するのだ。

 『華厳経』の中心となるのは、全衆生に広大無碍な如来の智慧が具わっているという教えである。「三千大千世界を一微塵に含む」という有名な喩えは、盧遮那仏(大宇宙)の智慧は物質の最小単位にまで具わっているという意味である。物理学でいえば、宇宙の秩序は微塵の中にもはたらいているということになるだろう。

 東大寺の大仏はそのような宇宙を表し、同時にそれは宇宙と連動して全体の調和がとれているというコスモロジー(宇宙論)でもある。仏教ではコスモスをロジック(仏語=経典)によって様々な譬えを交えて説いている。

 マサチューセッツ工科大学で組織論を専門とするピーター・センゲも、工学系の分析的なシステム思考では物事の本質を捉えるのに限界を感じ、行きついたのがこれもまた仏教の方法を取り込むことだった。古くは中間子論で素粒子論の扉を開いた理論物理学者の湯川秀樹博士も仏教からさまざまなヒントを得たと語っている。原子(微塵)の分割性については1200年も前に空海の的確な言及がある。

 認知科学者フランシスコ・ヴェレラとエレノア・ロシュは、脳科学をベースにした理論的な認知科学と、実践・修行をベースにする仏教との融合を図ろうとし、世界は生命体から独立して二元論的に存在するのではなくて、行為を通じて世界と心とを産出するという「中道」の考えを提唱している。(『身体化された心』)端的にいえば、主体と環境というものの直接経験を通じて一体化し、行為を通じて未来を出現させるというのである。一種の縁起論的な研究である。(『出現する未来Presence』)

 相対性理論が不思議だといわれたとき、アインシュタインは「理論はべつだん不思議ではない。むしろ不思議なのは、宇宙がこのようになっている事だ」と言ったという。デヴィト・ボームもまた師のアインシュタイン同様、世界の真の姿はどうなっているのか、そしてこのような世界に我々が生きている意味は何か考えを進めていった。そして相対論においても量子論においても、宇宙が分割できぬ全体であることを前提にして考える方が実在の一般的本性についてははるかに秩序立った見方ができることを示した。

 アインシュタインにしてもボームにしても、まさか彼らの研究が原子爆弾に利用されるとは思いもしなかっただろうが、それは科学者自身の責任ではない。彼らは純粋に学問をしただけである。これは自然科学も人文科学も同様であろう。それを良くも悪くも利用するのは為政者である。人間がたどってきた宗教<哲学<科学<為政というベクトルを、もう一度、為政<科学<哲学<宗教という逆思考をしてみるのがいいかもしれない。

◆ 人間の進化と真価―菩薩の出現―

 神は創造主ではなく「宇宙の精神」だとすれば、一神教の世界のような神と人間との断絶はありえないことになる。ヒトの自己組織化とは、言い換えれば人間の成長のことであり、精神と肉体の統合的形成のことである。そうならば宇宙の進化に伴い人間も倫理的に進化するということは、仏教でいえば「人類の菩薩への進化」に当たるのではないかと考えられる。

 悟りを開く前の修行時代の仏陀のことを菩薩(ボディー・サットヴァ)と呼んでいた。さらに釈尊の前生物語である本生話(ジャータカ)では、釈迦の前生の姿も菩薩と呼んでいる。仏教史的には悟りに達した修行者をブッダとか菩薩と呼んでいたが、大乗仏教の興隆とともに自利(悟り)を利他に回向しようとする修行者全般を菩薩と呼び習わしたようである。
 仏教はその完璧な理想像として、役割によって普賢、文殊、勢至、観音、弥勒、地蔵、虚空蔵菩薩など多くの菩薩を創出した。古来、自己の名利を捨てて、ひたすら民衆のために尽くしてきた修行者は日本にも数多くいた。一般的には(ひじり)と総称されていた。庶民との同体同悲をわが仏道とした一遍上人市聖(いちひじり)といわれ、高野山を守りながら弘法大師の教えを広める人々は高野聖と呼ばれてきた。

 そのような仏者の中でも傑出した人物を日本では○○菩薩と尊称し、人々は信仰の対象として敬った。西域の学僧である龍樹菩薩から日本の行基菩薩に至るまで、菩薩と称された人物は歴史上多くいる。行基のような仏者にとっては利他活動がそのまま自利(悟り=涅槃)でもあったからそのように生きたと思われる。宗派を問わず貧しい人々に献身的な愛を捧げたマザーテレサにとってその行為は神に仕える喜びであったそうである。

 このように宗教者にとっては菩薩行(愛の行為)が最高の倫理であり、そこに人間の「真価」を見ていた。仏教の考える人間の成長とは、近代的な自立、つまり有我(個我)の確立とそのアピール(実存主義)ではなく、逆に「無我の確立」(無償の愛)であった。

 オギュスタン・ベルクのいうように、世界の意味は「世界への関係性」の中にしか存在しえないとすれば、大乗仏教はすでにひとつの答えを出してきた。私は宇宙全体の自己組織化の中に人間が含まれていると意味とは、人間が菩薩に成長することだと思われる。空海の著した『即身成仏儀』の真意もそういうことではなかったか。

 即身成仏とは生きたままミイラになることではない(それは即身仏という)。あくまで即身"成仏"である。現世でこの身のまま「仏に成る」ということは、人間が菩薩に成長することだと思われる。

 我々凡夫にはとても不可能に思われるが、空海は何人もできると断言する。何故ならもともと人間は「仏性」をそなえているからだ。自らの内にある「如来の胎児」を掘り出して正しく育てれば、何人も即身成仏できると空海はいう。つまりその可能性は普遍的であるということだ。このことは、宇宙の関係性の中で人間が存在することに倫理的な意味を発見した物理学者たちの思想にも通じるだろう。

 密教の主尊たる大日如来はユダヤ・キリスト教の神のように、イサクの忠誠や信仰の証を試すなどという試練を与えることはない。人間存在に原罪という原初の規定もなくありのままを包摂する。むしろ大肯定である。ヨブの不幸はサタンを使った神の仕業ではなく、仏教では人間の煩悩のなす業だと喝破している。密教が顕教(釈迦仏教)で煩悩とされる命の執着さえも超越するのは(『理趣経』)、それが宇宙の秩序(智慧)だからである。

 「虚空に尽き、衆生に尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」(この宇宙があるかぎり、生きとし生けるものが存在する限り、最後の一人が涅槃に至るまで、私の願いは達成されない)という空海の気宇壮大な悲願は、人類の幸福(涅槃)を願うまさに菩薩の誓願といえる。

 そして人間の精神の進化の階梯を説いた空海の『十住心論』は、人間の真価とはどのようなものかを私たちに説き示したものであった。

◆ 宇宙の自己統一性と密教倫理

 地球が巨大な有機システムとしての自己統一性(宇宙の精神)をもっていることは、巨大なる調和、宇宙的バランス機能といえるだろう。密教が見抜いたように、ミクロの命(生物)がマクロのいのち(地球・宇宙)とつながっているからこそ、当然そこにも自己統一としての命の調和とバランスがはたらいているのである。

 のみならず空海は、非情(非生命体)とされていた五大(地・水・火・風・空=インド哲学)に「識大」を加えている。物質にも法身大日如来の「」が宿るという。空海は修行の実体験を基にこれを理論化した。

 神秘的だがこの理論を日本人ならわかると、おそらく空海はどこかで確信していたであろう。そこが日本人の優れた精神性であることも知っていたはずである。ヤンツ博士が自然環境は単に唯物的な現象ではなく、「宇宙精神」だというのは密教に近い考え方である。

 物理学者たちは自然と人間が相互に結びついているというが、もともと日本人には神代からわかっていた。だから古代から「神道」は自然崇拝なのである。同時に御霊(みたま)信仰でもある。だから自然を「神」のように崇拝し、山は御霊の帰る場所でもあったのだ。故に「山そのもの」がご神体であった。山伏は山を伏し拝むから山伏なのである。神社は森の中、巨木や巨石は神の依り代として日本人は注連縄を張って祀って来た。

 日本仏教では自然界は悉くみな成仏するという(山川草木悉皆成仏)。万物の相互依存性は仏教ではわかっていたことだ。西洋人には理解できないだろうが、日本人には人類平等だけではなく、自然界も視野に収めた万類平等という独特の生命観がある。
 生活で世話になった道具を、用済みになったあと供養するのは日本人の特長である。(針供養・包丁供養・人形供養・筆供養など)。まして有情(命あるもの)を供養するのは当たり前であった。日本人の生命観には独特のやさしさに満ちていた。

 人間に関わったさまざまな生き物を供養する碑や石仏が日本各地に数多くある。「馬頭観音」「犬頭観音」は人のために働いた動物である。「鹿供養塔」「鶏霊跪塔(くきとう)」などは食用に供された動物だ。「犬猫供養碑」は皮を三味線に張った邦楽関係者が建てたものもある。

 かつて捕鯨を生業にしていた山口県長門市仙崎の鯨墓(くじらばか)を見た時、私は心を打たれた。向岸寺には墓だけではなく、鯨の位牌や過去帳まで保存されている。金子みすゞ(1903年~30年)の「鯨法会」の詩に歌われた「鯨法会」は、現地で今でも盛大に行われている。

 私の育った漁港の諏訪崎という岬の突端には「魚霊塔」があった。栃木県那須町には、将軍が鷹の活餌として農民に採集させた昆虫の「螻蛄(オケラ)供養塔」もある。昔の日本人だからというなかれ、高野山にはシロアリ駆除業者が建てた「シロアリの供養碑」もある。人間のためとはいえ、犠牲になった諸々の命に対する憐憫を感じるのが日本人だ。

 一神教の世界はそうではない。自然や動物は人間が収奪し利用するものに過ぎない。自然を怖れるよりも自然を利用してきた。神が自然環境は人間のためにあるというのだから平気で動物も殺すし環境も人間のために破壊する。個我(エゴ)の欲望達成には「神」も利用する。他の一神教も同じように「神」を利用する。目標達成の障害物は排除しようとするから、相方の「神」が衝突したとき、結果的に適者生存・生き残りゲームの戦いとなる。基本的にはダーウィニズムである。

 世界史に残る国家や民族同士の戦いの底には常にこのような宗教戦争があった。そのような大掛かりな戦争が日本にみられないのは、島国ということもあろうが、基本的には日本人のやさしさであろう(植民地から収奪した英国も島国)。その背景には、宇宙の自己統一性を感じ取った密教的倫理がはたらいていたからではなかったか。

 大陸の異教徒同士の衝突の本質は「神をエゴの支配下」においた人間の衝突であった。つまり神さえ利用する人間の傲慢の結果であった。唯識には詳しい煩悩論があるが、その根っこの「根本煩悩」の中に「(まん)=傲慢」がある。

 「根本煩悩」とはむさぼり(・とん)、いかり(・しん)、おろかさ(・ち)、たかぶり(・まん)、うたがい(・ぎ)、あやまった見方(悪見・あくけん)の六つがあるとする。この「六毒」に染まった人間たちの闘争の世界史を、私は「無明の人類史」と呼んでいる(無明とは宇宙の真理に暗いこと。釈尊のいわれる根本的無知)

 菩薩と人間と生き物と物質の世界とが、秩序をもって成立しているこの宇宙統一性の中に、空海は如来の慈悲をありありと自覚した。その「自覚」が教えるものは人類の進化であり菩薩への進化である。

 地上を支配や富の独占、搾取の原理や覇権主義、差別や闘争や環境破壊や核兵器による破滅から救えるのは、自然に感謝し、菩薩の倫理観を自覚した日本の文明しかないと思う。現代の日本人はやたらにグローバリズムに踊らされるのではなく、本来の祖国に自信と誇りを持って、本当は何が大切かを世界に発信すべきではないだろうか。
 その②では日本の文明史について考察する。

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