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知の法灯-『真言付法伝』

●第一高祖 法身(ほっしん)大日如来<生命のもつ無垢なる知のちからの輝き>
 第一の高祖は(ブッダである。そのブッダのさとりを普遍化すれば)生命のもつ無垢なる知のちからの永遠の存在そのものであり、その知の輝きが世界をあまねく照らすので大日如来という。
 (では、その無垢なる知のちからとはどのようなものか、そのことを)『金剛頂(こんごうちょう)経』につぎのように説く。
 「この大日如来が、根本となる五つの知<①生命知・②生活知・③創造知・④学習知・⑤身体知>と、ありのままの四つのすがた<①生存・②種・③遺伝・④個体>をもって、すべての生きとし生けるものが共に生きている世界を自在に観察し、その世界を動かしている四つの基礎原理<①代謝性(生活知)・②生産性(創造知)・③法則性(学習知)・④作用性(身体知)>と、その基礎原理が展開している生命活動の十六のテーマ<生の主張:①存在・②自由・③愛・④喜び/エネルギー循環と環境:⑤生産・⑥光合成・⑦相互扶助・⑧開花/環境の把握とコミュニケーション:⑨観察・⑩道理・⑪原因・⑫表現/身体行動の動機:⑬慈悲行為・⑭自身の保護・⑮障害の打破・⑯無心の遊び>と、知覚の四段階<①対象を五感<視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚>の鉤(かぎ)にかけてとり・②神経の索(なわ)で引き寄せ・③そうして、イメージの鎖(くさり)に縛り・④反応の鈴(すず)を打ち振る>と、こころの四つの癒し<①生の喜び・②生の装い・③生のリズム(歌)・④生の舞い>による快感と、物質からの四つの癒し<①香り・②花(色彩)・③明かり・④潤い>によるくつろぎと、それらの無垢なる知をもたらしている生命の存在そのものと、その知の普遍の原理と、その原理にしたがい生きる多様な種の微塵の数、ないしは、とうてい説明のしようのない、それらの微細なる存在の隅々にまでゆきわたる知と徳が成している絶対の宇宙と、しかも、人の究極の求道と慈悲によっても得られない、それらの無尽の存在がありのままに為している三つの行ない<動作・伝達(コミュニケーション)・意思>が、わたくしたちの為す行ないと不二一体であるとの教えを説く」と。
 また(大乗経典の)「楞伽(りょうが)経」に
 「生命の無垢なる知のちからによる説法というのは、人びとのそれぞれのこころに合わせた方便(ほうべん)としての教えではなく、人びとがすでにもっている絶対心の目覚めであるから、大慧(だいえ)よ、これはありのままの生命の教え、すなわち法身の説法と名づける」とあるのが、そのことである。

 このように、ありのままの生命のもつ無垢なる知のちからの原理と、個体のもつそれぞれの知の作用とは不二平等であり、それらの知が、すべての生きとし生けるものから森羅万象のことごとくにゆきわたり、嘘のない真実の言葉となって、常に変わらぬ教えを説いているのだ。
 『楞伽経』にいう真実の説法とはこのことである。
 また、『金剛般若経論』においても、「応化身(おうけしん:ブッダ)は真仏にあらず、また説法者にあらず」というのは、(誰もがもつ無垢なる知のちからこそが説法の真の主体者であることから、その知こそが真の仏であり、ブッダはその知に目覚めた人に過ぎないということになるから)このことを指している。
 
 ①ブッダ(目覚めた人)
 ②究極の求道と慈悲の行ない
 ③生命の無垢なる知のちから
 は、それぞれがさとりの教えであるが、同じではない。

 そのことを『金剛頂瑜伽(ゆが)経』につぎのように説く。
 「無垢なる知のちからのあらわれ、すなわち応化身として、インドのマガタ国の菩提樹の下で、ブッダ(釈迦)はさとりをひらいた。そうして、究極の求道と慈悲の行ないを目指す者と、教えを聞いてさとる者と、自らさとる者と、すべての生きとし生けるもののためにその教えを説いた。
 それは、あるときは相手のこころに応じて説き、あるときは自分の思いのままに説かれたという。
 その説法にしたがい、それぞれのもつ宗教的器量と、それぞれの方便をもって、ブッダの説くところを忠実に修行すれば、神妙なる人間界の倫理と天上界の浄土の世界に至るか、それぞれの修行に見合った、それなりの小さなさとりを得る。
 (しかし、その方法によれば、)あるときは進み、あるときは退き、しかも、無限といってよいほどの長い年月を要し、究極の求道と慈悲の境地を経て、ついにさとりに達することになる。(つまり、人びとは今生においては、ブッダのようなさとりに達することができない)
 (そこで人びとは、インドの釈迦族の)王家に生まれ、(クシナガラの沙羅)双樹の林で入滅され、その舎利(遺骨)を残された実在の人物ブッダ(釈迦)の、その舎利塔を建立し、祈り、供養し、人間界の倫理と天上界の浄土の神妙なる恵みを得て、さとりの因縁を感受することになった、と説く。
 <これは、①ブッダ(釈迦)を通したさとりの教えと、その利益(りやく)を明かしたものである>

 究極の求道と慈悲の修行によって得る最高の境地、ビルシャナ(光明遍照)というのは、欲望を断じた肉体の、その肉体(物質世界)が成す真理の、その真理の頂点において、そこに雲集している無量無辺の極微と極大の存在、一刹那と永劫の存在、つまり時間と空間との間で、瞬間的にすがたをあらわしているありのままの存在(客体)と、それを見ている観察者の意識(主体)が一体のものであるとの絶対の境地を証明として、その絶対世界における生命の輝きを指す。
 この輝き(ビルシャナ)によって身心は目覚め、速やかにさとりの境界に至るという。
 この究極のさとりの境地は、前述のブッダの教えとは明らかに異なる。
 <これは、②究極の修行によって得るさとりの教えと、その利益(りやく)を表わしたものである>

 無垢なる知のちからを象徴し、生命のありのままのすがたをもつ大日如来は、その知のちからによって、無量の知のはたらきを流出する。
 それらの知のはたらきも、生きとし生けるものの個々の知のはたらきも、本質においては、みな同じものである。
 なぜなら、いずれのはたらきも、本質においては、生命のもつ知の規範にしたがって生起しているからだ。
 だから、それらのはたらきを、無垢なる知のちからの本質にもどって、大日如来からそれぞれが授かることができる。
 大日如来からはたらきを授かったものたちは、生命の無垢なる知のちから、つまり如来たちがありのままに行なっている、動作・伝達・意思と、自らの行ないが不二一体であるとさとる。
 (その行ないをもって、生きとし生けるものが)大日如来と一切の如来たちに仕えることの認可と、彼らのもつ無垢なる知のちからによる加護を願うと、大日如来はつぎのように述べられた。
 「お前たちよ、将来のどのような世界においても、究極の教えを求めるものたちのために、そのものたちが現生にあって、社会に役立つ自在な技術(生産・土木・医療・福祉・文化など)を修得することと、自然と共にありのままに生きることのできる無垢なる知のちからの双方を得るように、その法をひろめなさい」と。

 (そのことによって、)生命の無垢なる知のちからをもって、それぞれのはたらきを為すことになったもろもろのものたちは、如来の認可を受けて、それぞれの知のちからに仕え、大日如来を中心として、おのおののはたらきの部署につき、大日如来を形成している根源の五つの物質要素<固体・液体・エネルギー・気体・空間>と一心同体になった。(そうやって、輪円具足<マンダラ>の世界の一員となった)

 このような(輪円具足:あらゆるものを包摂し、円輪のごとく秩序をたもち、しかもそれぞれが個性を発揮し、調和し、共生している世界。つまり梵語でいう)マンダラの世界を見、聞き、体得するならば、すべての生きとし生けるものは、戦争や災害・飢え・本能・倫理・浄土という世界の、その世界に生まれかわり死にかわりつづけるといった永遠の苦しみを断つことができる。
 <これは、③生命の無垢なる知のちから<法身大日如来>の教えと、その利益(りやく)を表わしたものである>」と。

 この③の法身大日如来の教えを、真言密教という。
 真言密教は、生命の無垢なる知のちからの存在と、その知のちからのはたらきを説く奥深い教え、絶対真理の世界と、その世界に至る道と、その世界のありのままのすがたを説き示す。
 またいうと、真言密教は、求道の実践徳目<施し・戒め・忍耐・精進・集中・調和>を修め、生命のもつ無垢なる知のちからを示す無量のシンボルを学び、そのシンボルによってマンダラの世界にコンタクトし、そこで得た知のポジションによって、三界<本能・物質・精神>を超越し、その自在な知のはたらきによって、あらゆる生命が共通してもつ行ないに、自らを相応させようとする教えである。 
 この教えを実践すれば、大いなる恵みとしての生命の無垢なる知のちからを、すみやかに体得することになる。また、もろもろの迷いと、もろもろの災いは離れ、生命の本質があらわれる。その本質とは、生存・種・遺伝・個体から成る生命のありのままのすがたである。そのすがたが、無垢なる知のちからのはたらきを満足させるのである。
 (このように)大日如来の知のちからは普遍であり、そうして常に、その無垢なる知の存在を、生命のありのままのすがたと、それらが為す三つの行ない、動作・伝達・意思を通じて説法しておられるのだ。
 しかし、受け手の宗教的素質が劣っていたり、受け手に機運がなければ、その説法を聞くことも信じることも、動作・伝達・意思の三つの行ないを修することもできないから、その教えを世にひろめることはできない。
 すぐれた教えであっても、必ず人を待ち、必ず時を得なければならない。
 では、誰がひろめる者であろうか。
 ここに、七人の伝道師がおられる。上(かみ)は大日如来より、下(しも)は青龍寺の恵果(けいか)和尚に至るまで、つぎつぎと師から弟子へと相続され、今に至るまでその法灯は絶えない。(その法灯の絶えないということが)これがすなわち無垢なる知のちからのはたらきなのである。

●第二祖 金剛薩埵(こんごうさった)<無垢なる知に目覚めたものたち>
 第二の伝法の祖は、バサラサトバ・マカサトバである<唐では金剛薩埵大菩薩という>。
 『金剛頂経』の説くところによると
 「この金剛薩埵(バサラサトバ)は、生命の無垢なる知のちからが成す世界において、自らも無垢なる知に目覚め、その知のちからのはたらき(職位)を大日如来から授かったものたちである。
 そのものたちが、自らが体得したそれぞれの知のはたらきにより、動作・伝達・意思のありのままの三つの行ないを為し、そのことをもって、生命そのものの存在知と、個々の知のちからに仕えることの許しを、大日如来に求めたところ、お前たちは、これからさきも世界がつづくかぎり、真実の知を求めるものたちのために、現生にあって、社会に役立つ自在な技術を修得することと、そのものたちが自らのもつ無垢なる知のちからに目覚めることの、双方が得られように指導しなさい、(そうすれば、輪円具足の世界に入れるのだ)と述べられた」とある。
 この故に、五つの知
 ①生命知:無垢なる知のちからをもつ生命そのものの存在。
 ②生活知:呼吸・睡眠・情動。
 ③創造知:衣・食・住・遊・繁殖などの生産・行動とそれらの相互扶助。
 ④学習知:万象の観察・記憶・編集。
 ⑤身体知:運動・作業・所作・遊び。
 から成る生命活動の、それらの無垢なる知の鈴を打ち振り、金剛薩埵たちは、欲望と物質と精神の間において、生死を繰り返し、長く眠りこけているものたちを起こし、目覚めさせ、その教えに帰依する喜びを、すべてのものたちに与えるのだ。

 ブッダ(釈尊)の滅後八百年の間、無垢なる知のちからに目覚めたものたち、すなわち金剛薩埵たちによって、ブッダの教えは継承され、やがて、第三祖となる龍猛(龍樹)によって、その教えは空(くう)の論理と諸法実相(しょほうじっそう)として集約された。その後、その教えはインドから、中国、日本へと伝来し、生命がありのままにしてもつ、無垢なる知のちからによる三つの行ない、動作・伝達・意思の教え(すなわち密教)として、師から弟子へと相承され、人びとを救済している。

●第三祖 龍猛(りゅうみょう)菩薩<伝持の第一祖>
 第三祖は、その名をナーガールジュナ・ボディサッタという<唐では龍猛菩薩というが、古くは龍樹(りゅうじゅ)という>
 南インドに生まれ、その教えをインド全土にひろめた。すべてのものを平等無尽に包摂する知のちからをもつ者であったが、無垢なる知の成すありのままの世界にあって、おのれの知のはたらきをもって、その世界の中での職位を果たす修行に励んだ。
 若いときは邪道に進み、世間の塵にまみれたが(やがて、欲望が苦をもたらしていると知り、出家し)真理の道をたてて、ブッダの教えをひろく世にあらわした。
 多くの論書をつくり、誤った論を砕き、正しい論理を展開した。
 あらゆるところに秘蔵されていた経典をすべて読破し、ついに南インドで、無垢なる知に目覚めたもの(金剛薩埵)から、真実の知の教えを受け、その教えを人びとに伝えひろめることになった。

 『楞伽(りょうが)』『摩耶(まや)』などの経に、未来に出現すると予言された人物とは、この人のことである。
 『楞伽経』につぎのように説く。
 「生命のありのままのすがたがもつものが為す、無垢なる知のちからとはたらきの教えは、迷いとさとりというような相対的な観念の教えではない。
 (そのようなことを論証する)すぐれた人物が、ブッダ(釈尊)の滅後、ずっと後に、出現するであろう。その人は南インドの大徳の比丘で、名を龍樹という。
 龍樹は、モノ・コトの存在の有無を(作用と作用主体によって)考察し、有無の論議そのものが空(くう)であると論破し、人びとのために、真実の存在とは何かの法を説くであろう」と。

 龍猛(龍樹)菩薩は、ブッダ(釈尊)滅後、約八百年の後にこの世に生まれ、その思想は、三百年以上の長きにわたって教え継がれてきている。その間、ブッダの縁起論を考察した空の教え<顕教>は、弟子のなかの長老、提婆(だいば)に伝えられ、その空の考察によって得た諸法実相(しょほうじっそう:空によって実相を見ること、すなわち諸法が互いに相依って起こっているという縁起を見ることは、そこに実相を見ることであるとする論)に裏づけされる、生命のありのままのすがたと、その生命がもつ無垢なる知のちからの教え<密教>は、龍智(りゅうち)に伝えられた。

 このように師資相承して、法灯は絶えない。
 まさに、このナーガールジュナの思想こそが、その後の諸宗の生みの親である。

●第四祖 龍智(りゅうち)菩薩<伝持の第二祖>
 第四の祖は、名を龍智菩薩という<または普賢(ふげん)阿闍梨(あじゃり)という>。
 第三祖の龍猛菩薩から、その真実の知の教え(密教)を伝授された高弟である。
 (求道と慈悲の究極の修行により)高い境地を得て、その自在な能力は、はかり知れなかった。
 その徳はインド全土にわたり、名は十方に聞こえた。天地の障害を乗り越えて自由に旅をし、あるときは南インドにとどまり、教えをひろめ、人びとを導き、あるときはスリランカに遊行して、教えを求める人たちを帰依させた。
 (龍智のことが)『玄奘(げんじょう)三蔵行状』につぎのように記されている。
 「南インドのとある国のマンゴーの実のなる林のなかに、一人の長命のバラモン(僧侶)が住んでいた。高齢にもかかわらずその顔は三十歳ばかりに見えた。その方は、龍樹菩薩の記した『中論(ちゅうろん)』や提婆菩薩の『百論(ひゃくろん)』などの経論に精通していた。龍猛菩薩の教えを受け継ぐ者であるという。三蔵法師はマンゴー林にとどまり、そのバラモンから『中論』『百論』などを学び、また他の経典についても学んだ」と。
 また『貞元録(じょうげんろく)』(唐の円照和尚が編纂した仏典目録)にもつぎのように記してある。
 「龍樹の弟子を龍智という。龍智の説く教えは、七百年間を経た今も尚、南インドにあって、金剛頂経の各種の教え、及びもろもろの大乗経の教えとして受け継がれ、伝授されている」と。
 さらに、円照和尚の編集した『不空三蔵(ふくうさんぞう)表制集(ひょうせいしゅう)』にもつぎのように記されている。
 「昔、大日如来(人間ブッダの存在そのものを普遍化した象徴)が、(生命の無垢なる知のちからの教え)密教を、金剛薩埵(と呼ばれる、無垢なる知のちからに目覚めたものたち)に伝え、その教えが数百年間も受け継がれ、やがて龍猛菩薩に伝えられ、龍猛の説く教えが数百年の間に龍智阿闍梨に伝えられ、そうして龍智の説く教えが数百年の間に、金剛智阿闍梨と不空阿闍梨に伝えられた」と。

 わたくし空海が貞元二十一年(八〇五)、(在唐中に)長安の醴泉(れいせん)寺において、北インド出身の般若三蔵や中インド出身の牟尼室利(むにしり)三蔵をはじめ、南インド出身のバラモンたちから聞いたところによると、龍智阿闍梨の教えは、今も現に南インドにおいて継承されていて、その名のもとに奥義などが伝授されているという。

●第五祖 金剛智(こんごうち)三蔵<伝持の第三祖>
 第五の祖は、名をバザラボウジという<唐では金剛智という>。
 南インドのマラヤ国のバラモンの家に生まれた。(中インドの王族の王子ともいわれる)生まれながらに霊力をもち、幼くして不思議なことを起こす子であった。
 年幼くして、父に頼んで、仏道に入ることを求めた。
 そうして、十歳のときに念願がかない、ナーランダー寺の寂静智を師として出家し、寺院において、まず、言語学を学び、十五歳で論理学を学び、二十歳のときに比丘となる具戒を受け、それから六年間、大乗・小乗仏教の律蔵を学んだ。
 また『般若燈論』、『百論』、『十二門論』の論書をも学んだ。
 二十八歳にして勝賢論師に就き、『瑜伽(ゆが)論』、『唯識論』、『弁(べん)中辺(ちゅうべん)論』を三年にわたって学んだ。
 そうして、三十一歳のときに南インドに行き、龍樹菩薩の教えを引き継いだ龍智の門をくぐり、七年の間、師に仕えて『金剛頂瑜伽経』及び『ビルシャナ総持陀羅尼法門』、もろもろの大乗経典、ならびに五明(ごみょう)論<①工巧明:工芸・建築・技術・算数・暦・天文などの学/②医方明:医学・薬学/③声明:言語学(文典・文法・音韻)・仏教音楽(音曲)/④因明:論理学/⑤内明:仏教学・倫理・哲学>のすべての学芸を学び、(それらを修めた後に)生命の無垢なる知のちからから成る世界のすがたとはたらきをマンダラによって会得し、その世界での自己のもつ知のはたらきを師から伝授され、名実共にあらゆることに通達するものとなった。
 その上に、九十四の書物に通じ、祈りに巧みで、マンダラ世界の図を描くことにも長け、また、食物はそのたびに天から与えられ、瞑想に入れば常に無垢なる知のちからに目覚めることができたという。
 そのように充実した日々のなかにあったある日、(学習知のはたらきを司る)観音菩薩があらわれ、金剛智につぎのように告げた。
 「お前の学ぶことは、すでに成就した。この後、唐に行って、(創造知のはたらきを司る)文殊師利菩薩に仕えなさい。かの国はお前にとって縁ある土地である。行ってその教えを伝え、人びとを導きなさい」と。

 このお告げによって、金剛智は唐に入る。
 開元八年(七二〇)、初めて洛陽に到る。
 そうして、入国に至った事情を皇帝に一つひとつ奏上した。(金剛智四十八歳のときであった)
 勅命にしたがって、貢物(みつぎもの)を納め、皇帝からは、房舎・衣服・飲食・湯薬などが与えられた。
 こうして、金剛智は、広くその教えを唐にひろめることになり、教えの根幹となるマンダラ道場を設けるに至った。
 その道場に掲げられた、生命の無垢なる知から成る世界のすがたとはたらきを示す図、すなわちマンダラは神々しく、それを見た人びとは、みな不思議な吉兆を感じたという。

 ところで、唐の国に沙門一行(いちぎょう)という人がいた。生命の無垢なる知のちからの教えを学びたいと願い、金剛智のもとに入門した。
 一行は熱心に質疑する弟子であった。
 (一行にたいして)金剛智の指導は丁寧であった。
 やがて、その甲斐あって、一行はマンダラの灌頂を受けるまでになった。
 灌頂によって法を受けた一行は、その法を説く梵語の経典が翻訳されて、世にひろく知れわたることを願った。その願いに答えて金剛智は、『瑜伽(ゆが)念誦(ねんじゅ)法』四巻、『七倶テイ(しちくてい)陀羅尼(だらに)経』などを翻訳した。

 開元二十九年(七四一)八月十五日、金剛智三蔵は、東都洛陽の広福寺で遷化(せんげ)された。
 天宝二年(七四三)二月七日になって、玄宗皇帝の勅命により、奉先寺の西の岡に供養塔が建てられた。

 金剛智は、幼少にして家を捨て、道に入ってから入滅するまで、折にふれて修法を行ない、その都度、多くの成果を得たという。詳しくは別伝に述べる。

 第九代の代宗の御代に、金剛智三蔵の徳を讃えて、称号と官位が贈られた。
 そのときの弟子の不空三蔵和尚への勅書につぎのように記されている。
 「金剛智三蔵は生まれながらの秀才であり、しかも柔和な気質の人であった。
 すべての生きもの<四生(ししょう):胎生(ほ乳類)・卵生(鳥類と爬虫類)・湿生(水棲類)・化生(昆虫と両生類)>を観察し、高い知識をもって、それらのもっている無垢なる知をよく洞察し、また自己は、施し・戒め・忍耐・精進・集中・調和の精神修行に励んだ。
 西域(インド)より、錫(しゃく)を杖(つ)いて東に来られた。そうして、淫欲を絶ち、身を清め、慈悲をもって、人びとを救済した。
 その真実の教えは、花のように世間を照らし、その無垢なる知のかがり火はすべてのもののこころを明るくした。
 そうして、迷える多くのものたちを救い、導きつつ、示寂(じじゃく)された。
 入滅するにあたって、その教えのすべてを弟子の不空に伝授し、後事を託していたとはいえ、今は衣鉢(えはつ)だけが空しく残り、あの慈悲にみちた声はもう聞こえない。
 しかし、和尚の功績は、長く後世に残るであろう。
 ここにその功績を讃えて、開府儀同三司(かいふぎどうさんし:国家に対する偉勲著しい者に与えられる爵位)の官位を贈り、大弘教三蔵の称号を贈る」<開府同三司は、最上位の官位である正一品(しょういっぼん)に相当>
 永泰元年(七六五)十一月一日

●第六祖 不空(ふくう)和尚<伝持の第四祖>
 第六の祖は、南インドの出身(父は北インドのバラモン系の帰化人、母は西域人であるとの説があり、実際のところは出生地不明)であるが、唐から特進試鴻臚(こうろ)卿という正一位の外交官職と開府儀同三司(かいふぎどうさんし)の爵位、粛国公(しゅくこくこう)食邑(しょくゆう:領地の租税による官費給付)三千戸の待遇をうけ、死後に官吏の最高位である司空の官位と、大弁正広智の称号を贈られた不空三蔵和尚である。また法名は智蔵、大広智不空金剛と号した。
 金剛智の弟子である。

 その昔、生命の無垢なる知のちからそのものを象徴する大日如来(すなわちブッダ)が、無垢なる知のちからに目覚めたものたち、すなわち金剛薩埵に、その無垢なる知のちからによって成る世界の真実のすがたとはたらきを伝え、金剛薩埵がその教えを数百年の後に、龍猛(龍樹)菩薩に伝授した。伝授されたその教えは、龍猛からつぎに龍智に伝えられ、その教えが、龍智から金剛智に伝えられ、金剛智はその教えをもって、インドから唐に行き、師弟であった不空和尚にその教えを引き継いだ。(その間、教えは各数百年の年数を経て相承されることになるが、そのことは、特定の人物の教えが、その人物の教えとして、まず何代かにわたり、同じ名をもって継承され、やがて、つぎの異なる名の人物、すなわち祖師となるものに受け渡されたからである)
 このように、大日如来から不空和尚に至るまで、その道を伝えたものは、六人の祖師たちとなる。

 不空は幼くして出家し、ずば抜けて利発であった。そうして、利発の上に、昼夜をとわずに努力精進し、一度でも見聞きしたことは、ことごとくを暗記していて決して忘れることがなかった。
 また、一を聞いて十を知る様子は、神のようであった。
 (そうして、十四歳の折、金剛智にめぐりあって弟子となった)

 金剛智三蔵がまだ生きておられたころ、「わが道(教え)は東方に至った」と感嘆されることがあった。(それは、三蔵がその教えのすべてを弟子の不空に伝授するかどうかをまだ迷っていたときのある夜、不空にしたがって大勢の仏・菩薩が東方に向かっている様子を夢に見たことによる。その夢によって、金剛智は、不空にすべてを授けることを決めたという。そうして、無垢なる知のちからがもたらす、生命のありのままの三つの行ない<動作・伝達・意思>と、五つの根本の知<生命知・生活知・創造知・学習知・身体知>から成る世界の奥義が師から弟子へと相承されることになった)

 師の金剛智の滅後、不空は、(まだ唐に伝来していなかった『金剛頂経』の経典を求めて)船を浮かべ、南インドとスリランカに向かい、龍智の教えを何代にもわたって伝承している阿闍梨のもとにその法を求めた。
 その求法の結果、瑜伽十八会(え)の法、五部灌頂、金剛系の経典、小乗経典などを得て、その教えの精髄を究めることができた。
 (そうして、)不空和尚は人間のすがたかたちをしていたが、そのこころはすべての生命のもつ無垢なる知と同じになった。

 (目的を果たした不空は)天宝五年(七四六)の初めに唐に帰り、都(長安)に入った。
 玄宗皇帝は、不空を深く敬って、待遇した。
 そうしてその後、玄宗から三代にわたる皇帝の師として宮廷に出入りした。
 どの皇帝も、不空をつねに宮廷内に招き、彼を師と仰ぎ、教えを聴聞した。不空の説く奥深い道理をもった教説に、皇帝たちは教えみちびかれ、その帰依は日々深まったという。

 大暦九年(七七四)、不空が病に臥すと、そのもとには見舞いの勅使が車で駆けつけ、医者は毎日、薬をもって訪れた。
 病に臥せてから、皇帝の温情をもって、開府儀同三司の爵位が不空に加贈されたが、前からしきりに辞退を申し出ていた試鴻臚卿、粛国公食邑三千戸はどうしても聞き入れられなかった。
 同年六月十五日、死を察した不空は、薬湯に浴して身を清め、衣服を清潔なものに着替え、皇帝への別離の文をしたため、泰然として遷化した。
 寿齢七十歳、出家して五十年の歳月が過ぎていた。
 皇帝は嘆き、三日の間朝廷を閉じ、追悼された。

 和尚が住居とされていた寺には周囲数十畝(ほ)の蓮池があった。その池には水が流れ込まなくても、池の底から水がこんこんと湧き出ていた。その水はいつも清らかに澄み、冬にも夏にも涸れることなく池を満たしていた。ところが、和尚が遷化される日の夕方に、その水が涸れたという。かのブッダ入滅のときにも、沙羅双樹の葉が白くなったというが、事象は異なるが、その感ずるところは同じである。
 そもそも真理の本質は金剛のように堅固であり、来ることもなければ、去ることもないが、人の世では、父母の縁によってこの世に生をうける。不空もそのようにして人の世に生をうけ、生命の無垢なる知のちからをさとり、生きとし生けるものにその道を示して、また、永遠に自然に戻られたのだ。そのへんのところは、凡人にははかり知れない。

  不空和尚を讃える詩
生命の無垢なる知のちからを三代の皇帝に授けた阿闍梨よ
その教えを唐に伝えひろめたが
出身はブッダの説法の場となった霊鷲山(れいじゅせん)のあるところ
その望みは龍のごとくに高く、その人格は磨かれた玉のごとし
多くの梵語経典を手に入れ、その翻訳にちからを注ぐ
こころは白き月のごとく
その光は人びとのこころの水面をよく照らした
その和尚が、セミの脱けがらのようこの世を去り
肖像のみが遺影堂に画かれる
和尚のしぐさと言葉と意思は、もう止まってしまったのだ
皇帝は深く哀しみ
高位高官たちもみな、皇帝にしたがい喪に服す
万里を渡る雲も、千山の松の緑も悲しく
ああ、どうして天は不空和尚に長寿を与えず、その生命を奪ったのか
白く冷たい顔を見つめても、和尚はもはや教えを説き示してくれない
しかし、不空三蔵の教えは永く後世に伝わり、人びとはその教えに学ぶだろう

●第七祖 恵果(けいか)和尚
 第七の祖は、法の名が恵果、俗姓を馬氏という。長安郊外の昭応というところに生まれ、大興善寺の大広智不空三蔵から教えを受けた。

 恵果は七、八歳のまだ子どものとき、青龍寺の曇貞和尚に伴われて不空三蔵に会った。
 不空三蔵は、恵果を一目見るなり、驚いて、「この子は生命の無垢なる知のちからに目覚める器量をもっている」と褒めたたえ、そうして、恵果に、「お前は必ず、わが教えを栄えさす」と告げた。
 その後、不空は、まるで父母が育てるように慈しんで、恵果を育てた。

 (不空三蔵は恵果が長じるのを待って)三昧耶戒(さんまやかい:「ただひたすら、自らのもつ生命の無垢なる知のちからにしたがい、そのちからに相互扶助の慈悲のこころを見いだし、自分とその知のちからと、あるいは自分と他がその知のちからをもつものとして同一であると感じ、清らかなこころをもち、自らその知のちからのはたらきによって生きとし生けるものを救い、その知によって生きているすべての生命を大切にする」という戒律)を授け、次いで無垢なる知のちからの成す世界のすがたとはたらきをマンダラによって教示し、その教えのすべてを伝授した。それによって、恵果は自らもまた、伝法灌頂(でんぽうかんじょう)の師、つまり大阿闍梨となった。
 また、不空自らが『大仏頂』、『大髄求(だいずいく)』及び梵字の『金剛頂瑜伽経』ならびに『大日経』などを、直接、恵果に教えた。

 恵果は生まれながらに温和な性格で、かつ聡明であった。
 その聡明さは、古代中国の思想家、孔子の弟子の願回(がんかい)が、一を聞いて十を知ったようであり、また、まだ子どもの項託(こうたく)が、孔子に「後世畏るべし」と言わしめたような存在であった。
 そうして、十五歳ですべてを見とおすちからを発揮した。
 (その神童のような子がいると聞いた)代宗皇帝は、恵果少年を宮廷に招き、つぎのように命じた。
 「われには、こころにつかえていることがある。そのこころのつかえとなっている疑問に答えよ」と。
 少年は、自らのもつ自在なる知のちからを目覚めさせ、その無垢なる知によって、皇帝の質問に一つひとつ答えた。
 その答えは、過去・現在・未来にわたる幽事(かくりこと:目に見えない神の為せること)と、皇帝の天命を説き明かすものであった。
 皇帝は感嘆してつぎのようにいった。
 「龍の子は小さくても、よく雲雨を起こし、ブッダの子は幼くても、天の法力をもっているという。その昔、アショーカ王が七歳の少年僧が瓶の中に出入りする不思議を見て、大いに敬ったというが、われは今、恵果少年にそれを見た」と。
 その後、恵果は皇帝の馬で送り迎えされるようになり、さらに、皇帝から房舎・衣服・飲食・湯薬をも優遇されるようになった。
 
 そのようにして、二十歳になったときには、『四分律』によって僧侶の守るべき戒を受け、経・律・論の三蔵のすべてを修めていた。
 その後、師の不空三蔵より、教えのことごとくを伝授された(のは、前述した通り)。

 (すべてを伝授し終えた)不空三蔵は恵果につぎのように告げた。
 「わたくしが亡くなった後も、お前はこの無垢なる知のちからから成る世界のすがた(胎蔵)とはたらき(金剛界)のマンダラ両部の真理の法をもって、この教えを護持し、国家を守り、生きとし生けるものの幸せに役立てよ。
 本家のインドにおいても、この法のすべてを得ることは、もはや見がたいものとなったし、マンダラの一尊、典籍の一部ですら得がたくなった。ましてや、無垢なる知のちからから成る世界のすがたとはたらきの両部の法を得ることとなるというまでもない。
 (そのようなことだから)わたくしの弟子が多いといっても、あるいは一尊、あるいは一部を授けたにすぎない。
 お前に両部の法を授けたのは、その賢明さと一途な励みに対してである。この後も努力し、精進し、わたくしがお前に託した教えを未来に継いで欲しい」と。

 (この故に)不空三蔵の遺言につぎのように述べられている。
 「わたくしは二十年の長きにわたって灌頂を行なってきた。だから、入壇受法の弟子はかなりの数になる。しかしながら、修行が成満(じょうまん)して、金剛界の伝法灌頂を受け、阿闍梨位についたものは八人である。その内の二人は他界したので残るのは六人である。
 それは誰かというと、金閣寺の含光、新羅(しらぎ)の恵超、青龍寺の恵果、崇福寺の恵朗、保寿寺の元暁と覚超である。
 後輩を正しく導くのは、お前たちである。この法灯が絶やされることがないように、わが恩に報いよ」と。

 (このように)不空が弟子たちのさとりの熟達度を遺言に記し、証明したことによって、代宗より三代の皇帝が、国の師範として恵果和尚を尊び、多くの比丘・比丘尼や在家の信者が和尚に帰依した。
 和尚は宮廷に出入りして、その法を皇帝に直に説き、また、民衆に向かっては、生命の無垢なる知のちからの個々のはたらきの恵みを説いて四十年の長きに及んだ。

 恵果和尚は、(遷化される前に)弟子たちに(師の不空三蔵に見習い)つぎのように告げていた。
 「生命の無垢なる知のちからから成る世界のすがた(胎蔵)とはたらき(金剛界)を説く教え、すなわち金胎両部の教えは真実の知の教えであり、そこに、この身のままで目覚めるさとりの道がある。だから、その教えを広く天下に流布し、生きとし生けるもののすべてを導かねばならない。
 わたくし恵果は今までに、ジャワの弁弘と新羅の恵日に胎蔵の師位を授け、剣南道の惟上(いしょう)と河北道の義円には金剛界の伝法灌頂を授け、義明供奉(ぎみょうぐぶ)には金胎両部の阿闍梨の法を授けた。
 そうして、今ここに日本の沙門(しゃもん)空海というものが、はるばる長安に教えを求めて来た。(わたくしはそのものの器量を見抜き)金胎両部の伝法灌頂を授け、儀軌の一切を授けたところ、そのものは、漢語も梵語も間違えることなく、ことごとくを理解し、瓶から瓶に水を移すように、すべての教えをマスターした。
 この六人の弟子が、わたくしの法灯を伝える阿闍梨であり、これで、わたくしはわたくしの為すべきことのすべてを果たした。
 日が昇ると月は沈み、油が尽きると灯は消えるというが、それがものの定めである。
 (知のはたらきを示す)如何なる菩薩もこの世にとどまらず。
 (生命の知のちからを示す)如何なる如来もまた滅する。
 わたくしもその定めのふるさとに帰ろうと思う」と。

 そうして、恵果和尚は永貞元年(八〇五)十二月十五日の午前四時にこの世を去られた。ときに寿齢六十歳、出家して四十年であった。
 皇帝は深く哀しみ、比丘・比丘尼と在家の信者たちの嘆きは尽きなかった。
 恵果和尚の業績については、別伝に詳しく述べる。

●善無畏(ぜんむい)三蔵<伝持の第五祖> 
 沙門(しゃもん)輸波迦羅(ゆばから)は、正確には梵語でシュバカラソウカと発音する。浄獅子と訳すが、意訳して善無畏という。
 中インドのマガタ国の王であった。(東インドのオリッサ地方の王子として生まれ、そこの王位についたとの説もある)
 龍智菩薩の弟子で、金剛智三蔵とは同門の間柄であった。

 (若くして王位についたことで、兄たちのねたみを受け)王位を捨てて出家した。
 気性は潔白で私欲がなかったが、修行の成果は著しかった。
 (その成果とは)静座して沈思・黙然し、無心の境地に入ること、すなわち精神の集中力と、感性と理性・精神性と物質性の包括的なバランスをとった知の獲得による、大いなる徳の達成であった。
 また、仏教学の経・律・論の三蔵のことごとくをマスターしていた。

 善無畏の名は、インド全土にゆきわたっていたが、縁あって、その慈悲のこころをもって、陸路でインドから東方(大唐)へと向うことになった。
 その名声は大唐にまで届いていたため、すぐれた人材を探し求めていた皇帝は、善無畏が北インドの国境に達したと聞きつけ、使者を国境に派遣して彼を迎えたという。

 そうして、開元四年(七一六)の陽春三月に、多くの梵語経典を携えて、善無畏は長安に到着し、まずは、興福寺の南院に落ち着いた。
 翌、五年には西明寺の菩提院において、『虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじのほう)』一巻を翻訳した。(この翻訳が、当時、唐に留学し、善無畏に師事していた大安寺の道慈によって、養老四年(七二〇)に日本に請来された。青年期の空海がこの法を一人の沙門から授かり、土佐の室戸崎などで修行して、さとりを得た)
 開元十二年(七二四)には、皇帝の行幸にしたがって洛陽に入り、大福先寺に落ち着いた。
 そこで、弟子の紗門一行(いちぎょう)と『大日経』一部七巻、『蘇婆呼童子(そばこどうじ)経』三巻、『蘇悉地羯羅(そしつじから)経』三巻を翻訳した。

 善無畏三蔵の性格は清廉淡白で、常の瞑想を楽しみとし、よく禅道場を開いて、初心者にもすすめた。
 その慈悲深さをもって、おだやかに教えを説き、相手を納得させ、また質問する人には親切丁寧に答えて、とどこおることがなかった。
 弘仁十二年(八二一)九月七日(空海記す)

●一行(いちぎょう)禅師<伝持の第六祖>
 沙門一行の俗姓は、姓が張、名を遂(すい)という。金剛智三蔵の弟子であった。
 山東省郯城(たんじょう)県の貴族、謹(きん)の子孫で、馬を司る高官、凛(りん)の子である。生家は代々、忠孝に厚く、高官の家柄であった。
 母は甘粛省(かんしゅくしょう)の李氏の出身で、容姿麗しく、利発であった。
 遂を身ごもったとき、母の額(ひたい)に二、三寸の白光があり、遂が生まれる(六八三年)と、白光はその子の額に移った。親族は不思議なことがあるものだといぶかったという。
 遂は十歳になると、その賢さは群を抜いていた。父親は、その賢さを見込んで、官吏登用試験を受けさせようとした。
 しかし、母は、「わたくしが見た夢では、この子は必ず国の師となる。むやみに試験を受けさせてはならない。後に必ず大器となる子です」といった。そこで、試験を受けさすことを止めたという。
 その後、母の言葉のように、遂は玄宗皇帝の国師となった。(そうして、国師として尊敬される身になった)
 
 遂、すなわち一行禅師が遷化されたとき(七二七年)、玄宗皇帝は自ら進んで筆をとり、親しく碑文を作成された。その言葉はつぎのようなものである。
 「禅師は、幼少のときから無口であったが、言うときは必ず、ものごとの真実をついていた。
 成長してからは、一日も休むことなく、万巻の書を読んだ。
 深く仏道を追究すると同時に、道教の奥義にも通じた。
 また、四季の美しさを詠い、俗務を嫌い、清貧に甘んじ、孤高を保った。
 嵩山の普寂から禅を学び、また、玉泉寺の恵真に就いて律蔵を編纂した。

 余は、禅師のその高い徳を聞きつけ、遠く荊州の玉泉山にいた禅師に長安の都に来てほしいと請うた。
 (禅師は余の願いを聞き入れられ、都にのぼられた。)
 (都にのぼられてからも)禅師は生まれながらの宗教者であったから、その生活態度と行動は質素であり、その質素さは生涯変わらなかった。

 禅師は、余が頼みとする日月星辰の運行の暦を、正確な天体観測と大規模な子午線測量を行ない改正して新暦を作成し、余があつく聖道をあがめることから、『大衍暦(だいえんれき)』五十二巻を完成させた。
 また、金剛智三蔵に師事し、各種の教えを学び、伝法灌頂を受け、阿闍梨位を授かり、その後、善無畏三蔵のもとで『大日経』七巻の翻訳に従事し、そこに記された生命の無垢なる知のちからから成る世界のすがた<胎蔵>を開示して、その世界がもつ大いなる慈悲のこころで万民を包んだ。
 禅師は、何のためにこの世に生まれて来たのか、その答えを、これらの業績がもの語っている。
 (以下、中略)
 以上、余のこころの晴れないままに、粗末な文章を綴ってしまった次第である。

(玄宗皇帝による)一行禅師追悼の詩一首
 生まれながらに聡明であり、その将来を自らのもつ生命の無垢なる知のちからのはたらきによって、人びとを救済する者になるように約束されていた。
 禅師は、あらゆる学芸に通じ、その文才は太陽や月のように輝き、その技術(数学・天文学)は天地を究めた
 我欲を捨てて、道を求め、多くの教えに通じ、法華を学び、ついに自らのもつ無垢なる知のちからの一灯に目覚め、方便によるさとりをすべて捨てた
 余(玄宗皇帝)は以前、金色の人(一行禅師)やって来て、国家を鎮護してくれるのを夢に見た
その夢に見た人がほんとうにやって来て、帝位は安定し、政(まつりごと)はますます栄え、多くの善政をなすことができた
 禅師の坐禅は、存在が何であるかを示し、禅師の無垢なる知のちからは、宇宙の主宰者のごとくに万能であった
 その禅師が、国師として余を導き、その教化によってあまねく天下を清(きよ)めた
 それなのに禅師は、余の礼の尽くせぬ間に、あまりに早く世を去ってしまった
 坐禅したままのすがたで入滅した禅師は、生きているようだったのに
舎利だけを残し、その教化は絶えた
 生滅するものを見れば、それは不生不滅
 言葉で説くことを聞けば、それは空にしてそこに言説はない
 そのように、真理は見聞を離れているというのがブッダの教えだが、今は、この碑文を作り、禅師の徳を伝え、後の世の賢人に示したい」。

 一行禅師が生涯において実践した、生命の無垢なる知のちからによる業績は、(創造知のはたらきを司る)文殊菩薩以上であったといってよい。それは、孔子の徳目を実践した弟子の願回と比較できる。
 『大日経』の真実の知の教えが、天下に流布したのは禅師の功績である。
 しかし、真の雄弁家は(言葉を反芻するから)口べたのようであり、真に賢い者は(その知を推敲するから)愚者のように見えるという。だから、聖君でなければ、その真の賢さに気づかず、知恵のある母でなければ、その子のもつ真の賢さが分からない。
 禅師の真の業績も、禅師が人前に出しゃばらず、その徳を隠し、その名の出ることを避けておられたから、世間の人には分かっていない。
 そのようなことだから、いろいろと述べたいのだが、それが尽くせないのが残念である。
弘仁十二年(八二一)九月六日(空海)書す

真言付法蔵書 終わり


あとがき
 紀元前五世紀のインドで、ガウタマ・シッダールタすなわちブッダがさとりをひらかなければ、仏教の誕生はなかったであろうし、それから約八百年後のナーガールジュナ(龍樹)の空の論理も生まれなかったであろう。
 その空の論理がなかったら、その後の大乗仏教の発展もなかったであろう。
 存在は言葉の論理では証明できない、だから、存在は空なるものであるという大乗の短絡的な帰結は、それでも実在している世界とは、明らかに矛盾する。
 ブッダはさとりによって、方便としての無<縁起論>を説いたが、そのさとりによって体得した実在する真実の世界のことは説かなかった。
 そのブッダが説かなかった真実の世界を、生命のもつありのままの知のすがた<胎蔵>と、その生命のもつ知のちからのはたらき<金剛界>によって、ビジュアル化したものがマンダラである。
 マンダラは、あらゆる存在が論理的考察よっては、有るともいえないし、無いともいえない、だから、空であるとされた後に、それでも実在しているありのままのさとりの世界を図によって示したものだ。
 その図の伝えるところは、「あらゆる生きものは、言葉の論理ではなく、イメージ・シンボル・単位・作用の四つのメディアがもたらす知によって生きている。その知が、動作・伝達(コミュニケーション)・意思の三つの生の行ないを為している。その生命共通の知と行ないによって、自然界の秩序が保たれている。そこに実在する真実の世界がある」ということである。
 このマンダラ的考察は、今日の科学に限りなく近い。
 人が如何に生きるのかを求めれば、その答えは、あらゆる生きものが如何に自然と共に生きているのかを観察することによって得た道理と同じであっても不思議ではない。違いがあるほうが不思議である。知のちからは自然の道理にしたがっているのだ。
 生きるための知は、生物学的な直感によって得る知と不二一体なのである。
 その知によって、真実の世界が存在する。

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