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『吽字義』-実在の根源と字-

1 字と意味
 『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』は、空海教学の「三部書」であるといわれている。
 コトバ以前のこの身このままの存在を解き明かしたのが『即身成仏義』の書であり、その解き明かしをも含めて、世界の本質を説くコトバの虚実を論究したのが『声字実相義』の書であり、そのコトバの種子によって、真実の世界とは何かを問うたのが『吽字義』の書である。梵字の「吽(ウン)」(サンスクリットで「フーム(「h」+「u」の上に-がある「u」の長音+「m」の下に・のある随韻(アヌスヴァ―ラ)」)のたった一字によって、世界は編集できるとするものである。

 その『吽字義』の書のはじめに、「吽(ウン)」の一字を解釈するにあたって、これを「字相」と「字義」の二つに分ける。まず「字相」を、つぎに「字義」を解説するとある。
 また「字相」を解説するにあたり、「ウン」字(サンスクリットで「フーム」)を四つの字に分解する。「カ(ha)」字(サンスクリットで「ハ」)と、「ア(a)」字と、「ウ(u)」字と、「マ(ma)」字とである。これらの四字が集まって「ウン(フーム)」の一字が出来ていると説明している。

 この四字の「字相」について、
一、「カ(ha)」字は、サンスクリットの「へートゥ」(因)の綴りの最初の字が「h」であることから、因縁(原因と条件)をあらわし、すべてのものが原因と条件から生じていることを示す。
二、「ア(a)」字は、サンスクリットで「初め」という字の綴りの最初の字が「a」であり、「カ(ha)」字の中にも「ア(a)」という母音が含まれていて、「およそ、最初に口を開いて発する音にみな「ア」の声がある。もし、(このあるがままの)「ア」の声がなければ、すべての世のコトバは成り立たない。この故に、「ア字」をすべての字の母とするのである」ということから、この「ア字」が一切の音声の本体であり、「ア字」によってコトバが成立し、すべての真実のすがたは「ア字」によって表わすことができる。このため、「ア字」がなければすべての実相は無く、「ア字」を見ることによってすべての存在が空無であることを知る。
三、「ウ(u)」字は、サンスクリットの「ウーナ」(損減)の綴りの最初の字が「u」であることから、損減(そんげん)をあらわし、すべてのものが無常・苦・空・無我であることを示す。
四、「マ(ma)」字は、サンスクリットの「ママ」(吾我)の綴りの最初の字が「ma」であることや、「アートマン」(個我:宇宙全体を支配する原理「ブラフマン」(梵我)に対し、個体のからだの中にあって他と区別しうる不変の実体を指す)の綴りに「ma」があることから我をあらわし、その我によって生じる増益(ぞうやく)を示す、
と空海は記す。

 しかし、これらの字相によって、人びとはものごとを誤ってとらえているというのが空海の見解である。そこで、それらの字の真実の意味とは何かをつぎに問う。

 この四字の「字義」(字の真実の意味)について、
一、「カ(ha)」字は、あらゆるものが原因と条件から生じていることをあらわすが、すべてのものは常に変化しているから、変化しつづけていることが存在の本質であり、その変化をいくら辿っても、固定的な実体は見つけられない。だから、すべてのものが固定的な実体から生じたものでないこと、つまり、不生であることになる。これがカ字のもつ真実の意味である。
二、「ア(a)」字は、「およそ、この世のコトバは、すべて名(語句)によって成り立っていて、しかも、この名はすべて字からできている」といわれるが、その字の母である。したがって、あらゆるものの名の中に、この「ア字」が入っている。
 また、それらの名をもつものは必ず原因から生じているというが、原因をいくら辿っても、つぎからつぎへと原因が原因を生じさせていて、永遠に存在の本源は不明である。
 だから、あらゆるものの存在の本源を極めるならば、それはあるがままに存在しているものであり、原因によって生じたものではないものである。
 その存在を本不生(ほんぷしょう)という。
 そのような存在をこの「ア字」によって象徴する。
「このように、字母の最初の「ア字」と最後の「カ字」とは、結局、同じ不生ということをあらわしている。したがって、この二字の中間にあるもろもろの字も、最終的に意味するところは同じであると知られるべきである」と空海は記している。
三、「ウ(u)」字は、損減をあらわすというが、あるがままに存在するもの(ア字本不生)から、固定的な実体のないもの(カ字の不生)までの間にあるもろもろの字に、すなわち生じたものではないことを一貫して意味するものに、損減はない。
「一心の虚空は、本来、常に存在するものであり、損なうことも減ることもないのである。このことがウ字の実義なのである」と空海は記している。
四、「マ(ma)」字は、我によって無いものを有ると見ることから、増益を示すというが、「あらゆる個体(我)は、自らのいのちにそなわる無垢なる知のちからと、その知のちからによってありのままに生じる無数のいのちのすがたと、それらのすべてのいのちが等しくもっている三つの活動性、動作性・コミュニケーション性・精神性とによって、ともに生きているから自然界の秩序が保たれている。だから、無数の個体は、極微であろうが、極大であろうが過ぎることなく、無機物・有機物の区別なく、どのようなすがたであっても、これを選ぶことなく、あらゆるところに遍満し、あらゆるものを収め尽くし、平等である」と空海は記している。そのようなことから、すべての個体、すなわち我には、「これとそれ」「有と無」「全体と個」「多様な種や個体」の差別はなく、平等であり、増益などは存在しないというのが「マ字」の真実の意味となる。また、マ字が転じて、「円満具足」「高い位にあってもおごらず他のためになる」「互いに完全に融け合う」などの意味をももつ。
との答えを空海は展開する。

 以下は、それらの「字義」の内、「ウ(u)」字の項の詩(偈頌:げじゅ)の部分である。『吽字義』全体中の要(かなめ)となる部分である。


2 「草木のさとり」の詩(現代語訳)
 Ⅰ-1
 生存欲界・物質界・精神界の三界での行ないの報いによって
 戦争や災害による死や飢え・畜生の本能・罪と倫理・浄土への渇望にもがき苦しみながら生きるものは
 生じたかと思えば、すぐ滅し
 一瞬も止(とど)まることを知らない。

 そのようなことだから、それらには固定的な本体も実体もなく
 幻や影のようー

 凡夫として生きて死ぬものも、聖人として生きて死ぬものも
 因縁によって生まれたものすべては
 その一瞬の存在が、過去からの限りない生滅の結果によってもたらされてきたものだから
 そのすがたはまるで炎や水の流れのようー

 海のような第八アーラヤ識(呼吸・睡眠と食欲・性欲などによる生活根本意識)は永遠であるが
 波のような前七識(前五識:視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚/第六意識:思考・意志・感情/第七マナ識:言語・記憶)はゆれうごく。

 これらの苦しみ・生滅・因縁・前七識の無常によって
 あらゆるものがよく壊れ、よく損なわれるけれども
 この無常という思いがなければ、万事のあるがままのすがたにおいては
 どうして苦しみ憂えるということがあるだろうか。

 このように、万事はその本来のすがたにおいて
 損なうことも、減ることもないということを象徴するのが「ウ(u)」字である。

   2
 太陽や月や星は
 もともと天空にあるけれども
 雲や霧がそのすがたをおおいかくし
 煙や塵におおわれることがある。

 愚かな者はこれを見て
 太陽や月がなくなってしまったと思う。
 自らのいのちにもとからそなわっている無垢なる知も
 同じことである。

 限りない過去からいのちにそなわっている無垢なる知は
 もともと心という天空に存在しているのだが
 妄想をもっておおわれ
 煩悩にまとわりつかれている。

 もともとそなわっているもののすがたは、箱の内側の鏡のようであり
 もともとそなわっているものの真理は、岩の中の宝石のようなものである。
 迷える者は、箱や岩の外側のみを見て
 いのちのもつ無垢なる知などはないと思う。

 愚かな者が自らにもともとそなわっているものをないと考えるのは
 損でなくして何であろうか。
 もともとそなわっているものには
 損減などありえない。

 「ウ(u)」字が象徴する無損減という意味は
まさしくこのようなものであると知らなければならない。

 Ⅱ-1
 教え聞いてさとる者と自らさとる者とは
 やたらにそのさとりの完璧さを願い求め
 肉体も精神も焼き尽くして
 無(む)になり
 さとりという名の酒に酔いしれているだけで
 覚(さと)ることも、醒めることもない。

 教えを聞いてさとる者と自らさとる者と、よりそのさとりの完璧さを願い求める者とには
 その執着心に差はあるが
 ともにむなしく無限の時を費やしているだけで
 これ以上の損失はない。

   2
 自らにもともとそなわっている無垢なる知は
 厳然としてうごくことなく
 すべてのいのちに行きわたっている無垢なる知のもろもろのちからとそのはたらきが
 人びとを目覚めさすのである。

 これによって、教えを聞いてさとる者も自らさとる者も、よりそのさとりの完璧さを願い求める者も、止(とど)まっていた無(む)のさとりの城を発って
 ともにいのちのもつ無垢なる知によって生きる楽園へと向かうことになる。

 草木ですら、さとる(いのちのもつ無垢なる知に目覚めている)のだから
 どうして人びとがさとらないことがあるだろうか。
  
 みだりに自分本位の未熟な教えに執着すれば
 損なうことが多いのだ。

 「ウ(u)」字が象徴する無損減という意味は
まさしくこのようなことを諭(さと)していると知らなければならない。

 Ⅲ-1
 いのちのありのままのすがたをもって生まれ
 それぞれの個性を発揮する個体は
 あらゆるすぐれた形質と性質を親から受け継ぎ 
 呼吸と睡眠によって生存する知のちから《生活知》と
 衣食住を生産し、それらを相互扶助する知のちから《創造知》と
 世界を観察し、記憶・編集する知のちから《学習知》と
 住み場となる環境に合わせてからだを自在にうごかす知のちから《身体知》との
 四つの知のちからを生まれながらに完全にそなえている。
 しかし、その受け継いだ個体は、子にその生を引き渡すことによって連続できる存在であり、常に変化していて
 不変なものではない。
 (このことは)「生じたものは必ず滅する」という
 決まりきった文句によって世に説かれていることでも明らかであり、そうして、このあらかじめ心に刷り込まれた無常観によって、人びとの無垢なる知の目覚めはすぐに閉ざされてしまう。
 しかし、この無常観は、唯識思想という剣をもって
 切り捨てることが可能となるが、逆にその「一切の存在現象はただの識にすぎない」とする方便の教えによって、すべての存在が否定されてしまうことから、人びとのさとりの障害ともなってしまう。

   2
 しかし、個体が本来有しているあるがままの三つの活動性、動作性・コミュニケーション性・精神性は
 天空にかかる太陽のようであり
 いのちが本来有している無垢なる四つの知のちから、生活知・創造知・学習知・身体知は
 地中に埋まっている金のようなものである。

 (つまり、それらはもとから存在していて)
 雲や霧を吹き飛ばす猛風や
 地中を掘り起こす鋭い鍬(くわ)の先によって
 太陽が生じ
 金が造り出されたのではないのと同じである。

 「ウ(u)」字が象徴する無損減という意味は
 まさしくこのように、本来生じたものでないものは、尽きることがないということだと知らなければならない。

 Ⅳ-1
 いのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきは
 心の不変の本質である。
 およそ心ある者に
 この本質のないものがいるであろうか。
 心の知はそのままこの本質であり
 心の外にこの本質があるのではない。
 心とこの本質とは一つであり
 それは水のうるおいという性質と、透きとおるという作用とが別ではないようなものである。
   
   2
 いのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきは、すべてに等しく広がっているが
 度量のせまい者には
 幼児を諭すように方便の教えが説かれる。
 だが、それが仮の教えであると、本人は知らない。
 その上、その方便の教えの戟(ほこ)をふるって
 自らのもつ無垢なる知のちからまでも壊してしまうのだ。
 これを損減という。

 しかし、いのちのもつ無垢なる知の永遠の広がりは
 損なうことも欠けることもない。

 「ウ(u)」字が象徴する無損減という意味は
 まさしくこのようであると、仮の教えにしたがう者たちは知らなければならない。

 Ⅴ
 水がないと波が立たないように
 心があるから、対象が存在する。
 もし、草木にいのちのもつ無垢なる知のちからが無ければ
 波(草木の芽吹きや生長・生殖)にうるおい(いのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらき)という性質が無いことになる。

 (同じ生きているものなのに)人びとにはいのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきが有って、草木にはそれらが無いとすれば
 それは不完全な仮の教えでなくて何であろうか。

 有を否定し、無を立てるならば
 これこそ損であり、減である。

 つまり、このような無の教えに立つ人びとは損減というするどい斧(おの)で
 常に自らのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきまでも砕いている。

 しかし、もともとそなわっている知は
 損なうことも、減ることもないのだ。

 Ⅵ
 天台宗では、万象に固定した実体はないという真理と、それでも実体のない万象が実在しているという真理と、万象はその不確定性と実在性との間の存在であるという真理とは、究極的には同じ一つの真理であると説き
 華厳宗では、過去・現在・未来のそれぞれの時間は、それぞれに過去・現在・未来の時間をもつから、一瞬の存在にはそれらの時間のすべてが含まれていると説き
 真言宗では、生きとし生けるものの世界と環境世界と精神世界とは
 みないのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきの世界であると説き
 それらの世界を、イメージ・シンボル・声と文字・作用によってとらえたところに
 ものごとの真実のすがたがあるとも説く。

 「ウ(u)」字が象徴する無損減という意味は
 まさしく各宗の説く真理からも学ばなければならない。

 Ⅶ
 教えを聞いてさとる者と自らさとる者とは未熟だから
 視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の前五識と第六意識による六識を唱え
 やや勝れている空(くう)の論理を理解する者は
 八識(前五識・第六意識・第七マナ識・第八アーラヤ識)あるいは九識(八識に第九アマラ識=無垢識を加えたもの)を唱える。

 しかし、彼らは一度唱えたその教えに執着し、そこに止(とど)まり、前に進もうとしない。
 そんな彼らが、どうして無数の識を知ることができるだろうか。
 自らのいのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきが繰り広げる無尽蔵の識を理解することなく
 小を得て満足している。

 おのれにもともとそなわっているものを知らないとは
 これ以上の貧しさはない。
 いのちのもつ無量無限の無垢なる知のちからとそのはたらきのすべては
 そのままわが宝なのに。

 「ウ(u)」字が象徴する無損減という意味は
まさしく唯識論によっても学ばなければならない。

 Ⅷ-1
 (いのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきの原理は)同一であっても、(それらが繰り広げる世界は)多様であり
 多様であるから同一なのである。
   
   2
 (そのようなことから)それぞれの無垢なる知のちからとそのはたらきははかり知れず
 それぞれの知を発揮している個体数は限りない。
 その数ときたらガンジス河の砂をもってしても喩えることはできず
 国土を微塵にしてもまだ足りない。
 しかし、雨足は多くても
 それらは一つ水であり
 ともし火は無数の炎であっても
 それらは融けあって一つの光になる。

   3
 物質と意識の量ははかり知れないから
 その真実のすがたも果てしなく
 いのちのもつ無垢なる知の普遍のちからと、それぞれの個体の意識のはたらきは
 互いに、主となり従となって尽きることがない。

   4
 そのように、あらゆる事物・現象は互いに入り合い
 まるで、網の一つひとつの結び目につけられた珠玉に無数のともし火が映じているようである。
 それらの想像を絶する無限の重なり合いのすべてが
 自らがそなえもつ無垢なる知のちからによってともに生きている、無数の個体の一つひとつのいのちの輝きなのだ。

   5
 (その実在している無数のいのちの輝きは)
 多数であっても、異ならず
 異ならずして、多数なのである。
 だから、これを一如(いちにょ:相互に依存している全体としての一)と名づける。
 名づけられた一如の「一」は単一の一ではない全体としての一であって
 無数を一とする。
 また、無数を一とする「如」は単発的にということではなく、常にということであり
 常にみな同じで、お互いに違うことなく、(無数を一とする全体の規則にしたがい)みな一緒ということである。

   6
 以上のような真理を説かない教えがあれば
 (それは)人びとの度量に合わせた方便の教えである。
 生きとし生けるものすべてがそなえもっている無垢なる知のちからの無尽蔵のはたらきも
 方便の教えにしたがえば、むなしく減り尽き
 無垢なる知という無量の宝を積んだ車も
 ここにおいて消え去ってしまう。
 これを損減という。

   7
 大地のすべてを磨って墨にしたほどの無数のいのちのありのままのすがた、いのちの存在そのものと、多様な種と、多様の種の個体のそれぞれの異なる個性と、それぞれの異なる個性をもつ個体そのものと
 その無数の個体が、住み場とする空中と地上と水中と草原や森に印(しる)す、すべての海水を硯水とし、須弥山大の筆をもってしても書き尽くすことができないほどの無量の生命活動、動作性と、コミュニケーション性と、精神性とは
 もとより自然界に満ち足りていて
 動じることなく、不変なのである。

 「ウ(u)」字が象徴するのは
  まさしくこの実在している損減なき世界のことなのだ。

 こうして、「ウ(u)」字の詩を読み解くと、この一字の中に、空海の言わんとすることがすべて含まれていると知る。
 もちろん、その文字のもとは「ア(a)」字なのであって、「ア字」を源泉として、そこから文字が流れ出し、コトバの大河をつくり出しているのであるが、そのコトバによって語られる事象の原因を探ってみても、固定的な実体に辿り着くことはできず(したがって、空)、そのことを「カ(ha)」字によって象徴し、そのような原因を人間が考えるのは、我としての主体があるからだとしても、主体のもとは全体の存在にあり(したがって、無我)、そのことを「マ(ma)」字によって象徴し、それらの象徴によって説かれる真実が「ウ(u)」字の中にもすべて含まれ、その「ウ字」そのものは、もともとあるがままに存在していて生じたものでないものは、損なうことも減ることもないことを象徴する。
 そのような四字が集まって出来ているのが、「吽(ウン)」の一字である。
 だから、このたった一字によって世界は編集できると空海は説く。


3 生の根本理念
 また、生きとし生けるものの個体のすべては、
(一)自らがあらかじめそなえもっているさとりを因とし、
(二)限りない慈悲を根本とし、
(三)そこから自然に湧き出るあるがままの行為を究極として生きている。
 と空海は「字義」の章の後半のまとめとなる部分に記し、この三句が生の根本理念であり、この三句を束ねたものが「吽(ウン)」の一字であるという。
 つまり、多様な種の無数の個体が、
(一)本不生である「いのちのもつ無垢なる知のちから」を因とし、
(二)「衣食住の生産とその相互扶助」を根本とし、
(三)そこから自然に湧き出るあるがままの行為「動作性・コミュニケーション性・精神性」を究極としてともに生きている。
 そこに限りない真実の世界があり、そのことを「吽(ウン)」の一字が示すという。

 このように、「吽(ウン)」の一字には、実在の根源がすべて含まれているから、この一字を唱えることによって、すべての存在が開示し、すべての真実と一体になるちからを得ることができる。
 「そこにすべてのいのちとともに生きるものの喜びがある(等観歓喜:とうかんかんぎ)」と、空海は『吽字義』の終わりに記している。


4 一如の思想
 今から一千年前に空海は、「(実在している無数のいのちの輝きは)多数であっても異ならず、異ならずして多数なのである。だから、これを一如(相互に依存している全体としての一)と名づける」と『吽字義』に記した。
 現代の思想家アーサー・ケストラー(1905-1983)は、還元主義と全包括論の袋小路を超え、両者を結ぶ第三の概念として「生物のからだは循環器系、消化器系などの<亜全体(全体に準じる全体)>で構成され、その亜全体は器官や組織などより低次の亜全体に分岐し、さらにそれは個々の細胞に、その細胞は細胞内の小器官にとつぎつぎに分岐していく。だから、それぞれの部分は上に対しては部分として、下に対しては全体としてふるまう。そのようなマルチレベルの無数のヒエラルキー(階層的な構造)、つまりどの部分も、ヒエラルキーの上部にしたがう一つの部分でありながら、下部の部分をしたがえる一つの全体でもある。そのような亜全体としての存在をホロンと名づける。そこに実在するものの本質がある」と、その著作『ホロン革命(原題:ヤヌス)』に記す。
 空海は前出の文章につづけて「名づけられた一如の一は単一の一ではないのであって、無数を一とする」と述べているから、その相互に依存していて無数を一とする全体、すなわち「一如」とケストラーの「ホロン」の思想はよく似ている。
 また、ホロンの思想によって、言語のヒエラルキー「概念→意味論→構文→文法→単語→発音→声帯の筋肉振動→空気振動」をとらえると、話し手は概念という抽象的で非物質的なものを、ヒエラルキーのそれぞれのホロン(一如)を通して、最終的に空気振動という物質的なものに変換して相手に伝える。一方、聞き手は物質的に受け取ったその空気振動を、話し手のヒエラルキーとは逆方向のホロン(一如)によってひも解きながら、最終的な抽象概念に辿り着く。つまり話し手の精神に導かれるとケストラーは説く。
 そのヒエラルキーの手順を媒介しているのが声と字なのである。
 "ウン"の物質的な空気振動が声となり、その声が字として認識され、字はホロン(一如)という無数を一とする全体の規則、すなわちヒエラルキーの構造にしたがい、その構造をベースとして自在に文脈を組み立て、それらの文脈が意味を成し、その意味が概念となって人びとを精神世界の至高へと導く。
 そのような手順を、空海は「吽(ウン)」の一字によって展開してみせたのだと思う。

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