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南方熊楠とマンダラ-万象の理解-

Ⅰ コスモポリタン「ミナカタ」の生涯
■幼年期
 南方熊楠(みなかたくまぐす)は明治維新の前年(1867年)に和歌山城下で金物商を営む家の次男として生まれた。幼い頃より好奇心が旺盛で、植物採集に夢中になって山中に入り込み行方不明になったり、国語辞典や絵入り百科事典を見るとそれらを書き写して遊んだという。
 さらに8~9歳の頃から、『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』全105巻(江戸時代中期、1712年頃に出版された日本の百科事典。1~6巻が天文・気象・暦の部、7~54巻が人文・動物類の部、55~105巻が地勢・鉱物・植物類の部に分けて考証し、図が添えられている)や薬用植物図鑑の『本草綱目(ほんぞうこうもく)』52巻、『大和本草(やまとほんぞう)』18巻などを見て覚え、それらのすべてを数年がかりで写本したという。
 1883年(16歳)、和歌山中学校(現、桐蔭高校)を卒業後、上京し、神田の共立(きょうりゅう)学校で学び、翌年に大学予備門(現、東京大学)に合格する。同期生に正岡子規、夏目漱石らがいた。
 しかし、「日本人として、和歌山という取るに足らぬ町の商人の息子に生まれた私は、祖国の嘆かわしい情況に心を痛めてまいりました。そこでは、学問にまつわるすべての関心が"何の役に立つのか"ということにしぼられ、学者としてのゴールは役職を得るということでしかなかったのです。そこで私は、1886年に東京大学を退学し、アメリカ合衆国に渡ったのです」(1898年に大英博物館殴打事件を起こした熊楠が書いた「陳情書」より抜粋)とあるように、学問の自由を求めてアメリカへと渡った。

■アメリカ大陸へ<滞在6年間>
 1887年(20歳)、サンフランシスコ港に着いた熊楠は、同地のパシフィック・ビジネス・カレッジに入学し、外国生活に慣れると、同年の夏にはイリノイ州シカゴを経てミシガン州ランシングに行き、ミシガン州立農学校の試験を受け、入学を許可される。
 だが翌年、上級学生によるいじめに日本人留学生仲間が遭い、乱闘騒ぎを起こす。その校内裁判のために熊楠が訴状文をしたため校長に提出し、いじめた方が停学処分となったが、その年の暮れに、今度は飲酒を禁止されている寄宿舎内で米人学生を含む寮生たちとウィスキーを飲み、泥酔して廊下で一人眠っているところを校長に見つかってしまう。熊楠はこの失態により、飲酒は自分だけの責任として学校を去ることを決意し、次の日の朝、着の身着のままで寄宿舎を脱け出して同州のアナーバーに移った。
 アナーバーには州立大学があり、日本人留学生が数多くいたが熊楠は大学には入らず、彼等と交流しながら、洋書を読み、植物採集のために山野へと出かける毎日を過ごした。
 そのような独学の日々のなかで、スイスの博物学者『コンラード・フォン・ゲスネル伝』
(※1)を読み、日本のゲスネルになることを誓う。
(※1)コンラート・ゲスナーのこと。1516年に毛皮工職人の子としてチューリッヒで生まれる。少年期に戦争で父親を亡くすが、プロテスタント聖母教会の援助を受け、複数の大学に学び、1537年にローザンヌのアカデミーでギリシャ語教授に就任、生活の安定を得て、植物学の研究に取り組む。1540年に教授を辞職し、モンペリエ大学医学部に学び、1541年に医学博士号を取得。以降はチューリッヒ大学で哲学、数学、自然科学、倫理学を講義しながら自らの研究生活に入る。

 25歳になったゲスナーは、イタリア、ドイツの図書館を巡って、その時代までに蓄積された人類の"知"を体系化し、ギリシャ語・ラテン語・ヘブライ語で刊行されたすべての印刷本と厖大な写本を含む、完全なる書誌を作成することを決心する。そうして、その4年後に『萬有文庫』を上梓した。それは約3,000名の著者による、ほぼ12,000書を収録するものであった。
 さらにその後1548年には、それらの書物の体系的分類目録として、続巻『萬有総覧あるいは萬有分類21巻』を発行する。諸学を教養学と実体学に大別し、前者を必修:文法・弁論・修辞・詩・算術・幾何・音楽・天文・占星術と、選択:歴史・地理・占い・芸術という13分野に分け、後者を物理・形而上学・倫理・経済・政治・法律・医学・神学の8分野に分け、合計21に分類したものである。
 また、植物学の分野では、ラテン語・ギリシャ語・ドイツ語・フランス語による『植物名目録』1542年刊や、自らが約1,500の図を描いた『植物誌』を作成した。この作業過程で、植物名の古典語と当時の言語を比較対照しているうちに、言語学に関心をいだき、『ギリシャ・ラテン語辞典』1545年刊を編纂し、その後1555年に『ミトリダテス』を著し、その中で55種の言語の関係を研究する。
 また、『動物誌』1551-1558年刊は、彼と同時代の芸術家によって描かれた精巧な動物画、四足類・鳥類・魚類・爬虫類の各巻によって成り立つ。各巻動物名をアルファベット順に並べ、全巻で1,500ページにわたる膨大なものである。
 
 このことがあって、熊楠は生涯、隠花植物(花をつけないで胞子で繁殖する植物の総称。シダ類・コケ類・藻類・菌類など)の研究をつづけるようになった。
 1891年(24歳)、フロリダで地衣類を採集している研究者から「当地は珍しい植物の宝庫」と聞き、植物採集用具を携帯し、汽車でフロリダ州へと向かう。
 同州ジャクソンビルに着いた熊楠は、中国人の営む牛肉店に下宿し、ひと夏の間、昼は店を手伝い、夜は顕微鏡を使って生物の研究をし、秋にはアメリカ最南端のキーウェストから、キューバ島のハバナへと渡った。
 ハバナでは、外人サーカス団にいた日本人の曲馬師と友達になり、一座とともに、ハイチ、ベネズエラ、ジャマイカを巡り、カリブ諸島各地の珍しい菌類・地衣類を採集する。
 1892年(25歳)1月、フロリダのジャクソンビルに戻り、再び中国人の店の厄介になるが、8月に中国人が故国に帰ることになり、それを契機に熊楠も植物学の盛んであった英国に渡る決心をする。
 こうして、熊楠はフロリダからニューヨークに行き、9月に大西洋を渡り、イギリスのリバプールからロンドンに入った。

■ロンドン遊学<滞在8年間>
 ロンドンでは下町に下宿し、それまでに採集した植物標本を整理する一方、アメリカ滞在時より購読していた英国の科学雑誌『ネイチャー』に初論文となる「極東の星座」が掲載され、新聞各紙にその批評が出たことによって日本人「ミナカタ」の名が知られるようになる。(その後も、「ミツバチとジガバチに関する東洋の見解」「拇印考」など51論文が掲載された)
 このとき、初論文の校正刷りを手にした熊楠は英語が達者であった在英邦人、片岡プリンスの紹介により、大英博物館の考古学・民俗学部長で英国学士会員のフランクスを訪ね、英文表現上の字句の誤りがないかを指導してもらっている。老博士は丁寧に印刷文を校正し、見ず知らずの東洋の青年に料理までふるまってくれた。それが縁(えん)で、博士の手引きにより大英博物館の図書館を正規に利用できる許可を得、思うままに学問上の便宜を得られるようになったという。
 そうして、大英博物館に毎日のように通い、そこを学問の場とし、主に考古学・人類学・民俗学・宗教学などの図書を読み、それらを書き写した。その分厚い筆写ノート『ロンドン抜書(ぬきがき)』は52冊10,800頁に及び、英・仏・独・伊・スペイン・ポルトガル・ギリシャ・ラテンなどの8種の言語によって書かれている。(後年の熊楠は18ヶ国語前後を話したというから、たぐい稀なる語学の才がここでも発揮されていた)
 熱心に大英博物館に出入りするうち、同館の図書部長ダグラスから、東洋関係書籍の目録作成や仏像の名称考証などの仕事を依頼され、手伝ったという。
 また、館を中心としてその内外で、中国革命の父といわれる孫文(※2)や、後年高野山管長となる土宜法竜(※3)と親交を結んでいる。(帰国後も土宜とは生涯にわたって書簡の交流がつづき、孫文は1901年の日本滞在の折に、熊楠の和歌山の家をわざわざ訪ね、旧交を温めている)
(※2)そんぶん:1866年に清国広東省香山県の農家の次男として生まれる。14歳のときにハワイにいた兄のもとに赴き、西洋思想に目覚める。18歳で帰国。その後、香港の西医書院で医学を学びつつ、革命を志す。1892年、マカオで医師として開業し、反清運動に入る。1894年、ハワイで興中会を組織し、翌年10月に広州で武装蜂起を試みたが失敗する。日本に亡命し、1896年にロンドンに赴く。翌年3月に前出のダグラスの紹介により熊楠と大英博物館の事務所で出会う
(※3)どきほうりゅう:1854年に名古屋に生まれる。幼くして出家、15歳で高野山へ。20歳過ぎのとき慶応義塾に学ぶ。27歳で真言宗法務所課長になる。1893年9月に、米国シカゴの万国宗教大会に参加、その後、ロンドンに滞在。このとき、和歌山県人で南方家とは古くからの知り合いであった横浜正金銀行ロンドン支店長の中井芳楠の紹介で熊楠と出会う

 しかし、同館での学問に励むなかで人種差別による侮辱を幾度か体験し、その都度問題を起こし、前述の大英博物館殴打事件「陳情書」(1898年)を書く破目になり、一旦は許されるが、ダグラスによる監視の下、他の閲覧者と分離した場所での読書という条件が付けられ、これ以上関係者に迷惑をかけることはできないとの本人の固い決意により、博物館を去る。
 その後は、このことを気の毒に思った英国学士会員のバサー博士の保証により、大英博物館分館のナチュラル・ヒストリー館(生物・地質・鉱物の研究所)の方への出入りを許可され、熊楠は同館の図書館を学問の場とし、ネイチャー誌への初論文掲載を通じて友人となっていたディキンズ(※4)の日本文学(『万葉集』、『枕草子』、『竹取物語』など)の英訳を手伝い、同氏の好意によりロンドン大にも出入りし、南ケンジントン博物館では日本美術品の題名翻訳の仕事などをするが、滞在費を送金してくれていた兄が破産したこともあり、生活は困窮する。
(※4)ロンドン大学事務総長、日本文学研究者。1838年、マンチェスターに生まれる。ロンドン大学で医学の学位を取得し、海軍に入る。1863年に幕末の長崎に上陸、親日家となる。その後、一旦帰国するが、1871年に再び来日。横浜に在住し、弁護士と医師業を営みながら、日本の浄瑠璃、古文国学から動植物までを研究し、世界に紹介する。1879年に帰国し、1894年にロンドン大の事務総長となる

 1900年(33歳)9月、ついに英国生活に見切りをつけ、テムズ川の港から日本郵船の阿波丸に乗船し、帰国の途につく。(因みに、この翌月に日本初の国費留学生となった夏目漱石がロンドンに到着している。また、空海が唐の明州を出航し帰国の途についたのは、熊楠と同じ33歳の秋であった)

■郷土の森人となって
 帰国後は和歌山に帰郷し、日本の隠花植物の目録を完成させるべく精を出す。
 熊野地方での生物調査は数年に及び、植物や昆虫の彩色図鑑を作成する。
 また、日本の古典文学として紹介すべく、鴨長明の『方丈記』の英文訳に取り組み、ロンドン大学のディキンズとの共訳として『ロイヤル・アジアチック協会雑誌』1905年4月号に掲載される。
 1905年(38歳)、整理した粘菌標本を大英博物館に寄贈する。このことが英国の植物学雑誌に紹介され、「ミナカタ」の名は世界的な粘菌学者としても認知される。
 1909年(42歳)、その土地固有の植生を保っている「鎮守の森」を無謀な伐採から護るために、『神社合祀(ごうし)反対運動』(明治政府は国家神道を権威づけようとして、日本書紀など古文書に記された神だけが正統とする「神社合祀令」を出した。その結果、各地の神社が取り潰され、固有の森が激減する事態が生じることになった。その合祀令に反対する運動)に立ち上がる。
 熊楠は"エコロジー(生態学)"という言葉を使い、生物は相互に繋がっており、目に見えない部分ですべての生命が結びついていることを唱え、その生態系を護るために政府のやり方に反対する意見を展開した。
 1912年(45歳)、反対運動に共鳴した柳田国男(やなぎたくにお:1875-1962。日本民俗学の開拓者)の支援を得て、熊楠の考えが識者に広まり、世論が動き始める。
 1915年(48歳)、米国農務省のスウィングル博士が和歌山田辺に来遊し、熊楠に直に渡航要請をする。博士は熊楠を世界的な学識者として認め、アメリカに招聘したいとの意向を以前から本人に伝えていたが、熊楠は家族の事情もあるとして、これを辞退する。しかし、この一件によって、熊楠が如何に国際的に評価されている学者であるかを日本社会が知ることとなった。
 1920年(53歳)、高野山管長となっていた土宜和尚の招きにより、高野山に登り、一乗院に宿泊しながら菌類などの採集を行なう。また、この年に10年間の反対運動が実を結び、国会で「神社合祀無益」が議決される。このことによって、地勢を示す古木の森が数多く残されることになった。
 1926年(59歳)、「南方植物研究所」設立の資金作りとして、『南方閑話』『南方随筆』『続南方髄筆』の三冊の著書が刊行される。
 1929年(62歳)、昭和天皇が神島(かしま:和歌山の田辺湾の内側にある無人島。古来より島全体を海上鎮護の神として崇め、樹林は神林として、また魚付き林として地元民がその森を守ってきた。熊楠は1902年に初めてこの島に渡り生物調査を行なっている)を訪問した際、熊楠が島内林をご案内し、艦上で粘菌や海中生物について特別講義をした。このときに森永ミルクキャラメルの空箱に入れた粘菌標本を献上している。
*1962年に昭和天皇は33年ぶりに和歌山を訪れられたが、その際に白浜の宿舎から神島を望見され次のように詠まれている。
「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」
 1934年(67歳)、神島の自然保護を強固なものにするため、島の詳しい植物分布図を作成して、史跡名勝天然記念物の指定申請書を国に提出。2年後に指定される。
 1937年(70歳)、「日本産菌類の彩色生態図譜」(4,500種・15,000枚の彩色図)を弟子達とともに完成させる。
 1941年、南方熊楠、熊野の森に還る。享年74歳。

Ⅱ 文明開化の申し子
 『空海僧都(そうず)伝』によると、空海(774-835)は18歳で都にのぼり、大学に入ったが、「大学で学ぶことは古人が搾り取ったあとの酒粕のようなもの。今、生きていることの真実を求める者にとっては何の役にも立たない」ということで、20歳すぎには大学を去り、官位栄達の道を捨てて山林での修行に入ったという。
 この心境と、熊楠が東大を去った心境はよく似ている。しかも時代は異なるが、一方は奈良から平安にかけてのインド・中国文明による日本の開化期に生まれ、一方は江戸から明治にかけての西洋文明による日本の開化期に生まれている。
 双方20歳のとき、空海は仏道を求めて山林に入り、熊楠は知を求めてアメリカ大陸に渡った。
 熊楠はその異国の地で、西洋の文献の中に真実の"知"を求めつつ、森に入り、植物採集という名の"行"に励み、空海は日本の山林に入り、仏道"修行"をし、"経"の中に真実の教えを求めた。この両者の青年期の行動はどこか似ている。
 アメリカ在中に生涯の研究目標を見つけることのできた熊楠は、やがて、西洋文明の"知"の殿堂である大英博物館へと向かい、独学で身に付けた語学の才とともに、学究の徒として国際人の仲間入りをする。空海は山林での日々の修行と同時に、当時の日本の国際都市奈良の地にあった「大安寺」に出入りし、勤操先生の助けを得て多くの経典を読み、それらを記憶、理解し、海外の渡来僧から中国語やインド語を直接学び、31歳のときに留学僧として唐に渡った。そうして、世界文化の中心地、長安に入り、その実践的な語学力をもってインド伝来の最新の仏教の教えを学んだ。

 熊楠は日本人として、また、東アジアの思想と古文と江戸の文化を身に付けた東洋の知識人として、西洋近代文明の中に自ら飛び込み、幅広い学問を学び、英文の科学誌に自己の論文が掲載されるまでになったのだ。
 その学問的気概と、東洋数千年の文化に培われた視点による学術的見解が西洋の知識人たちに評価されたにちがいない。
 一方、その東洋の遺伝子をもった熊楠は彼の地で、西洋人たちの作り上げた近代文明そのものをどのようにとらえていたのか、その文明批評が土宜和尚に送った書簡の中に以下のように記されている。
 「事理の順序(ものごとのすじみち)の立った科学原理<一はいつまでも一、水素と酸素と合して水と化す、動植物は細胞より成る、勢力(エネルギー)は形を変えることあるも量は不変など>を峻拒(否定)するときは、国が繁盛せず餓死する。(しかしながら)科学原理<これが究極の理論と断定できない代物>ぐらいだけでは、世間(文明社会)はつづかない。
 科学といっても、実のところは私の知るところでは、真言(真実の世界)のほんの一分に過ぎず。ただその一分の相(すがたかたち)を順序づけて整理し、人間社会を少し便利にするに過ぎない」と。
 また、次のようにも記す。
 「科学とは、真言マンダラ(世界の本質)の全体のほんの一部。すなわちこの微々たる人間界にあらわれるもののうち、さし当り目の前の役に立つべきものの番付(順位)を整え、一目瞭然で早く役に立つようにする献立表を作る法に過ぎない。原子といい、進化といい、ほんのマンダラの見様の相場付けの程度である。何の根底のあることにあらず」と。
 では、そこまで言うのならば、世界の本質とは何なのか、熊楠自身が答えを出さなければならなくなる。そこから、南方マンダラが生まれた。

Ⅲ 南方マンダラとポスト・モダニズム
 1903年(36歳)、8月8日付の土宜和尚宛の書簡に、「貴君らすでに科学を享受すべき白地すら持たず。いかにしてマンダラごときこみ入ったものを理解し得るのか。しかし、(わたくし熊楠が解読したマンダラの意味について)簡単に示せとのことながら、マンダラほど複雑なるものはないから、簡単にいいがたし。いいがたいが、大要として次に述べん」として、以下のようなことを記している。
 「胎蔵界大日中に(胎蔵マンダラが示す、いのちのもつ無垢なる知のすがたの中に)金剛大日あり(金剛界マンダラが示す、知の原理もある)。
 その一部<心>が大日滅心の作用により(その知の原理から<精神>を取り去った物理的な部分、すなわち虚空に)<物>を生ず(<物質>が生じ、その物質から生命も生まれた)。
 物心相反応動作して<事>を生ず(その物質と精神が、お互いに反応して作用を起こすから<出来事>が生じる)。
 事また力の応作によりて<名>として伝わる(そのように、すべての出来事は物理的な反応と作用によって実在し、その実在が観察され、分別され、<言葉の素子(言語の意味を構成する最小単位の声のひびきや文字)>となる)。
 さて力の応作が(さて、その物理的な反応と作用が)、心・物・名・事の四つをいろいろの順序で組織するなり(精神・物質・言葉の素子・出来事の四つの要素を組み合わせ、いろいろな配列を作りだすから、それらが意味を成し、その意味の差異によって、世界観が生まれる)。
 (ところで、)出来事が絶えても、(というのは)出来事は物質・精神と異なり、止めれば絶えるものであるが、名は胎蔵大日中にのこるなり(過去に体験したすべての出来事は分別され、いのちのもつ無垢なる知の中に言葉の素子、つまり、ここでは情報の素子となってのこされている)。
 これを心に映して生ずるが<印>なり(こののこされた情報の素子が心に反映して、すべての物体が<象徴化>する。つまり、物質のすべてのかたちには、過去の出来事を示す象徴化された意味があらかじめ刻印されていることになる)。
 故に今日、西洋の科学哲学等にて何とも解釈しようなき宗旨(クリード)、言語(ランゲージ)、習慣(ハビット)、遺伝(ヘレジチー)、伝説(トラジション)等は、真言でこれを実在と証する(前述の<名>と<印>との真実の言語の構造によって、これらの実在を証明することができる)。*実際に熊楠はこの論理を、自己の植物学や柳田国男と学問的交流のあった民俗学など、各学術分野において研究対象とするあらゆる事物の具体的な理解法として用い、彼独自の見地を拓いている。
 心は事によってあらわれる(精神は出来事によってあらわれる)。
 事をはなれて心を察すること能わぬと同じく(だから、出来事をはなれて精神を察することが不可能であることと同じく)、名もまた事によってあらわれる(言葉の素子もまた出来事によってあらわれるから、出来事をはなれて言葉の素子を察することは不可能である)。
 物みな印あり(物質のかたちはみな象徴化された意味をもつ)。物に付いてくる一切終始の事どもの総括なり(物質のかたちに付加されている象徴化された意味こそが、その物質が生じる出来事すべての終始のあらわれである)」。

 (以上につづけて、次のような「因果論」を記す)
 「<因>はそれがなくては、<果>が起こらず。因が異なれば果も異なる。
 <縁(えん)>は因果の継続中に、他の因果の継続がまぎれ込んで来たもの。
それが(その縁が因果に)多少の影響を加えるときは<起>。
故に、われわれは諸多の因果をこの身に継続している。
縁によって、(われわれは)一瞬に無数(の因果)に出合っている。
それが心の留めよう、からだの触れようで事を起こし、そのことにより、今までつづけて来た因果の行動が軌道を外れたり、外れたものが軌道に戻ったりする。
(このようなことであるから)言葉の素子<名>と物質のかたちに必ず付加されている象徴化された意味<印>をよく考察し(その縁によって)、実在は(構造主義的に)証明されなければならない。
今日の西洋の科学哲学はこの<名>と<印>とが分かっていないから、出来事の<因>と<果>のみを考察し、難題に突き当たる。(何故なら)見たものすべてをそのままに分別し、それぞれに名前を付け、属・種として分類することが学問だとしているからだ。<(そのような分類による)因果には切りがなく、生命はこの一瞬間にも変化しながら間断なく生きている。それらはそれを観察したときにのみ、わたくしたちの前にそのすがたを相対的にあらわし、過去、未来は一切ない。(だから)人の見た目(だけ)による観察・分類によっては、そのものの真実のすがたを証明することはできない。(同じことが)空間にも言える>
故に、今日の科学(によって)、因果は分かるが、もしくは分かるべき見込みがあるが、(名と印とによる存在の関係性)縁が分からぬ。この縁を研究するのがわれわれの務めである。しかして、縁は因果と因果が入り混じって生ずるものであるから、諸因果の総体の一層上の因果を求めるのがわれわれの務めである」と。

 そうして別の書簡に
「(諸因果の総体を求めるのがわれわれの務めであるが、それらの一つひとつを観察して行っても際限がなく、すべてを知り尽くすことはできない)故に不可得は完全にして(できないけれども、しかし、一瞬間の中に世界はありのままに存在しており)、梗概(こうがい:あらまし。概要)は知り得るものと知るべし(その一瞬間のありのままの存在によって世界のあらましが想起され、把握できる)。(そのあらましが実在する世界である)(そのことは)吉田兼好の『つれづれ草』に、"またいかなる折ぞ、ただ今人のいうことも、目に見ゆる物も、わが心のうちも、かかることの何時(いつ)ぞやありしがと覚えて、いつとは思い出でねども正しくありし心地のするは(そのことが実在したことであると確認できるのは)、わればかりかく思うにや"」と記している。

 そのように、この世界に実在するのはホリスティック(全体的)なパターンであり、そのパターンを一瞬間に顕われるすがたかたち(パターンの一部)によってわれわれは想起し、把握できる。その全体のパターン、すなわち世界のあらましがマンダラであると、熊楠はさとった。

 このとらえ方、熊楠とほぼ同世代のイギリスの数学者、哲学者であったホワイトヘッド(1861-1947)のポスト・モダニズム哲学に似ている。(勿論、熊楠の論理のほうが早かった。何故なら南方マンダラが確立され、その論文を英文にして、英国の科学雑誌で発表するとしたのは1903年のことであり、その頃、ホワイトヘッドはまだ、ケンブリッジ大学の数学の教官であった。その後、1910年にロンドン大学に移り、応用数学の教授として教鞭をとっている。そこでの14年の間に『自然認識の諸原理』『自然という概念』『相対性原理』などの科学哲学書を上梓している。彼が哲学教授になったのは、アメリカのハーバード大学に1924年に招かれてからである)

 さてその哲学とは、17世紀から現代へと引き継いだ機械論的自然観(つまり近代科学)を、それらが「具体的な事態をしばしば誤った方向へと抽象化する」間違いを犯していると指摘し、機械論によっては自然をとらえることはできない、だから自然を有機体としてとらえなければならない、その有機体としての自然と人との間には、人間を超越する普遍的存在が深く関わっているというものであった。
 また、世界は物ではなく、一連の出来事として実在しているとした。(この洞察、熊楠が粘菌の研究において得た生命観とまったく同じである。そう、世界的な生物学者であった熊楠は森に入り込み、植物であり動物でもある粘菌の活動を綿密に観察し、そこに一連の出来事としてそのすがたを絶えず変化させながら実在している生命のすがたを見ていた)

 そのホワイトヘッドのポスト・モダニズム哲学をまとめたのが『過程と実在』(1929年刊)である。
 その著書の中でホワイトヘッドは、世界で起きている諸実態を具体的にとらえるために、世界を構成する基本的な概念(例えば、実体、因果関係、量、質という類)を設定し、その中心となる概念が「現実的実質」であるとしている。
物事の実体は固定的なものであるという観念を越えて、実体そのものを過程的にあるいは出来事としてとらえることを現実的実質とホワイトヘッドは呼ぶ。そうして、その視点によってとらえた世界の本質を次のように定義付けた。*以下《》内、南方マンダラ用語による比較

(1)実在する世界にあって、そこに存在するもののすべてはその環境《物》によって限定され、自らも限定する過程として現象《事》している。そうして、その過程として現象する一瞬の存在が過去となり、客体化することによって、それらは新しい与件《名》となる。したがって、「過程」が客体化して「実在」となり、その「実在」が与件となって新しい「過程」を生む。

(2)過程と実在のすべては、アリストテレス哲学の「生成の分析」のように、「消滅の分析」としてとくことができる。つまり、消滅して過去となった現象は、そのことによって客体化された実在《名》として認知される。

(3)世界は、《因》と《果》を繰り返しながら生々流転している「現実的諸実質」、つまり実在を媒介《縁》にして、たえず自らを形成《起》している有機体的全体である。

(4)上記のような世界においては、世界のうちのどれ一つをとっても、それだけで自存しているものはない。どれもみな、他のすべてのものとの関係《縁》なしには自存できない。

(5)現実的実質は、どれもみな、物質面《物》と精神面《心》の両面性を具えていて、物質面は過去的なものによって因果的に限定《印》され、精神面は未来的なものによって目的論的に限定《理》される。このように現実的諸実質は、それぞれ自身の現実世界において、その世界に限定されながら、自らを限定するという仕方で「多即一、一即多(多は一となり、一つだけ増し加える)」的に自己形成作用に関わる。

(6)有機体としての自然と人の間に介在するものとして、人間を超越する普遍的存在「神または法」《大日如来》を設定するならば、その普遍的存在は他の有限な現実的実質と異なって、決して消滅せず、そのつど生成しつつある現実的実質そのものに内在する永遠的存在者としての立場にある。つまり、永遠の主体であり、尚かつ客体でもある。
 以上の定義によって、世界が成り立っていると。

 このように熊楠とホワイトヘッドは20世紀の初頭に同じことをテーマとし、似た概念によって世界の本質をとらえ、近代主義の限界を見ていた。
 その二人が同じ時代の空気の中で、ロンドン大学に出入りしていたという事実によって結ばれていることは不思議な縁である。

Ⅳ 空海の説く「マンダラ」
 さて、熊楠が答えを出した「世界の本質とは何なのか」の論理のおおもとになったのが、大乗仏教の究極の教えである華厳哲学や、空海の真言密教の教え、つまり「マンダラ」の教えなのだ。(1903年6月30日書簡に「小生この熊野の山中におり、記憶のほか書籍としては『華厳経』、『源氏物語』、『方丈記』、英文・仏文・伊文の小説、随筆の数冊、他は植物学の書のみ。それゆえ、博識がかったことは大いに止むと同時にいろいろの考察が増してくる」とあるから、山中での研ぎ澄まされた熊楠の脳裏に華厳の教えが広がり、その論理によって西洋の科学哲学のもつ限界が考察され、その先に世界の本質を説く空海の真言密教があったにちがいない)
 では、そのおおもとの教えとなる空海の説く「マンダラ」とはどういうものなのか、それを空海の主著『秘密曼荼羅十住心(じゅうじゅうしん)論』(精神の発展段階を第一住心から第十住心の十種に分類し、人間の誕生・進化の段階と空海の生きた時代までのインド・中国、つまり東洋文明の全思想・哲学・宗教の"知"を体系化した書。
 ①自然界の誕生と構成要素/生命と生存欲<倫理以前>、②善悪と徳<倫理>、③真理<天界と神々/バラモン教/インド諸哲学>、④存在と意識<唯蘊無我(ゆいうんむが)>、⑤原因と結果<因果論>、⑥意識の段階<唯識論>、⑦相対性による存在の考察<中観派>、⑧主体と客体の不二<法華経>、⑨一即多、多即一<華厳経>、⑩マンダラ<真言密教>の十段階を説き、①~⑨もまたマンダラの一部であるとする)から以下、紐解いてみる。

 まず、空海が「第九住心」に説く、華厳哲学が南方マンダラやホワイトヘッドの説く世界観に近い。
「世界を<素材>と<かたち>との関係によって考察すると、まず基本的に素材が素材のままでかたちを成していない状態と素材がかたちを成している状態とがある。後者の状態において、かたちだけを見れば素材は隠れ、素材だけを見ればかたちは隠れる。もし双方を二つながらに見れば、素材とかたちは共に顕われたり、隠れたりする。だから、一つの素材と、その素材が作りだす多くのかたちは、条件によって顕われたり、隠れたりする。また、そのかたちが部分と全体とによって成り立っているときには、部分は全体を成す一つのかたちとなり、全体は部分によって成る一つのかたちとなるから、それらのかたちは重なり合い、尽きることなく関係し、限りなく映じ合う。そのように世界は融通無碍なる素材とかたち、すなわち物質によって構成され、その物質と精神は一体のものである。だから、精神は自由に移り変わり、それ自体は本性をもたない。そこでは<環境>と<生命>と<いのちのもつ無垢なる知>の三つの要素が織りなす世界がそのままわが身のすがたであり、そのすがたを象徴する等量の物質のかたちがわが精神となる。また、この世界においては、一瞬間の存在が過去・未来・現在を貫くあらゆる時間そのものであり、一瞬間の思いに多くの無限に等しい時間が展開する。そのように、一と多とは互いに融け入っていて、絶対平等の本体である一つの<理>と、相対的・差別的な現象である多くの<事>とは互いに通じ合っている」という段階。

 でも、これは究極の段階ではないとして、この華厳哲学を基底として空海は次に「第十住心」を説く。
「いのちのもつ無垢なる知の永遠の存在に目覚めることによって、相対性を超える包括的・全体的な世界が実在していると知る。しかし、その世界は論理によって説明することができないから、そのありのままの世界を、大マンダラ(イメージ)・三昧耶マンダラ(シンボル)・法マンダラ(言葉の素子)・羯磨マンダラ(作用)によって図示する(世界は、物質のすべてのかたちに付加されているシンボル化された意味《印》と言葉と数量の素子《名》と物理的な作用《事》とそれらが作りだすいのちのもつ無垢なる知のすがたの全体イメージ《理》によって成り立っていることを示す)。すなわち、マンダラ図によってここに世界の本質が明かされる。そこが心の真実の住みかであり、その中心にすべてのいのちがもつ無垢なる知の永遠の存在を象徴する大日如来の法身(ほっしん:いのちのありのままのすがた)が位置し、そこから万象が生起するから、主体も客体も、一も多も、同じものとなる。そこに真実の世界がある」と。

 こうして、空海の「十住心論」を紐解くと、確かにそこに、南方マンダラやホワイトヘッド哲学のおおもとがある。しかし、その軸足は「第九住心」の華厳哲学にもとづくものであった。とは言え、空海は「第十住心」<マンダラ>の一部が華厳哲学によってすでに説かれていると「第九住心」で述べているから、熊楠の説く「<心・物・名と印(すなわち理)・事>の構造と<因果と縁>による関係」によって世界が実在するという論理は的を射ている。その基底から熊楠も世界の本質、つまりマンダラが見えていたのだ。
 言い方を換えるならば、南方マンダラは世界の本質をとらえるための視座であり、空海の示すマンダラはその視座によってとらえた世界そのものである。
 そうして、そのような世界のとらえ方とそこにとらえられた実在する世界は、今日の思想や科学の考え方に限りなく近い。

 一千年前の日本の開化期に、空海が東洋の"知"の総覧としてマンダラを示した。
 そのマンダラの視点もって、明治の開化期に一人の日本人が世界人として生きた。
 その人こそが、南方熊楠であった。

Ⅴ 熊楠のさとり-あとがきに代えて-
 熊楠は土宜和尚宛の書簡の中で、自らのことを金粟(こんぞく)如来であると称している。 金粟如来とは維摩居士(※5)の前身。金粟如来がこの世に来化して維摩居士になったとされる。
 金粟とは、よく実った稲穂のことで、それによってうまい酒が造られることの比喩をもち、いいお米の生まれ変わりはいいお酒になるように、物事の本質を見抜く知のちからをもつ者であり、維摩居士の徳を指す。その維摩居士とはわたくしのことであると唐代の詩人、李白(りはく)も自らを称し、次のような詩にしている。
(※5)ゆいまこじ:古代インドの商人で、釈迦の在家の弟子。「俗衣をまとい、家庭生活を営み、飲食を享受し、賭け事やばくちをする場所にも出入りし、遊びに通じ、色街にも通い、酒場にも足をはこぶことも多いのである。仏教以外の教えにも耳を傾け、それらの書籍を読み、政治・法律にも詳しく、-中略- 金があっても金銭に執着していない、学識があるとか学者ぶるのでもない。彼は人間それぞれ生きざまをさらけだしている生活する場にはすべて立ち寄り、そこで人間の正しい生き方を教えているのである」と仏教学者の中村元が『仏教経典散策』に記しているような人物)

 (本文)      (下し文)
 答湖州迦葉司馬  湖州(こしゅう)の迦葉司馬(かしょうしば)より白(はく)は是れ
 問白是何人    何人(なんびと)ぞと問いしに答う 

 青蓮居士謫仙人  青蓮居士(せいれんこじ)で謫仙人(たくせんにん)
 酒肆蔵名三十春  酒肆(しゅし)に名を蔵(ひそ)む三十春(さんじつしゅん)
 湖州司馬何須問  湖州(こしゅう)の司馬(しば)よ何ぞ問うを須(もち)いん
 金粟如来是後身  金粟如来(こんぞくにょらい)の是れ後身(こうしん)

 (現代語訳)
 釈迦の十大弟子の一人「迦葉」と同じ名字をもつ湖州のお役人が
 「李白さん、あなたはいったいどういう方なのですか」と尋ねたのに答える。

 仏教で言えば仏の眼に喩えられる睡蓮の花、あるいは天上界から地上に流されてきた詩の仙人。
 あるいは酒場に通いつづけて三十年間も毎年、春の美酒に酔いしれてきた客。
 湖州のお役人よ、そんなことを聞いても意味ないでしょう。
 いいお米がいいお酒になることを知っている金粟如来の生まれかわりの維摩居士こそ、このわたくし。

 熊楠も李白のように酒を愛し、維摩居士の徳を愛する者であったのであろう。そうして、当然ながらこの詩を知っていた。
 
 この維摩居士が病気になった際の話しが『維摩経』の中にある。
 釈迦が弟子たちに見舞いに行くように勧めたが、出掛けると彼に問答をふっかけられ、やり込められることが分かっていたので、誰も行こうとしなかったという。(その釈迦の弟子の一人に大迦葉が含まれているから、上記、李白の詩の湖州のお役人のいきさつがうかがえる)
 それでも釈迦の命令なので、ついに、文殊菩薩が行くことを引き受ける。それを知った弟子たちは、文殊と維摩のやりとりが見たくてついて行く。
 そのときの問答、一例を挙げると、文殊が「どうしたら仏道を成就できるのですか」と問うと、維摩は「非道を行ぜよ」と答えたという。つまり、非道を行じながら、それにとらわれなければ仏道に通達できることを意味する。(善と悪とは物事の表と裏に過ぎないから、同じ一つのものである)
 自らを金粟如来、すなわち維摩居士と称した熊楠は、そのようなことをさとっていた。

 熊楠が、江戸と明治という、まったく異なる二つの文化の転換期に東洋思想をもって西洋思想に学び、自由奔放さと律儀さとをその生き方において同居させていたということは、つまり相反することが同じ一つものであるとする、維摩の説く、仏道そのものである。
 その仏道的人生によって、熊楠は文明開化の大きな波に乗った。そうして、その波間に世界の本質、つまりマンダラを見た。

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