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空海若き日の哲学「三教指帰」

はじめに

 空海はその生涯(774-835)において、数多くの著作を残した。
 それらの著作によって、私たちは空海の思想を体系的に知ることができる。そうして、そこに書かれていることが神秘的なことなどではなく、大変論理的なものであると気づかされる。
 では、その著作とはどのようなものなのだろうか、それらは大きく三つのジャンルから構成されている。
 一つは、広義の人間学の展開である。人間の活動を身体・言語・意思とし、それらの究極の原理を説くことから、インド、中国のあらゆる宗教・哲学・思想を総合的に評価する比較思想論や、わが国初となる私立大学の教育論などを展開するもの。
 一つは、請来した仏教経典の概要を紹介し、その解釈をしたもの。
 一つは、当時の時代、社会、文化、生活、自然などを映した詩文集である。
 当「三教指帰(さんごうしいき)」(人間の生き方を指し示す三つの教え)はそれらの著作に先立つものであり、若き空海の文学的才能をそこに見ることができる。この創作によって、その後の空海の文学的側面が決定づけられたようにも思う。
 また、この一作は青年空海がそれまでに学んだ学問知識の集大成となっており、その膨大な知識に驚かされる。
 以下はその「三教指帰」の現代語訳であるが、一部、煩雑な個所は要所・要点のみの訳とした。したがって抄訳となるが、そのことによってテーマ毎の主張が明確になったようにも思う。また、その構成は戯曲風の仕立てになっており、現代語訳にあたりその手法をより明確したのであらかじめ断わっておきたい。
 尚また、空海がこの著作において事例として挙げる多くの人物名や詩、それに諺(ことわざ)類については、どのような人物や詩や諺であったのかを本文中に加えることによって、その論旨を理解しやすいようにした。

現代語訳「三教指帰」

創作意図(作者空海の弁)
 ものごとを文章にするには必ず理由がある。
 自然界にいろいろな現象が起きるように、人間は感動したときにそのいろいろな想いを書きあらわす。だから、中国上代の聖帝伏羲(ふくぎ)の書いた『易経(えききょう)』、中国春秋時代の思想家老子の書いた『道徳経』、中国最古の詩篇『詩経』、中国戦国時代の楚地方において謡われた詩を集めた『楚辞(そじ)』なども、人の感動を書きあらわしたものである。もちろん、聖人とわれわれ凡人、昔と今とでは、人も時代も異なるが、私も私なりの今の志(こころざし)を書きあらわしたい。
 私は十五歳のとき、母の兄弟である阿刀大足(あとのおおたり、禄は二千石で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった)について学問(論語・孝経・史伝などの文章)を学び、十八歳のときには日本でただ一つの大学に入学し、各種科目(中国春秋時代の政治・外交・自然災害史や、中国最古の詩歌、中国歴代帝王の言行録など)を自分に厳しく鞭打って学びました。(その結果、それらの学問のすべてを早々にマスターしてしまった私は、二十歳を過ぎる頃には生きることとは何かを求め、寺院を巡り、経典を読み、各地の山岳を修行の場としていました)
 そのときに出会った一人の修行僧が私に「虚空蔵(こくうぞう)求聞持(ぐもんじ)の法」というのがあることを教えてくれました。その法を説く経典には「もし人がこの法によって虚空蔵菩薩の真言一百万回を百日間にわたって唱えたならば、たちまちにあらゆる文章を暗記し、その意味を理解することができるようになる」ということが書かれていました。
 そこで、ブッダのその言葉を信じて、木を擦って火を起こすように少しも怠ることなく、阿波の国の大滝岳(たいりょうのたけ)によじ登り、土佐の国の室戸崎(むろとのさき)で一心不乱にこの修行に励みました。すると、(山中で真言を唱えていると、そのこだまが)谷に鳴り響き、(岬の洞穴に座って、広がる空と海に対峙し、真言を唱えていると)虚空蔵菩薩の化身とされる夜明けの明星が私の体内に飛び込んできたのです。それが、真言一百万回目の成就の証しであったのです。
 こうして私の気持ちは世俗的な名声や富から離れ、山林の中での朝夕の生活に心が引かれてゆくようになりました。
 軽やかな衣服、肥えた馬、大路を行き交う牛車を見ては、それらが儚いものであると思い、体の不自由な人や、ぼろ布をまとっている人を見ると、どうしてそのようになったのかと心が痛んだのです。
 このような訳で、世間での日々の暮らしの中で目にするものすべてが私の出家の志を後押し、吹く風をつなぎ止めることができないように、私のこの志はもう誰にも引き止めることはできなくなってしまったのです。
 しかし、親戚の阿刀大足や多くの知人が、儒教の説く人間関係の教え仁・義・礼・智・信の絆で私を縛ろうとし、また忠孝の道に背くとして私の出家に反対したのです。
 その意見に対して私は次のように思いました。
 「鳥は空を飛び、魚は水の中を泳ぐように、生き物にはそれぞれの性情がある。そのように人間の性質もみな同じではないから、人びとの生き方を導く教えにも仏教と道教と儒教があり、その教えに深さの違いはあっても、どれもみな聖人と呼ばれる人の教えである。その中の一つの教えに入るのに、人の道にはずれていると言えるだろうか。だから、忠孝に背くことはない」と。
 ところで私には母方の甥がいるが、性格がねじれていて、人の言うことを聞かず、昼夜を厭わず、殺生・酒・女・賭博に溺れているのです。その放蕩な習性は悪列な環境で育ったせいでしょう。
 上記、二つの気になる事柄を題材として、人間の生き方に関する思想を考察してみたいと思い立ち、そのために戯曲風の物語を創作してみたのです。次のような内容です。

「三教指帰」物語<三幕>

<登場人物>
空海本人
儒家の亀毛先生(きもうせんせい)
屋敷主人の兎角公(とかくこう)
主人の甥で放蕩者の蛭牙公子(しつがこうし)
道家の虚亡隠士(きょぶいんじ)
青年修行僧の仮名乞児(かめいこつじ)(若き日の空海)

<構成>
プロローグ 創作意図(作者空海の弁)
第一幕 儒家の亀毛先生
第二幕 道家の虚亡隠士
第三幕 青年修行僧の仮名乞児
 場面1、乞児のプロフィール
 場面2、乞児の独白
 場面3、乞児、兎角公邸の門に立つ
 場面4、釈尊の話
 場面5、乞児「無常の詩」を唱える
 場面6、生の報い
 場面7、「生死(しょうじ)の海の詩」
 場面8、さとりの境地
エピローグ 「三教の詩」唱和

<あらすじ>  主人役の兎角公の邸宅に儒学者の亀毛先生が訪れ、忠孝と立身出世の道を説く。次に虚亡隠士という道士が登場し、超俗と長生、心身の鍛錬による自然道を説き、その後に仮名乞児という青年修行僧(若き日の空海)を登場させて、儒教の世俗的名利と道教の神仙の脱俗を指摘し、因果論と慈悲による仏教の教理を説く。それらの教え、孔子と老子と釈尊の教えの代理人ともなる架空の人物の弁舌によって、兎角公の甥で放蕩者の蛭牙公子の生き方を誡める物語。

 この物語はあくまでも私のこころの悶えを取り除くためのものであり、他人に見せることを望まない。
 時に延暦16年(797年)12月1日である。(空海24歳)

第一幕 儒家の亀毛先生

 <亀毛先生の人格と容姿>
 生まれつき弁舌が立ち、しっかりした顔立ちで堂々としている。儒教(社会倫理にもとづく人間関係の規範を説く教え)の九つの経典『易経』『書経』『詩経』『礼記(らいき)』『左伝』『孝経』『論語』『孟子』『周礼(しゅらい)』や中国古代王朝の歴史書『史記』『漢書(かんじょ)』『後漢書』、八卦(はっけ)の説をすべて暗記しているような人物。
 ひとたび口を開き弁舌を始めると、枯れ木に花が咲き、野ざらしの骸骨も生き返るほど。
雄弁家とされた者たち、中国の蘇秦(そしん)や晏平仲(あんへいちゅう)も舌を巻き、帳儀(ちょうぎ)や郭象(かくしょう)も先生の名前を聞いただけで沈黙するほどである。

 場面は、亀毛先生がたまたま休みの日に兎角公の邸宅を訪ねるところから始まる。主人の兎角公は宴席を設け、ご馳走や酒をふるまい、両者は親しく歓談する。
 ところで兎角公には甥がいるが、その甥は放蕩を重ね、誰にも手がつけられなかった。そこでいい機会なので兎角公が亀毛先生に相談する。
 「淮河(わいが)の南側に生えている橘(たちばな)は、北側に移植されると自然に枳(からたち)になり、まっすぐに伸びないヨモギ草でも、麻の畑にまぜて植えると周りの麻に支えられてまっすぐになるといいます。環境によってそのものの習性は変わることができるでしょうか」と。
 先生がいう、「智者はもって生まれた才能によって智者であるが、愚者はもって生まれた才能がないから、教えてみても智者にはならない」。
 兎角公がいう、「それでも人間には情があるから、物事の正否を判断さすぐらいのことはできるでしょう。先生、どうか甥の愚かな心を道理によって指し示し、正しい道に帰らせてください。先生ならできます」。
 亀毛先生はどうしたものかと思い煩い、ため息をつき、天を仰いで困ったと嘆き、大地に伏して考え込む。
 しばらくして、兎角公のたっての頼みであるから断りきれずに、亀毛先生が苦笑しながら話し始める。
「それでは儒教的人間の生き方の一端を述べましょう。人間のうちで智者は稀であり、愚者は数多い。だから、善を行なう者は稀であり、悪を行なう者は数多い。これが世の道理である。だが、人間の心は環境によって左右されることも事実である。玉が磨かれることによって輝き始めるように、人間は学問によって物事を理解し、教えによって道理に通じ、人格が形成されるという。
 だから蛭牙公子さん、心を入れかえて以下のような生き方を考えてみませんか。
 まず、骨身を削って親孝行を努めてみななさい。そうすればその行為にたいする天の褒美が必ず下されるでしょう。
 また次に心を忠義に向け、目上の人に忠節を尽くし、主人がまちがったことをしようとしているときに諌めることができれば、あなたは立派な人間としての評価を得ることになるでしょう。
 次に儒教の経典を日夜学べば、論語の最古の注釈書『論語集解(ろんごしっかい)』に出てくる注釈者八家の一人である包咸(ほうかん)や孔子の高弟で四科(徳行・言語・政事・文学)十哲の一人である文学の子夏(しか)にも劣らない学者となれるでしょう。
 また、膨大な歴史書に通達できれば、春秋戦国時代を代表する詩人であり、楚の政治家でもあった屈原(くつげん)や中国前漢時代末期を文人ないし学者として生き抜いた揚雄(ようゆう)や同時代に揚雄の郷土(蜀の地)の先輩であった、文章家の司馬相如(しばしょうじょ)のようなすぐれた文人にもなれるでしょう。
 さらに書道に打ち込めば、鳳凰が空に悠々と羽ばたき、虎が大地に臥すような雄大な文字が書け、書聖といわれる人びと、鍾繇(しょうよう)・張芝(ちょうし)・王羲之(おうぎし)・欧陽詢(おうようじゅん)とその息子の欧陽通(おうようつう)などの書風を越える存在となるでしょう。
 次に弓術(きゅうじゅつ)に熟練するならば、太陽を射落としたとする伝説上の弓の名手の?(げい)や春秋時代の楚の武将で、その弓勢の強さは甲冑7枚を貫き、その精度は蜻蛉の羽をも射ぬき、楚王の飼っていたいたずら猿を、矢をつがえただけで泣かしたという養由基(ようゆうき)、魏王の家来で王の前で、矢をつがえずに弓を引き絞り、弦を振動させただけで飛ぶ雁を落としたという更?(こうえい)や心を風に合わせ、力を風と均しくして手を動かし、細い糸の弱い弓で天高く飛ぶ鶴を二羽同時に捕えたることができたという蒲且子(ほしょし)等を、打ち負かすことになるでしょう。
 また戦陣に臨み、戦略に長ければ、劉邦に仕えて多くの作戦に参加し、その卓越した知略によって劉邦の覇業を助けた長良(ちょうりょう)や『孫子』の兵法書の著者と目される孫武、それに『三略』(古代中国の兵法書。武経七書のひとつ。張良が始皇帝の暗殺に失敗して潜伏していたときに、謎の老人・黄石公から授かった太公望呂尚の兵法書がこの三略であるといわれる。「戦わずして勝つ」というのが中国兵法の真髄であるが、この三略も同じで、人心を得ること、将兵の心を掌握することが第一であるとしている)の兵法書ですら必要としなくなるでしょう。
 また農業生産事業を興せば、陶朱(とうしゅ)や猗頓(いとん)の築いた富をもものの数としないでしょう。陶朱のもとの名は笵蠡(はんれい)、中国春秋時代に越王勾践(こうせん)に仕え、勾践を春秋五覇に数えられるまでに押し上げる立役者になったが早々に引退し、越を去って斉に移り、物資の過不足に乗じた売買を行ない、巨万の富を得、後に物資の交通の中心地であった陶に移り、ここで名を朱と変え、取引先をえらんで時機を見て物資を流通させ、数千万の富を成し、陶朱公と呼ばれた。またその富はたびたび貧しい人びとに分け与えられたという。猗頓は春秋の魯の人。もとは非常に貧しかったが、富豪の陶朱のところに行き、金儲けをするには家畜を飼うようにと教えを受け、猗氏(いし)の地で沢山の牛や羊を飼い、また製塩業でも大儲けをし、王公と肩を並べるほどの財産を築き、天下に名を高めた。そこで猗頓(頓はたくわえの意)と呼ばれた。ここから富者を指して「陶猗」といい、その富を喩えて「陶朱猗頓の富」という。その両者の富さえもかなわない財を築くでしょう。
 また政治家になれば、壮年期は仕官せずに農耕をし、母に孝養を尽くし、五十歳になって始めて州郡に仕えた楊震(ようしん)のように清廉であり、その潔癖さは他者が彼に賄賂を渡そうとしても二人だけの秘密は「すでに天が知り、地が知り、自分が知り、相手が知っている」として絶対に受け取らなかったという。それ以上に硬骨で高潔な人物となるでしょう。
 また裁判官になれば、魯の国の柳下恵(りゅうかけい)のように、その裁判において、賢を惜しみなく与え、必ず正義を行ない、上司からの不正の指示には絶対に従わず、そのために官位を下げられるという屈辱をうけてもても意に介さず、退官せずにその職に留まり、一点の曇りのない心で職務を果たすような人物となるでしょう。
 そのように潔白で慎み深い生き方ということであれば、孟子の母は息子の成長に環境が影響を与えることを気にして、よりよい学習環境を求め引っ越しを繰り返し、有言実行や初志貫徹の精神を自らの態度をもって息子に示したというし、宗教的生活や養生と人間性を守る生活を求めた台孝威(たいこうい)は、山に入って薬草や薪を採って隠棲の生活をしたという。
 またそれ以上の高潔さを実行するというのであれば、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)の兄弟は、周の武王が悪逆非道の殷の紂王(ちゅうおう)討伐の兵を起こそうとしたとき、武王に「あなたは父上が亡くなられて埋葬も未だなのに、戦争をしようとしている。これが孝といえるだろうか。臣下の身で君主(宗家である殷の紂王)を滅ぼそうとしている。これが仁といえるだろうか」と諌言した。しかし、それは聞き入れられなかった。その後、武王が殷を滅ぼしたので天下は周のものとなったが、兄弟は武王による反逆の天下奪取を恥、周の俸禄(ほうろく)の穀物を食べなかったというし、中国古代の伝説上の人物の許由(きょゆう)は、聖帝尭(ぎょう)が自分に天下を譲るという話を聞き、そんな俗事にまみれることを恥じて、箕山(きざん)に隠れたと伝えられている。   
 またもし医術に惹かれるならば、中国医学の祖師といわれる扁鵲(へんじゃく)先生のように脈診に優れ、華陀(かだ)先生のように全身麻酔で腹部の切開手術を施す腕を発揮できるでしょう。
 またもし工学技術に惹かれるならば、施工技術においては大工の匠石(しょうせき)の斧の絶妙な腕前と左官の名人の微細な漆喰塗りによる二人が居てこそできる、絶妙なパフォーマンスの上をゆくことができるだろうし、設計技術においては中国の「建築土木の祖」と呼ばれた公輸般(こうしゅはん)のように、戦時の架橋から武器・工具、それに空を飛びつづける竹木で作った鳶(とび)以上のものを考案することができるでしょう。
 このように人間はその生き方を選択することによって、大きなことを成すことができるのです。
 そうなれば、あなたの器量は「広大な湖のようで、その水を澄まそうとしても澄まず、かき回しても濁ることがなく、いくら見てもその深さと広さはどれだけのものか計り知れない」と評された黄叔度(こうしゅくど)と同じであり、あなたの度量は「堂々と枝を張る数千尺の松のように、仰ぎ見てもその高さを測ることができない」と評された?子崇(ゆしすう)に比べられる者となるでしょう。
 (以上が、職能による儒教的生き方の事例であり、以下は日常の生活・学問・教養の儒教的態度の指針となる事柄である)
 まず、住むのによい地域を選び、次によい土地を選んで家を建てなさい。次に道理を床とし、徳をひっさげて布団とし、仁を敷物として座り、義を枕として横になり、礼を寝間着にして寝、信を衣服として世間と交わり、一日一日をつつしみ、いっときも無駄にせず、倦まずに励み、物事の善し悪しを判断することに力を尽くしなさい。
 そうして、忙しくても書物を読み、文章を書き、学問することを忘れてはなりません。そうすれば、任侠道を進んでいた朱雲(しゅうん)が四十歳になって考えを改め、易経と論語を学び、元帝の催した易経の討議にただ一人臨み、当時権勢を振るっていた宮廷学者の五鹿充宗(ごろくじゅうそう)と堂々と論戦を交わし、相手を打ち負かしてしまったように、巧みで力強い弁舌を身に付けることができるでしょう。また光武帝の侍中(じちゅう)であった戴憑(たいひょう)は、元旦の宮中の朝賀に百官が一堂に会したとき、帝が多くの臣下のうち経書を解説できる者に代わるがわる討論をさせ、意味に通じていない者の座布団を意味の通じている者に加えていったところ、戴憑のところに五十余枚の座布団が重ねられたという。このように多くの者と討論しても負けることはないでしょう。

森森(びょうびょう)としてひろがる弁舌はうねる海原ように湧き上がり
彬彬(ひんひん)として美しい文章は青々とした大樹のように繁茂する。
玲玲(れいれい)と打ち振られる語句は
孫綽(そんしゃく、中国六朝時代の東晋の文学者。宮廷の書記官。文才をもって当時名高く、特にその『天台山賦』は、魏、晋時代の代表的辞賦として名高い)や
司馬相如(しばしょうじょ、はじめ景帝に仕えたが、のちに文学の愛好家で知られた梁の孝王のもとに走り、そこで当時の有名文人らと知りあった。最初の傑作「子虚の賦」はこの時期の作。梁王の死後、失職していたが、やがて「子虚の賦」が武帝の目にとまり、都に召し出され、宮廷文人に列に加わった)の名文をしのいでひびき
曄曄(ようよう)としてひびく黄金のようなその美しい言葉は
揚雄(ようゆう。中国前漢時代末期の文人、学者。30歳を過ぎたとき上京し、官途にありついたが京洛の地で自らの浅学をさとり、成帝の勅許を得て3年間勉学ために休職すると、その成果を踏まえ「甘泉賦」「長揚賦」「羽猟賦」などを次々とものにし、辞賦作家としての名声を獲得した)や班固(はんこ。中国後漢の歴史家。前漢王朝の正史『漢書(かんじょ)』100巻を著わす)の表現を越えて
美しい花を咲かすでしょう。

 そうなれば、中国前漢時代の学者、淮南王(わいなんおう)が周王から屈原の作った賦『離騒』の解説書「離騒伝」を書くように所望され、半日でこれを書き上げたように、あるいは中国後漢末期の人で禰衡(でいこう)という名の人が、友人で武将の黄射(こうえき)が開いた酒宴の席で、座中に鸚鵡(おうむ)を献上した者があり、黄射から「先生、これを詩にして賓客の方々を楽しませてくれませんか」と所望され、禰衡は筆を手にとって即座に「鸚鵡の詩」を作ったが、文章に過不足なく、言葉もはなはだ流麗であり、あとから一点の添削もしなかったという。
 以上の人たちのように完璧な文章が作れるということは、詩賦の苑を俯瞰し飛びまわる鳥が美しい言葉の野原に降りて自由に休み憩うようなものなのです。
 そうなればあなたがはたらきかけなくても社会があなたのことを必要とし、栄誉ある地位を得ることになるでしょう。
 そうして善き配偶者を選び、結婚式を挙げ、新郎新婦は結ばれ夫婦になり、夫婦はときどき親戚や知人を集め、酒宴を張り、山海の珍味をならべ、客は楽器を奏で、歌い、踊り、帰ることを忘れて幾日も楽しむことになるでしょう。
 蛭牙公子よ、善き人生とは以上のようなことなのです。
 「君子は道を謀って食を謀らず。耕すときは餧(飢え)その中(うち)にあり、学ぶときは禄(ろく)その中にあり。君子は道を憂えて貧を憂えず」(君子は道を求めて学問をしているのであって、食うためにではない。食うために田を耕す人でも飢饉があれば飢えるが、食うために学問をしていない人はその学問によって禄がついて食っていけるのだ。そのようなことだから、君子というものは道を修めるために憂えることはあっても、貧しさを憂えることはない)と孔子は説いている。蛭牙公子よ、この言葉をよく胆に銘じておきなさい」。
 蛭牙公子は亀毛先生の話を聞き終わり、ひざまずいていった、「はい、仰せにしたがいます」。
 それを見た兎角公は席から下りて、「ありがとうございます。甥が改心するのを目の当たりにしました。故事に、鳩が変化して鷹となり、雀が変じて蛤(小鳥の姿に似た貝が実際にあり、その貝のことを指す)になるとありますが、その通りのことが起きました。物や人間が変身する昔の話がありますが、放蕩者の蛭牙の心が聖人の道に向かうのはそれにも勝ることです。いわゆる「水を乞うて酒を得、兎を打って小鹿に似た動物を獲る」(希望したもの以上のよいもの得ること)とはこのようなことでしょうか。
 『論語』李氏に「詩を学ばざれば、以て言うこと無し。礼を学ばざれば、以て立つこと無し」(詩を学ばないと、一人前にものが言えませんよ。礼を学ばないと、ひとり立ちしてやっていけませんよ)ということを孔子の子の伯魚(はくぎょ)が父から聞き、その聞いたことを伯魚から陳亢(ちんこう)が聞き、陳亢は家に帰って「一つのことを聞いて三つのことを知ることができた。一つは詩を学ばなければならないことを聞き、二つは礼を学ばなければならないことを聞き、三つは君子が息子を日常のなかで普通に教育していることを聞いた」といって喜んだという。その喜び以上のものを私も今、先生のお教えに感じています。蛭牙への誡めを私も生涯の座右の銘にしたいと思います」。

第二幕 道家の虚亡隠士

<虚亡隠士の人格と容姿>
 ヨモギ草のように乱れた髪。
 仙人のようなぼろぼろの着衣。
 広間の片隅にいて、賢いのに愚者のふりをし、徳をぼかして狂気をよそおっている。

 邸宅広間の片隅にいる虚亡隠士にライトがあたる。
 両脚を投げ出して偉そうに座り、にっこり笑って唇を開き、おもむろに話し出す。
 目を見張って虚亡隠士がいう、「亀毛先生よ、あなたはあなた自身のことが分かっていない。自分自身の重い病気を治さずに、どうして他人のわずかな欠陥を指摘し、それを治そうとするのか。あなたの治療なら、しないほうがましというものだ」。
 それを聞いた亀毛先生はびっくりし、虚亡隠士の方に向きを変え、その前に進み出ていう、「先生、もしも別のより良い生き方があるのでしたら、どうぞお教え下さい」と。
 隠士がいう、「輝く太陽があっても、盲目の人にはそれが見えない。とどろく雷鳴も、耳の聞こえない人にはその音が伝わらない。そのように道教の教えを凡人に伝えることは容易ではないのだ。その理由は、短いつるべで井戸水を汲もうとする者は、水が汲めないのは井戸水が涸れているからだと思うし、自分の指で海を測ろうとする者は、海の底がすぐそこにあると思ってしまうからだ」。
 亀毛先生たち三人は相談し、口をそろえていう、「私たちが道教の先生であるあなたに、この場でめぐり会ったことは一生に一度のチャンスだと思います。どうぞ教えを授けて下さい」。
 隠士はいう、「祭壇を築いて誓約すれば、いくつかを教えよう」。
 亀毛たちは、早速、誓いを立てた。
 隠士がいう、「天地は万物をつくり出すのにあれこれ区別しない。それは溶鉱炉から取り出した鉄で鋳物をつくるようなもので、その創造にあたって愛憎は絡まない。たとえば、赤松子(せきしょうし、中国神話の炎帝神農の時代に雨の神だったとされている最古の神仙の一人。火の中に入ることができたとされていることから、火解して仙人になったとも、特別な呼吸法で仙人なったともされる)や王子喬(おうしきょう、鶴に乗って昇天したといわれる神仙で、周の霊王の子の一人である太子晋のこと。伝説では、若くから才能豊かで、楽器の笙を吹いては鳳凰の鳴き声を出せたという。山に入ったまま帰らなくなったが、数十年後に白鶴に乗って山上に舞い降り、飛び去ったという)の仙人はわざと長寿になったわけではないし、童(わらべ)の項託(こうたく、孔子が車に乗って東方に旅をしていると、童が三人遊んでいて、その中の一人が道をふさいで土を運んでは城を作り、その中に座っていた。孔子が云う、「私の車を通過させてくれないか」と。童笑いて云う、「聞けません。かねてより耳にするのは、聖人の上は天文、下は地理、中は人情を知るとの言葉。昔より今に至るまで、車が城を避けると聞くが、城が車を避けるとは聞いたことがない」と。返す言葉のなかった孔子は、しからばと、車に城を避けさせ、そこをよけた。後から人をやって「これはどこの童か、姓は何、名は何という」と尋ねると、童は「姓は項、名は託」と答えたという。その賢い童。そのときから、孔子の師となったが長くは生きなかった)や顔回(がんかい、紀元前514年-紀元前483年、魯の人。孔門十哲の一人で、随一の秀才。孔子にその将来を嘱望されたが夭折した。決して名誉栄達を求めず、ひたすらに孔子の教えを理解し実践することを求めた。その暮らしぶりは極めて質素であったことから、孔子は「回は賢明なる人である。竹を編んだ弁当箱一杯の飯と、瓢箪の水筒に入った水を持ち、うらびれた路地の奥に住んでいる。普通の人なら憂鬱で耐えられないだろうが、回はその質素な生活の中で、学問とその徳行の日々を十分に楽しんでいる。こんなに賢明なる人はそうそういるものではない」と言ったとある。こうしたところから、老荘思想発生の一源流とみなす向きもいる)はわざと短命だったわけでもない。それは自然の本性にしたがって、自らの命を保った者と、保てなかった者との相違に過ぎないのだ。
 自然が誰か一方を愛し、他方を憎むことはない。しかし、人間は欲望や愛憎を持ち、目はくらみ、耳も鈍る。(だから、輝く太陽も、とどろく雷鳴も感知できない)。
 そのようなことで道家の生き方は、まず俗生活の欲(五穀・五菜・酒・肉・美女・歌・踊り・過激な笑いと喜び・過度の怒りと悲しみなど)を慎み、絶つことから始める。
 そうして仙薬を服用し、身の病を除き、外部からの難を防ぐ。腹式呼吸をし、その呼吸を季節の暑さ寒さに合わせて調節し、鼻孔をたたいて、唾をのみ、身をうるおす。また飢えをいやす仙薬や疲れをいやす仙薬をのみ、日中はすがたを隠し、夜半に活動する。また霊薬を調合し、それを服用し、日中に天に昇ることや、各種肉体の鍛錬・改造の方法も数えきれないぐらいたくさんある。

もしそのような道術が叶えられるならば
老いを若返らせ、寿命を延ばし
天高く飛び、上は天に近く、下であっても日を見る所にさまよう。
心を馬のように馳せて、世界の八方の隅々にまで飛び
心の車輪に油をさして、四方と四隅と中央の九空に遊ぶ。
太陽系を訪ねてその惑星を遊楽し、天帝の宮殿にくつろぎ
星空に織女を見、不死の薬を盗んで月に逃げた?娥(こうが)を探す。
多くの星座を訪ね、心にまかせて寝そべり、思いにしたがって上下する。
淡泊として欲なく、寂寞として声なし。
天地とともに長く存在し、日月とともに久しく楽しむ。
何とそれはすばらしいことか。
何と住む世界は広大であることよ。
天空の東には太陽の象徴である東王父(とうおうふ)
中央には水の象徴である天の川
その西には宇宙を織り出す西王母(さいおうぼ)。
とてつもなく大きな宇宙鳥の希有(きゆう)がその翼の広げると
左の翼は東王父を覆い、右の翼は西王母を覆う。
西王母は7月7日の七夕に、この希有鳥に乗って東王父に逢いに行く。

 このような天体の運行と一体となった壮大なビジョンの中で、人間は宇宙の道理を感知し、日々、自然とともに生きて行くというのが道家の教えなのだ」。
 隠士は言葉をつづける、「世俗の生活では、人びとは物欲にしばられて悩み、愛欲から離れられずに心を焦がす。そうして、たえず朝夕の食事のことと夏冬の衣服に苦労し、浮雲のようにはかない富を願い、水泡のようにすぐに消えてしまう財をかき集め、過分の幸福を求め、雷光のようにはかないわが身を養う。わずかな楽しみに朝方に有頂天になったかと思えば、夕方にはささいな心配事でも塗炭の苦しみをあじわっていると思い込む。これはもう、楽しい音楽を未だ聴き終わっていないのに、もう悲しみの音楽を聴いているようなものであり、今日は大臣なのに、明日は臣下に落ち、始めはねずみを狙う猫が、終わりには鷹に狙われた雀のようになるようなものである。
 それらは自然の中で、明け方の草露がやがて太陽の光で蒸発してしまうのを忘れ、樹木の枝に茂る葉がやがて霜に枯れて風に散ることを忘れ、いつまでもそのままでいられると思っていることと同じである。そんなことはありえないのに。
 ああ、痛ましいことよ。その愚かさは昼夜を問わず、わが身のことだけを考え、うるさい鳴き声を発しつづけているヨシキリ鳥と同じではないか。
 儒教の説く立身出世の方法と、道教の説く世俗を離れ、自然と一体となって生を楽しむ方法と、さて、人間の生き方としてはどちらが勝っているのだろうか」。
 隠士の話を聞き終えた亀毛先生と蛭牙公子と兎角公がひざまずく。
 三人がいう、「私たちはこの場で善き言葉をあなたから聞くことができました。巷の世俗にしみついた悪臭と、仙人の住む島にただよう良い香りの違いに今、気づきました。これからはわが精神を鍛練し、自然の道理とともに生きてみたいと思います」。

第三幕 青年修行僧の仮名乞児(若き日の空海)

場面1、乞児のプロフィール
 <素性>
 名のるほどの生まれではなく、草ぶきの貧家に生まれ、そこで育った。成長してからは俗世間を離れ、仏道を求め修行に励んでいる。
 <容姿>
 坊主頭は銅(あかがね)の甕(かめ)のよう。
 顔色は色あせた土鍋のよう。
 顔はやせていて風采は上がらず、鼻筋は曲がり、眼球は落ち込み、あごは尖り、目は角ばり、ゆがんだ口の周りには髭がなく小安貝に似ていて、おまけに唇は欠け、歯も抜けていて兎の口のよう。
 やせ細った胴体に骨ばった長い脚が突き出ていて、まるで池辺に立つ鷺(さぎ)のよう。
 ちぢまった首は筋張っていて、まるで泥池の亀のよう。
 <衣装・持ち道具>
 いつも左ひじにかけられている牛の餌袋のような袋の中には、五つに割れた破片を接ぎあわせた木鉢(もくはつ)が入っている。
 右の手には馬の尻がいように百八珠の数珠がかけられている。
 履物は牛革の履(くつ)ではなく、道祖神にかけてあるようなぼろ草履。
 帯は犀の角を加工した鉤がつくようなものではなく、荷馬をひく縄。
 街の乞食ですら見るのを恥ずかしがるような草で編んだ汚い座具をいつも持ち歩き、背中には縄張りの椅子まで背負っていたから、これ以上かっこうの悪さはないという有様。
 それに、口が欠け汚れのこびりついた素焼きの水瓶(すいびょう)を腰にさげ、その鳴る音によって僧が山野遊行の際、禽獣や毒蛇の害から身を守る効果があるというが、鐶(わ)のとれてしまった錫杖(しゃくじょう)を持ち、まるでそれは薪売りの杖にしか見えない。
 
 以上のような風体をした仮名乞児であるから、彼が街の市場をうろつきでもしようものなら、瓦の欠片や小石が雨のように降りそそぎ、船の渡し場を通れば馬糞が飛んできた。
 しかし、いつも持ち歩いている仏教論書が仮名乞児にとっての巷(ちまた)の親しい友であり、わが身に射す知恵の光こそが唯一の信心深い施主であったから、巷の人びとからのひどい仕打ちを気にする風はなかった。

 (山岳修行)あるときは大和金峰山の登山で雪に降られて立ち往生し、あるときは伊予の石槌山の登山で食糧がなくなり困窮した。
 (遊行)あるときは住吉の若い海女さんを見て、恋心をいだき、あるときは滸倍(こべ)の尼寺の年老いた尼さんを見て、人生のはかなさを知った。
 (秋から冬にかけて)霜を払って野菜を食べるときには、孔子の孫の子思(しし)がぼろぼろのどてらを着て、日々の食事にも事欠いたという貧乏生活のことを思い、雪を払って肘枕をして寝るときは、孔子が弟子の顔回(がんかい)の質素な生活を「疏食(そし)を食らい、水を飲み、肘を曲げて枕とするも、楽しみまたその内にあり」と称えたことを思い、自分も今、同じことをしているのだと気持ちを強くした。
 (山中での衣食住)青空が天幕となるから屋根はいらず、白雲が山にかかるから帷(とばり)も要らない。
 夏にはゆったりと胸元を開いて爽やかな涼風に向かい、冬には首を袖でおおってちぢこまり、木を擦って火を起こし、焚火で暖をとる。
 月に十日ばかりの食事は、どんぐり飯に苦菜(にがな)のおかず。着衣は紙衣(かみこ、厚紙に柿渋を引き、乾かしたものを揉みやわらげ、露にさらして渋の臭みを去ってつくった衣服)や葛(かつら)で織った粗末なもの、しかも寸足らず。
 『荘子』逍遥遊(しょうようゆう)篇に「鷦鷯(しょうりょう)深林に巣くうも一枝(いっし)に過ぎず」(ミソサザイは大きな林に巣をつくっても、一枝しか必要としない。*小欲知足の喩え)と書かれているように、人は自分の分に応じて現状に満足するのがよいという信念をもっていた乞児には、『晋書』に登場する贅沢でおごった性格の何曾(かそ)のように、うまい味わいや滋養の多い食べものでなければ食べないということはまったくなく、孔子の又弟子で魏の文侯の師であった田子方(でんしほう)が、貧乏な暮らしをしていた子思に暖かい皮衣(かわごろも)を与えようとして、思子が「私は次のように聞いております。理由もないのにむやみに人に物を与えるよりはそれを溝(どぶ)に捨てるほうがまだましであると。私は貧乏ではありますが、あなたが理由もなしに皮衣くださるならば、私は溝になってしまいます。それが私には堪えられないのです」と断ったように、貧乏な子思にはその境遇において、分を超えたものなどは必要なかったのだ。
 『列子』天瑞篇によると、その昔、泰山のほとりに栄啓期(えいけいき)という老人が住んでいて、その老人は鹿の皮を着て、縄の帯をしめ、琴をひいて広野の中でいつも楽しく歌っていた。その上機嫌の老人の姿を見て、旅人の孔子が「先生は何がそんなに楽しいのかね」と問いかけた。
 老人は「わしの楽しみはまず、万物の中でもっと貴い人間に生まれてきたこと。次にその人間の中でも貴いとされている男子に生まれてきたこと。次に長生きができていること。この三楽である。それができているだけで貧乏であることは気にならないし、人生に必ず訪れる死も気にならない。何をくよくよと思い悩むことがあるだろうか」と孔子に答えたという。
 また、漢の高祖の時代に、乱れた世間を嫌って商山に隠れ住んだ四人の隠士、東園公(とうえんこう)・綺里季(きりき)・夏黄公(かきこう)・?里(ろくり)がいて「四皓(しこう)の老」(四人の白髪の老人)と呼ばれたが、彼等の質素で無欲な生活でさえも乞児の質素さには敵わないほどだ。
 その風体は物笑いの対象となるような乞児であったが、道を求める心においては、しっかりと定まっていて動くことはなかったのだ。

場面2、乞児の独白
 ある人が私(乞児)にいった。
 「儒教によれば、すぐれた行為とは孝行と忠義である。ということは、父母から授かった身体は傷つけるな、主君は守れ、そうして功名を立て、出世し、財産を築き、両親と家庭を大切にせよということになる。そうであるのに、お前はそれらのすべてを無視して、乞食のような真似をしている。それは恥ずべき行為である。だから早く改心して、忠孝につとめなさい」と。
 私は憮然としてその人に問うた、「何を忠孝というのですか」と。
 相手が答えた、「家では笑顔を絶やさず、率先して親に仕えること、外出と帰宅の際には必ず親に挨拶すること、両親の部屋の夏冬の温度を調節すること、晩には床(とこ)を敷き、朝には起床の挨拶をして親の様子を見ること、このようなことが孝である。
 虞舜(ぐしゅん、中国神話に登場する五帝の一人。母を早くになくし、継母とその連れ子と父親と暮らすが、父親は連れ子に後を継がせようとして舜には冷たかった。しかし、舜はそんな父親に対しても孝を尽くし、その孝行振りが堯の元にも伝わり、後に堯は舜に帝位を禅譲した)や、周文王(しゅうぶんおう、王季の世継ぎとして生まれた文王は、一日に三回父親の安否を尋ねた。朝は鶏が時を告げる時刻には服を着て父王の寝室の前に来て、侍従に「本日の安否はいかがですか」と聞き、「安寧でございます」と告げられとたいそうに喜び、また昼、夜にも同じように聞き、「すぐれません」と告げられると、たいそうに心配したという)はその孝行によって帝位に登り、董永(とうえい、幼くして母親を失った董永は、残された父親を世話する孝行息子であった。だがその父親も死亡し、葬儀代がなかったため自分の身を売り、費用を稼ごうとしたが、事情を察した親切な主人はその金を貸してくれた。そうして、喪が明けて主人の所に働きに出かける途中に董永は一人の女性に出会い、夫婦になる。妻は沢山の絹を織り、夫の借金はたちまちにして返済された。その女性は董永の孝養ぶりに感じた天帝の命によって、下界に降りた織女であったという)や、伯?(はくかい)又は蔡?(さいよう、母親が病を患って三年間、寒暑をものとせずに看病し、母親が死去するとその塚のそばに移り住んだ。すると、住まいの周りは兎の群れが居つく緑の野と樹木が青々と茂る森となった。それを見て、人びとは不思議に思い、その孝心を称えたという)はその孝行によって今に伝えられる。
 その孝行の気持ちを仕官した主君に向ければ、主君に身命をささげ、主君に非あるときはあえて諌めるという行為になる。
 天文を知り、地理を観察し、古(いにしえ)に学び、その知恵を今に活かし、遠方の紛争を治めて、近くの民の平穏を得る。そのような天下の政治を行なうという広い視野をもって、天子の非を正し、助ける。そうすると、繁栄は子孫にまで及び、名誉は後代に伝わる。これが忠義である。
 伊尹(いいん、商の君主・子履(しり)に嫁ぐ花嫁の付き人として君主に仕え、その政治的才能が認められて、国政に参与する。夏を滅ぼし、商王朝が成立し、子履は湯王と名のり、湯王の死後、その子の外丙と仲壬の二人の王と、その後の湯王の孫の太甲を伊尹は補佐するが、太甲の放蕩を見かねてこれを諌め、追放し、自らが摂政をし、三年後、太甲が悔い改めたのを確認すると、再び彼を王に迎え自らは臣下の列に復したという)・周公旦(しゅうこうたん、文王の第四子で、初代武王の同母弟である。次兄・武王の補佐をつとめ、兄が病に倒れたとき、旦は自らを身代わりとすることで、その病が治るように願った。いっとき、兄は回復したが再び悪化して、兄武王は崩御する。武王の子・成王は未だ幼少であったため旦は摂政となるが、その間に旦の兄弟による政権争いが起こり、旦はこれを治めた後に成人した成王に政権を返して臣下の地位に戻ったという)・箕子(きし、当初、殷の最北端にある箕の国を治め、その功績が認められて殷王朝の紂王(ちゅうおう)に仕えた。あるとき箕子は王が象牙の箸をつくったと聞き、「象牙の箸を使うなら、陶器の器では満足できず、玉石の器を用いることになるだろう。そうなれば、玉石の器に盛るには今までの料理では満足できずに山海の珍味を欲しがることになるだろう。そうして贅沢に歯止めがなくなるにちがいありません」と王を諌めたという)・比干(ひかん、紂王の叔父。甥の紂王が暴君であったため、たびたび、王を諌めることになったが王は聞く耳を持たなかった。そのうちに敵対する周の勢力が増し、殷の他の者たちは逃げ出していなくなった後も「臣下たる者は命をかけて王に諫言(かんげん)しなければならない」として紂王を諌めつづけたが、結果、王に殺された。その後、紂王は周の武王に討たれ、殷は滅亡した。武王は比干の墓に厚く土盛りをして、その忠烈を称えたという)などは、その代表例である」と。
 それを聞いて私は私なり考えを話すことにした。
 「親孝行をし、主君の非を正すのが忠であり孝であること、その趣旨は理解できました。私は愚かな人間ですが、それでも人間としての情をもっているつもりです。ですから、私を育てた父母の苦労は中国の五大山(泰山・崋山・衡山・恒山・嵩山)のように高く、その恩は中国の四大河(揚子江・黄河・淮水・済水)よりも深いことを決して忘れることはありません。その恩は真剣にとらえればとらえるほど、報いることも返すこともできないほどに大きな存在なのです。
 『詩経』に「南?(なんがい)」の詩(この詩は歴史のなかで一旦は散逸してしまったため、晋の束晳(そくせき)が逸詩を補った「補亡詩」に収録されている)があります。孝子(こうし、孝行息子のこと)が母に仕えることを述べ、「爾(なんじ)の夕膳を馨(かぐわ)しくし、爾の晨餐(しんさん)を潔(いさぎよ)くす」(息子が母のために精いっぱい、夕餉の膳をかぐわしく、清潔にととのえるのです)と歌う。出家した私(乞児)はそれができないことを母に詫びよう。また『詩経』に「蓼莪(りくが)」の詩がある。孝子が親を慕い、「蓼蓼(りくりく)たる莪(が)、莪にあらずこれ蒿(こう)。哀哀たる父母、我を生みて劬勞(くろう)す」(伸びて行くのは美しい花の咲く朝鮮菊だと思っていたが、育ってみるとカワラヨモギという草であった。自分の父母も私が立派になるようにと苦労して育ててくれたのに、育った自分はつまらない人間でしかない。それでは父母の恩に報いることができない)と歌う。はたから見れば修行僧の私がそうである。
 森の寒烏は親鳥に口移しで食べ物を食べさせるというし、獺(カワウソ)は自分のとった魚を並べ、人間が物を供えて先祖を祭ることと同じことをするという。それができない私は昼夜にわたって、悩み苦しむしかないのです。
 『荘子(そうじ)』外物篇に、車の轍(わだち)の水たまりで喘いでいる鮒(フナ)の話がある。鮒が通りかかった荘周(そうしゅう)に呼びかける、「水がなくて困っているから、何とかならないでしょいか」。荘周が答える、「承知した。西の長江から運河を掘って水を引き込んであげましょう」。鮒は怒っていう、「わたしは今、身のおきどころがないのだ。わずかな水で元気になれるのにそんなのんきなことでは、乾物屋の店先で干乾しになったわたしをさがした方がましでしょう」と。
 また『史記』に呉(ご)の季札(きさつ)の話がある。季札は呉の使者として北方に向かう途中に徐の国を通過した。その国の王、徐君(じょくん)は季札が帯びた剣を見て大変気に入った。季札はそれを察したが、使者としての旅の途中であり、任務を終えてからその帰路に差し上げる事にした。使者の務めを無事に終えた季札は再び徐の国を通過した。だが、徐君はすでに亡くなっていた。季札は自分の宝剣を解いて、徐君の墓のそばの木立に掛けた。季札は自分の心に決めていた約束を守ったのだが、旅の往路で剣を差し上げておけばよかったのかと悔いが残る。
 そのように、物事には時機がある。年老いた両親にはもう先がない。私が頑なで愚かだから、養育していただいた恩を返す時間がない。月日が矢のように過ぎ去り、親の寿命を奪う。一家の財産は乏しく、家屋は傾きかけている。両親が頼みとしていた二人の兄もつぎつぎと亡くなり、涙が止まらない。先祖から子孫へと九代も継がれてきた一族の数も減り、その愁い、嘆き、悲しみの日々は痛いほどなのです。
 ああ、悲しい。仕官しようとしても私を雇ってくれる人はなく、家には私の禄(ろく)を待ち望む親がいる。進退ここにきわまり、どうしようもない」。
 ここまで話すと、乞児は自分の気持ちを詩にして歌う。

田畑を耕そうとしても、私にはその体力はないし
?戚(ねいせき)が仕官を求めるために
牛の角を叩いて、斉の桓公(かんこう)に「商歌」を歌って聞かせたように*
*故事「?戚扣角(ねいせきこうかく)」
?戚は、斉の桓公に仕官したかったが、貧しかったため伝手(つて)を求めることもできず、行商して斉国に出掛け、日暮れに城門の外に野宿していた。その日、桓公は郊外に客人を出迎え、城に戻ってきた。?戚は、牛の世話をしながら荷車の脇にいたが、桓公がやってくるのを見つけると、自分を売り込むために、牛の角を叩きながら行商の物売りの声で悲しげに歌った。「南山?たり、白石爛たり、生まれて堯と舜の禅りに遭わず、短布単衣適に骭に至る、昏より牛に飯して夜半に薄る、長夜曼曼として何れの時にか旦けん」と。これを聞いた桓公は、その異才を認め、?戚を宮廷に召してともに語り、彼をよろこんで大夫(だいぶ)にした。
そのような才能は私にはない
知識もなしに官に仕えれば、無能のそしりを受け
ごまかして禄を受ければ、無能で俸禄を受けることになる
そのように才能なく、ごまかして禄を受ければ、それは正しいことではありません
『詩経』の雅頌(がしょう)に歌われる美風は、周の時代にあって、今はなく
あの孔子ですら、諸国を巡って遊説した
愚鈍な私が進んで仕官するのか、しないのか
進もうとしても才は無く、仕官をしなければ親を泣かす
(乞児はここに)進退きわまって嘆くしかない

 上記、歌の文句を書き終えた乞児は、しばらく考えた後に次のようなメモを記した。
 「私は聞く、『礼記(らいき)』に、小さい孝行は力を用いてするが、大孝はひろく人々に慈愛をもって施すと。周の泰伯(たいはく)は末の弟である季歴(きれき)に天下を譲るために、自らは南方に隠れ、髪を切り、体に刺青をして本物の南人になったというし、インドの釈尊は裸になって飢えた虎の親子にその肉体を与えたという。それらは父母からすれば卒倒してしまいそうな行為であり、親戚にとっての痛恨事である。両親からもらった肉体を傷つけ、破滅させ、一族にダメージを与えることにかけてはこの二人以上の者はいません。あなたの言にしたがえば、この二人は最大の不孝者です。だのに、泰伯は孔子から至徳の人と呼ばれ、釈尊はブッダ(目覚めたもの)となって人びとに仰がれる存在となったのです。
 このことからすれば、目の前の小事にこだわらずに大道を進めということになる。目連尊者(もくれんそんじゃ)が子をあまりにも愛したが故に餓鬼道に落ちた母親を前世に戻って救うという話や、町一番の長者の一人息子那舎(なしゃ)は、父母の愛によって与えられた豪奢な春・夏・冬用の部屋と贅沢のかぎりをつくした食事と衣服、それに多くの美しい侍女と音楽等に囲まれて青春の快楽の日々を過ごしていたが、あるとき、その空しさに気づき真夜中に家を出て市街をさまよい歩き、その後、城外に出て北へと走りつづけ、やがて、金河(こんが)の畔(ほとり)にたどりついたときには、東の空が白みかけていた。河の流れに臨んで、那舎は泣き叫んだ。すると対岸から、それに応じる声が聞こえてきた。五比丘を連れた釈尊であった。釈尊によって一人の青年が救われた。そうして那舎は釈尊の六人目の弟子になった。その那舎を介して両親までもが世間の栄華欲楽の夢から覚め、在家の最初の仏教信者(優婆塞・優婆夷)になったという話は、それこそが大孝である。
 私は愚鈍ではありますが、正しい教訓をくみとり、先人の遺風を尊重していますし、国のこと、両親のこと、生きとし生けるものすべてのためにその安泰を祈っています。また、日々において、他に分け与え、してはいけないことせず、耐え、精進し、心を集中・安定させ、自分と他のいのちの存在に目覚めることを目標としていますが、これらのすべてが忠孝の基本であるといえます。しかし、あなたの説く忠孝は作法が中心ではありませんか。
 漢代の丞相であった于定国(うていこく)の父の于公(うこう)は、裁判が公平であったことから民衆の信頼が高かった。于公は自分の一族が住んでいる里の門を再建するとき、「門は立派な車が通れるように大きくしてほしい。私は裁判官として公平に裁判を処理して、ひそかに善行を積んでいるから、その善行によって子孫は立派な車に乗れるくらい出世するだろう」と言って、事実、その通りになったとあるし、同じく漢の河南太守の厳延年(げんえんねん)が厳しい刑罰と、不公平な裁きによって思うままに社会を治め、その罪人の処刑にあたっては家畜などの獣類を殺すごときであったので、人びとは彼を「屠伯」と名付けた。厳延年の母は「仁愛によって民を強化せず、重刑によって多くの人を殺すようでは、いずれ自分の身を滅ぼすことになります」と息子を諌めたが、その行ないが改められることはなかった。母は「私は年老いた。我が子が殺されるところを見たくない。故郷に帰って、お墓を掃除し、お前がお前の罪によって処刑されここに来るのを待つことにしよう」といって帰って行った。果たして、厳延年はまもなく政治を誹謗し、朝廷に対する怨望(えんぼう)の言動が発覚して死刑になったという。
 そのように人生はさまざまに展開し、そのときどきの局面を見ただけでは、物事の善し悪しを判断することはできないのです。
 だから、私のこのメモも当面のものであり、十分に事情を汲んだものではありませんから、後にもっと明らかなことを述べたいと思います」。

場面3、乞児、兎角公邸の門に立つ
 以上のような自分なりの忠孝の考え方にしたがって、私は親兄弟に関わりあいをもたず、親戚にも近づかず、浮き草のように国中を遊行し、ヨモギ草のように各地の修行場を巡っていました。
 そんなある夜のこと、銀河の星影がまばらになる明け方に、五臓六腑が深閑とするような空腹を感じ、気づくと、住みかにしていた岩屋に食糧がなくなり、身体中のすべてが飢えにおそわれました。よく見ると、米の蒸し器の内側は塵だらけ、かまどの中には苔が生えている。もう何日も飯(めし)を喰っていなかったのだ。
 そこで思った、「人間は食物によって生きるものであると仏典に書かれているし、仏教以外の書物にも飢えていては学問ができない、何をさておいて食することが先で、学ぶことは末であると述べられている。そうだ、腹をすかしている身体中の虫を背負って、食糧のある豊かな里に、早く行かなければならない」と。
 そこで住みかのあった松林を抜け出て、大きな都に向かいました。都に入ると、小欲知足の心をもって木鉢を捧げ、直ちに托鉢を始めました。
 お供の小僧もなく、ただ一人で経典を持ち、偶然にも兎角公邸の門に立ち、食物を乞おうとしていて、亀毛先生と虚亡隠士の論争を耳にしてしまったのです。
 二人の言い分を聞いていて、この人たちは一体、何を考えているのだろうと思ったのです。その理由とは、「(永遠の輪廻の中で)雷光(いなびかり)のように一瞬の輝きとともに消え去る身体をもつ生命は、四種の生まれ方、胎生・卵生・湿生・化生によって、それぞれに、ほ乳類・鳥類と爬虫類・水棲類・昆虫類の四種のすがたかたちをもち、そこに宿り、その意識(神経細胞と脳)は、六つの認識器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)と六つの認識対象(色とかたちと動き・音と声・匂い・味・質感・法則)と六つの認識作用(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意識)から成る十八の世界に暮らしている。そうして、五つの認識過程(認識対象である万物<色>を感受<受>し、感受した事物をイメージ<想>にし、そのイメージによって快・不快を判断<行>し、それを記憶する<識>)を経て形成した、まぼろしの城郭を築き、おまけにその城郭は固体<地>・液体<水>・エネルギー<火>・気体<風>の四つの要素がたまたま合成したものに過ぎないのに、そんなにはかない存在の上で論陣を張り、両者は議論しているのだ。
 討議に挑んだ二人の格好を見れば、蜘蛛の網(あみ)の甲(かぶと)を頭にかぶり、蚊のまつげに巣くう小虫の騎馬にまたがり、鎧(よろい)をつけ、陣容を見れば、虱(しらみ)の皮張りの太鼓を打ち鳴らし、敵陣をおどし、蚊の羽の軍旗を打ち立てている。
 そうして、自己中心の見地で武装して、浅はかな知識の剣(つるぎ)をふりまわし、今にも崩れてしまいそうな攻めの構えをとり、ありもしない戦場へとくり出し、私利私欲の論理によって、井戸端会議的な弁論で争っているに過ぎない」からだ。
 そのような訳で、托鉢でたまたま寄った兎角公邸で、二人の議論が耳に入り、その内容が気になってしまって、その門柱のかたわらで目をしばたたいて、立ち聞きすることになったのです。
 お互いに自分が正しく、相手が間違っていると主張する二人を見ていると、「大海に対して水滴のようなわずかな弁舌と、太陽や月の光に対してかがり火のようなわずかな論理で、お互いが議論しているのだから、ブッダの弟子である私としては、彼らの主張が自分の力量もわきまえず、敵に向かおうとする蟷螂(とうろう、カマキリのこと)の斧(おの)のごときものと判断し、そのちっぽけな思想を、仏法の真理の鉞(まさかり)で打ち負かすことは可能である」と思ったのです。
 そこで「智慧の刀を砥ぎ、弁舌の泉を涌き出させ、忍耐の鎧をつけ、仏教の慈悲の騎馬にまたがり、早すぎず、遅すぎず、粛々と亀毛の陣に入り、驚かず、恐れることなく、隠士の軍勢には対峙し、わが城を出で敵に対すればその場を立ち去らず、敵陣に入れば思うままにあばれる」というような直接的な論戦ではなく、まずは戦わずして両者の主張をやりこめる文書作戦に打って出たのです。
 中国後漢末期の文官、孔璋(こうしょう。陳琳のこと)は袁紹(えんしょう)の幕僚として、敵側の曹操(そうそう)打倒の檄文を書いたが、その文章はそれを読んだ曹操が誉めるほど巧みなものであったというし、魯仲連(ろちゅうれん)は書面をしたため、それを矢に結んで燕(えん)の将軍のたてこもる城中に射込み、その文章を読んだ将軍に城を退去する決断を迫り、結果、将軍の自害をも促がすことになったというし、鄒陽(すうよう)は獄中からの上申書によって身の潔白を王に弁明し、罪を免じられたという。そのような文章をもってすれば、相手を屈服させることは可能なのだ。
 そのような、乞児の作成した文章により、刃(やいば)に血ぬることなく、それを読んだ相手(亀毛と虚亡)は乞児の前に自ら降伏した。
 しかし、相手の本心までは分からないので、乞児は自らが真摯な態度と慈悲の気持ちをもって、二人を諭すためにいいました。
 「盃(さかずき)の少量の水に泳ぐ魚は、北海を泳ぐ大きさ千里の鯤(こん)という名の巨大な魚を見ることができませんし、いつも垣根の高さを飛ぶ鳥は、一気に九万里の高さに舞い上がる鵬(ほう)という名の巨大な鳥を見ることありません。そのように人間も、海に住む者にとっての大きさの基準は魚であり、山に住む者にとっての大きさの基準は樹木ですから、それぞれに住んでいるところにないものを基準にして説明しても、互いに分かり合うことはできないのです。また、中国古伝説上の人物、離朱(りしゅ)のように視力にすぐれてなければ遠くから毛の先までは見えないし、春秋時代の晋の平公に仕えた楽人、子野(しや)のように音の清濁を聞き分ける聴力がなければ鐘の音の微妙な調子を判断することはできません。
 ああ、広い視野で物事を見ると見ないのと、広い見地をもたない愚かなものと見地をもつ愚かでないものとでは、そこに大きな隔たりがあるのです。あなた方の議論は、たとえば氷に字を彫り、水に絵を画いているようなもので、労あって益なし。ほんとうにくだらないことです。亀毛さんの足と隠士さんの足の長さを、鴨の足と鶴の足にたとえて、長短を評価してみたところでそこには何の意味もありません。それと同じことで、儒教の教えの短所と、道教の教えの長所を比較してみても意味はないのです。なぜならそれぞれの教えにはそれぞれの道理があるのですから。
 であれば、仏教の説く道理についてもあなた方に知っていただく必要があるでしょう。
 これから私が仏法の大要をお話ししますが、話を聞くにあたっては、次のような心の準備をしていただければと思います。
 秦の始皇帝は人の心の真実を映し出す鏡をもっていたというが、その鏡に映る心をあなた方も見なければなりません。
 また葉公(しょうこう)という人は、常日頃、絵画や置物の龍を身近に置いてそれらを愛好していましたが、あるとき、ほんものの龍が現れたら恐れおののき気絶したという。それは、それらしきものに慣れてしまっていて、物事の真実に触れていなかったせいなのです。
 また暗やみで象を撫でた者が自分の触れた部分をもってそれが象のすがたであるとしたことわざもあります。
 そのような各自の迷いをまず覚まして、ともに教えを学んでいただきたいのです。
 儒童(じゅどう。釈尊の前世)と迦葉(かしょう、釈迦十大弟子の一人。衣食住に対する貪欲をはらいのける修行第一といわれる)はともに私にとっての友でもあります。この二人の思想が中国へと伝わって、孔子の思想(儒教)と老子の思想(道教)になったという説もあるぐらいですから、それらの思想を含めて、釈尊は過去・現在・未来にわたる広大な思想を説かれているのです。しかし、あなた方はその一部の思想だけで優劣を争っているのです。それは明らかに誤りです」と。
 虚亡隠士がいう、「つくづくあなたを見ると、世間の人とは違っている。頭は剃られて毛がないし、身体には多くの荷物をもっている。あなたはどの州のどの県のお方で、それに親は誰で、先生は誰なのですか」と。
 そうきたかと、大いなる笑みをもって私(乞児)はいう、「生きとし生けるものは、三界(生存界・物質界・精神界)に家なく、戦禍と災害<この世の地獄>・飢餓<餓鬼>・生存競争<畜生>・悪徳<修羅>・法による社会<人間>・神による絶対世界<天>の六つの道に生まれ落ち、転々とし、あるときは天界の極楽に住み、あるときは戦禍と災害の地獄の地域に住む。そうしてあなたはあなたの家系の中で、あるときは配偶者やその子供、あるいは親であったであろう。また、あるときは悪魔のようなものを師とし、あるときは異端のものを友とし、餓鬼や禽獣でさえもがあなたや私の親であったり、配偶者であったりしたであろう。なぜかというと、原初の始まりから今に至るまで生命に切れ目なく、今より原初の生命に遡(さかのぼ)れば、その間に様々な雌雄の組み合わせと、様々な変化(進化と変異)があって際限なく生まれ変わってきたからです。それは円環のようにぐるぐると、ほ乳類・鳥類と爬虫類・水棲類・昆虫類へと生まれ変わり、そうして、時間と空間から成る六つの道を車輪のようにごうごうとまわっているのです。
 あなたの髪の毛は真っ白で、私の鬢(びん)の毛は生えてくれば真っ黒であるが、あなたが兄で私が弟であると断定することはできません。なぜなら、あなたも私も原初よりのそれぞれの生命がかわるがわる生まれ変わり、今に引き継がれて来た存在ですから、固定した存在ではありません。ですから、どの州のどの県とか、親族とかを固定することはできないのです。だが、あえて現在のことをいえば、私はしばらく南閻浮提(なんえんぶだい、この世界)の中の日出づる国日本の天皇の治下にある玉藻(たまも)よる讃岐の島、楠木が太陽をさえぎる多度の郡(こおり)、屏風が浦に住んでいます。まだ思うところに就くことできないうちに、早や、二十四年の歳月が過ぎてしまいました」と。
 隠士、おどろいていう、「初めて聞く用語もあり、それらの質疑回答をも含めて仏教の教えについてもう少し分かりやすくお話し下さい。それにあなたはなぜ、多くの物をもち歩いているのですか」。

場面4、釈尊の話
 私はいう、「では、仏教の開祖、釈尊のことからお話ししましょう。私の師である釈尊は人びとを救おうという古(いにしえ)からの誓願を引き継ぎ、インドの地に生まれ、八十年の生涯を終えた方です。その限りない慈悲をもって、菩提樹の下でさとりを開き、人びとを教化する行動を宣言された際には、縁あるものは竜神を含めすべてのものがその甘露の法雨に浴し、枯れ枝に花が咲き、花が実を結ぶように人びとが救済されるときが来ることを予言されました。しかし縁のなかったものは、身分の上下に関係なく、不浄の生活に慣れ親しんでいましたから、仏法の清らかな教えに見向くことはありませんでした。
 そういうわけで、すべての人びとの救済を誓願されていた釈尊は、この世を去られる日に弟子たちを集め、最後の説法をされ、後の世までも仏法が正しく引き継がれて行くようにと頼まれたのです。その後、釈尊の生涯における説法は弟子たちによって経としてまとめられ、やがてそれらは経文となって諸国に伝えられ、その経文中で、釈尊は涅槃されたが、後世において弥勒が誓願の実行者となり、世界が救済されると告げられることになったのです。
 そこで私はこの告文(経文)の趣旨をうけたまわって、馬に秣(まぐさ)をやり、馬車に油をさして、旅支度をととのえて仏の道に入り、昼夜をかまわず弥勒の浄土、兜率天(とそつてん)に向かっている途中です。しかし、仏道修行は困難をきわめ、生存領域をはるかに越えるものであり、おまけに仏道はいくつにも分かれて広がっているから、どの道を進んでいいのかがよくわからない。一緒に進んでいた仲間も世俗に溺れ、脱け出せなくなった者や、すでにずっと先を行く者もあります。このような状況なので、ただ一人で出家者の道具のすべてを担って旅をしているのです。今は食糧がなくなり、托鉢をしておりましたが、路に迷ってしまって、ありがたくもこの門のかたわらに立つことになったのです」。

場面5、乞児「無常の詩」を唱える
 ここで乞児はいのちのはかなさを綴った「無常の詩」をつくり、欠けた錫杖をジャラジャラと鳴らし、気持ちがひとつにとけあうようなおだやかな声で、亀毛先生たちに唱えて聞かせる。

つらつら考えると、高くそびえて天の川までとどく須弥山も
世界の終末には劫火(ごうか)に焼かれて灰になり
ひろびろとした大海原の水は深くて広く、水平線の果ては天空に接しているが
世界の終末には七つの太陽の灼熱によって蒸発し、涸れてしまう。
広大な大地も世界を破滅さす大洪水が起きると、漂い動き、砕け裂け
弓なりに弧をえがいている天空も燃え尽きると、砕けて折れる。
そのような終末が来れば、三界の最高処に住むという非想天の天女の八万劫の寿命も
雷光(いなびかり)よりも短いものとなり
神仙の数千年の長い命も、落雷の一瞬に過ぎない。
ましてや人間の肉体は金剛石のように堅固ではなく、瓦礫(がれき)のようにもろく
認識の五つの過程によって心に映る世界は、水面に映る月と同じ
固体・液体・エネルギー・気体がつくり出す万物は、かげろうのように過ぎ去る。
生存欲をもって生まれ<無明>、活動し<行>
意識によって<識>、対象を識別し<名色>
それらに五感と思考がはたらき<六処>、意味をとらえ<触>
快・不快が生まれ<受>、その快・不快が愛憎を生み<愛>
愛憎が執着となり<取>、その執着によって生存がある<有>
生存があるから生が生じ<生>、その生があるから老いて死ぬ<老死>
という十二因(原因)縁(条件)は心を狂奔させ
八つの人生苦(生苦・老苦・病苦・死苦・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦)が常に心を悩ます。
むさぼり・いかり・おろかさの焔(ほのお)は昼夜、心を煩(わずら)わし
それらの鬱蒼(うっそう)と茂る百八つの藪は、夏冬かまわずに繁るという有様。
そうして、風に吹かれる埃(ちり)のようにもろい身体は、咲き終わる朝(あした)になれば、春の花のように舞い散り
美しい女人のすがたは無常の小波(さざなみ)に先立って黄泉(よみ)に沈む
その細く美しかった眉も霞(かすみ)となって雲上に去り
貝のような白い歯も草の露のように消えてなくなり
花のように美しかった眼(まなこ)は、今は緑の苔の浮く沢となり
真珠の飾りをつけていた美しい耳も、今は谷を吹く松風の空しい音を聞くばかり。

また、一生を駆け抜けた万葉の天子の命は、肉体が尽きる夕(ゆうべ)には、秋の葉とともに乱れ散り
その高貴なすがたは焼かれ、わずかな煙となって大空に昇り
さらさらとそよぐ松風が襟元に吹いても、その風の音を聞いて喜ぶ人の耳はもうこの世にはない。
今夜も月の光が皓々(こうこう)と美しく額(ひたい)を照らしているが、それを見て微笑んでくれた人の心はどこに行ってしまったのか。
こうして知るのです。
しなやかな薄絹(うすぎぬ)を纏(まと)うことがあっても、地面に眠れば、繁るつたかずらが変わることのない飾りであることを。
赤土や白壁の邸宅が仮の住みかであり、松やひさぎの木の生える地面こそが、人間の宿(しゅく)する住みかであることを。
仲むつまじい夫婦も、互いを思いやる兄弟も、親しい友達も、地面の下に眠れば会うことはできず、共に談笑することもなく
亡き骸はただひとり、高くそびえる松の木陰に埋もれて朽ちて行き、鳥のさえずる声だけが聞こえる雑草の中に、空しく沈む。

華やかに装い、麗しくしなやかであった美しい人も
野辺の火に焼かれてしまえば今は空しく
庭園に遊んで、春の日の愁いを心の隅に仕舞っておくことも、池辺に戯れて、秋の日の晴れやかな宴を催すことももうできない。
ああ、何と哀しいことか。
西晋時代の文人、潘岳(はんがく)が亡き妻を悼んで詠んだ詩に
 時は移り冬と春が過ぎ
 寒かった日はたちまち暑い季節へと変わった
 愛しい妻は冥土へと旅立ち
 幾重の土が今は二人を隔てる
 もう妻がいない人生に
 役所勤めの何が役立つのかという気持ちが高じる
 だが、その気持ちを振り切り
 朝命に従い、もとの勤めに戻ることにした
 (そうやって決意してから、)
 家を見まわしては妻を思い
 部屋に入っては二人のありし日の事を偲ぶ
 室内の帷(とばり)や衝立にもう、妻の影はなく
 筆と墨の周りには妻の筆跡がかすかに残る
 妻の好んだ香(こう)の焚きこめられた着物からは、その香気が今も漂い
 壁には彼女の好きだった装飾品が掛けられたままである
 それらを見れば妻がそこにいるようで・・・
とあるが、それを口ずさんでは、涙が溢れ
婦人は宵にひとりで家を出てはならないという"節操"を守り、そのために焼死した魯の公女、伯姫(はくき)の哀悼歌を歌えば
その高潔さに胸がはり裂ける。
無常という嵐は、神や仙人でさえもがそこからまぬがれることはできないし
人の精気を奪う死神は、身分を選ばずに誰にでも襲いかかる。
そうなれば、財があっても、そこから逃れるための買収はできないし、また権力があっても、なんの役にも立たない。
寿命を延ばす神丹(しんたん)をいくらのんでみても
人を生き返らす香をすべて焚いたとしても
片時も命は留められず
もう誰も冥土への旅立ちを免れることはできない。

場面6、生の報い
 (では、冥土への旅立ちとはどのようなものなのか、そのことについて述べましょう。)

かたちある死骸は草の中で朽ちてしまうが
心は残り、生前の行為はあの世で裁かれる。
生前に犯した罪があれば、あの世で地獄に落ち、残忍な責め苦を容赦なく受け、決して許されるということはない。
そこからは永遠に脱け出すことができないと初めて知って
千回も悔い、千回も心配する。
そうして泣き叫ぶしかない。
ああ、痛ましい、ああ、痛ましい。
自分が生前に努力しないで、このような責め苦を地獄で受けることになっても
そうなってしまったら、一万回も泣き、一万回も心を痛めても、誰も助けることができません。
だから、この世で生きている間に、悪業をしてはいけないし、善行を積まなければならないのです。

 ここに至って亀毛先生たちは、強烈な臭気と苦味に襲われたような気分になり、泣き叫んでは何度も気を失ってしまった。
 しばらくして正気を取り戻した二人は、額(ぬか)づいて丁寧に礼拝していう、「私たちは長い間、瓦礫のような教えをもてあそび、小さな楽しみに夢中になっていました。それは、目隠しをして険しい道を歩き、足の不自由なのろまな馬を走らせて夜道を行くようなものでした。それではどこへ行きつくかも、どこで落ちるかも知れたものではありません。いま、あなたの慈悲深い教えをうかがって、自分たちの道の浅はかさに気づきました。これからは今までの間違いを反省し、その上で正しい行動をしたいと思います。ですから、あなたの指南によって、ぜひ、仏教を学ばせて下さい」。
 そこで、乞児が答えていう、「そうですか、承知しました。あなたたちはよく戻って来られました。これから、生と死による苦しみの根源を述べ、そこから脱け出るさとりの境地がどのようなものなのかをお教えしましょう。そのことは儒教の周公旦や孔子もまだ述べていないし、道教の老子や荘子もまだ教えていないのです。その境地の実際は教えを聞くだけでは到達できず、独りで修行することによっても到達できないものなのです。それはこの世での修行の後にもう一回生まれ変わることによってようやく到達するか、厳しい修行の最高の段階まで行かないと到達し得ないものなのです。ですから、よくお聞き下さい。それでは要点を挙げ、おおもとをつかんでいただき、仏教の教えの要旨をあなたたちにお示しましょう」と。

場面7、「生死(しょうじ)の海の詩」
 亀毛先生たちは席から下りていう、「はいはい、心を静め、耳を傾けて、聞くことに専念いたします」と。
 そこで心の蔵の鍵をひらき、湧き出る泉のごとくに弁舌をふるって「生死の海の詩」を述べ、そこから脱け出るための教え「さとりの境地」を説く。

生死の海とは生命の海であり
それは生存界・物質界・精神界の際(きわ)までひろがり
見渡せば限りなく、世界の四大陸をとりまいて、はるか遠くまでつづき、測ることもできない。
そこからは万物が産出されるし、また無数のものをそこに包括する。
海は大きな腹を常にすかして、多くの河川を呑みこみ、大きな口をあけて、もろもろの運河の水を吸い込む。
大波は洶洶(きょうきょう)と湧いて陸に押し寄せ止まず
荒波はドウドウと音を立てて岬にぶつかる。
それらの波濤は??(かいかい)と雷鳴のように日中とどろき
夜になっても一晩中車輪が戸外で??(りんりん)と鳴りひびいているようである。
ここには多くのものが堆積し、さまざまなものが集まる。
だから、ここでは理解しがたいものが育ち、どんな想像を絶するものでも豊かにある。

この生命の海に生きるものたち(魚類・鳥類・獣類)の生態、すなわち生存本能(個体維持と種族保存の欲求。呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動など)を観察してみるとー。

<鱗類(りんるい、魚類)について>
魚といえどもその生態をよく観察すると、そこにはむさぼり・いかり・おろかさの行動が見られ、それらは非常に欲深いもののように見える。
魚の中でも巨大なものは、長い頭部には端がなく、遠くの尾尻は際限がない。
そのとてつもなく大きな生きものが鰭(ひれ)をあげ、尾尻で水をたたき、口を大きくあけて食べ物をあさる。
また、その巨大な魚が波を吸い込むときには、貪欲さを離れて覚りへと向かおうとする船も、帆柱が砕け沈められてしまい、その吐く息は霧となって、慈悲で舵取りをしようとしている船の方向を見失わせ、難破させる。
泳いだりもぐったり、本能のおもむくままに生き、貪欲にあさり、貪欲に食べ、節度のない貪欲さがもたらす害などに目もくれず、鼠(ねずみ)のようにガリガリ食らって、蚕(かいこ)のようにカサカサとすべてを食べ尽くし、食べる対象となるものをかわいそうとも憐れであるとも思わない。
輪廻の苦しみも知らず、ただ今生(こんじょう)の生存のみをまっとうして満足しようとしている。

<羽族(うそく、鳥類)について>
鳴き声を観察すると、気に入られるようにさえずるもの、同調して相手をけなすもの、そしるもの、汚く鳴くもの、おしゃべりするもの、やかましく鳴くもの、おごりあなどるもの、失敗を悔いるもの、などがいる。
飛ぶところを観察すると、つばさを整えて道から外れたり、羽ばたいて上空高く上り、安楽なところに身を置いたりする。
行動を観察すると、無常のものを常住とし、苦であるものを楽とし、無我であるものを我とし、不浄なものを清浄とする渡り鳥の群れが、入江の浅瀬でギャアギャアと騒ぎ立て、そうして、生存するために、殺生・盗み・淫行・だまし・飾り声・ののしり・二枚舌・貪欲・怒り・ひねくれの十の本能をむき出しにする大小の野鳥が水辺で羽ばたき飛び、それぞれの個体維持と種族保存の欲求を充たしている。
「正直」の喩えとなる菱の実をついばみ、「廉潔」の喩えとなる豆を食い散らす。
鳶(とび)は、鳳(ほう、『荘子』逍遙遊篇に「北の果ての海に魚がいて、その名を鯤(こん)という。その鯤のかたちが変わって鳥になった。その名を鳳という。鳳の背中は何千里あるか見当もつかない」とある)や鸞(らん、鳳凰の一種とされる)の類いの鳥が通りすぎると、自分がせしめた鼠を盗られないかと恐れて、上を仰いでにらみつけ、「かっ」とおどし、地面の鼠や犬をとらえると下を向いてわめき鳴くという。
そのように、飛び、鳴き、目の前の利欲を追うことのみを生活の営みとし、生まれ、そして死に、先の苦しみなどは忘れているから、雁門(がんもん)山の斜面にかすみ網が張られていることや、昆明(こんめい)の池に仕掛けられた大網のことを知らず、更?(こうえい)や養由基(ようゆうき)という弓の名手たちの矢が、前から後ろから、ねらっていることを知らない。

<雑類(獣類)について>
怒り・たかぶり・ねたみ・ののしり・うぬぼれ・そしりの心を持ち、快楽にふけり・気ままでしまりなく・厚かましく・恥を知らず・まことがなく・無慈悲な行動をとり、邪(よこし)ま・淫(みだ)ら・憎しみ・愛着・寵愛・恥辱の情動にしたがって生活する生きもの。
殺し・闘う習性をもつものも多く、そのために殺し合い、闘い合う仲間や種族がいるが、それらは同じ種に見えてもそれぞれに習性は異なり、多種である。
鋸(のこぎり)のように獲物を切り離す爪と鑿(のみ)ように鋭い歯をもち、慈悲の心などなく、獲物を捕らえ、食らう。
眈眈(たんたん)として虎のごとくに相手をにらみ、山麓を伸し歩き、朝露のようにはかない一生を過ごす。
??(きき)として獅子のごとくに怒って吼え、谷に戯れて、夜の夢ようにはかない時を過ごす。
それらに出遭えば、気は奪われ、精も抜けて、脳はつぶされ、はらわたを引き出されかねないから、見るものの身は慄(おのの)き、怖気づいて目もくらみ、その前に伏す。

このようにいろいろな生物が、三界を埋めつくし、ひしめく。それらは櫛の歯のように並び、世界のいたるところを住みかとしている。
その生物と環境の多様な様子は、「風がなく波の穏やかな海では、魚介の類いはそれぞれに、生をまっとうしている」との書き出しで始まる『海賦(かいふ)』を執筆した木華(ぼくか、あざなは玄虚)のようなすぐれた文章家が千人集まっても説明できず、『荘子』のテキストを整理して33篇本を定めた郭象(かくしょう)のようなすぐれた学者をいくら多く集めても論じ尽くせない。
それらの多様な種のすべてが、それぞれに個体維持と種族保存の本能にしたがって生きているわけだから、その生存ための欲望がもたらす悪を抑えるために人間は、五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)の小舟を漕ぎ出し、さとりの彼岸を目指そうとしても、荒波に漂流し、風の吹くままに、悪業を行なうものたちのいるところへと押し流される。
十の悪業を行なわないことが十善戒であるが、そのような脆弱な車では、本能という名の強い破戒力によって、うねり狂う生死の海へとずるずると引きずり込まれてしまうのだ。

場面8、さとりの境地
 だから、生死の海から脱出しようとする心を夕べに起こし、最上の果報(さとり)を朝(あした)に仰ぐのでなければ、森森(びょうびょう)と広いこの迷いの海底から抜け出て、蕩蕩(とうとう)として大きな生命のありのままのすがたに到達することがどうしてできるでしょうか。
 まことに六波羅蜜(ろくはらみつ、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つ)の行ないを筏(いかだ)として、迷いの河に出発し、八正道(はっしょうどう、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八つ)という正しい生き方を大船として、愛欲の波を漕ぎ分ける棹(さお)を装備し、精進の帆柱を立て、瞑想の帆を張り、群がり来る煩悩を防ぐ忍辱(にんにく)の鎧(よろい)をつけ、智慧の剣(つるぎ)をかざして多くの敵に立ち向かう。
 そうして、七覚支(しちかくし、択法(ちゃくほう)覚支・精進覚支・喜(き)覚支・軽安(きょうあん)覚支・捨(しゃ)覚支・定(じょう)覚支・念覚支の七つ)という馬に鞭打って速やかに苦海を超え、四念処(しねんじょ、身念処・受念処・心念処・法念処の四つ)という車に乗って、世界を観想し、存在には固定した実体がないと念(おも)い、煩わしい俗世間を超える。
 そうなれば、世界を統治する転輪聖王が頭頂にある宝珠を、特別に功績のあった家来に授け、その者に国土を与えたように、釈尊もまた、髷中(けいちゅう)の『法華経』を説き、その教えを授け、弟子の舎利弗(しゃりほつ)に「汝は未来に成仏するであろう」と予言を与えたとあるから、私たちにもその予言が与えられなということはない。
 『法華経』にはまた、龍女(りゅうにょ)成仏のことが次のように説かれています。「釈尊の説法会に参加していた八歳の龍女が、自分の持っていた世界に一つしかない高価な首飾りを釈尊にさしあげると、釈尊はこれをお受け取りになるやいなや、直ちに龍女は変身し、南方の無垢世界に往って成仏した」と。
 そのように、釈尊の真実の教えを受けていれば、私たちにも必ずや成仏の時機が訪れるのです。
 その時機が来れば、菩薩の段階の修行者が成仏するためには三劫(ごう)というほとんど無限に近い時間の修行を要するが、その最後の階梯である十地も一瞬に経てしまい、菩薩行を完成させることはむずかしいことではなくなります。
 そうして後に、十地の菩薩が、十の修行段階の各階位で一つずつ断除する十種の障害を捨て去って行き、真如を証得し、生命の無垢なる知のちからの実行者であるブッダ(目覚めたもの)の位に達する。
 その達した場において、さとりを妨げる煩悩の障害と、対象を覆って正しい認識を妨げる障害との二障を転じて、菩提(さとりと智慧と慈悲)を得、そのさとりの結果として生死を超えて涅槃(絶対寂静の境地)に到る。
 そのさとりの世界を常の住みかとするものは、真理の法王と称されるのです。
 この住みかに住むものは、絶対平等の真如の世界の理と、自他平等の心をもち、その無垢なる知をもって存在を観察すれば、一切の分別心と妄染の境界相とを離れているから、絶対清浄であり、また、その絶対清浄なる存在は、生きとし生けるもののそれぞれの世界と、それらのものが住む環境世界と、あらゆる生命が共に生きてありのままのすがたを現出させている世界とのすべてに等しく及んで、それらはお互いにお互いの一切のものを包容して何らのさわりもなくなる。また、この融合して一つであると観じる世界では、一切の煩悩を離れ、一切の知識を離れ、一切の戯論を離れるから、そのありのままのすがたが遍く生きとし生けるものを照らし出し、すべての善根を顕現するという。
 また、そのようなことで、それらの無垢なる知による世界は、そしりやほめごととはまったく無縁なのです。
 また、この住みかとなる世界は、生滅を超えていて改まることなく、増減を越えていて衰えず、永久に円寂であり、そのさとりの境地は、過去・現在・未来の三世(さんぜ)にわたって絶対無限なのです。
 ああ、この境地は何と偉大で、何と広大であることでしょう。
 この境地に比べれば、中国古代の聖王である黄帝、帝堯(ていぎょう)、伏羲(ふっき)たちでさえ釈尊の足許にも及ばず、インドの転輪聖王、帝釈天、梵天でさえも力が及ばない。
 それに、この教えに天魔や仏教以外の教えを信じる者が百の論難(ろんなん)を仕かけても、これを否定することはできないし、声聞、縁覚の小乗の仏教者がいくら称賛しても、この教え、大乗の教えを称賛し過ぎるということはない。
 しかし、釈尊の教えはこのように偉大なのであるが、その修行途中の菩薩が、最初に立てた四つの誓願、①衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど、地上のあらゆる生き物をすべて救済するという誓願)②煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん、煩悩は無量だが、すべて断つという誓願)③法門無尽誓願智(ほうもんむじんせいがんち、法門は無尽だが、すべて知るという誓願)④仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう、ブッダへの道は無上だが、かならず成仏するという誓願)を未だまっとうしていないから、一切衆生は苦界におちいっている。
 釈尊すなわちブッダはこれを見て悲しみ、心を痛め、次のように思いやられたという。
 まず、生命の存在そのものの象徴である盧舎那仏が、その生命の無垢なる知のちからをもって、百億の国土にその知のちからの応化身たる百億の如来(生きとし生けるもの)を出現させた。
 そのようにして久遠の過去にすでに成道し、出現していた如来が、釈尊の生涯の八つのすがた(相)となって、人間もまた、如来になれるという教えが広まった。その八つの相とは、①天より下って、②母の胎内に入り、③誕生し、(育ち、結婚し、子の親となり)④出家し、⑤四魔(心身を悩まし乱す煩悩魔・身体の苦悩を生じる五蘊魔・生命を奪う死魔・善行を妨げる天魔)を降伏し、⑥菩提樹の下で成道し、⑦法輪を転じて説法し、⑧涅槃に入る、という相である。
 その応現した相の本体である心身が、苦・集・滅・道の四諦の中にあると釈尊がさとられ、その論理を方便として、生命のもつ本来の知、すなわち如来の知を開花させ、その無垢なる知のちからのはたらきを用いて、人びとの救済にあたられたのだ。
 この釈尊のさとりの教えは弟子たちによって八方の国の果てにまで流布され、四諦の慈悲の告文を十方の衆生に分かち与えることになった。
 こうして、仏法に帰依するためにすべての衆生が雲に乗り、雲のように駆け、さまざまな生き物までもが風に乗り、疾風のように釈尊のところへ馳せ参じることになったのです。
 それらの無数のものたちが、天より地より、雨の降るように泉の湧くように集まり、清らかなものも汚れたものも、雲のように煙にように集まり、その様子は地にあるものは天に上(のぼ)り、天にあるものは地に下(くだ)り、それらがまた、天に上ったものが地に下り、地に下ったものが天に上るといった光景を呈した。
 この集いには、インドの神々の八部衆(はちぶしゅう)、①天(てん、梵天、帝釈天を初めとする諸天。天地万物の主宰者の総称)②龍(りゅう、水中に棲み、雲や雨をもたらすものとして、蛇を神格化したもの)③夜叉(やしゃ、悪鬼神の類)④乾闥婆(けんだつば、インド神話におけるガンダルヴァ。香を食べ、神々の酒ソーマの守り神)⑤阿修羅(あしゅら、古代インドの戦闘神)⑥迦楼羅(かるら、竜を好んで常食とする伝説上の鳥。鷲などの猛禽類の一類を神格化したもの)⑦緊那羅(きんなら、美しい声で歌う音楽神。半身半獣の人非人)⑧摩?羅伽(まこらが、廟神。身体は人間であるが首は蛇。大蛇を神格化したもの。龍種に属す)や、仏教教団の構成員である比丘(びく、僧)・比丘尼(びくに、尼)・優婆塞(うばそく、信士)・優婆夷(うばい、信女)の四衆(ししゅう)がいたが、それらの分類はあっても、彼らは交わり一体となり、釈尊の徳を称え、歌った。
 その称える歌声は、鼓を打つ音や馬の駆けるひづめの音のように淵淵(えんえん)と響き、まるで、鐘が??(かいかい)遠くから響き、花びらが聯聯(れんれん)と連なって行くようであった。
 八部衆のすがたは燐燐(りんりん)、爛爛(らんらん)とおごそかに輝き、駆けつける車馬の音は震震(しんしん)と会場にとどろき響く。
 その車馬が??(てんてん)と周辺を埋めつくし、並んでいる。
 その光景は、目に溢(あふ)れ、耳に満ち、地に満ち、天に満ちるといったありさま。
 群衆は足の踏み場もなく、肘を側(そば)め、肩を側め、ひしめきあう。
 この大変に混雑した状態にあっても、この場に集った誰もが釈尊に対して、礼を尽くし、敬い、慎み深く、信仰心を抱いていた。
 このようにして、釈尊の説法を皆が待ったのだ。
 その説法において、釈尊は同一言語を用いてお話しをされ、言語の異なる者であっても、その言葉は通じ、誰もがそれぞれのもつ迷いの我執を打ち砕かれたという。
 釈尊は開口一番、そこに集まった生きとし生けるものすべてが住む三千世界を一まとめにして引き抜き、他の世界に投げつけ、また、須弥山(しゅみせん)を削らずしてそのまま芥子粒(けしつぶ)の中に入れ、世界は一と多がたがいに融け入っていること、絶対的な本体と相対的な現象とは同じであることを示された。つまり、世界は一元的のものではないこと、ものごとの尺度はとらえ方によって、自在に拡大縮小できることをイメージとして説明されたのだ。
 そのように、人びとの心を縛っている既成概念を最初に解(ほど)き、次に慈しみをもって人びとを誘(いざな)い、諌め、心を空腹状態にさせてから、まるで食事を分け与えるように、法の喜びを分かち与え、その中に智慧と戒の隠し味を施された。
 それで法味という、ありがたい食事にありついた一切衆生は、天下泰平の世を謳歌することになった。
 『荘子』馬蹄篇に「太古の帝王の赫胥(かくしょ)の時代には、民は必要以上に仕事をしようとは思わず、外に出かけてもこれという行き先をもたず、皆が腹一杯に食事をし、満腹になると腹をたたいて、いつもにこにこしていた」とあり、また『帝王世紀』によると堯帝(ぎょうてい)の時代には、民は「日が昇るとはたらき、日が暮れると仕事を終えてくつろぐ。喉が渇けば井戸を掘って水の飲み、腹が減れば田を耕して飯を食らう。(自分たちの生活は自分たちの営みによる。だから、)帝の力なんか、わしの暮らしには何の関係ないのだ」と歌って、食べものをほおばり、腹を叩き、地面を踏み鳴らし、踊っていたとある。そのように、人びとは日々を楽しく過ごし、「君(帝)来たらば(民)蘇えらん」と歌ったという。
 このように、泰平であるがゆえに民が帝の徳に気づかないような治世こそが、好ましい為政者の態度であり、釈尊の教えもそのように、仏法によって心の安らかさを得ることになった民が平和に暮らすことが願いなのです。
 そこで、無量無数のものたちが帰依する所が、生きとし生けるものすべてが仰ぎ集まる所であり、もっとも尊く、もっともすぐれた真理の法のもとに皆が集まり、その法を説いた人を崇(あが)め、質素で規律ある生活集団をつくり出しました。
 ああ、何とすばらしいことなのでしょう。何と気高いことなのでしょう。
 誰がこれと同じことができるでしょうか。
 これこそ、まことにわが師釈尊の遺された教えであり、今、述べた事柄はその仏教の説く広大な真理のほんの一部分に過ぎませんが、これに比較すれば、道教の仙人の小さな術や、儒教の俗世の微々たる教えなど、言うに足らず、そんなに立派なものではないことがお分かりいただけたのではないでしょうか」。

エピローグ 「三教の詩」唱和
 「生死の海の詩」と「さとりの境地」を聞いた亀毛先生たちは、あるいは恐れ、あるいは恥じ、または哀しみ、または笑った。
 話しの内容に合わせて,うな垂れあるいは仰ぎ、水が器の形に従うように、乞児の教えのままにしたがった。
 そうして、喜び勇んでいう、「私たちは幸いなことに、稀有な大阿闍梨に会うことができ、すぐれた仏教の教えをいただきました。このような機会は後にも先にも二度とないでしょう。私たちは和上にお会いすることがなかったら、五欲に沈み、三途の河に没していたことでしょう。しかし今は、ありがたいお話しをいただいて、身も心も安らかになりました。たとえるならば、雷が鳴り響いて土の中に眠っていた虫たちが目覚めて外にでるように、春の朝日が氷を融かすように、これまでの迷いを醒ましていただきました。
 仏教に比較すれば、周公と孔子の儒教や老子と荘子の道教は双方とも、何と一面的な教えなのでしょう。これからは『華厳経』に説かれているように、皮膚を剥いで紙とし、骨を折って筆とし、血を刺して墨とし、しゃれこうべを曝(さら)して硯(すずり)に用い、慎んで慈悲深い教えを書き記し、生死の海を渡り、さとりの道を進む、舟や車の道標(みちしるべ)にいたしたいと思います」と。
 仮名乞児がいう、「それでは落ち着いたところで、もとの席にお戻りください。これから儒教・道教・仏教の三つの教えを詩にまとめてみます。この詩を仏法とめぐりあったあなた方の歌として、日々、唱和していただければ幸いです」。その詩とは、

日月の光は闇夜を破り 知の光は愚かな心を向上させるが
人びとの性質と欲望はさまざまだから 必要とする知のちからもさまざまなのだ
人間関係の規範を孔子が模索し その規範を受け習えば人は立身出世し
万象の道理を老子が構想し その道理を伝授して人は精神の高みに上がる
原因と条件によって説く釈尊の法は 教義と利益がもっとも奥深いから
その教えは自他を救済し 禽獣などの生きとし生けるものの救済をも忘れない
春の花は枝の下に散り 秋の露は葉の前に消える
流れる水は止まらず 勢いよく吹く風はいくたびも音を立て過ぎて行く
欲望は人びとを溺らせる海 さとりの境地は人びとの帰るべき峰
今や三界の束縛を知ったからには 世俗の栄達を捨てて仏法の道を進もうではないか

終演

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