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『十住心論』第十住心を読み解く-両部マンダラの世界

はじめに

天長7年(830年)に、淳和天皇は各宗(俱舎宗・成実宗・三論宗・法相宗・律宗・華厳宗・天台宗・真言宗)にそれぞれの宗義を書いて差し出すように勅命を下した。それに答えて真言宗の空海が執筆したのが『十住心論』十巻である。

十住心とは、心すなわち知の向上プロセスを十段階に分けたものであるが、空海の十住心体系は人間精神の発達段階を明らかにし、人間思想の展開を系列的に示すものとなっている。

したがって、内外の膨大な文献を引用して、その論理を展開し、平安初期におけるインド、中国、日本における各種思想の総合批評ともなっている。

ここではその思想の頂点に置かれた第十秘密荘厳(ひみつしょうごん)住心を読み解こうと思う。しかし、第一住心から第九住心までの段階を知らなければ、なぜ、第十住心に至るのかが分からないから、その各思想段階の要点をまずまとめ、その後、巻第十の頁を開く。

倫理や神や哲学による知を構築し、それらを思想とする段階から、論理による存在の実証は不可能とする第七住心の空観を基点とし、主体と客体(天台)、一と多(華厳)の思索を経て、実在世界をとらえる方法として、マンダラによる全包括的な世界の表記が考えだされた。そこに第十住心の位置づけがある。

この表記によってとらえた、生きている世界の全体像とその世界を構成している個の関係が、知の原理<金剛>と知のすがた<胎蔵>の両部マンダラとなって説かれる。

第一住心 序章

思想の十段階の始まり、すなわち第一住心の序章において、思想が存在するのは、地球上に大気と水があり、その要素によって生命が誕生し、進化した生命が広義の意味での意思をもつようになって、人間も人生や自らの住む世界を思索するからだとする。

そのことを空海は次のような詩にしている。

[生物の住みかとなる自然世界の詩]

生物の住む自然世界(地球)はどのようにして生起したのだろうか
気体(ガス)が初めに宇宙に充満し
水と金属が次々と出て
(水蒸気は大気に満ち、重い鉄は中心部に集まり)
地表は金属を溶かした火のスープにおおわれた。
(やがて、地球全体が冷め始めると、水蒸気は雨となって地表に降りそそぎ)
深く広大な海となり
(冷めて固形化した巨大な岩石プレートはぶつかりあい)
大地は持ち上がり、天空に聳え立った。
(そうして、出来上がった)四つの大陸と多くの島に
あらゆる生物が棲息し、意思をもって生活するようになった。

そうして、以下のような詩につづける。

[五大圏の詩]

宇宙は果てしなく<虚空圏>
(その中に)大気に包まれたところ(地球)がある<気圏>
(地球は)水を深く湛え<水圏>
金属(と岩石)の大地が水と同じく広がる<地圏>
燃焼の元となる元素はどこにあるのだろうか<エネルギー圏>
それらが空間・気体・液体・固体に満ちている
(ところで)自然界に五大圏が出現したのは
それはそこに生息する各種の生物がいるからだ。

また、これらの詩につづく[生物の世界]の章において、五大圏によって構成されている自然界には多種の生物が生存しており、それらは

  • 胎生(ほ乳類)
  • 卵生(鳥類・爬虫類)
  • 湿生(水棲類)
  • 化生(昆虫・両生類)
  • 草木(植物)※[仏教以外の教え]の章より

に分類できるとし、それらの生物のもっている生きるための各種習性を、人間もまた、もっていると説く。

このように、空海によってまとめられた思想体系は、自然・生物としての人間を意識したものであり、人間中心主義の思想ではなく、今日の生態学的視点をその根底にとらえたものである。

そのような全包括的な世界観をもとに、人間の心が形成する思想の十段階を空海が『十住心』として分析しており、以下は、その思想の一覧である。

  • 第一住心 生存欲
  • 第二住心 倫理<善と徳>
  • 第三住心 真理<神・哲学>
  • 第四住心 無我論
  • 第五住心 因果論
  • 第六住心 唯識論
  • 第七住心 空(くう)
  • 第八住心 主体と客体
  • 第九住心 一と多
  • 第十住心 個と全体の表記<マンダラ>

第一住心 生存欲(本論)

あらゆる生物は、生存の根幹をなす共通の活動として、

  • 呼吸することによって生き、夜になると眠り、眠っているときも呼吸し、そうして、起きて活動する。
  • からだを維持するために水と食べ物を摂取し、ねぐらを作り、身を保護する。
  • 生殖によって子孫をつくり、個体を引き継ぎ、寿命が尽きると死ぬ。
  • 自然を住み分け、同じ種が群れ、社会をつくる。
  • 上記の生存欲が満たされるか否かによって快・不快を感じ、情動を表わし、生存権を主張する。

この呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動の生存欲求が人間にとっての知の原点であり、到達点でもある。

しかし、その生存欲求は生を受けた時空によって、思うようには行かない。

一に、戦争や天災による死と苦しみの世界。
二に、衣食住の欲望と欠乏による飢餓の世界。
三に、弱肉強食の畜生世界。
四に、悪の世界。
五に、不自由・不平等・不道徳の社会。

以上のような様々な生存世界で生きなければならないから、生存欲求は充たされず、したがって情動を起こし、その体験を記憶するから、物事の快・不快が心に残る。それが欲望となる。そうして、そこから思想も芽生える。(思想とは、生きている世界に対する広義の意味での快・不快のイデオロギーでもある)

第二住心 倫理<善と徳>

あらゆる生物が上記の生存欲によって快・不快の情動を起こし、それを行動に移すことになるが、そのなかで飲食と生殖にともなう欲求において、親が子に餌を運び与え、子育て為すことや、雄や雌が互いに食べものを与えあうことから、他に与えるといった心を動物がもっていて、そのことを人間は"慈しみ"の心と"施し"の行為として自覚するようになった。この心と行為を子育てや家族以外の人間関係にも広く応用したものが「徳」であり、この「徳」と以下の「善」によって、好ましい人間性が生まれるとする。

また、人間は言葉によって意思を伝達しあう動物であるが、そのことによって直接的な生存欲の充足以外に、言動による快・不快も発生し、人々に不快を与える行為と言動として、殺生・盗み・邪淫・虚言・かざり言葉・悪口・二枚舌・むさぼり・怒り・邪見の十種を背負うことになり、それらを「悪」とみなして、してはいけないことにした。したがって、してはいけないことをしないことが「善」である。

一に、自己を含め、むやみにいのちを傷つけない。
二に、他のものを盗まない。
三に、姦淫しない。
四に、嘘をつかない。
五に、おべっかを言わない。
六に、悪口を言わない。
七に、矛盾したことを言わない。
八に、欲深いことをしない。
九に、怒らない。
十に、邪まなことをしない。

以上の「善」を守り、不快なことをお互いに為さないことによって、心は快であり、これに加えて「徳」を積めば、人間関係は平穏である。

第三住心 真理<神仏・哲学>

人間は生存欲を根底とした情動のもたらす欲望を回避するために、他への慈しみの心と施しの行為を行なうことを倫理として、人間関係の秩序を保つ知恵を身に付けたが、次に、世界の真理を生み出し、その世界観を共有することによってお互いの心を結び、社会の秩序を築くことに着手するようになった。その真理の一つが、人のちからを超える神仏の存在であり、その僕(しもべ)としての人間のあり方が模索されることになる。もう一つは、哲学すなわち、言葉の論理による真理の発見であり、その真理を共通認識として生きようとするものである。

(A)神仏

人間はモノ・コトのイメージを自由に想像できる能力をもつ。

だから、

  • 天界に住むものたち
  • 宇宙の構造と数量を司るものたち
  • 精神界を構成するものたち
  • いのちもつ無垢なる知の教えを説くものたち

などをイメージとしてとらえ、擬人化した。それが神仏である。

そうして、自由なイマジネーションを展開し、時を費やして、その神仏の住む理想世界を作りだした。(この世界は人々の心の総意にもとづくものであるから、真理に限りなく近い)

人々は現実世界によっては実現することのないその神仏の世界に憧れ、その神仏を賛美し、その神仏に祈り、心の安らぎを得ることになる。

非力な人間に対して、神仏こそが万物に対する慈悲と施しの実践者であり、その万能のちからにより、あらゆるものを創造することができる存在である。その意味で世界の誕生に関わり、その世界の運行と秩序を司り、絶対の倫理を行なうことのできる理想の人格を象徴する最高のイマジネーションが神仏であるから、それは真理以外の何者でもない。

この神仏の出現によって、人間は想像世界と心を一体化させ、そこに真理を見出し、その絶対真理の下で生きるようになった。

(B)哲学

神仏の出現によって、人間は祈ること、つまり、自己の意識を集中し、心の描き出すイマジネーションと一体となることにより、安らぎを得ることになったが、そのイマジネーションを展開する過程において、イマジネーションを概念化し、すなわち言語化し、論理の整合性によって真理を構築することを覚えた。それが哲学である。

哲学的にとらえると世界の真理はどのようなことになるのか、以下は空海が第三住心に記している古代インドの各種哲学思想である。

□ 二元論(精神と物質)<サーンキヤ学派>

人間にはプルシャ(精神)がある。その精神によって自己を観察すると、自己には自我があり、自我を形成しているのは知覚と行為である。

知覚には耳・皮膚・目・舌・鼻があり、行為には声・手・足・排泄・生殖がある。

また、自我によって音・感触・色・味・香りを感じ、自然の構成要素を空間・風・火・水・土に識別しているが、それらは人間の個々の意識によって生じた事柄である。この識別を生じさせているものが意識の対象となるプラクリティ(物質)である。

物質は固定した本質を持たず、常に移り変わるものであるが、その物質によって発揮される快・不快を人間は自我だと思っている。

□ 因果論<サーンキヤ学派の祖カピラ・サーンキヤの弟子、ヴァールシャの説>

「結果は原因によって生じ、原因の中に結果のすべての条件がある」と説く。

□ カテゴリー論<ヴァイシェーシカ学派>

すべての存在は六種のカテゴリーによって説明できるとする。

  1. 実体性(地・水・火・風・空間・方向・時間/自我・意識)
  2. 属性(色とかたち・味・香り・感触/数量/分類・結合・分離/相対性/作用/快感・不快感・欲求・嫌悪・意志)
  3. 運動性(上昇・下降・収縮・伸張・進行)
  4. 普遍性
  5. 特殊性
  6. 内属性(構造)
□ 禁欲論<ニガンタ派>

マハーヴィーラを開祖とするジャイナ教の思想。

すべての自然は殺してはならない。自然は生きものであり、地(土)・水・火・風(空気)・植物・動物は共にいのちあるものである。

すべてのものを所有してはならない。すべてのものとは物質・家族・人間関係・欲求・精神などである。

□ 唯物論<ローカーヤタ派>

アジタ・ケーサカンバリンの説く唯物論。

善悪の行為に報いはない。死後に生まれ変わることもない。人間は地水火風の四つの物質から出来ているから、死ねば四つの要素に帰るだけである。また、布施に功徳があることもない。

また、自然のちからは感じるまま、そのままであり、その背後に神秘は存在しない。生きていることの楽しみのみに幸福を求めよと説く。

□ 宿命論<アージーヴィカ派>

「アージーヴィカとはいのちある限りの意味。あらゆるものは宿命にしたがう」としたマッカリ・ゴーサーラの説く思想。

自然のもつニヤティ(宿命)にしたがえば、人間は成功し、それにしたがわなければ不幸になるとする。

□ 不可知論<サンジャヤ派>

「五感によって知覚できない事柄、すなわち概念による問答において、絶対に回答はない(議論によっては真理に到達できない)」とした立場を取る一派。サンジャヤ・ベーラッティブッダが唱えた。弟子に、後にガウタマ・シッダールタ(釈迦)の説く仏教に帰依することになるサーリブッダ(舎利弗)とマハーモッガラーナ(目連)がいた。

たとえば「来世はあるのか」との問いに対し、

「そうとは考えない。来世があるとも、それとは異なるとも、そうでないとも、また、そうでないのではないとも考えない」とする。

第四住心 無我論

さて、人間は倫理によって社会秩序を築くことと、神仏(イメージ)と哲学(論理)によって世界の真理に近づき、真理を構築し、その世界を共有することを覚えたが、個人に立ち返れば、日々の欲望、すなわち自我によって生きている。

自我とは、好き・嫌い、知りたい・知りたくない、欲しい・欲しくない、したい・したくないなど、体験する対象への個体別の心の反応である。

対象となるモノ・コトの色彩とかたちとうごきを眼が見、音を耳が聞き分け、匂いを鼻が嗅ぎ分け、味覚を舌が味わい、感触をからだが感じ取る。

この感受の時点で対象への快・不快が生じる。それが情動となり、情動がイメージとなって、そのイメージを人は記憶する。

ところで、快・不快は何処からくるのだろう。第一住心の生存欲が充足されるか否かにその根底があることはまちがいなく、そこに肉体的・能力的な個体差が加わって、快・不快の度合いが生じると思われる。

このように、快・不快の情動は、体験する対象によって生じ、その生じた情動を人は記憶していて、その快・不快のイメージが増長されたところに、欲望が生まれる。その欲望のことを人間は自我であると思っている。

したがって、対象はあるが、自我の固定した実体はないというのが真理である。それが無我である。

第五住心 因果論

自我による欲望を排し、直接的な知覚反応によらない概念によってモノ・コトを考察してみると、それらのことごとくが原因と結果によって成立していることを発見することができる。それが因果の論理である。

その論理を用いて、人の一生における心のはたらきの因と果を洞察したのがガウタマ・シッダールタ、すなわちブッダ(紀元前五世紀、仏教の開祖)である。

「十二因縁説」
  1. 人間と生きとし生けるものはみな生存欲(個体維持と種保存の欲求:呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動など)をもって生まれてくるが、生の初めに知識はない。<無明>
  2. だからまず、その生存欲によって活動する。<行>
  3. 活動することによって世界を認識する。<識>
  4. 認識した世界が記憶される。<名色>
  5. それらの記憶によって、眼・耳・鼻・舌・からだ・意識がはたらく。<六処>
  6. 眼は色彩・かたち・うごき、
    耳は声や音と音の強弱・リズム・メロディー、
    鼻は匂い、
    舌は味(甘味・辛味・苦味・酸味・塩味)、
    からだは感触(機敏さと強さ、重さと軽さ、硬さと柔らかさ、熱さと冷たさなど)、
    意識は出来事と意味、
    をそれぞれにとらえ、対象を識別する。<触>
  7. 識別した事柄が快・不快を生む。<受>
  8. その快・不快が対象への愛憎を生む。<愛>
  9. 愛憎が執着を生む。<取>
  10. その執着があるから生存する。<有>
  11. 生存するから生きる。<生>
  12. 生きるから、老いて死ぬ。<老死>

そうして、ブッダは「人の執着が識別を因とし、愛憎を果としている」と気づき、次に、「因と果をもたらす識別は言語によって作りだされたものであるから、もともとの自然界には無いものである。因がなければ果は生じない」と悟った。

「それがあるから、これもある」

「それが生じなければ、これは生じない」<ブッダ>

(その解脱により世界を観察すれば、自然や生きることはすべてあるがままであり、成るようにしかならないのに、煩悩によって生きるものに対して、限りない"慈しみ"の心が生まれるとする)

第六住心 唯識論

第五住心によって、識別が人間の愛憎を生み出していると理解できたが、その愛憎から心を解脱させて後、人と人、人と自然が真にコミュニケーションできる心のはたらきのみが残ると知る。この心は自然によってもたらされる意識であり、人による識別を超えたところに実在するものである。したがって、関心はそのはたらきを為すことのできる意識の根幹に向かうことになる。

意識の根幹を分析すると

  1. 生存するための基本的な欲求を司っている意識<第八阿頼耶(アラヤ)識>
  2. 言葉による思量を司っている意識<第七末那(マナ)識>
  3. 知覚によってとらえた情報を思考・記憶する意識<第六識>
  4. 対象を知覚によってとらえる意識<前五識(五感)>
< >内「唯識論」による意識階層の名称
  • 第八アラヤ識:さまざまな心の階層の基底をなす意識。第一住心の生存欲(呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居への欲求とそれらの欲求の充足度が惹き起こす快・不快の情動)を発動・制御している意識。
  • 第七マナ識:感受されたイメージを言葉によって思量する意識。その自己の創作した文脈により執着を惹き起こす。*このマナ識によって煩悩が生じる。
  • 第六識:知覚情報をイメージ化し、そのイメージを編集する意識。
  • 前五識:視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の知覚によって得る意識。

の八つの階層<識>によって構成されていて、それらの各識に対応する心がそれぞれに存在していると知ることができる。この心の階層を理解し、すべての心に慈しみを実践するのが第六住心である。そうして、第七マナ識の思量による執着、すなわち煩悩が言葉によって惹き起こされるものであることと、その言葉による方便と慈悲とによって、真理に導くことができる。

第七住心 空(くう)

紀元前五世紀に因と果の論理を用いたブッダの洞察によって、人間は識別による愛憎とその愛憎への執着によって、心に悩みを抱え込むようになったが、しかし、愛憎による執着が生きる原動力になっていることも事実であり、その執着に取って代わることのできる心のはたらきが慈しみである。その慈しみは「十二因縁説」の悟りによってもたらされる。

仏教の唱える慈しみを如何に実践するか、そこから「唯識論」が生まれた。つまり、意識の階層を分析し、それぞれの心の階層に応じた慈しみのケアを行なおうとする教えである。その教えの実践は数百年にわたって試行錯誤を重ねながらもつづけられることになるが、やがて、仏教成立から七、八百年後に、そのブッダの悟りの原点に戻り、識別によって、ほんとうに存在の有無を証明することができないのかを考察する学者が出現する。それがナーガールジュナ(龍樹)である。その結果、存在は論理によっては識別できないことを論証する。そうして、以下の結論を得る。

(モノ・コトの存在は)
消滅しないし、生じない。
断絶しないし、連続しない。
同一ではないし、別でもない。
去ることはないし、来ることもない。

上記の結論を記した『中論(ちゅうろん)』によると、まず、「存在条件」から始まり、「去来(うごき)」「認識作用」「現象と物質」「質料と形相」「存在現象の特質(生起・持続・消滅)」へと論証は進み、究極の論理となる「作用と作用主体の相対性」によっても個々の存在を証明することはできないと考察する。

空海は、そのナーガールジュナによる「相対性による存在の空」の論理を超克し、「実在する絶対の一の空」を唱える。

以下はそのことを説いた空海の詩文である。

何もなく、広々として大きな宇宙は
万物を生成する根元であり
深く澄みとおる大海は
水という元素にさまざまな生命を宿している。
このように一は無数の存在の母である。
同様に、空(くう)は現象しているものの根本である。
それぞれの現象は固定した実体をもたず、
とらえられないから空であり
その空なるものがあるがままに存在しているのがこの世界である。
(存在要因を作用と作用主体の相対性によって考察しても、そこに要因となる存在はない。だから、)相対性を超えたところに絶対の存在があり
(だからと云って、)相対性なしには、存在は説明できない。
(そのように、)存在を特定できないのが宇宙一切のものであるから
あらゆる現象が生じても、その存在はそのままに空である。
このように、存在の諸相は否定されても、現象するものがそのままに存在する。
だから、存在するものは空相であり、空相であるものが存在する。
すべての現象がそうであり、そうでないものはない。

こうして、空海は実在する世界を"イメージと単位"によって示し、論理による存在の空を超えた。つまり、実在する空間と、論理によってはとらえることのできない存在の諸相の空を一つにし、極めて物理学的な絶対の空の世界を拓いた。そうして、その世界を詩にして説いた。この実存世界を誰も否定できない。その世界の中でわたくしたちは生きている。

第八住心 主体と客体

実在世界に接近するには、ひたすらに主観を排除し、自らを客体化しなければならない。そうすれば、自ら(主体)が存在そのもの(客体)になれることを説く。

この菩薩僧のすがたは、空間と物質の存在実体を理論と観測によって追究している物理学者に似ている。

ただひたすらに主観を排除し、自らを客体化することによって、存在の本質と一体になり、真理を証明しようとしているすがたは、菩薩僧も物理学者も同じである。

菩薩僧は十二年間も山林に籠もり、学問・修行をしなければならない。物理学者も絶対的な空間に対峙し、主観を排除して自らを客体化し、宇宙の真理を数式に向かって追究し、その真理を実証するためにひたすら観測する。

そのような心のあり方が第八住心である。

(物理学者のシュレーディンガーもその著作の中でその心を語っている。「わたしの心と世界は同じ要素によってできている。両者の間ではお互いに参照するといったことができるが、その多くは証明できていない。この情況は心の問題と世界の問題の双方に言える。しかし、今、生きていることによって世界に対峙している自分の心がここにある。その瞬間、世界はたった一度だけわたしに与えられている。心と世界の両者は存在しているものでも認識されるものでもない。主体と客体はたった一つである」と。「たとえば、あなたが大地にからだを投げ出し、その上で大の字になれば、あなたは母なる大地と一つになることができるだろう。その瞬間、あなたは大地であり、不死身であると感じる。人は死ねば大地に戻るだろう。それは明日かも知れない、それでも、生きている今のあなたに対峙している大地はあなたがそこにいることによって、あなたの新しい努力と苦しみに向けてあなたを生み直している。瞬間、瞬間に移りかわる自然のすがたの数だけ、それを見つめているあなたを新たに生み直している。そう永久に、今だけ、今だけが列なっている」とも。)

―現代の物理学者がその思索によって菩薩の悟りに達していた。

第九住心 一と多

第七住心で「実在する絶対の一の空」を空海は唱えたが、その自覚によれば、第八住心の物理学者の心と自然とは同体であるとの認識に至る。無機質を主体とした自然の移り変わりそのものが心に映り、意識を形成している。それが物理学的な絶対世界になる。

では、その絶対世界、すなわち客体としての真実の存在とは何か。

それは、<素材>と<かたち>との関係によって以下のように、考察される。

「まず基本的に素材が素材のままでかたちを成していない状態と、素材がかたちを成している状態がある。後者の状態において、かたちだけを観察すれば素材は隠れ、素材だけを観察すればかたちは隠れる。もし双方を同時に観察すれば、素材とかたちは共に現われ、共に隠れる。だから一つの素材と、その素材がつくりだす多くのかたちは、条件によって現われたり、隠れたりする。また、そのかたちが部分と全体とによって成り立っているときには、部分は全体を成す中での一つのかたちであり、全体はそれらの部分によって成る一つのかたちとなるから、それらは重なり合い、尽きることなく関係し、限りなく映じ合う。そのように、かたちあるものとしての物質と生命が世界を形成しているから、その世界は融通無碍なる素材とかたちの関係によってつくられている世界であり、客体である物質的存在と、主体である生命的存在の認識とは同じものである。だから、認識も本来、融通無碍なるものであり、それ自体に本性はない。実在する世界は、環境と生命と無垢なる知との三つの要素によって織られ、そこに織り込まれた存在そのものがそのままわが身のすがたである。そのすがたにかたちがあり、そのかたちを成している物質と等量の分だけの認識、すなわち精神がそこに存在する。また、その真実の世界においては、一瞬の存在が過去・未来・現在を貫くすべての時間そのものであり、一瞬のそのすがたかたちに無限に等しい時間が流れている。そのように、一と多とが互いに融け入り、絶対平等の本体である一つの<理>と、相対的差異の現象である多くの<事>とは互いに通じ合っているのだ」と。

このように、一多相入している真実の世界においては、生きとし生けるものはみなそれぞれに、ありのままのすがたであるがままに活動し、それでいて、その住み場となる環境と、絶妙にバランスを計っていると説く。

(この世界観における一を大日如来とし、その根本の知のちからを象徴する如来とその眷属となる多くの個々の菩薩を表記したものが第十住心のマンダラである)

第十住心 個と全体の表記<マンダラ> (全訳)

人間は第一住心の生存欲を意識することから始まり、その思考よって人間中心主義の思想を発達させてきた。その間、ナーガールジュナは物事の相対的な考察によって、存在の諸相を否定、すなわち空(くう)の論理を確立する。しかし、万物には固定した諸相がないだけで、あらゆる現象の起きる空間そのものは実在しているとするのが空海、その世界を絶対の空とする。論理によっては世界の実相を説明できないとしたナーガールジュナの哲学により、思想の段階そのものが断絶することになったが、そこで空海は、第十住心において論理を超える多角的な表現メディア(イメージ・シンボル・文字・作用)用いて、実在する世界の本質を個と全体の図<マンダラ>として表記して見せる。

まず、初めの大意の章は以下のような記述から始まる。



大意

秘密荘厳(ひみつしょうごん)住心<いのちのもつ無垢なる知のちからとはたらきが成す、その個と全体から成る全包括的な世界をとらえる心>とは、すなわちこれをつきつめていえば、自らの心の根源の知に目覚め、その知のちからにより、自らのすがたがありのままに展開するところを知ることである。

ありのままの知のすがたは、いわゆる「胎蔵マンダラ」※に図示されるところであり、その知の原理は「金剛界マンダラ」に図示されるところである。

このようなマンダラの図示には、イメージ<大マンダラ>・シンボル<三昧耶(サンマヤ)マンダラ>・文字<法マンダラ>・作用<羯磨(カツマ)マンダラ>の四種の表現手法が用いられ、その象徴するところは、イメージによってありのままの知の世界のすがたを示し、シンボルによって世界のすべてが不二(それぞれの存在は全体を成す一部であるから、その一部をもって全体が象徴されているということ)であることを示し、文字は音声とともにその字義と文脈によって世界の真理を示し、作用は身体・言葉・心のはたらきによって直接行動的に知を示す。これらの四種のマンダラによって表現された世界は、大地の砂や、大海の滴(しずく)によっても比べようがないぐらいに無量である。

『大日経』にいう、

「さとりとは、ありのままに自らの心を知ることである」と。

まさにこの一句が無量の意味を含んでいるのだ。竪(たて)には十重の意味と横には無尽の広がりを示す。また、

「心に浮かぶ生存欲とそこからくる快・不快、それとその延長上にある思念・思想は、生命のもっている知がもろもろに展開するすがたであり、そこにいのちのもつ無垢なる知のちからも秘められている。わたくしはいま、これらのことをことごとく開示する」。

というが、これが竪の説である。つまり、雄羊のような生存欲と性欲だけの暗い知から、順次に明るい知、すなわち高度の知性へと向かう段階である。この段階にざっと十種(十住心)ある。すでにこれまでに説いたとおりである。

また、『大日経』にいう、

「また次に、さとりの世界を正確に語ろうとするものは、知覚の対象が際限のないものであることを知るから、知覚をもつ身体も無量であることを知る。

身体が無量であることを知るから、いのちのもつ無垢なる知の無量であることを知る。

いのちのもつ無垢なる知が無量であるから、そのまま生きとし生けるものの無量であることを知る。

生きとし生けるもの無量であることを知るから、それらの存在する宇宙のも無量であることを知る」と。

これはつまり横の意味である。

生きとし生けるものの意思はさまざまで、しかもその意思は量り知れず際限がないから、まとまりがつかずさとることがない。そこでブッダは、それぞれの器量にしたがって、必要な知のみを示される。

唯識論では、教えを聞いてさとる者と自らさとる者には、意識は対象があって生じ、その対象をとらえるのが前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五つの知覚<頭頂葉と後頭葉>)と第六意識(思考・意志・感情<前頭葉>)であるから、知覚の対象がなければ、自我は存在しないと教える。これが「六識」説である。

次に唯識と空を知る者は、六識の上に、第七末那(マナ)識(言語による概念や文脈によって、物事を判断する意識<言語野と側頭葉>。いわゆる思量(あれこれと比べ合わせて考えること)といわれるものであり、これが論理や思想、それに煩悩になる。この第七識の思量の元になるのが第八阿頼耶(アラヤ)識(個体維持と種族保存の欲求:呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動など<大脳辺縁系>)であり、この二識を加えた「八識」を説く。

また、天台宗と華厳宗では以上の八つの意識の根源に第九(阿摩羅(アマラ)識(いのちのもつ無垢なる知<視床下部>)の存在を唱え、「九識」説の立場をとる。

そうしてそのすべての意識の根底に、密教では第十乾栗陀那(フリダヤ)識(生命情報意識)を加え、「十識」を説く。

究極の仏典である『大日経』では、いのちのもつ無垢なる知のちからによる無量の心識と、そのはたらきによる無量の身体などを説く。

このように身体と知(意識)の究極を知ることは、とりもなおさず秘密荘厳の在りどころを明かすことに他ならない。

だから、『大日経』にいう。

「もしブッダが、いのちのもつ無垢なる知のちからを得た境地に入ったならば、いのちのありのままのすがたとなり、理と知とをかねそなえ、汚れのない知のちからを展開し、その知のちからが発揮する堅固な徳性と一体になれる」と。

そのようにいのちのもつ無垢なる知のちからは際限ないのだ。

それらの知のちからの一々が、それぞれにイメージとシンボルと文字と作用の四つの情報を具えている。

その無限の情報量によって、生きとし生けるものすべてが、いのちのありのままのすがたである無量の身体動作<行動(身密)>と、無垢なる知のちからによる無量の表現・伝達・交流<コミュニケーション(語密)>と、無垢なる知のちからのはたらきがもたらす無量の想念・慈悲<意思(心密)>との三つの行ないを為している。

(一)文字が表わす世界の本質<法マンダラの要旨>

真言とは、いのちのもつ無垢なる知のちからが、無量の意思の伝達・交流のはたらきを秘めているところから、かりに語密にちなんでつけられた名である。もし、梵語によって直接いえば、マンダラ(世界の本質という意)である。龍猛(りゅうみょう)菩薩は秘密語と名づけた。

真言の教えにおいて、かりに生の象徴となる文字を明らかにするとなると『大日経』に、

「真言の教えはどのようなものであるか、説いていう。

  • ア(a)の字義は、一切諸法本不生(ほんぶしょう)である。(人が最初に口を開くときの音には、みな、アの音声がある。もし、アの音声を離れるならば、すべての言語はない。だから、ア字はもろもろの音声の母体であり、もろもろの文字の根本である。このようなことから、存在するものすべてにア字がすでにそなわっていることから、あらゆるものは本来生じないことを象徴する)
  • キャ(ka)の字義は、すべての作用は不可得(とらえることができない)であるということ。
  • キャ(kha)の字義は、すべてのものは虚空と同じであるから不可得であるということ。
  • ギャ(ga)の字義は、すべてのものの進行は不可得であるということ。
  • ギャ(gha)の字義は、すべてのものの相は一つではないということ。
  • シャ(ca)の字義は、すべてものの変遷は不可得であるということ。
  • シャ(cha)の字義は、すべてものの影像は不可得であるということ。
  • ジャ(ja)の字義は、すべてのものの生起は不可得であるということ。
  • ジャ(jha)の字義は、すべてのものの敵対は不可得であるということ。
  • タ(ta※tの下に・)の字義は、おごりは不可得であるということ。
  • タ(tha※tの下に・)の字義は、愛護は不可得であるということ。
  • ダ(da※dの下に・)の字義は、怨恨、敵対は不可得であるということ。
  • ダ(dha※dの下に・)の字義は、執念は不可得であるということ。
  • タ(ta)の字義は、絶対的な真理による解脱は不可得であるということ。
  • タ(tha)の字義は、所在は不可得であるということ。
  • ダ(da)の字義は、施しは不可得であるということ。
  • ダ(dha)の字義は、真理の世界は不可得であるということ。
  • ハ(pa)の字義は、最高真理は不可得であるということ。
  • ハ(pha)の字義は、水しぶきの集まりのように堅くないということ。
  • バ(ba)の字義は、束縛は不可得であるということ。
  • バ(bha)の字義は、すべての存在は不可得であるといこと。
  • ヤ(ya)の字義は、教えは不可得であるということ。
  • ラ(ra)の字義は、塵垢は不可得であるということ。
  • ラ(la)の字義は、すべての相は不可得であるということ。
  • バ(va)の字義は、言語でいいあらわせないということ。
  • シャ(sa※sの上に')の字義は、本性は静寂であるということ。
  • シャ(sa※sの下に・)の字義は、性質の愚鈍であるといこと。
  • サ(sa)の字義は、すべての真理は不可得であるということ。
  • カ(ha)の字義は、すべての原因は不可得であるということ。

このように<子音の>キャを初めとするシャ・タ・タ・ハの五類声(しょう)と、遍口声であるヤ・ラ・ラ・バ・シャ・シャ・サ・カなどの合計28字はそれぞれの字がさまざまな存在の原理と事象を象徴し、それらは不可得であるとする。

しかし、五類声のそれぞれの最終文字となる、ギョウ・ジョウ・ドウ・ノウ・モウの字においては、その思念するところのすべての事を自在に速やかに成しとげ、あらゆる意義をみなことごとくに成就する」と。

これらのさまざまな字母は、それぞれにまた十二転声の字をそなえている。

因みに、初めのキャ字では、キャ・キャ・キ・キ・ク・ク・ケイ・カイ・コ・コウ・ケン・カクの十二転がある。そのうちの初めの二字と後ろの二字に、さらに、キャク字を加えた五字によって、いのちのもつ無垢なる知のちからとはたらきのすべてが象徴されるとなると、その字の意義は量り知れない。

このことを、『大日経』にいう、

「ブッダは、いのちのもつ無垢なる知のちからに目覚めると、ただちに真実の言葉をもって、その知のはたらきを示された」と。

そうして、次のようにいわれた。

「無垢なる知をもって生存するものよ、わたくしは真実の言葉によって、無垢なる自然を観察し、ありのままのすがたを現わして生活している多様な生物が、そのもっている無垢なる知のちからによって共に生きているという世界の真理を示すことができるから、すべての生きとし生けるものがみな歓喜するのだ」と。

また、『大日経』にいう、

「わたくしは、いのちのもつ無垢なる知のちからとはたらきの量り知れないことを知るから、すべての生物が共に生き、無心に行なっている衣食住の無量の相互扶助(慈・悲・喜・捨)を得て、次なる知のちから、

  1. 物事の道理と非道理とを見極めるちから。
  2. 物事の因と果との関係を知るちから。
  3. 禅定によって絶対の自由を知るちから。
  4. 生きとし生けるものの知覚と認識作用を知るちから。
  5. 生きとし生けるものの生存権を知るちから。
  6. 生きとし生けるもののもつ根底の性質を知るちから。
  7. 生きとし生けるものが諸世界に赴(おもね)くことになる習性を知るちから。
  8. 生きとし生けるもののルーツを知るちから。
  9. 生きとし生けるものの死と誕生を知るちから。
  10. 執着を離れ、無垢なる知に目覚める手段を知るちから。

の十力(じゅうりき)を獲得し、むさぼり・いかり・無知などの煩悩と、苦を生じる認識作用と、死と、善意の行為を邪魔する欲望の世界との四つの障壁を克服し、それらの畏れをなくして説法するのである」と。

また、ア字の五転、ア・アー・アン・アク・アークによっていのちのもつ無垢なる五つの知のちからを象徴するのであるが、この字より発声された言葉が展開して、すべての説法となるのだ。つまり、ア字によって法が説かれ、ア字によって法が聴かれる。

すなわち、文字をメディアに真理が明らかにされる。

これが法マンダラであり、いのちのもつ無垢なる知のちからが真実の言葉・文字を用いて、共に生けるもののすべてを真理の世界へと導くのだ。

文字メディアだけでもこのようなはたらきをするのだから、他のメディア、イメージ・シンボル・作用のはたらきも想像できよう。

(二)四種のメディアが表わす世界の本質<四種マンダラ>

『大日経』は、このように無量の四種マンダラの存在とその真理がもたらす利益(りやく)とを明かす。

これはすなわち尽きることがない、究極の知のありかである。

だから、経にいう、

「あるとき、ブッダはいのちのもつ無垢なる知のちからが成す、堅固な真理の場におられた。そこはあらゆる無垢なる知のちからの要素が集合するところであった」と。

これを解釈しよう。その場は無垢なる知のちからをもつものが発揮する五つの根本知と、その知を表現・伝達する四つのメディアの集合したところであり、それらによって、無垢なる知は無尽蔵のはたらきを為している。

五つの根本知とは、
  1. 法界体性智(ほっかいたいしょうち、真理の世界そのものの本性がもつ知):生命が展開する知の存在そのもの。水・光・大気の存在によって生存する生命の、その生命が有している広義の意味での知。「生命知」<大日如来>
  2. 大円鏡智(だいえんきょうち、清らかな鏡に万象を映ずるように、一切万有をありのままに感得する知):植物は太陽の光と空気中の二酸化炭素と吸収した水によって炭水化物をつくりだし、その炭水化物を昆虫や草食動物などが食べ、その動物を肉食動物が食べ、生物は共に生きられる。そのように、あらゆる生物は他から摂取した物質を体内で燃焼させ、そのエネルギーによって自らの身体を維持し、生きている。また、死ねばその身体は小動物や微生物によって分解され、無機物に戻る。つまり、物質が循環することにより、あるがままにすべての生物が自然界で生きられる。そのように生存の根底にある知。「生活知」<宝幢(ほうどう)如来>
  3. 平等性智(びょうどうしょうち、あらゆる存在を平等なるものと認識する知):あらゆる生物が、その持ち前の技術によって、自然と調和し、それなりの美の造形をもつ衣食住を生産し、それらを相互扶助し、平等に生きる知。「創造知」<開敷華王(かいふけおう)如来>
  4. 妙観察智(みょうかんざっち、あらゆる存在の違いを観察する知):あらゆる生きものがその持ち前の知覚によって、対象となる世界を観察・分析・判断する知。「学習知」<無量寿(むりょうじゅ)如来>
  5. 成所作智(じょうそさち、活動することによって、為すべきことを成しとげる知):あらゆる生きものがその持ち前の身体能力によって、行動し、他とコミュニケーションし、意思を伝える知。「身体知」<天鼓雷音(てんくらいおん)如来>
であり、それらの知を表現・伝達するのは、
  1. イメージ(色・かたち・うごき、音、匂い、味、感触による心象)<大マンダラ>
  2. シンボル(個別のかたちが象徴する意味・価値など)<三昧耶(サンマヤ)マンダラ>
  3. 文字(数・文字・音声)<法マンダラ>
  4. 作用(物体あるいは身体によるはたらき)<羯磨(カツマ)マンダラ>
の四つのメディア(媒体)である。

これらのメディアによって知がかたちを成し、意味を伝える。

  1. 一切万有のすがたをありのままに映すのが<イメージ(心象)>である。
  2. 多様な種の個体の部分や、個体に付属する道具の類が、その色彩・かたち・うごき、音、匂い、味、感触によって個別の情報として発信され、その情報を相手が受け取ったものが<シンボル>である。
  3. 観察された万象の違いを、概念によって記録・編集するのが<文字>である。
  4. 物理的なはたらきかけが<作用>である。

以上のような四つのメディアを通して、無垢なる知が開花するのだ。

ブッダというのは、このようないのちのもつ無垢なる知のちからに目覚め、その無尽のはたらきを知る者のことである。

住とは、個々の無垢なる知が成す全体の中でそれぞれの知が位置するところである。

如来とは、無垢なる五つの知のちからのことである。大日如来を中心として、四方に宝幢(ほうどう)如来・開敷華王(かいふけおう)・無量寿(むりょうじゅ)または阿弥陀(あみだ)如来・天鼓雷音(てんくらいおん)如来を(胎蔵マンダラの中央に)配する。

また次に、「如来(いのちのもつ無垢なる知のちから)」が形成する世界像は、イメージによって示すマンダラとなる。大マンダラのことであり、『大日経』に説くところの胎蔵マンダラがこれである。

また、「金剛界マンダラ」の九会の内、二会はシンボルによって示す世界である。いわゆる三昧耶マンダラことである。

また、「法界(世界の真理)」とは文字(梵字)によって示す世界である。いわゆる法マンダラのことである。

また、「加持(いのちのもつ無垢なる知のちからを加えもつ行為)」とは作用(活動)によって示す世界である。いわゆる羯磨マンダラのことである。

そうして、それらが示す多角的な世界によって、無垢なる知をもつ生きとし生けるものの個々の身量が、虚空のような広大無辺の真理の世界と一体であることが明らかにされるのだ。

だから、『大日経』にいう、

「ブッダの身体による行動と、言葉によるコミュニケーションと、心による意思とのはたらきは、生きとし生けるものすべてと平等であって、その身量は際限なく、言葉と心の量もまた際限ない」と。

「宮」というのは、いのちのもつ五つの無垢なる知の居場所であり、その中にそれぞれ知が安住していて、それらは元々、そこにあったものである。

だから、『大日経』にいう、

「その時に、目覚めた人であるブッダを象徴する大日如来は、広大なる真理の世界の無垢なる知のちからによって、まさしく全能の知の母胎に入り、その種子を人びとに蒔かれた」と。

「その時に仏教の開祖であるブッダその人が、無量無辺の境地に入って、自らのもつ無垢なる五つの知のちからを如来として、そのちからにしたがうはたらきを菩薩に託して説かれた。その構成は、自らを普遍的な存在として象徴する大日如来<生命知>を中心に、その四方に宝幢如来<生活知>にしたがうはたらきをする普賢(ふげん)菩薩と、開敷華王如来<創造知>にしたがうはたらきをする文殊(もんじゅ)菩薩と、無量寿如来<学習知>にしたがうはたらきをする観自在(かんじざい)菩薩と、天鼓雷音如来<身体知>にしたがうはたらきをする弥勒(みろく)菩薩を配置するものであった」と。

そのちからとはたらきが、イメージ・シンボル・文字・作用をメディアとしたマンダラによってすべて配される。

「無垢なる知の原理となるものが、みなことごとく一つの場に集い会する」というのは、その根本の知のちからと、そのちからにしたがうもののはたらき、すなわち眷属を明らかににするものである。

「いのちのもつ無垢なる知のちからが心の本体であり、その根本の五つの知のちからから無尽の心のはたらきが生じ、そのはたらきのすべてが根本の知のちからの眷属となる。いま、心の本体である大日如来がさとりの主(あるじ)であるから、その主からあらゆる心のはたらきが生じている。無垢なる知を原理とする世界<金剛界>に、それらのはたらきのすべてがとらえられているが、その個々のはたらきは、大日如来の内なるさとりの価値の一部分である。このように、数多くの価値がことごとくみな、大日如来という一つのすがた、一つの味わいであって、実際にさとりに至るものであるから、集会(しゅえ)と名づける」と。

金剛界とは、如来部<大日如来>・金剛部<阿閦(あしゅく。梵名、アクショーブヤ:不動の意)如来>・宝部<宝生(ほうしょう)如来>・蓮華部<阿弥陀(あみだ。梵名、アミターユス:無尽の光輝)如来>・羯磨(かつま。梵名、カルマン:作用・活動・動作などの意)部<不空成就(ふくうじょうじゅ)如来>の五部の諸尊が所持するシンボル小道具、独鈷(どっこ)・三鈷・五鈷・宝輪・宝剣・宝珠・蓮華などを通じて表現・伝達される真理の世界である。

因みに、金剛とは永遠、不動、堅固、他を破壊するものという意味を表わす。

また、「いのちのもつ無垢なる知のちからによる確信と理解、それに自在なはたらきからなる多層の楼閣は高くそびえ、その建物には中間がなくて、知のちからのはたらきを為す基壇がある」。

これを注解していう、

「信徒がすでに集まっているなら、そこに説法の場が必要である。だから楼閣のすがたをもってその場を説明する。そのそびえる部分も基壇も、すべてが大日如来の身体の比喩であり、高くそびえて限りなく、その広がりも際限ない。際限がないから中間をとらえることはできない。視界に入るのは上部と足許のみである。このようにして、あらゆるところに身体が遍く広がり、説法の場である楼観もあらゆるところに存在していることになる」と。

つまり、いのちのもつ無垢なる知のちからの象徴である。

また、『大日経』にいう、

「その金剛を名づけて虚空無垢執(こくうむくしゅう)金剛という。いのちのもつ無垢なる知のちからを手にする金剛薩埵(さった)は、虚空のように無垢なる知のちからを手にするものをかしらとして、数限りない知のちからの諸原理と一緒であった」と。

これを注解していう、

「これらの虚空無垢から金剛薩埵などの数限りない知のちからの諸原理<金剛>は、みな大日如来のさとりを示す。その諸原理は数限りないからすべてを知ることは不可能であるが、たとえば、如来の知の十力にはそれぞれの知力に無数のはたらきがあり、そのはたらきの一つひとつを生の諸原理として計算し、そこに集まり会したものの数とでも云っておこう。

しかもこの大日如来のさとりの徳は、いのちのもつ無尽の無垢なる知のちからをもってするから、それらの一つひとつの知のちからとはたらきが生の諸原理であり、その一つの原理のすがたをもってさとりの諸相の一つの現われとする。そのすがたのかたちや色彩、そのものがそなえもつ性質の類いはみな、さとりによる無垢なる知のちからとはたらきの表象であるが、人びとのもつ個々のルーツと性質はその個別の表象のどれかと結びつくのである。もしも、修習者が身体と言葉と心とのはたらきをもって、その表象と合体するならば、一つの知の原理から真理の世界にアクセスすることになり、それは大日如来のさとりの世界に入ることである」と。

次に、『大日経』にう、

「胎蔵マンダラでは、中央の大日如来を前後にとりまいて、普賢菩薩・慈氏菩薩(弥勒菩薩)、文殊院の中央の妙吉祥菩薩(文殊菩薩)・除蓋障院(障害を取り除く知のちからの院)の除蓋障菩薩などのもろもろの菩薩のすがたが示され、それらが知の個々のはたらくすがたとして、真理の世界の全体を説く」と。

これを注解していう、

「次に菩薩のトップは、普賢菩薩・文殊菩薩・観自在菩薩・弥勒菩薩の四人である。無垢なる知のちからのはたらきを菩薩のすがた<胎蔵マンダラ>によって示すのだが、瞑想と知と慈悲とを兼ねるはたらきは、菩薩のすがたではなく、無垢なる知の成り立つ原理<金剛界マンダラ>として示すから、金剛薩埵(さった)菩薩・金剛宝(ほう)菩薩・金剛法(ほう)菩薩・金剛業(ごう)菩薩の別の名を授ける。しかし、知のすがたであれ、知の原理であれ、いずれも大日如来の内なるさとりのバリエーションであって、数限りない。

その数限りない菩薩のすべてが、さとりの本質であるいのちのもつ無垢なる知のちからの四つの根本のはたらきに集約してしまうのだから、それぞれが一つの教えであっても、その一つにアクセスすることによって、無垢なる知のちからへと導かれる者となることができるのだ。

この四つの菩薩は、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきの根本を成すものであり、かたよりや欠けるところがあってはさとりを成就できない。だから、四つの知のはたらきが揃うことによって、無限の価値が生じるのだ」と。

次に、『大日経』にいう、

「いわゆる太陽が過去・未来・現在の時を超えて輝いているように、生命が存在する限りそのいのちのもつ無垢なる知、生活知・創造知・学習知・身体知のちからは永遠に存在し、その知のちからをすべての生きとし生けるものがもっているから、そのはたらき、行動性(身体)・コミュニケーション性(言葉)・意思性(心)をみなが平等に発揮することができるのだ。

そのはたらきを為すもののうちで、胎蔵マンダラでは普賢菩薩をトップとし、金剛界マンダラでは金剛薩埵をトップとし、そのはたらきはいのちのもつ知のちからの存在を象徴する大日如来を根本とするから、尽きることなく、生の究極の原理である三つの活動性を盛んに示し現わすのである。

それらの三つの活動性は大日如来という一つの人格から生じるものではなく、それらの活動はすべての場所で平等に生じているものだから、そこに生起と消滅の区切りはない。しかも、いのちあるもののあらゆる身体行動のはたらき、あらゆるコミュニケーションのはたらき、あらゆる意思のはたらきによって、あらゆる場と時で、無垢なる知のちからのはたらきそのものが真理の言葉となって説かれるのだ。

それらの真理の言葉は、知の原理<金剛界マンダラ>や知のすがた<胎蔵マンダラ>を通して語られ、あらゆる場において、五つの根本の知がもたらす身近な性の喜び<清浄句>もまた菩薩の位であると説く。

いわゆる菩薩の修行において、初めに菩提心を発してから、修行の功を積み、さとりを得るまでの階位の最終段階<十地(じっち:十波羅蜜、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧・方便・願・力・智の十の実践の完成段階)>に至るまで、自らの生のもつ無垢なる知のちからによる清浄なるはたらきを用い、満足させることは可能なのだ。

煩悩に染まり汚れた有情類の生も、その寿命が終われば除かれ、また新しく芽生えることもある」と。

これを注解して次のようにいう、

「まさにあらゆる生が平等である教えを説くには、まず禅定によって、無垢なる知のちからのもつ自在なはたらきを体得させ、そのことによって感動させ、生きているものには境界がないことを、それまで経験したことのない事態によって現わすのだ。

無垢なる知のはたらきを象徴する普賢菩薩・金剛薩埵などに連なる、もろもろの慈愛に充ちたものたちは、大日如来のもつ無垢なる知のちからにしたがうものであるから、そこには境界がないことをすでに了解している。

しかもこのものたちのそれぞれは、それぞれが限りなく多くの知のはたらきの所定の位置に就いていて、そこに導かれる素質をもつものを、真理の世界へと引き入れる役割を果たすのだ。

この真理の世界の初心者たちに対して、大日如来であるいのちのもつ無垢なる知がそのあるがままのちからをあらわして、まず、獅子のごとくにその身を奮い立たせ、そうして吼える。まさに獅子吼して、いのちのもつあらゆる無垢なる知を知らそうとするから、まず、平等の身体から、あらゆる行動の規範を現わし、それをシンボルとする。次に平等の言葉から、あらゆる音声を現わし、それを真言とする。次に平等の心より、あらゆる無垢なる知のすがたを現わし、それを禅定とする。しかも、この身体と言葉と心の三つのはたらきには境界も限界もなく、推し量ることができない。だから、無尽荘厳(むじんしょうごん)と名づける」と。

(三)知の原理<金剛頂経の説>

また、『金剛頂経』に説く。

「あるとき、金剛遍照(へんじょう)如来<もちろん、人間ブッダのことであるが、そのブッダのさとりを普遍化すれば、いのちのもつ無垢なる知のちからの永遠の存在そのものであり、その知の輝きが世界をあまねく照らすので、その徳をたたえ、金剛遍照如来という。つまりは大日如来のこと>は、五智(ごち)よりなる四種の法身(ほっしん)<いのちのもつ五つの無垢なる知とは、一には大円鏡智(生活知)、二には平等性智(創造知)、三には妙観察智(学習知)、四には成所作智(身体知)、五には法界体性智(生命知)である。すなわちこれが五方仏、東方阿閦(あしゅく)如来・南方宝生(ほうしょう)如来・西方阿弥陀(あみだ)如来・北方不空成就(ふくうじょうじゅ)如来・中央大日如来である。四種のあるがままのいのちのすがたとは、一には自性身(生命としての存在そのもの)、二には受用身(じゅゆうしん、個体そのもののすがた)、三には変化身(へんげしん、遺伝による個性をもつすがた)、四には等流身(とうるしん、種としての同類のかたちを成すすがた)である。この四種のすがたには竪と横との二つの意味があり、横は自らの生存、竪は相互扶助である。深い意味については、さらに問え>によって成る知の本体と、その無垢なる知のちからによって為される、かたよった執着やすべての否定を離れたありのままの個体のはたらき<生の活動>、身体による自在な行動と、言葉に象徴される広義のコミュニケーションと、心による意思の発揮との三つの無垢なるはたらき、そのはたらきは十地の境地ですら及ばない。

それらを根本として、いのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきの原理が成立する。

その知の原理が『金剛界マンダラ』中央の「成身会(じょうじんね)」<大マンダラ>に次のように表記されている。

まず、中央の生命そのものがもつ知のちから<大日如来>は、四方にその生命活動の根幹となる四つの完成したはたらき<四波羅蜜(はらみつ※)>をしたがえる。

(1)代謝性<金剛>・(2)産生性<宝>・(3)清浄性<法>・(4)作用性<羯磨(かつま:業)>

※はらみつ。梵名、パーラミター:完成した状態の意。

上記、中央の東方には健やかなる呼吸や睡眠、それに自由闊達に生きるための生活にとっての知のちから<阿閦(あしゅく)如来>を中心に、生きるものにとって、もっとも基本的な権利となる四つの生活原理<四親近(ししんごん)菩薩>を四周に配する。

(1)生存<金剛薩埵※>・(2)自由<金剛王>・(3)慈愛<金剛愛>・(4)喜び<金剛喜>

※さった。梵名、サットヴァ:さとりを体現するものの意。

南方には衣食住を生みだすという創造の知のちから<宝生(ほうしょう)如来>を中心に、生きとし生けるものの行なう四つの生産原理<四親近菩薩>を四周に配する。

(1)生産物<金剛宝>・(2)技術と美<金剛光>・(3)相互扶助<金剛幢(どう)>・(4)満足<金剛笑>

西方には万物の違いを観察し、学習する知のちから<阿弥陀如来>を中心に、生きとし生けるものの四つの学習原理<四親近菩薩>を四周に配する。

(1)真理<金剛法>・(2)応用<金剛利>・(3)原因と条件<金剛因>・(4)表現と伝達<金剛語>

北方には作業・所作・遊びなどの身体活動による知のちから<不空成就如来>を中心に、生きとし生けるものの四つの行動原理<四親近菩薩>を四周に配する。

(1)行動<金剛業>・(2)守り<金剛護>・(3)攻め<金剛牙>・(4)技(わざ)<金剛拳(けん)>

以上の知のちからとその活動の原理をもつて生けるものは、その生の内なる感情の発露として、四つの振る舞い<内の四供養菩薩>を行なう。

(1)喜び<金剛嬉>・(2)飾り<金剛鬘(まん)>・(3)歌<金剛歌>・(4)舞い<金剛舞(ぶ)>

これらの五つの無垢なる知のちから<如来>と、中心の大日如来が行なっている根源の四つの生命活動、それに生活・創造・学習・身体の各、知のちからのはたらき<菩薩>に伴う生の十六の原理、それに知による感情の四つの振る舞いの計29の諸尊が中央の一大円輪を構成する。

その一大円輪を、万物の質料である、固体<地大>・液体<水大>・エネルギー<火大>・気体<風大>の四つが空間<空大>の四方から支える。もちろん、一大円輪そのものが意識<識大>であるから、これで六大となる。この六大によって、物質も生命も形成されている。

そのような無窮の空間に、無数の生きとし生けるもの<賢劫(げんごう)一千仏>が存在し、それらが四つの物質現象<外(げ)の四供養菩薩>によって癒されている。

(1)香り<金剛香>・(2)花<金剛華(げ)>・(3)灯り<金剛燈>・(4)潤い<金剛塗(ず)>

また、生きとし生けるものすべてがそれぞれの持ち前の知覚をもち、その知覚の四つのはたらき<四摂(ししょう)菩薩>によって世界をとらえている。

(1)知覚の鉤(かぎ)に引っ掛け<金剛鉤(こう)>・(2)感受の索(なわ)で引き寄せ<金剛索(さく)>・(3)イメージの鎖(くさり)につなぎ<金剛鎖(さ)>・(4)感情の鈴(すず)を打ち振る<金剛鈴(れい)>

これらの知覚のプロセスの四つのはたらきと、癒しとなる四つの物質現象のはたらきを司る計8つの菩薩を、前述の29諸尊にプラスして、計37諸尊によって象徴される37の知の原理が、マンダラに表記され、ありのままのすがたをもつもの<法身>があるがままに活動<行動・コミュニケーション・意思>している世界の本質が、ここに明かされる。

これらの37の諸原理が、それぞれにいのちのもつ無垢なる知のちからとはたらきであり、この原理が規範となって、生きとし生けるものすべてが行ないを為し、その無量無辺の生の行ないによって、世界が成り立つ。

その無垢なる行ないをするものたちよって、生が受け継がれてきたから、過去・未来・現在の世代の利益と安楽も保障される。そこに中断はない。

この知の際限のない行ないのすべてを、時空の神々<二十天>が見守っている。神々もまた知によって創造されたのである。

知が神格を得て宇宙に存在するものになったのだ。

  1. 万物の創造神<那羅延天(ならえんてん。梵名、ナーラーヤナ:水に住むもの>)
  2. 童子神<俱摩羅天(くまらてん。梵名、クマーラ:童子>
  3. 諸魔を打ち砕く神<金剛崔天(こんごうざいてん)>
  4. 宇宙と言葉の創造神<梵天(ぼんてん)>
  5. 戦闘神<帝釈天(たいしゃくてん。梵名、シャクラ:強き者)>
  6. 太陽神<日天>
  7. 月神<月天(がってん)>
  8. 華飾神<金剛食天(こんごうじきてん)>
  9. 土星神<彗星天>
  10. 火星神<熒惑天(けいわくてん)>
  11. 破壊と滅亡の神<羅刹天(らせつてん。梵名、ラークシャナ:悪魔)>
  12. 風神<風天>
  13. 出産神<金剛衣天(こんごうえてん)>
  14. 火神<火天(かてん)>
  15. 福徳神<毘沙門天(びしゃもんてん。梵名、ヴァイシュラヴァナ:多く聞く者)>
  16. 大地を造る神<金剛面天(こんごうめんてん)>
  17. 死後の神<焔摩天(えんまてん)>
  18. 制御神<調伏天(ちょうぷくてん)>
  19. 欲望神<毘那夜迦天(びなやかてん。梵名、ヴィナーヤカ:無上の喜び)>
  20. 水神<水天>

このように堅固なる知の原理によって、生のはたらきがある。つまり、いのちのもつ無垢なる知のちからによる、休むことのない行動とコミュニケーションと意思のはたらきによって、自他があるがままの生の際限のない楽しみを享受しているのだ。

一切万有をありのままにとらえる知の原理を阿閦如来が示し、あらゆる存在は平等なるものとする知の原理を宝生如来が示し、あらゆる存在の違いを観察する知の原理を阿弥陀如来が示し、活動することによって為すべきことを成す知の原理を不空成就如来が示し、それらの清浄なる原理をあらゆる生命がもつことを大日如来が示す。それら原理は金剛のごとくに堅固であるから壊れることがないとも説く。

この原理に身をまかせれば、煩悩が断てる。

また、無垢なる五つの知のちからは、大日如来の無量の徳の下(もと)、それぞれの知のちから<如来>が、それぞれに四つのはたらき<菩薩>による徳をそなえ、その徳によって、いのちをもつあらゆる個体は、無垢なる知のちからによるあるがままの楽しみを自ら享受するから、永遠に堅固な教えの下にある。

この知の原理が成す世界では、いのちをもつものすべてのはたらきが共通の慈悲にもとづくから、それらのものが大日如来の大いなる慈しみの下にあることが明らかにされる。

そのような世界は、ことごとくが無垢なる知のちからを本性とするから、その生における、行動・コミュニケーション・意思はその本性にしたがって、あるがままに開花し、ありのままの各種の徳を具えることになる。

それらの無量の徳と、数限りない無垢なる知のちからとその無尽のはたらきによって飾られた世界、それがマンダラである。

だから、金剛は生を知の原理によって表わし、清浄(胎蔵)は存在の真理を知のすがたによって表わすが、双方のそれ自体の本性は同じものである。

したがって、マンダラの諸尊はそれぞれが自ずと理と知を兼ね具え、その大悲による願いと行ないとによって、すべての生けるものに必ず徳と知を授ける。

その願いと行ないは普賢菩薩によって象徴される、生活の根源を成す無垢なる知のちからのはたらきであり、そのはたらきをすべての菩薩も具えている。

それこそが、いのちのもつ無垢なる五つの知の光であり、その光に照らされて生あるものが過去・未来・現在にわたって、平等に生きている。

また、無垢なる五つの知のちからをもつ、いのちあるものすべてはその身体が、固体・液体・エネルギー・気体・空間の五つの質料によってかたちづくられたものであり、それらの物質とその物質を取り込む空間とによって、あらゆるものの体内では休むことなく代謝と産生活動が行なわれ、いのちが維持されているから、そこに知の根源がある。(だから、物質が知のちからを発揮していることになる)

その物質のはたらきがしばらくも止むことがないというは、そこに知のもつ平等の活動、行動・コミュニケーション・意思の三つのはたらきがあるということであり、その活動は絶え間なく、そのはたらきによって、自他を利益し、安楽ならしめているのだ。

このように、知は意思のはたらきであり、その意思の本体は物質である身体にある。この関係は普遍であり、だから、みな平等である。つまり、物質を根源とする無量の知が、身体と心にひそみ、生きとし生けるものの世間と、その生きとし生けるものが住む環境と、それらのものが共に相互扶助によって平等に生きている世界とにあまねく満ち、おかげでいのちのもつ無垢なる知のちからの発露である、身体行動・コミュニケーション・意思の三つのはたらきはいっときも止むことがない。

さて、ここにいのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきの象徴として挙げた諸尊の梵文の聖句、つまり真言の一々の文、一々の句は、今まで述べてきたように、大いなる知の母胎を構成する個としての意味をもつものなのだ。しかし、並みの者はその梵文の字面を覚えるに過ぎないから、ほんとうの意味を知らない。賢者は、表面の語句の意味だけをもって理解したとしてはならない。『大日経』をしっかりと学べば、真言のほんとうの意味を知ることができるのだから、おのれの非力によって、疑ってはいけない、疑ってはいけない」。

真言の教法
(一)自然のままの教え<法爾自然(ほうにじねん)の法門>

問い、すでにいのちのもつ無垢なる知<第十住心>の所在、およびいのちの為す活動、行動<身体>・コミュニケーション<言葉>・意思<心>の数々の原理などを知った。では、この真言の教えは誰が作ったものなのか。

答え、これは諸仏と諸天などが作ったものではない。もろもろの法は自然にもともとあったものである。いのちのもつ無垢なる知のちからというものは、もともと存在しているものである。その知のちからの為す活動はみな等しく、そこから発せられる真実の言葉は永遠のものである。永遠であるから移らず、変化することがない。それはありのままのものだから、現象したものでもない。もし生じたものであるならば、現象のように生起・保持・変化・消滅と移り変わって、永遠性がなく、実体もない。そのようなものなら真実の言葉とは名づけない。

だから、作るものでも、作られるものでもなく、たとえつくるものがあっても、誰がそれを喜ぶだろうか。

そのようなことだから、この真言の教えは、もしブッダ(目覚めたもの)が世に出ていても、出ていなくても、もしすでに説かれていても、説かれずにいても、また現に説かれていようとも、ありのままにもともと存在しているものは永遠である。

だから、この教えは定まっていたことであり、いのちをもつものすべてが道を同じくしているから、その無垢なる知のすがたも同じであり、そのことを表記する胎蔵マンダラの個々のすがたもありのままのものである。

(二)付法伝来

問い、すでにありのままにして、そこに存在していたものであり、人が創作したものでないことを知った。もしそうであれば、誰がそれを伝えたのか。

答え、初め大日如来より、下(しも)は青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果(けいか)和尚に至るまでの七代の大阿闍梨がいる。

(1)いのちのもつ無垢なる知の光を象徴する大日如来(2)無垢なる知の原理によって生きるものすべてを象徴する金剛薩埵(3)無垢なる知を論理化した龍猛(龍樹)菩薩(4)龍智菩薩(5)金剛智三蔵(6)大広智三蔵(7)青龍寺の恵果和尚である。このような大阿闍梨等が転々として授けてきたのである。

(三)あるがままの説法<真言の隨縁説法>

問い、すでに付法の伝来を知った。では、最初の説法はどのように説かれたのですか。

『大日経』にいう、
「いのちのもつ無垢なる知に目覚めた、一切知者、一切見者は、その知を世に現わして、種々の道を説き、種々の願望にしたがって、また種々の生きもののいのちに合わせて、その無垢なる知のちからをもって、あるがままの生を説くのである」と。

これを注解していう、
「この意味は、いのちのもつ無垢なる知はブッダが作ったものでも、諸天が作ったものでもない。あるがままのものは、自ら無垢なる知のちからをもって世に現われ、自らを利益する。それらの生けるものの行なう、行動・コミュニケーション・意思の三つの常なる活動は、自らのいのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきによるから、すべての生きとし生けるものの個体のその一生の変化の中にあっても、あるがままに成しとげることができ、欠けることがない。

しかし人は、そのように覚らないから、悪業のうねり狂う生死(しょうじ)の海を漂流すするのである。もしよく自らを知り、自らを見るときには、自らのもつ無垢なる知に目覚めるだろう。それを一切知者、一切見者と名づけるのだ。

だから、このような知見はブッダ(目覚めたもの)が自ら作るものではなく、また他に伝授するといったものでもない。

ブッタは道場に坐して、このようなことが分かっていて、すべての世界はもとよりこのかた常に無垢なる世界であると明解に知って、即時に業あるものを慈しみになる。どうして、人びとは無垢なる知のすぐそばにいながら、自ら覚ることができないのかと。

だから、このようなわけで、いのちのもつ無垢なる知のちからがその象徴としての如来のすがたをとって以前から現われ、種々の道と教えを示してきた。

それは、種々の願いを求める心のはたらきにしたがって、種々の文句、方言によって、自在に無垢なる知を示してきたのだ。

人びとはその素質に応じて、それらを感受することができる。しかし、その事態はあるがままのことである。

あるがままに自らが自らのもつ無垢なる知のちからからのサインに気づくのだ。

しかし、そのサインが、幻(まぼろし)・陽炎(かげろう)・夢・映る像・蜃気楼(しんきろう)・音の響き・水中の月影・水のあぶく・空華(くうげ)・火の輪の十喩(じゅうゆ)のように、わけもなくつくられたものが心象となって、より煩悩を増すのなら、それは無垢なる知ではない。

また、ブッダは、人びとが将来において宗教的素質を失い、俗なる真理に陥ってしまうことを懸念され、次のように説かれる。

『経に書かれた文字、すなわち無垢なる知の言葉のちからを求めよ』と。

世間の文字言語は日常的なものだから、いのちのもつ無垢なる知の言葉のちからによってそれを加持するのだ。

問い、すでに加持されるところを知りました。それではどのような法で加持するのですか。

答え、だから、ブッダは次にいう、

『いのちのもつ無垢なる知のちからは、無量の長い時間をかけて、まず世界と意思を伝えるための言葉を創造し、次に

四聖諦(ししょうたい:生は苦である・苦の原因は煩悩にある・苦の原因を滅する・苦の原因を滅する道の四つ真理)と、

四念処(しねんじょ:身は不浄である<身>・感受は苦である<受>・心は無常である<心>・すべての存在には固定した実体がない<法>と観察すること)と、

四神足(しじんそく:願い・精進・念・思惟によって、心身を強化するちから)と、

十力(前述)と、

六波羅蜜(善き行為を人に施すこと<布施>・煩悩を戒めること<持戒>・人を損なわないこと<忍辱>・教えを求めて努力すること<精進>・心を乱さないこと<禅定>・あるがままであること<知恵>の六つの完遂)と、

七菩提宝(七覚支、しちかくし:四念処による自己観察・善の選択・励み・喜び・心身の軽やかさ・集中心・執着からの脱皮の七つの覚りの技法)と、

四梵住(しぼんじゅう、四無量心ともいう:すべてのものを慈しみ<慈>、すべてのものと苦しみを分かち合い<悲>、他のものが楽を得るすべてを喜び<喜>、他のものに対してすべて心が平等であること<捨>の四つの限りない心)と、

十八不共仏法(人間ブッダが具える、十力/四無畏:ブッダが教えを説くにあたって、その無垢なる知のちからによりどんな難題も畏れず、迷いがなく、障りがなく、苦がない、という四つの畏れがないこと/三念住:四念処を観察する聞・思・修の三つの知恵と、知恵とともに存在する心どうしのはたらきと、知恵の対象としての身・受・心・法との三つの思念/大悲との計十八の独自の徳性)との学習を積んできた。

つまり、いのちのもつもろもろの無垢なる知が、その福徳のすべてと、その誓願と、その加持とをもって、多様な種のすがたかたちを成して生きてきた』と。

この意味は、いのちのもつ無垢なる知が無量の長い時間をかけ、功徳を集め、しかもあらゆるところにあまねく種々なるすがたかたちを現わして、その知のちからを示してきたということである。

だから、帝釈天が文法論をつくって、一言のうちにあらゆる意味をふくめたように、一々の言葉や名称が成立するにしたがって、すべての意義が成就してきたのだから、集められた一々の功徳がそのまま無垢なる知のすがたであり、法の本性であるから、作れたものではないのだ」と。

(四)梵字による真言の教え<真言の字門>

(仏教は古代インドで誕生した。したがって、その教えが経となって最初にまとめられたときの言語は梵字であった。その梵字に還って経を学ぶ、そこに教えの真実があるとするのが真言である。)

真言教法とは、どのようなものなのか。説いていう。

まず、基本の字母(じも:梵字の基本的な字音)があり、それぞれの字に十二音声の転換があって字を生じる。このそれぞれの十二をもとにして、一字で一音節、二字で一音節、三字で一音節、四字で一音節をなす字が展開する。すべて合わすと一万余りもある。

この一つひとつの文字に、無量無辺の顕(けん:論理による教え)密(みつ:マトリックスによる実在世界の表示)の教義を具える。

一つひとつの声、一つひとつの字、一つひとつの実相は真理の世界にゆきわたり、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきによって、生きとし生けるものすべての活動が平等であるとイメージすることの教えや、精神統一のために唱える呪文の言葉となって、その言葉の受持と理解、呪力の実現となる。

生きとし生けるものはそのもののもつ素質によって、顕・密の教えとなって、その無垢なる知を開示している。

密なる教えとは『大日経』及び『金剛頂経』であり、顕教とは人間ブッダの説くところの五乗(人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)五蔵(経・律・論・般若波羅蜜多蔵・陀羅尼蔵)などの経である。

問い、従来の経には、梵字の字母を四十二字と説いているが、この『大日経』に説く四十九字とは何が別なのか。

答え、従来の経の説く梵字の教えは末端のものであり、また基本の字母であっても、表面的な意味を説くだけで、深い字義に触れていない。

問い、梵字の字母は、世間の子供もみなことごとくが読み習っている。この真言の梵字の教えは何が別なのか。

答え、今、世間で読み習っている悉曇章(しったんしょう:梵字の綴字法を説いたもの)というのも、本来はいのちのもつ無垢なる知のちからによるところの言葉であったのだが、梵天が作成したという時代から、次々と伝授されて世間に流布している間に、字の真実の意義が失われてしまったものなのだ。

だから、世間で読み習っているのは、物の見かけから生じる語<相>、夢想から生じる語<夢>、妄想から生じる語<妄執>、空想から生じる語<無始>の言説に染まったものであり、真実の言説を得ない。もともとの字の意義の失われた言説は、すべてこれ妄語である。その妄語が今や世間にはびこり、人びとを苦しめる原因となっている。

もし、人びとがいのちのもつ無垢なる知のちからから発せられる真実の言葉に目覚めるときは、あらゆる妄語によって引き起こされている罪から解放され、真理を得る。それは、妄語を語ると迷いの闇に苦しみ、真実の言葉を語ると苦しみが除かれるように、言葉は毒にも薬のもなるといったことである。

問い、ではどのようにして、真実の言葉のありのままの意義を知るのか。

答え、「ア」を例にとると、五転<ア(発心)・アー(修行)・アン(菩提)・アク(涅槃)・アーク(利他)>にそれぞれ、もともと存在していたこと・静まっていること・際限のないこと、などの意味がある。

また、「ア」字が展開する言葉によって、もろもろの真理の意味と、原因の意味と、結果の意味と、不二の意味と、ありのままのすがたの意味とを説く。

すなわち、これは真実の言葉がいのちのもつ無垢なる知のちからの表われであるということなのだ。

また、「ア」の五転そのものが、いのちのもつ無垢なる五つの知、生命知・生活知・創造知・学習知・身体知の表われなのだ。

また、「ア」字の一字をもって因行証入の方便となり、この一字に百二十の意味及び無数の意義を具える。いちいちは、『守護国界主陀羅尼経』に説く。この字義を解するのを象徴して法自在王菩薩及び大日如来と名づける。

これ以外の一つひとつの字義もまた、このようなことであり、いのちのもつ無垢なる知のちからのもろもろのはたらきが、無量の雲のように湧き上がるから、限りない時を費やし、一つひとつの字の意味を説こうとするのに、限りない時が尽きてしまうが、真実の言葉は無量であるから、ありのままに字義を知ればよいのだ。

(五)秘密の名義

問い、大日如来の所説を密教と名づけ、釈迦の所説を顕教と名づけるのならば、釈迦の説の中にも真言または密教と呼ばれるものがあるが、これとどう区別するのか。

答え、釈迦の所説の真言はその多くの語句からえらんだものであり。その真言の意味も宗教的素質に合わせた範囲にとどまる。

従来の経にも秘密の名があるが、それぞれ望むところにしたがって使用しているにすぎない。

たとえば、『律蔵』は世間の仏教以外の外道の教えを秘密と名づけ、『法華経』は声聞乗と縁覚乗を引き込むのを秘密と名づけ、『涅槃経』は仏性を示して秘密と名づける。

世間の仏教以外の経典にも秘密の教えとするものがあり、それぞれに秘密が好きで名づけているにすぎない。

それらの小さな秘密に比べて、『大日経』では「大乗のなかの最高位の心が明らかになって、いのちのもつ無垢なる知のちからが繰り広げる世界に至る。その知のちからが大いなる秘密なのである」と説く。

このように秘密の集約に大小があるように、真言にも大小がある。だから、『菩提場経』にいう、「我をば真言と名づけ、また大真言と名づく」と。

ここで初めにいう真言とは、人間ブッダが説く真言であり、次の大真言とは、無垢なる知のちからによって、生きとし生けるものがありのままのすがたをもって活動するところの真言である。

(六)真言と大真言との区別

問い、真言と大真言とは何が別なのか。

答え、たとえば大乗と小乗とのように、浅略の教えによれば、浅深は不同である。

問い、どのように不同なのか。

答え、まず初めの「ア」字について解釈すれば、いのちのもつ無垢なる知のちからが説く言葉にはみな「ア」字があり、これを阿(ア)字本不生という。もともとあるものだから不生なのであり、生じないことの願いの象徴となる。だから、

世間のまじないとしての真言は、寒熱などの病除けとして不生と説く。

世を守護する四天王の真言は、流行病などが起こらないように不生と説く。

帝釈天の真言は、十悪業と災いを示して、それらが起こらないことを明らかにする。

梵天の真言は、むさぼりの心が起こらないように不生と説く。

大自在天(インド神話における世界創造神)の真言や声聞の真言は、わたくしはすでに苦を知り、集を断じ、滅を証し、道を修し、四聖諦を体現し尽くしたとする知と、それらを体現し尽くしたから、もう体現すべきものはないとする知を集約して不生と説く。

縁覚の真言は、十二因縁の生起することがないことを集約して不生と説く。

いのちのもつ無垢なる知のちからのもろもろのはたらきを為す菩薩の真言は、それぞれの通達するところのものに集約して不生と説く。

法相宗の他縁乗(慈悲のはたらきをもってすべてのものを教え導き、救済する教え)は、実体としての自我は存在しないとする個体の存在の空と、すべての存在は原因と条件によって生じているから自体の本性がないとする空との二空と、実際の煩悩による障害と認識対象による障害の二障とが不生であることを集約して存在の真理を明らかにする。

三論宗の覚心不生乗はもろもろの戯論の不生を集約して意味を説く。

天台宗の一道無為乗は根源的な無明が不動であることを集約して不生を明らかにする。

華厳宗の極無自性乗は・・・。(以下、欠文)

十住心論巻第十 おわり
※補注「胎蔵マンダラ」の世界

あらゆる生命は広義の意味での知を有している。その知によって世界が認識される。

だから、知によって世界は意味をもち、そこに世界像もある。では、その知に規範はあるのか、つまり、知の根本となる事柄があって、その文脈にしたがって世界はその像を結んでいるのかが気になる。

いのちの知の光があるから、その光が世界を照らす。

その光の無垢なる知のちからとはたらきによって、生きとし生けるものすべてがあるがままに活動し、そのありのままの個体のすがた(種)とそれらが成している全体(生態系)とが世界に投影される。

その影像をとらえ、各種メディア(イメージ・シンボル・文字・作用)によって表記し、世界像としたものがマンダラである。

論理ではなく、視覚化されたホリスティックな思想表現である。

「胎蔵マンダラ」は知によって存在する生のありのままのすがたを図示し、「金剛界マンダラ」は知のあるがままの原理を図示する。

[胎蔵の構成]

図の中央に位置するのが、《中台八葉院(ちゅうたいはちよういん)》である。いのちのもつ無垢なる知のちから(如来)とそのはたらき(菩薩)の根本が、八弁の蓮の花によって示される。

この蓮の花を、自然界を形成している五つの質料(固体・液体・エネルギー・気体・空間)《五色界道(ごしきかいどう)》が取り囲む。

いのちも同じ質料によってその個体を形成する。原始海水の中で無機質の粒子が結合し、相つぐ拡大と付加と継承を繰り返し、巨大分子となって、やがて細胞となり、知を有することになったのだ。

次に、八弁の蓮の花によって象徴される知といのち、すなわち個体はその身体を生育知《遍知院(へんちいん)》と内分泌物質《持明院(じみょういん)》のちからによって維持する。この精神と物質の根源的な知のちからによって、いのちが上下から支えられる。

身体の健やかな成長と維持があってこそ、知の活動は可能なのだ。

次にまた、感性《観音院(かんのんいん)》と理性《金剛手院(こんごうしゅいん)》によって、知の活動が両側から支えられる。

この慈悲と理知とによって、知のバランスが計られる。

さらに、これらの上部に無垢なる知に目覚めた人間ブッダとその弟子たち《釈迦院(しゃかいん)》と、創造性の知《文殊院(もんじゅいん)》とを重ね、人間精神のゆるぎない向上性による知の上昇を記す。

また、下部には万物の構造《虚空蔵院(こくうぞういん)》と、物質・エネルギー代謝《蘇悉地院(そしつぢいん)》とを二段に重ねて、生の物質的基盤を記す。

これらの全体を大地《地蔵院(じぞういん)》と文明《除蓋障院(じょがいしょういん)》とのたくましい腕がしっかりと抱きしめる。

この構図の中に知のありのままのすがたがあり、そのすがたを、時空と神話の神々《最外院(さいげいん)》が見守っている。

その天体と古代インドの神々もまた、知が生みだしたものである。

[各院と諸尊の意味]
生命根本知センター《中台八葉院》

〇生命知のちから<大日(だいにち)如来>
  1. 生活知のちからとイメージ<宝幢(ほうどう)如来>
  2. 生活知のはたらき<普賢(ふげん)菩薩>
  1. 創造知のちからとシンボル<開敷華王(かいふけおう)如来>
  2. 創造知のはたらき<文殊(もんじゅ)菩薩>
  1. 学習知のちからと文字<無量寿(むりょうじゅ)如来>
  2. 学習知のはたらき<観自在(かんじざい)菩薩>
  1. 身体知のちからと作用<天鼓雷音(てんくらいおん)如来>
  2. 身体知のはたらき<弥勒(みろく)菩薩>
生育知院《遍知院》

生命は一生の周期(誕生から死)にしたがい、環境に適応し、成長・変化し、子孫を残す。それらの生を可能にしているのが個体のもつ、根源的な知のちからとはたらきである。

  • 根源知力<三角智院>
  • 母胎<仏眼仏母(ぶつげんぶつも)>
  • 遺伝<七俱テイ仏母(しちくていぶつも)>
  • 生命力<大勇猛(だいゆうみょう)菩薩>
  • 長寿<大安楽不空真実菩薩>
内分泌物質院《持明院》

人間を含め、あらゆる動物(水棲・両性・爬虫・鳥・昆虫の類)の身体と情動を制御・調整しているのは、微量の内分泌物質(ホルモン)であることが今日の科学によって知られている。その根底の上に、人間の意識(知)もある。持明院に登場する<明王>はその根底の物質のはたらきに相似する。

  1. 松果体(二十四時間リズム/性機能発達/新陳代謝促進/繁殖等)<般若菩薩>
  2. 副腎(性ホルモン調節/ストレス反応調節等)<大威徳(だいいとく)明王>
  3. 甲状腺(細胞代謝・呼吸・産生促進/変態等)<勝三世(しょうざんぜ)明王>
  4. 下垂体(他ホルモンの制御/成長ホルモン分泌)<降三世(ごうざんぜ)明王>
  5. 視床下部(下垂体調節/体温調節/飲食欲・性欲・情動等の制御)<不動明王>
感性院《観音院》と理性院《金剛手院》

物事の理解の仕方には二通りある。一つはイメージによって物事を把握し、直感的にすべてを理解する方法。もう一つはイメージでとらえたことを概念によって、言語化し、その文脈と論理によって物事を理解する方法である。

今日の脳科学ではそのことを次のように説明している。まず、現実に起きていることを三次元的にとらえ、それをイメージ化するのが右脳であり、そのイメージを文字や数字に変換するのが左脳であると。したがって、文字や数字を用い、物事の意味を判断し、表現・伝達するのが左脳となる。

そのような左脳の言語による知の活動が理性であり、右脳のイメージによる知の活動が感性である。それらの二極の知の活動によって、人間は物事を理解・判断しているのである。

感性院(右脳)
  1. 右脳<蓮華部発生(れんげぶほっしょう)菩薩>
  2. 感性<大勢至(だいせいし)菩薩>
  3. 調伏<ブリクテー菩薩>
  4. 慈愛<聖(しょう)観自在菩薩>
  5. 母性<ターラ菩薩>
  6. 正義<大明白身(だいみょうばくしん)観音>
  7. 生存力<馬頭(ばとう)観音>
  8. 子宝<大随求(だいずいく)菩薩>
  9. 勇気<サッタバ大吉祥菩薩>
  10. 繁殖<ヤソーダラー菩薩>
  11. 豊饒<如意輪(にょいりん)観音>
  12. すばらしさ<大吉祥大明菩薩>
  13. 麗しさ<大吉祥明菩薩>
  14. 至福<寂留明(じゃくるみょう)菩薩>
  15. 家族の守護<被葉衣(ひようえ)菩薩>
  16. 衆生の救済<白身(びゃくしん)菩薩>
  17. 裕福<豊財(ぶざい)菩薩>
  18. 幸福社会<不空羂索(ふくうけんじゃく)菩薩>
  19. 潤い<水吉祥菩薩>
  20. 奉仕<大吉祥変菩薩>
  21. 無事<白処(びゃくしょ)観音>
理性院(左脳)
  1. 左脳<発生(はっしょう)金剛部菩薩>
  2. 理性<金剛鈎女(こうにょ)菩薩>
  3. 科学<金剛手持(しゅじ)菩薩>
  4. 存在<金剛薩埵>
  5. 知性<金剛鋒(ふ)菩薩>
  6. 技術<金剛拳(けん)菩薩>
  7. 進歩<忿怒月テン(ふんぬがってん)菩薩>
  8. 光<虚空無垢持(こくうむくじ)金剛菩薩>
  9. 原理<金剛牢持(ろうじ)菩薩>
  10. エネルギー<忿怒持(ふんぬじ)金剛菩薩>
  11. 宇宙<虚空無辺超越(ちょうおつ)菩薩>
  12. 観測<金剛鏁(さ)菩薩>
  13. 法則<金剛持(じ)菩薩>
  14. 実証<持金剛利(じこんごうり)菩薩>
  15. 理論<金剛輪持(りんじ)菩薩>
  16. 解説<金剛説(せつ)菩薩>
  17. 知楽<チャク悦持(ちゃくえつじ)菩薩>
  18. 論議<金剛牙(げ)菩薩>
  19. 真実<離戯論(りけろん)菩薩>
  20. 方式<持妙(じみょう)金剛菩薩>
  21. 粗大な存在要素<大輪金剛菩薩>
人間ブッダとその弟子院《釈迦院》

二千五百年前にガウタマ・シッダールタのさとりから、仏教が誕生した。そうして、一千年後にその仏教思想の延長上にある密教が、さとりによってとらえた世界の本質を図示するに至った。したがって、世界の本質に最初に気づかせてくれた人間として、ブッダ(目覚めたもの)とその弟子たちがマンダラの一角に配される。歴史上に実在したその人たちは、その行ないを律し、知の根本をフルに駆使し、慈悲(感性)と方便(理性)のバランスによって世界の真理をとらえ、その真理をもって生きることを説き、実践したものたちである。

  1. 無垢なる知のちからに目覚めた者<釈迦如来>
  2. 学習知のはたらき<観自在菩薩>
  3. 実践知のはたらき<虚空蔵菩薩>
  4. 自在力<大目犍連(だいもくけんれん。梵名、マハーマウドガリヤーヤナ)>
  5. 論理力<須菩提(しゅぼだい。梵名、スブーティ)>
  6. 禁欲力<迦葉(かしょう。梵名、マハーカーシャバ)>
  7. 知力<舎利弗(しゃりほつ。梵名、シャーリプトラ)>
  8. 文献力<狗キ羅(くきら。梵名、マハーカウシュティラ)>
  9. 記憶力<阿難(あなん。梵名、アーナンダ)>
  10. 議論力<迦旋延(かせんねん。梵名、ヤーティヤーヤナ)>
  11. 規律力<優婆梨(うばり。梵名、ウバーリ)>
創造性の知院《文殊院》

あらゆる生物は、地球上に生まれ、生きているだけですでに根源的な創造活動をしているといえる。それは一に、すべての生物が何十億年の生を受け継ぎ、進化してきた存在であるということであり、二に、その多様な種の個体の存在が、衣食住の生産・創造活動を行ない、それらを相互扶助し、生態系を保全しているということである。そのような、生まれながらの創造性をすべての生命が有しているから、美しい自然がある。

  1. 創造知のはたらき<文殊菩薩>
  2. 才能のはたらき<普賢菩薩>
  3. 表現のはたらき<観自在菩薩>
  4. (表現)
  5. 印象<光網(こうもう)童子>
  6. 装飾<宝冠童子>
  7. 美<無垢光(むくこう)童子>
  8. 心象<月光菩薩>
  9. ハーモニー<妙音菩薩>
  10. 品性<瞳母魯(とむろ)天>
  11. (才能)
  12. 明晰<髻設尼(けいしに)童子>
  13. 鋭敏<烏波(うば)髻設尼童子>
  14. 素質<質多羅(しったら)童子>
  15. 才覚<地慧幢(ちえとう)童子>
  16. 感覚<請召(しょうじょう)童子>
  17. コラボレーション<使者衆五位>
万物の構造院《虚空蔵院》

微量の脳内物質が分泌されることによって、昆虫や魚、爬虫類や鳥、それにほ乳類のすべての生物の成長と環境適応、情動と繁殖行動などがコントロールされているという。したがって、感情は意識の産物ではなく、究極的に物質の化学反応としての産物なのである。つまり、感情は物質によってコントロールされているのだ。

成るようにしかならない。そのことに気づけば、分別による迷いはない。また、生命と同様に物質も生きているとさとる。

万物の究極のすがたである素粒子とDNAの極微の世界に、今日の科学の目が到達した。その構造が世界を一如として見る目をわたくしたちに与えてくれた。そこで、自己を客体化して、そのような自然と自身が同体であると目覚めることができれば、そこに無辺の世界が広がる。

この世界は刻一刻と変化し、同じすがたをしていないし、あるがままである。

  1. 万物の構造<虚空蔵菩薩>
  2. 生命の究極構造(DNA)<千手千眼(せんじゅせんげん)観自在菩薩>
  3. 物質の究極構造(素粒子)<金剛蔵王菩薩>
  4. (生命存在の探究)
  5. 相互扶助<檀(だん)波羅蜜菩薩>
  6. 遺伝<戒(かい)波羅蜜菩薩>
  7. 共生<忍辱(にんにく)波羅蜜菩薩>
  8. 生態系<精進波羅蜜菩薩>
  9. ありのままの存在<禅那(ぜんな)波羅蜜菩薩>
  10. (物質存在の探究)
  11. 質料<般若波羅蜜菩薩>
  12. 法則<方便波羅蜜菩薩>
  13. 物理<願(がん)波羅蜜菩薩>
  14. 量子力学<力(りき)波羅蜜菩薩>
  15. あるがままの存在<智(ち)波羅蜜菩薩>
物質・エネルギー代謝院《蘇悉地(そしつぢ)院》

代謝とは、生命が体内で行なう一連の化学反応のこと。このはたらきによって、生物は個体を維持し、成長し、生殖できる。

この代謝には、有機物質を分解(発酵・呼吸・光合成)することによってエネルギーを得るはたらき「異化」と、そのエネルギーを使って有機物質を合成するはたらき「同化」がある。この見事なはたらきによって、多様な生命が様々な環境のなかで、その身体を維持し、活動できる。そこに知の源流がある。因みに、蘇悉地とは梵語のスシッディの音写語で、見事に完成されたとの意味をもつ。

  1. 代謝活動<不空供養菩薩>
  2. 解毒作用<孔雀王母(くじゃくおうも)菩薩>
  3. 異化作用(エネルギー生産)<一髻羅刹(いっけいらせつ)>
  4. 同化作用(有機物質合成)<十一面観自在菩薩>
  5. 自在力<不空金剛菩薩>
  6. 環境適応力<金剛軍荼利(ぐんだり)>
  7. 成長力<金剛将菩薩>
  8. 精力<金剛明王菩薩>
大地院《地蔵院》と文明院《除蓋障院》

人間が知によって築く社会には二つの方向がある。一つは、大地の恵みを得ながら、質素であっても心豊かに生きる方向。もう一つは、科学技術の発達によって、生活の利便性を得ながら、より快適に生きることを求めて生きる方向である。

今日では、前者が持続可能な循環型社会を求めるイデオロギーとなり、後者が文明という名の資源消費型の終わりなき成長社会を求めるイデオロギーとなる。

双方とも、その希求の根源は知の充足にあるが、その充足の比重を精神に置くのか、物質に置くのか、あるいは感性に置くのか、理性に置くのか、そのバランスが問われる両院である。

大地院
  1. 文化<除一切憂冥(じょいっさいうみょう)菩薩>
  2. 観察眼<不空見(ふくうけん)菩薩>
  3. 済度<宝印手(ほういんしゅ)菩薩>
  4. 太陽の恵み<宝光(ほうこう)菩薩>
  5. 土地の恵み<地蔵菩薩>
  6. 豊穣<宝手(ほうしゅ)菩薩>
  7. 生育<持地(じじ)菩薩>
  8. 信念<堅固深心(けんごじんしん)菩薩>
  9. 安らぎ<除蓋障菩薩>
文明院
  1. 利便性<救護慧(くごえ)菩薩>
  2. 文明<破悪趣(はあくしゅ)菩薩>
  3. 教育<施無畏(せむい)菩薩>
  4. 知識<賢護(けんご)菩薩>
  5. 発明<不思議慧菩薩>
  6. 福利<悲愍慧(ひみんえ)菩薩>
  7. 厚生<慈発生(じほっしょう)菩薩>
  8. 理知<折諸熱悩(しゃくしょねつのう)菩薩>
  9. 太陽光<日光菩薩>
時空と神話の神々院《最外(さいげ)院》

知の多様な展開によって世界は築かれるが、その世界が天体の運行と共にあることを人間は古(いにしえ)から知っていた。

天空にあるのは太陽と月と星々であり、それらの運行に合わせて昼夜と一年の四季が巡り、穀物や野菜や果樹が実る。だから、太陽の高さと月の満ち欠けと星座の位置を観測し、その法則を知ること、すなわち天文学は人類の知の要(かなめ)であった。

空海が中国から持ち帰った「宿曜経(しゅくようきょう)」の天文学を主として、天体と古代インド神話の神々が知の世界を取り巻く。

「黄道(こうどう)十二星座」<十二宮>(十二ヶ月)

黄道:地球の公転による、天球上での太陽の見かけの通り道。この黄道上の季節ごとの星座を太陽の宿<宮>とする。

1、おひつじ座<羊宮(ようくう)>。2、おうし座<牛宮(ごくう)>。3、ふたご座<婬宮(いんくう)。4、かに座<蟹宮(かいくう)>。5、しし座<師子宮(ししくう)>。6、おとめ座<女宮(じょくう)>。7、てんびん座<秤宮(ひょうくう)>。8、さそり座<蠍宮(かっくう)>。9、いて座<弓宮(きゅうくう)>。10、やぎ座<摩カツ宮(まかつくう)>。11、みずがめ座<瓶宮(びょうくう)>。12、うお座<魚宮(ぎょくう)>。

「惑星」<九曜星>(曜日)

黄道上の太陽の随伴者としての運行をしているのが惑星である。他の星とは異なる動きをしているので見分けられる。その惑星と太陽と月とによって、一週間の曜日とする。

1、日<日曜星>。2、月<月曜星>。3、火<火曜星>。4、水<水曜星>。5、木<木曜星>。6、金<金曜星>。7、土<土曜星>。8、日食・月食<羅ゴ星>。9、彗星<計都(けいと)星>。

「星座」<二十八宿>

古代中国で観測された三百ほどの星座のうち、黄道付近に並んだ二十八個の星座を指す。この星座をもって、月の満ち欠けの周期「月」を区切り、見えない新月の日付と、その位置を知る目印とした。新月の位置を知ることは、その背後の延長上に太陽があるということであり、その太陽の動きによって、季節を知ることができるし、太陽がある位置を通過して、再びその位置に戻ってくる期間が一年であるから、その長さを知ることができる。そのようにして、新月の時期途と位置によって暦の一ヶ月の区切りと、一年の区切りが決められる。

東方七宿

1、すぼし(おとめ座中央部)<角宿>。2、網ぼし(おとめ座東部)<亢(こう)宿>。3、ともぼし(てんびん座)<氐(てい)宿>。4、添いぼし(さそり座頭部)<房宿>。5、なかごぼし(さそり座中央部)<心宿>。6、足垂れぼし(さそり座尾部)<尾(び)宿>。7、みぼし(いて座南部)<箕(き)宿>

北方七宿

8、ひきつぼし(いて座中央部)<斗(と)宿>。9、稲見ぼし(やぎ座)<牛(ご)宿>。10、うるきぼし(みずがめ座西南部)<女(じょ)宿>。11、とみてぼし(みずがめ座西部)<虚宿>。12、うみやめぼし(ペガサス座頭部)<危宿>。13、はついぼし(ペガサス四辺形西辺)

<室宿>。14、なままめぼし(ペガサス四辺形東辺)<壁(へき)宿>。

西方七宿

15、斗掻きぼし(アンドロメダ座)<奎(けい)宿>。16、たたらぼし(おひつじ座)<婁(ろう)宿>。17、えきぼし(おひつじ座東部)<胃宿>。18、すばるぼし(おうし座・プレアデス星団)<昴(ぼう)宿>。19、あめふりぼし(おうし座・ヒアデス星団)<畢(ひつ)宿>。20、とろきぼし(オリオン座頭部)<觜(し)宿>。21、唐鋤ぼし(オリオン座)<参(しん)宿>。

南方七宿

22、ちちりぼし(ふたご座南西部)<井(せい)宿>。23、たまをのぼし(かに座中央部)<鬼(き)宿>。24、ぬりこぼし(うみへび座頭部)<柳(りゅう)宿>。25、ほとおりぼし(うみへび座心臓部)<星(せい)宿>。26、ちりこぼし(うみへび座中央部)<張(ちょう)宿>。27、襷ぼし(コップ座)<翼(よく)宿>。28、みつかけぼし(からす座)<軫(しん)宿>。

「方位」<十二天>
  1. 東方<帝釈天(たいしゃくてん。自然の運行神)>
  2. 南方<閻魔天(えんまてん。運命、死、冥界を司る神)>
  3. 西方<水天>
  4. 北方<多聞天(たもんてん。法と福徳を司る神。北方の守護神。毘沙門天ともいう)>
  5. 東南方<火天>
  6. 西南方<羅刹天(らせつてん。梵名、ラークシャサ:鬼神。破壊と滅亡を司る神)>
  7. 西北方<風天>
  8. 東北方<伊舎那天(いしゃなてん。欲望の神)>
  9. 上方<梵天(ぼんてん。宇宙と言葉の創造神)>
  10. 下方<地天>
  11. 太陽<日天>
  12. 月<月天(がってん)>
  • 東方の守護神<持国天(じこくてん。国土を支える神)>
  • 南方の守護神<増長天(ぞうちょうてん。万物の成長・繁殖を司る神)>
  • 西方の守護神<広目天(こうもくてん。異文化、異言語を理解する神)>
「古代インドの神々」
  1. 樹林の精霊神<薬叉持明(やくしゃじみょう。梵名、ヤクシャ)>
  2. 水の神<難陀竜王(なんだりゅうおう。梵名、ナンダナーガ)>
  3. 猛禽の神<迦楼羅(かるら。梵名、カルータ)>
  4. 映像言語の神<光音天(こうおんてん)>
  5. 歌の神<緊那羅(きんなら。梵名、キンナラ)>
  6. 音楽の神<摩睺羅迦(まごらか。梵名、マホーラガ)>
(以下、省略)
あとがき

当論考はその時々に執筆してきた空海論の内から、『十住心論』第十秘密荘厳住心の現代語訳を中心として、関連する論考を一つにまとめたものである。

作業をしているうちに、以前の論考の未消化部分を咀嚼することになったが、その結果、空海の思想により近づけた気がする。

このように、同じ文脈上に金・胎のマンダラを並べると、それらが一体のものであり、知の両面であると分かる。

存在する知のすがた(胎蔵)と、その背後にある知の原理(金剛界)である。

この一対性の理解によって、それぞれのマンダラを構成している諸尊のはたらきの役わり分担がより明確に見えてきた。

したがって、当論考では金・胎の諸尊の意味が一部新たになった。

さて、木を見て森を見ずとのことわざがあるが、要素を細分化することに夢中になって全体を見失ってしまうことへの戒めである。だが、今日の科学は、細分化の極限であるDNAや素粒子に達したところで、それらが際限なく移り変わり、観察者の目の前で展開しているものが、そのものの一瞬の仮のすがたにすぎないと気づかされてしまった。

そこで、全包括的な世界に目を移し、全体と個とがつくりだすホロニックな関係に個々の存在の本質があるといった方向に研究の視点が移ることになった。

そうなると、木を見ることは森を見ることになり、草木の個々の存在の本質は全包括的な森の生態系なかにあることになる。

その今日の先端科学が行き着いた世界観と、空海の示すマンダラの世界観とはよく似ている。

生態学では、その土地固有の自然にしたがって生えている植物の集まりを植生と云い、その土地が支え得る本来の自然植生の範囲を地図上に記したものを、現存の植生に対して潜在植生図と云う。

各種の法爾の知のはたらきをする神仏にもそのような植生があり、それらの群落が多層にわたって共生し、生態系を築くことによって豊かな森になるのだ。

その豊かな森全体と草木の個々のすがたを表記した潜在植生図的なるものが、マンダラ図の示すところである。

そのようにして、マンダラという名のいのちの森<大日如来>と緑の植生<院>と個々の草木<諸尊>とは、知本来のもつ生態学的な原理によって自ずと調和し、自然界の秩序に自らしたがうことによって、持続する世界を築いている。

その世界では、個々はあるがままであり、相互に扶助し合い、共に生きる。

そのあるがままの活動とありのままのすがたに、すべての生きとし生けるものの存在の本質がある。

そこにのみ、世界の明日がある。

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