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空海の四恩の祈り-家族・国家・生態系・信仰

 仏弟子であるわたくしは、ブッダ(目覚めた人)のもつ"無垢なる知のちから"の象徴である大日如来を信仰いたします。
 そうして、その大日如来の無垢なる知のちからが、すべての生きとし生けるものをさとりへとみちびく、という堅固な教え金剛乗(密教)のために、一切の資財を投げうつことを惜しみません。

 古代インドのコーサンビーのウダヤナ王は、仏教の開祖ガウタマ・シッダールタ(ブッダ)が存世中に、彼を思慕し、その像を白檀(びゃくだん)の香木で彫らせたといいます。
 わたくしは、この王の真心を敬います。

 また、永遠の真理を渇望する一人の若き僧が、仏法の一偈を学びとるためにバラモンの教えにしたがって、自らの皮膚を紙とし、骨を筆とし、血を墨として、(つまり骨身を削る修行をして)その言葉を写し取ったといいます。
 わたくしも、この僧のような、真理への一途な信仰心をもちたいと願います。

 さてここに、ウダヤナ王に見習って、世界の本質をあらわす如来(※)などの五十五尊の仏像をかたちにしました。
※如来:「かくの如く(真理の世界から生きとし生けるものを救済するために)来た人」、すなわち、いのちのもつ無垢なる知に目覚め、自他無二平等を実践する根本の知のちからを身につけたもの。ブッダの尊称。
 1、法界体性智(ほっかいたいしょうち):澄んだ水があらゆるところにゆきわたるように、万物にゆきわたっている知のちからそのもの。「大日如来」
 2、大円鏡智(だいえんきょうち):澄んだ水の表面に万象が映ずるように、すべての存在はありのままで不動であるとする知のちから。「阿閦(アシュク)如来」
 3、平等性智(びょうどうしょうち):澄んだ水の水面が同じ高さになるように、生み出されたあらゆる存在を平等にする知のちから。「宝生(ほうしょう)如来」
 4、妙観察智(みょうかんざっち):澄んだ水面がすべてを正確に映し出すように、あらゆる存在の差別相を正しく観察し、万物の自性が清浄であることによって、生きとし生けるものを教化する知のちから。「阿弥陀(アミダ)如来」
 5、成所作智(じょうそさち):清らかな水がすべてのものに浸透し、成長を育むように、無垢なる知を自らそなえもつすべての生きとし生けるものが、その知のちからによってあるがままに活動し、他にはたらきかけ、ともに生きる知のちから。「不空成就(ふくうじょうじゅ)如来」

 また、真理への一途な信仰心をもった僧のように、文字(サンスクリット)とその真実の意味(字義)によって世界の本質を記した十一部のありがたい経典を書写しました。
 この書写によって、水をあらわすサンスクリットの「バ(va)」字が、わたくしの煩悩の垢(あか)を洗い清めてくれます。
 風をあらわすサンスクリットの「カ(ha)」字が、わたくしの心の迷いの塵(ちり)を吹き飛ばしてくれます。

 そうして、次なる修行によって自己を磨きます。

① 戒め(むやみに生きものを殺さない・ものを盗まない・男女の道を乱さない・嘘をつかない・無意味なことは言わない・乱暴な言葉を使わない・二枚舌を使わない・欲張らない・むやみに怒らない・まちがったものの見方をしない)を守り、身体の活動(行動性・コミュニケーション性・精神性)を善にみちびくこと。<戒(かい)>
② 瞑想すること。<定(じょう)>
③ 物事の理を直感的に把握すること。<慧(え)>
④ 自我による束縛を解き、絶対自由の境地に達すること。<解脱(げだつ)>
⑤ 解脱がもたらす知見によって、問題を解決すること。<解脱知見(げだつちけん)>

 これらの五つの功徳が妙なる香となって、わたくしの身体を構成している固体(地大)・液体(水大)・エネルギー(火大)・気体(風大)・空間(空大)の五つの物質的要素と、精神的要素である意識(識大)の六つの大なる要素に沁み込みます。

 この清浄なる六大が自性法身(じしょうほっしん、自性:あらゆるもののそれ自体の本性。時間を貫いて受け継がれ、永劫に存在するいのちの本体。法身:無垢なる知のちからが成すいのちのありのままのすがた)となり、さとりという名の山の峰に、五大を象徴する黄(地大)・白(水大)・赤(火大)・黒(風大)・青(空大)の旗がたなびきます―

 (さて、さとりを得ても、人は友や社会や自然の営みから離れては生活することができません。それでは、さとりとともに人は友や社会や自然とどう付き合って生きて行けばよいのか、そこに「四恩」の存在があります。その確固たる存在によって、「四恩に感謝し、それらとともに生きよ」という道がひらきます―)

① 生を授けてくれた父母の恩。
② 国家の安泰を守る為政者の恩。
③ 衣食住の生産・相互扶助を互いに行なうことによって、ともに生きることができる生きとし生けるものの恩。
④ それらの恩の根本にある、いのちのもつ無垢なる知のちからの存在(仏)・その無垢なる知のちからがもたらす真理(法)・その真理を教え伝えるものたちの集団(僧)の三つの要素によって成立する信仰の恩。

の四つの恩に報いる白雲が里から湧きあがり、雲海となって、さとりの峰の四方に果てしなく広がると、雲の下の大河には、すべての生きとし生けるものを永遠の真理の世界へと渡す巨大な筏(いかだ)が浮かべられ、岸辺で船出を待ちます―

 大きな鐘(かね)が撞(つ)かれ、永遠の真理の教えが人びとに届きます―
 これこそが、生死の苦海から、生きとし生けるものすべてが救済されるときなのです。

 そもそもわたくしの生は、自らが願って得たものではありません。
 わたくしの知らない遠い昔から受け継いできた因縁によって、わたくしはこの世に生まれてきたのです。

 ましてや死は、わたくしの望むところではありません。
 しかも、望んでもいないのに、生まれてきたものは必ず死ぬという無常によって、生あるものすべてが無理矢理に死を迎えさせられるのです。

 生きることもまた楽ではありません。
 生きているから、もろもろの苦を背負い込むことになります。
 だからと言って、苦から逃れ出ることができる死もまた喜びにはなりません。
 死の哀しみに、たちまちにせまられます。

 生はたちまちに過ぎ去る昨日のようなもの、わたくしの生もすぐに老います。
 今朝、盛んだったこの身も、明日の夕には病に倒れるかもしれません。

 いたずらに秋風に吹かれて散り落ちる木の葉のような儚(はかな)いいのちを頼りにして、わたくしは日の光りに空しく消え去る朝露のようなこの身を養っているのです。

 だから、この身のもろさは、泡(あぶく)と同じです。
 わたくしの一生というひとときは、夢まぼろしのように過ぎ去り、無常の風が一瞬吹くと、この身をかたちづくっている四つの要素(固体・液体・エネルギー・気体)の一部が屋根瓦のように飛ばされ、その余勢で多くの瓦が崩れ落ちるように、身はこなごなに砕け散ります。

 そのように、死の使者がいったんわたくしを襲うと、父と母、兄と弟、妻と子であろうが、もう誰もわたくしを救うことなどできません。
 それなのに、朝から晩まで、毎日、毎日、着るものと食べものを得るために人は家族のために奴隷のようにはたらき、毎年、毎月、人は家族の絆にしばられます。
 そのうえ、父や母に死なれると、その別れの悲しみに心は乱れ、愛する妻や子を失えば、溢れる涙は止まりません。

 おまけにむやみに殺生をすれば、死んでからも地獄の猛火に焼かれ、施(ほどこ)しをケチって貪欲に生きれば、餓鬼の醜いすがたになるといいます。

 遠い昔からひとときも途切れたことのない生を、受け継ぎ、受け継ぎこの世に生まれ、その生を後世に引き継いでは死んでゆく生死の繰り返し。

 この生死の輪廻の牢屋から生きとし生けるものすべてが逃れることができないから、繰り返す生死の間に、あるいは人間になり、あるいは鬼畜になり、あらゆる病に罹(かか)り、苦しみを背負い込むことになるのです。

 ああ、悲しいかな、悲しいかな、
 三界(さんがい)の子(し)。すなわち、欲望世界と物質世界と精神世界との三つの世界に住み、それぞれの世界の重荷を背負い、そのはざまをさ迷うわたくしたち人間は。

 ああ、苦しいかな、苦しいかな、
 六道(ろくどう)の客。すなわち、戦争や災害による死の苦しみと、飢えと、畜生本能と、悪行と、倫理と、絶対の規律をもつ天界との六つの道をさ迷い行くわたくしたち旅人は。

 そんなわたくしたちだから、余程の正しい教えによってみちびかれなければ、すなわち、いのちのもつ無垢なる知のちからに目覚め、それらの大いなる慈悲に頼らなければ、わたくしたちはどうして、三界六道に流転する輪廻を破り、永遠のさとりの境地に達することができるでしょうか。

 また、そもそもこの身は、虚空から生まれ出たものでもなく、大地から生まれ出たものでもありません。
 必ず、父母と、国家と、衣食住を生産・相互扶助している生きとし生けるものと、そのすべての生きものがともに生きるためにもっている無垢なる知のちから・その無垢なる知のちからがもたらす真理・その真理を教え伝えるものたちの三宝によって形成される信仰との「四恩」の存在があるから、五つの認識作用(万象を五感でとらえ、とらえたことをイメージにし、そのイメージによって快・不快の判断を下し、その判断が記憶されて意識になるという作用)によって保たれているこの身も存在するのです。

 「四恩」とは、第一に父母の恩、第二に為政者の恩、第三に生きとし生けるものの恩、第四に仏・法・僧の三宝の恩であります。

第一、父母の恩(家族)
わたくしを生み育ててくれるのは父母の恩、それは天より高く、大地よりも厚いもの。
この身を粉(こ)にし、いのちを失うとも、この恩には永遠に報いることができそうにありません。

第二、為政者の恩(国家)
 しかし、父母がわたくしを生んでくれたといっても、もし国を統治するすぐれた為政者がいなかったら、強い者と弱い者とがたがいに戦い、貴い身分の者も身分の低い者も、他人のものを欲しがり、それを奪おうとするから、この身のいのちの保証はなく、財産を守るすべもありません。
 為政者のすぐれた統治のちからがあってこそ、万人の生活は安定し、天下は泰平なのです。
 何故なら、国を統治するために領地や官職が設けられ、民にはそれぞれの役目に応じて官位・俸給が与えられますから、人びとは生活の糧(かて)を得て、安心して暮らすことができます。
このように、現世での名誉と栄え、後の世の名声は、為政者のちからが成すところですから、その恩は偉大であります。

第三、生きとし生けるものの恩(生態系)
 では、生きとし生けるものは、このわたくしにとって何の恩恵があるのでしょうか。
 わたくしの生は、その始まりも分からない遠い昔から延々と受け継がれてきたものですから、その昔において、この身はさまざまな生物、ほ乳類・鳥類や爬虫類・水棲類・昆虫類などのすがたかたちをしていた時期があったでしょう。そうして、その生は、その世代毎に六道の世界を生き抜いて来ましたから、それらの際限のない時間のなかで、わたくしの生はきっと父となり、子となって、継がれてきたものにちがいありません。
 この現実を経ずして、けっしてわたくしはこの世に生まれて来なかったし、この身が世界に存在することもなかったでしょう。
 以上の洞察をもってすれば、すべての生きとし生けるものは、みなわたくしの親になります。
 それ故、『心地観経(しんじかんぎょう)』報恩品(ほうおんぼん)に「(生きとし生けるものの恩とは、すなわち無始よりこのかた、一切の生物は、各世代に輪転して互いに父母となる。故に)一切の生物の男子(雄)はわが父、一切の生物の女人(雌)はわが母なり。(そうして、遠い昔から雌雄が結ばれて生が引き継がれてきたという恩があるから、現在の父母の恩との差別はなくなり、一切の生物への恩となるのである。そのようなことから)一切の生きとし生けるもの(すなわち生物)はわが両親であり、先生であり、君主である」と説かれています。
 ですから、わたくしたちはすべての生きとし生けるものを敬い、大切にしなければなりません。

第四、三宝の恩(信仰)
 父母は家族を養います。
すぐれた為政者は国家を守り、民の生活を助けます。
 しかし、一生の苦を断ち、自らがそなえもっている無垢なる知のちからに目覚めさせ、さとりの安楽を与えてくれるのは三宝による信仰の恩であります。
 三宝とは、一に仏宝、二に法宝、三に僧宝です。
 一、仏宝(いのちのもつ無垢なる知のちからの存在=大日如来)は、世界の本性そのものであり、この真実の知の存在があるから、ありのままのすがたで生きとし生けるものがともに生きられるのです。
 二、法宝(いのちのもつ無垢なる知のちからがもたらす法)は、人間の浅はかな知識では考えの及ばない永遠の真理によって、この世に生の楽しみを与えてくれます。
 三、仏(無垢なる知のちから)と法(真理)には、このようにありがたいおかげがあるのですが、もし僧宝(真理を教え伝える者たち)がなかったら、無垢なる知のちからの教えが世間に流布することはないでしょう。

 僧には、慈悲を実践しながら真理を求める者(菩薩・大乗仏教者)と、教えを聞いてさとる者(声聞)・自らの体験によって真理をさとる者(縁覚)(以上、小乗仏教者)との区別はありますが、それらの者が実際にさとった者か、さとっていない者かは問題にしません。
 また、戒律を守る者か戒律を破った者かの区別もありません。
 どのような者であれ、経典・論書を講義して伝える者は、みな僧宝と名づけられます。

 聞くところによると、過去・現在・未来の三世(さんぜ)にわたる如来(いのちのもつ無垢なる知のちからそのもの)、世界中のあらゆるところに存在する菩薩(いのちのもつ無垢なる知のちからによるはたらき)、ことごとくが四恩に報いて、その無垢なる知に目覚められたといいます。

 それ故、この四恩のためにつつしんでわたくしも、諸尊のすがたをかたちにし、若干の経典を書写しました。

 さらには、普賢菩薩(例えば、生きとし生けるものは、三大栄養素であるタンパク質・炭水化物・脂質を摂取し、それらを分解し、その過程で生じたエネルギーと生体構成部物質を得て生命活動を維持している。そのように、すべての生物は共通の栄養素をもととして生きているから、それぞれのすがたかたちは異なっていても、そのままですべてが家族であるといえる。そのあまねきいのちの、あまねし慈悲のはたらき)が、そのはたらきによって、すべての生きとし生けるものを未来永劫にわたって救おうとする心と、観自在菩薩(よくよく観察した真理によって、すべての生きとし生けるものを自在に教化するはたらき)・弥勒菩薩(互いにはたらきかけ、慈しみをもってともに生きるはたらき)の大いなる慈悲の心をおこして、今日只今、荒れはてた山亭を掃き清め、『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』を説く座をこの場にひらきます。
 いのちのもつ無垢なる知のちから(如来)とその知のちからのはたらき(菩薩)が、この座に集う人びとを永遠の真理へとみちびいてくださるように、本日は四恩に報いる徳の高い僧たちをここにお招きして、奥深い密教の真髄を講義し、諸尊のありがたい経典を供養するのです。
『遍照発揮性霊集』巻第八「仏経を講演して四恩の徳を報ずる表白」より


◆解説◆
(1)『金剛頂経』のさとりの教え
 当「四恩の徳を報ずる表白」の文章と、『理趣経開題』(生死之河)の全文をつなぐと、『教王経開題』の第一表白の文と、第二釈経の部分となるが、教王経開題の法マンダラの解釈箇所には「金剛頂経瑜伽(ゆが)(※)十八会」(堅固なる真理の境地、すなわちさとりを得る場を説く十八の経典)のことが以下のように記されている。
※瑜伽:サンスクリットのヨーガの音写。相応と漢訳する。坐禅・瞑想の宗教的実践を意味する。密教においては瑜伽とは心を統一し、意識を制御して、いのちのもつ無垢なる知のちからに目覚め、その知のちからと融合一体化した生の活動(行動性・コミュニケーション性・精神性の三つ)を得る境地をいう。

「第一の会、「一切如来(いっさいにょらい)真実摂(しんじつしょう)教王(きょうおう)」
(『教王経』)/アカニッタ天宮(色究竟天:物質世界の最高天)において説かれる。
 第二の会、「一切如来秘密王瑜伽」/物質世界の最高天において説かれる。
 第三の会、「一切教集(きょうしゅう)瑜伽」/真理の世界において説かれる。
 第四の会、「降三世(ごうざんぜ)金剛瑜伽」/スメール山(古代インドの世界観の中で中心にそびえる聖なる山)の頂上において説かれる。
 第五の会、「世間(せけん)出世間(しゅつせけん)金剛瑜伽」/古代インドの波羅奈(はらな)(現在のバラナシ。仏教の開祖ガウタマ・シッダールタが成道ののち最初の説法を行
なったという鹿野苑のある場所)において説かれる。
 第六の会、「大安楽(だいあんらく)不空(ふくう)三昧(さんまい)真実瑜伽」(『理趣経』)/他化自在天宮(欲望世界の最高天)において説かれる。
 第七の会、「普賢(ふげん)瑜伽」/普賢菩薩の宮殿(生きとし生けるものは共通の物質を養分とし、エネルギーと生体を得、そのことによってともに生きているから、すべての生きものは家族である。そのようなあまねきいのちの、あまねし慈悲のはたらきの場)において説かれる。
 第八の会、「勝初(しょうしょ)瑜伽」/同上。
 第九の会、「一切仏集(ぶっしゅう)拏吉尼戒網(だきにかいもう)瑜伽」/真言(いのちのもつ無垢なる知のちからをダイレクトに発揮する真実の言語)の場において説かれる。
 第十の会、「大三摩耶(だいさんまや)瑜伽」/真理の世界において説かれる。
 第十一の会、「大乗(だいじょう)現証(げんしょう)瑜伽」/物質世界の最高天において説かれる。
 第十二の会、「三昧耶(さんまや)最勝(さいしょう)瑜伽」/空(くう)のさとりの道場において説かれる。
 第十三の会、「大三昧耶(だいさんまや)真実瑜伽」/金剛界マンダラ道場において説かれる。
 第十四の会、「如来三昧耶(にょらいさんまや)真実瑜伽」/同上。
 第十五の会、「秘密集会(しゅうえ)瑜伽」/いのちの芽生えの場において説かれる。
 第十六の会、「無二平等(むにびょうどう)瑜伽」/真理の世界において説かれる。
 第十七の会、「如虚空(にょこくう)瑜伽」/いのちのありのままのすがた(法身)が住する究極の実在の場において説かれる。
 第十八の会、「金剛宝冠(ほうかん)瑜伽」/第四静慮天(じょうりょてん:欲望世界を離れた物質世界の禅定で、モノの生滅をありのままに観察し、明らかに知る境地)において説かれる。
 以上の十八種の『金剛頂経』のすべての経典において、それぞれに三十七尊(※)・四種マンダラ(※)が説かれる。
三十七尊の一つひとつの尊格には、それぞれの尊格がそなえている無垢なる知のちからやそのはたらきを示すサンスクリットの言葉と文字、それに真理の境地の教えが付けられている。これを法マンダラと名づける」と。

 ※三十七尊:いのちのもつ無垢なる知のちから(如来)とそのはたらき(菩薩)によって、世界の本質をあらわす諸仏のこと。
●知の根本のちから「五智(ごち)如来」
① 「大日如来」:生命知(法界体性智)
② 「アシュク如来」:生活知(大円鏡智)
③ 「宝生如来」:創造知(平等性智)
④ 「アミダ如来」:学習知(妙観察智)
⑤ 「不空成就如来」:身体知(成所作智)
●生存の基盤となるはたらき「四波羅蜜(しはらみつ)菩薩」
① 「金剛波羅蜜菩薩」:代謝性
② 「宝(ほう) 波羅蜜菩薩」:生産性
③ 「法波羅蜜菩薩」:真理性
④ 「羯磨(かつま)波羅蜜菩薩」:作用性
●生活知のはたらき「阿閦如来の四親近(ししんごん)菩薩」
① 「金剛薩埵(さった)菩薩」:(無垢なる知のはたらきを為す生きとし生けるものの)存在
② 「金剛王(おう)菩薩」:自由
③ 「金剛愛(あい)菩薩」:慈愛
④ 「金剛喜(き)菩薩」:善行
●創造知のはたらき「宝生如来の四親近菩薩」
① 「金剛宝(ほう)菩薩」:産品
② 「金剛光(こう)菩薩」:技術・文化
③ 「金剛幢(どう)菩薩」:生産・相互扶助
④ 「金剛笑(しょう)菩薩」:満足
●学習知のはたらき「アミダ如来の四親近菩薩」
① 「金剛法菩薩」:真理
② 「金剛利(り)菩薩」:(真理の)有益性と無益性
③ 「金剛因(いん)菩薩」:因果律(法則)
④ 「金剛語(ご)菩薩」:コミュニケーション(伝達)
●身体知のはたらき「不空成就如来の四親近菩薩」
① 「金剛業(ごう)菩薩」:仕事
② 「金剛護(ご)菩薩」:守り
③ 「金剛牙(げ)菩薩」:攻め
④ 「金剛拳(けん)菩薩」:技(わざ)
●心の癒し「内の四供養菩薩」
① 「金剛嬉(き)菩薩」:遊び
② 「金剛鬘(まん)菩薩」:お洒落
③ 「金剛歌(か)菩薩」:音楽
④ 「金剛舞(ぶ)菩薩」:舞踊
●物による癒し「外の四供養菩薩」
① 「金剛香(こう)菩薩」:香り
② 「金剛華(け)菩薩」:花の色
③ 「金剛灯(とう)菩薩」:明かり
④ 「金剛塗(ず)菩薩」:潤い
●認識作用「四摂(ししょう)菩薩」
① 「金剛鉤(こう)菩薩」:知覚の鉤(かぎ)によって対象をとらえ、
② 「金剛索(さく)菩薩」:その対象を神経の索(なわ)によって引き寄せ、
③ 「金剛鎖(さ)菩薩」:イメージの鎖(くさり)につなぎ、
④ 「金剛鈴(れい)菩薩」:感情の鈴(すず)を打ち振る。
以上、金剛界「大マンダラ」の三十七の諸仏。

※四種マンダラ:大マンダラ(イメージ)・三昧耶(さまや) マンダラ(シンボル)・法マンダラ(文字)・羯磨(かつま) マンダラ(作用)の四種の表現媒体によってあらわす、世界の本質のこと。
 1、「大」(サンスクリット:マハット)とは、どこにでも存在することを意味し、真理の教えを説く人(いのちのもつ無垢なる知のちから)も、聞く人(無垢なる知のちからのはたらきを為すもの)も、その身体をつくっているのは、万物を構成している粗大な要素(質料)と同じであり、それらの共通の質料がつくり出す差別的な個々のすがたが集合して世界全体のすがた(イメージ)が出来上がっていることを指す。
 つまり、その無数の個としてのイメージと、そのイメージが相互依存しながら集まって一つとなった世界のイメージとによって世界像を示すマンダラ。
 2、「三昧耶」(サンスクリット:サマヤ)とは、インドの哲学的概念によれば、マハットが個別的に内在している普遍を意味するのに対して、個別的で特殊な存在のかたちそのものを指す。
 そのことから、いわゆる諸尊が所持されている、金剛杵(こおごうしょ)や蓮華(れんげ)などの象徴(シンボル)物によって、世界の本質を示すマンダラ。
 3、「法」(サンスクリット:ダルマ)とは、事物(物質存在一般)を意味するが、しかしまた、このダルマは心の本体(意識や精神)をも指す。
 物質(色)は、意識(心)によって認識されるから、物質存在と意識の本性は同じで
あり、この両者を結ぶのが言語である。
 言語は文脈によって「法」すなわち「真理」をあらわす面と、文字(かたち)や声音(ひびき)という物質的存在そのものによって、直接的に「法」をあらわす面がある。
 その物質的存在と意識とをシンクロナイズさせた、広義の言語によって世界の本質を伝えるマンダラ。
  4、「羯磨」(サンスクリット:カルマ)は、作用・活動・動作などの動きの意味をもつ。
 すべての存在は、質料のはたらき(作用)によって常にそのすがたかたちをあらわしている活動体であることから、さまざまな動作によって存在の本質を示すマンダラ。

 このように『金剛頂経』の教えの骨子を考察すると、思考段階に応じた真理の境地の場、世界の本質をあらわす知とその基本的な展開、それらの知を表現する方法(媒体)について学ぶことになる。

 諸尊のキャラクターが示す生の本質を、一つの場に集合させてあらわす世界のイメージ像(大マンダラ)と、諸尊の持物が象徴する意味によってあらわす世界(サンマヤマンダラ)と、諸尊の知のちからとはそのはたらきを言葉と文字によってあらわす世界(法マンダラ)と、仏像のすがたが示す活動・行為によってあらわす世界(カツママンダラ)とによって、つまりイメージ・シンボル・文字・作用の四つの知の表現媒体(四種マンダラ)を通して、世界はあらわれる。
 そうして、その世界は、いのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらき(三十七尊)によってコントロールされることにより、本質をもつ。

 つまり、『金剛頂経』の教えをまとめると、
 いのちのもつ根本の知としての五智がまず存在し、その知が成すいのちの多様なすがたである法身によって世界がつくられている。
 そうして、その世界の一員である人間が、生の本質となる知を象徴する三十七尊の仏像をつくった。
 そのそれぞれの知は、四種のマンダラによって多角的に表現され、コミュニケーションされる。
 そのようなことを『金剛頂経』が説いている。

 このようしてみると、生きるための知の根本を説いたのが『金剛頂経』の教えであり、その知とともに人はどのように生きるのかを説くのが四恩である。

(2)さとりと幸福社会の実現
 金剛乗(密教)を天下に流布する空海の真摯な思いは、表白文の初めに記された通りだが、その金剛乗の教えとともに、家族社会のかなめである「父母」の恩と、国家社会を守る「為政者」の恩と、人間を含めた生きとし生けるものの社会、つまり衣食住の生産・相互扶助によって連鎖している「生態系」の恩と、その生態系の調和を司る本尊とも言える大日如来への帰依によって成り立つ「信仰」社会の恩との四恩に報いる社会の実現を空海は目指した。
 それは、以下のようなことを理由とする。
 31歳(804年)で唐の長安に留学した空海は、青竜寺の恵果和尚から短期間 (805年6月~8月) の内に、胎蔵・金剛界の学法灌頂(がくほうかんじょう)と阿闍梨(あじゃり)位の伝法灌頂(でんぼうかんじょう)を受け、密教の大法をことごとく授かる幸運に恵まれるが、その恵果和尚は密教のすべてを空海に授け終わった年の暮れに入滅した。
 その際に、次の事柄を空海に託した。
 「(空海よ、)早く郷国に帰って国家にたてまつり、(この密教を)天下に流布して蒼生(そうせい:人民)の福を増せ。しからば四海泰(やす)く、万人楽しまん云々」と。
 翌年(806年)1月、空海は門下を代表して恩師の碑文を撰し、その中で留学僧(るがくそう)としての心境を次のように記している。
 「弟子空海、桑梓(そうし:故郷)を顧みれば東海の東、行李(あんり:旅程)を想えば難中の難なり。波濤万々たり、雲山幾千ぞ。来(きた)ること我が力にあらず、帰らんこと我が志にあらず」と。
 この心の内をもって、恩師の願いを実現すべく、空海は20年間と決まっていた留学期間の定めを破り、その罪による死をも覚悟の上、足掛け3年の留学で帰国(806年10月帰朝、九州の大宰府に滞在)する。
 帰国にあたって、留学当初、密教受法に必要不可欠な語学(サンスクリット)を指南してくれた醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵(インド北部、カシミール出身)は、自らが翻訳した経典とサンスクリットの経文を空海に贈って、次のように伝言している。
 「わたくしは少年の頃、仏門に入り、インド各地を歴遊しました。そうして、仏法を伝える誓いをもって、中国まで来ました。今また、さらに船を浮かべて日本にまで行きたいのですが、すでに年老いてしまいました。空海よ、どうかあなたがわたくしに代わって、わたくしが訳した新訳『華厳経』四十巻と『大乗理趣六波羅蜜多(ハラミタ)経』十巻、それにこのサンスクリットの経文を持ち帰り、日本とわたくしとの縁を結び、仏法を伝え、人びとを救っていただきたいのです」と。
 中国に来ていたインドの学僧も、東海の東から来ていた空海の帰国に仏教の明日を託したのだ。
 そうして、帰国船の遣唐福使、高階遠成(たかしなのとおなり)に託して、空海が朝廷に献上した請来リスト(『請来目録』)に記されているように、空海が日本に持ち帰った膨大な量の未渡来の仏教関係資料(経論・仏像・マンダラ・法具等)と、中国の文献(詩・賦・碑・銘・占い・医学等)と、さらにインドの五つの学問である五明(ごみょう)、①工巧明(くぎょうみょう:工芸・技芸、土木・工学技術、天文学)②医方明(いほうみょう:医学・薬学)③声明(しょうみょう:言語・文法・音韻・音曲)④因明(いんみょう:論理学)⑤内明(ないみょう:仏教学、倫理、哲学)等の人びとを啓蒙し、暮らしに役立つ学問・技術・技芸と、それにインド伝来の密教の第八祖となった空海という人材とともに、それらが日本の国づくりにとって、必要不可欠なものであったが故に、帰国後数年の時を待って空海の罪は許されるのである。
 このことをもって、密教を天下に流布するスタートが切られた。

「願わくはこの大いなる福運をもって
国土が安泰で、万民が豊かで幸せになりますように
一たびこの密教の教えを聞き、一たび目にする者は
おしなべてことごとく煩悩から解脱するであろう。
大同元年十月二十二日 入唐学法沙門空海」

との詩文をもって、『請来目録』は結ばれている。
 恵果和尚と弟子空海の目指すところが、「人びとの幸福の増進」と「国土の平和と万物の生きる喜び」にある以上、家族・国家・生態系・信仰の各社会の恩と、それらのすべての根幹を成している生のもつ、欲望(生存欲求)・物質・精神、それに生の活動を司っている、行動性・コミュニケーション性・精神性としっかりと結びついたところに密教の教えがあることは言うまでもない。

(3)知とともにある信仰 
 今日の人びとは進化論や分子生物学や生態学(エコロジー)、あるいは物理学などの科学的知見によって、世界の真理を見究めようとしている。
 今から1200年前の時代を生きた空海は、山岳修行による自然観察、仏教学、あるいは中国の孔子や荘子、それにインドの学問・哲学などによって、世界の真理を会得した。

 ・根本となる知のちからとは何か
 ・生存の基盤となるはたらきとは何か
 ・身体活動
 ・世界の構成要素
 ・認識論
 ・生きとし生けるものの連鎖と寿命
 ・社会論
 ・人間論
 ・知や心の表現と媒体
 ・工学や芸術と医学と言語学と論理学と哲学や宗教

などをテーマとして、人間は古今、飽きることなく知を求め、世界の真理(法)を見究めようとしてきた。
 密教は、紀元前のインドに出現した仏教が1000年を経て到達させた知の教えであるが、空海がそれを大陸で学び、日本に持ち帰った。
 その密教第八祖である空海が説く知には、本論考にもあるように上記のテーマがすべて含まれている。
また、その説くところは今日の科学的知見と比較しても遜色ない。
 これらの知をもって人間はどのように生きるべきか、科学的知見に頼る現代人は未だにその答えを見つけていないが、空海はすでにその答えを見つけていたのだ。
 それが、知とともにある大日如来への信仰である。
そこに四恩がある。その背景には世界の真理を示す無尽蔵の知が広がる―

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