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空の知恵の輪―ブッダとナーガールジュナと空海

はじめに:弘法大師空海は、その主著となる『十住心論』の第七住心において、「一切は空
である」との論理を説いておられる。その論理の大本は、ナーガールジュナの『中論』に
もとづくものだが、大師独自の「空の論理」となっている。ナーガールジュナはその論理が
ブッダの教えにもとづくものであることを、論理を展開するにあたって最初に断っている。
さて、「空の論理」は、どのようにブッダからナーガールジュナへ、ナーガールジュナから
空海へと受け継がれたのか、『空の知恵の輪』として、解いてみたい。


Ⅰナーガールジュナの空の知恵の輪―『中論』よりー          

                                   
考察の序
                                        
  (仏教哲学において、モノ・コトの存在は)
生じないし、滅しない。
断絶しないし、連続しない。
同一ではないし、別でもない。
去ることもないし、来ることもない。(と説かれている)
 (この説によると、)あらゆる存在は識別することができないから、論理の外に出てしまう。そのことを最初に示されたのはブッダである。
(その説を受けて、わたくしナーガールジュナは、あらゆるモノ・コトの存在について、どうして、識別することができないかを、以下、考察し、論証を試みる)     


1「存在条件の考察」の章
 
(1) モノ・コトの存在は、どのような場と存在のかたちにおいても、
  そのものからも、他のものからも、
  それらの両方からも、また、それらの条件のないところからも、
  生じて、存在することはない。
(2) そのように、もろもろのモノ・コトの存在の実体が、それ自体の存在条件を持たないものであるならば、他のモノ・コトも存在しない。
(3) モノ・コトの存在を確認するための条件には
・直接的存在要因としての条件。
・要因の確認(認識の対象)としての条件。(観察できる要素を持っているかどうか)
・要因の展開(認識の展開)としての条件。(その要素自身が展開して行くかどうか)
・要因の他への展開(影響の有無)としての条件。(その要素によって、他に変化を起こすかどうか)
の四つがある。
第五の条件はない。
(これらの条件によって、存在を示す作用が生じ、確認できるというが)
(4) しかし、生じている作用は、条件をもって作用しているのではなし、条件をもたないで作用しているのでもない。また、条件は作用をもつものでも、作用をもたないものでもない。
(5) 「"これ"があるから"それ"が生じる」というとき、"これ"が"それ"の条件になるというが、"それ"が生じなければ、"これ"は条件にならないのだ。
(6) モノ・コトの存在の有無が条件となることもない。なぜなら、無いときは、条件はないし、有るときは、すでに存在しているのだから、条件を必要としない。
(7) モノ・コトは、有る存在としても、無い存在としても、有り、かつ無い存在としても、生じることはない。だから、生じていない存在が、何かを生じさせる条件となることはない。
(8) モノ・コトが生じていなければ、滅することはない。また、(直接的存在要因によって)生じたものが、(認識されていなければ)滅することはない。すでに滅したものはさらに滅することはない。
(9) (以上のように、認識の対象となる)存在は、対象となる実体を有していないから、そこに要因はなく、存在することはない。
(10) そのように、認識による固有の実体というものは存在しないから、「"これ"があるから"それ"がある」というとき、"これ"という固有の実体が存在しないのだから、"それ"も存在しない。
(11) もろもろの条件によって、部分的であろうが、全体的であろうが、結果の生じた存在はない。なぜなら、条件をもつ存在はないのだから、結果は生じることはない。
(12) しかし、「結果は条件のなかになくても、その他の条件から生じる」ということであれば、「結果は条件でない条件から生じる」ということはないでしょうか。
(13) 答えよう。「結果は条件でない条件から生じる」というのであれば、その条件は自らの条件をもたない。結果が条件を自らもたない条件から生じるとすれば、その結果は「条件から生じたもの」とは言えない。
(14) 以上のことによって、結果は、条件から生じないし、条件のないものからも生じない。結果としての存在が無いなら、条件と条件でない存在も無いのである。


2「去来(動き)の考察」の章
 
(1)  すでに去ったものは去らない。
まだ去らないものは(そこにあるから)去らない。
すでに去ったものと、まだ去らないものとは別に、今、去りつつあるものが去るということもない。
(2) 「去る"動き"のあるところに去ることがある」のであれば、"動き"は、去りつつあるものにあり、すでに去ったものと、まだ去らないものにない。
だから、今、去りつつあるものに去ることはあるのではないでしょうか。
(3) 答えよう。今、去りつつあるものに、去るはたらきが加わることはない。
なぜなら、今、すでに去りつつあるものに、さらに去るはたらきを加える必要はないからだ。
(4) 「今、去りつつあるものに去るはたらきがある」と主張することは、去りつつあるものとは別に、去るはたらきという余計なことを加えることなのだ。
   「今、すでに去りつつあるものが、去る」ならば、すでに去りつつあるものが去るはたらきを有していないことになる。
(5) それでも、「今、去りつつあるものに去るはたらきがある」と主張するならば、二つのさるもののはたらきが同時にあることになる。
   すなわち、「今、去りつつあるもののはたらき」と、それに加わるさらなる「去るはたらき」である。
(6) 二つの去るはたらき(作用)があるということは、去るものに二つの行為者(主体)があるということになる。
   なぜなら、去る主体なくして、去る作用はないからだ。
(7) もし、去る主体がないならば、去る作用はない。
もし、去る作用が存在しないのなら、どうして、去る主体が存在するだろう。
(8) したがって、去る主体と去る作用がないのであれば、去る主体と去らない主体とは別に、第三の主体が去るのだろうか。そんなことはない。
(9) このように、去る作用がなければ、去る主体もない。したがって、「去る主体が去る」ということはない。
(10) さらに、もし、「去る主体が去る」ということになれば、二つの去る作用がそこにあることになる。
   すなわち、「去る主体の去る作用」と「去る主体の去る作用に加わる、さらなる去る作用」である。
(11) それでも、「去る主体が去る」と主張すれば、その主体には去る作用がなかったことにしなければならない。というのは、すでに去る作用を現出させている主体に、さらに、加える必要のない作用を加えようと主張しているからだ。
(12) すでに去ったものには、去ることは始まらない。
   まだ去らないものには、去ることは始まらない。
   今、去りつつあるものには、去ることは始まる必要がない。
   では、どのようなものに、去ることは始まるのだろうか。
(13) そのように、去る作用が始まらなければ、その以前に、その主体となる、今、去りつつあるもの、すでに去ったもの、まだ去らないものは存在しないのだから、そこに去る作用を始める存在はない。
(14) 去る作用の始まりが何処にも存在しないのなら、すでに去ったもの、今、去りつつあるもの、まだ去らないものに区切りをつけて識別することは不可能である。
(15) 去る主体はそこにとどまらない。
   去らない主体もそこにとどまらない。
   であれば、去る主体と去らない主体とは別の第三の主体がとどまるということがあるだろうか。そんなことはない。
(16) 去る作用が認められなければ、去る主体はないのだから、去る主体が去る作用なくして、とどまることはない。
(17) 去る作用が、今、去りつつあるところにとどまることはなく、すでに去ったところにとどまることはなく、まだ去らないところにとどまることはない。
そのように、そこにあるものが動き出すことと、停止することは、"去ること"の考察と同じである。(つまり、すでに動いているものは動き出さないし、すでに停止しているものはさらに停止しない。そして、動く作用がそれらの主体のなかでとどまることもない)
(18) 去る作用(行為)と去る主体(行為者)は同じにならないし、だからといって、去る主体と去る作用が異なるともいえない。
(19) なぜなら、もし、去る作用と去る主体が同じであれば、行為の作用と行為の主体は同化してしまう。
(20) また、もし、去る主体と去る作用が異なっていれば、行為の主体がなくても、行為の作用があることになり、また、行為の作用がなくても、行為の主体があることになる。
(21) 同じであるにしても、異なっているにしても、成立することのない、主体と作用の二つの要素によって、どうして存在が成り立つであろうか。
(22) 去る作用によって、去る主体を説くのであれば、去る主体は、去る作用を去っていくのではない。
   なぜなら、去る主体が去る作用以前に存在していることはないからだ。何が何を去って行くのだろう。
(23) また、同様に説くのであれば、去る作用による去る主体は、去る作用とは別に去っていくことはない。
   なぜなら、一つの去る主体が二つの去る作用を為すことはないからだ。
(24) 以上の考察によって、
   去る主体が実在するにしても、「実在する去る作用と、実在しない去る作用と、実在し、かつ実在しない去る作用」のいずれをも、去ることはない。
   また、去る主体が実在しないとしても、「実在する去る作用と、実在しない去る作用と、実在し、かつ実在しない去る作用」のいずれをも、去ることはない。
(25) また、去る主体が実在し、かつ実在しないとしても、「実在する去る作用と、実在しない去る作用と、実在し、かつ実在しない去る作用」のいずれをも去ることはない。
   それゆえに、
   去る作用(行為)
   去る主体(行為者)
去り行くところ(場)
は何処にも存在しないのである。

(存在の一瞬のすがただけが、観察者の前にある。その存在の"動き"を識別しようとするが、識別すべき事柄は何処にも見出せない)


3「認識作用の考察」の章
 
(1) 目で見、耳で聴き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、からだ(手足など)で触れ、意識で思う。
  以上が認識の根幹である。
   その根幹によって、対象となるモノ・コトを認識する作用が生じる。
(2) 例えば、目で対象となるモノ・コトを見ることができるが、その目によって、自分  
を見ることはできない。自分を見ることができないものが、どうして、他のものを見ることができるのでしょうか。
(3) 答えよう。「火のはたらきは、自分を焼くことはないが他のものを焼く」との例えに
  よって、見るはたらき(作用)を世間では説明するだろうがそれでは充分でない。
   「火の例え」と「見る作用」は、前章の、今、去りつつあるものと、すでに去ったものと、まだ去らないものによって、考察したことと同様に論証できる。
(4) 何ものも、目が、今、見ていないときは、見るはたらきは存在しない。だから、見るはたらき(作用)が、見る行為者(主体)になることはない。
(5) 見る作用が見るのではない。見る作用でないものが見るのでもない。そして、見る作用が、対象となる(前章の「去来(動き)の考察」によっても論証した)識別によっては存在し得ないものを見ることとなると、どうして、見る主体が存在し得るだろう。
(6) だから、見る作用を欠いても、また欠いていなくても、見る主体は存在しない。見る主体が存在しなければ、見られる対象となるものも、見る作用も、存在しないのである。
(7) 見られるものと見る作用が存在しなければ、世界のモノ・コトを識別することは不可能である。識別できなければ、そのことによって、快・不快の情動を起こすことはない。したがって、執着することは何もないのだ。
(8) 以上によって、聴く作用、嗅ぐ作用、味わう作用、触れる作用、思う作用によっても、見る作用と同様に、モノ・コトを識別することは不可能であると知るべきである。


4「物質存在の考察」の章
 
(1) 現象の元は物質(固体・液体・エネルギー・気体)である。物質の存在がなければ、現象は観察されない。また、現象が観察されなければ、物質の存在を確認できない。
(2) もし、現象と物質が別の存在であるとすれば、現象が物質の存在なくして起こるということになる。しかし、現象は物質の存在なくして存在することはないのだ。
(3) それでも、現象しない物質が存在するとしたら、結果のない原因が存在することになる。しかし、結果のない原因は見ることができない。
(4) 現象がすでに生じているときは、そこに原因はなく、まだ現象が生じていないときは、原因は存在しない。
(5) それでも、物質の存在のない現象があるとしたら、そんな存在を識別することは不可能である。
(6) また、結果(現象)が原因(物質)に似ているとか、結果が原因に似ていないとかも存在の識別にならない。
(7) ヒトが現象を感受し、イメージし、識別作用をすることにより、モノ・コトを認識しているということは、その感受の対象となるのが物質と現象なのだから、認識は物質と現象そのものの存在と一体である。
(8) (そのようなことで)存在が空であるとの論議をするときに(前項が必ず展開されている訳であるから)、論議の一つひとつの言葉の中に、論破されることと等しい論点が生じることになる。
(9) それは、存在が空であるとの論理が説かれるとき、誰がその論理に、問いをぶつけたとしても、問いそのものが空であるとの論破すべき対象となるからだ。


5「存在要素の考察」の章
 
(1)  すがた(景色)を形成しない空間は存在しない。もし、すがたを形成する以前の空間が存在するとすれば、その空間はすがたがないのだから、見ることはできない。
(2)  何であろうが、すがたのない存在は見ることができない。見ることのできない存在において、どうして、すがたが現れるだろうか。
(3)  すがたのないものから、すがたが現れることはなく、すでに、すがたを形成しているものから、すがたが現れることはない。また、すがたがあるものとないものとは別の他のものから、すがたが現れることもない。
(4)  すがたがなければ、そのすがたを構成する要素もなく、要素がないならば、すがたもない。
(5)  それゆえ、要素とすがたが独立して存在することはなく、要素とすがたとは別に存在するものもない。
(6)  では、存在そのものが存在しないとき、非存在はあるだろうか。存在と非存在とは別の存在が、存在と非存在を存在させることがあるだろうか。そんなことはない。
(7)  それゆえ、空間は存在でなく、非存在でもなく、要素でもなく、すがたでもない。したがって、世界を形成している要素の一つである空間以外の他の要素(固体・液体・エネルギー・気体・意識)もこの章で説くところと同様に考察すべきである。
(8)  以上のようなことなのに、もろもろの存在の要素の有無を知ろうとして、ヒトビトが世界を識別するものだから、見られる側の世界の空なる静寂が破られてしまう。
 

6「寿命(発生・持続・消滅)の考察」の章
 
(1) もしも、現象が生じ、何らかのモノ・コトが存在するならば、そこには三つのすがた(発生・持続・消滅)があるという。しかし、現象が生じなければ、そこに三つのすがたを確認することはできない。
(2) 現象の三つのすがた(発生・持続・消滅)が、もし、別々の存在であるならば、それらが同一の時と場に出現することになるが、そんなことはない。(それらのすがたは一連の現象の流れを示すものなのだ)
(3) もしも、現象の三つのすがたである、発生のすがた、持続のすがた、消滅すがたのそれぞれの存在に、それらを発生・持続・消滅させるものがあるならば、またそれらのそれぞれの存在にと展開して行き、無限大になる。そのような三つのすがたの分類は正しいのだろうか。
(4) 「現象を生じさせるものは、現象を生じさせる原理である」という説があります。そ の原理が現象を生じさせているのではないでしょうか。
(5) 答えよう。 では、もしも、現象が、その原理によって生じるなら、原理によって、まだ生じていない現象から、どうして、原理は生じたのだろう。  
(6) では、もしも、原理によって生じるその現象が、原理を生じさせるのなら、現象によって、まだ生じていない原理が、どうして、現象を生じさせるのだろう。
(7) では、もしも、まだ生じていない原理が、現象を生じさせることができるとするならば、今、生じつつある現象は、好きなように現象を生じさせることになるだろう。
(8)「灯りが自らと他を共に照らす」ように、現象も自らと他のすがたを共に生じさせることができるということはないでしょうか。
(9) 答えよう。灯りのなかにも、灯りのある場所にも、闇は存在しない。なぜなら、灯りが照らすのは闇であるからだ。
(10) 今、生じつつある灯りは、そこに闇がなければ、どうして、照らすことができるだろう。
(11) もしも、その照らす対象のない灯りによって闇がなくなるというのであれば、今、ここにある灯りによって、全世界の闇がなくなるだろう。
(12) もしも、灯りが「自らと他を共に照らす」とするならば、闇もまた、「自らと他を共に暗くする」ことになるだろう。
(13) このまだ生じていない灯りと闇が、自らの現象をどうして生じさせることができるだろうか。また、もし、すでに生じている灯りと闇が、自らの現象を生じさせるのだとすると、すでに生じているのに、どうして、さらに、生じさせるのだろう。
(14) 今、生じつつあるものも、すでに生じたものも、まだ生じていないものも、生じることはない。同様のことは、今、去りつつあるもの、すでに去ったもの、まだ去らないものによって説明したことだ。
(15) もしも、この、今、生じつつあるものが現象の中に現れていないときに、どうして、他の現象によって、今、生じつつあるものがあるといえるだろうか。
(16) それぞれに、有るべくして存在しているものは、すべて、あるがままである。それゆえ、今、生じつつあるものもあるがままであり、現象そのものもあるがままである。
(17) もしも、まだ生じていない現象が何処かに存在するのであれば、それは生じるであろう。しかし、その現象が存在しないのに、どうして、それは生じるであろうか。
(18) もしも、この現象が、今、生じつつあるものを生じさせているならば、さらなる現象によって、さらに生じさせることがあるだろうか。
(19) もしも、他の現象がこの現象を生じさせることになれば、現象はとりとめなく無限大になる。また、もしも、何もないのに、この現象が生じているならば、一切は同じようにとりとめなく無限大になる。
(20) したがって、今、存在しているものも、存在していないものも、生じることはない。さらに、存在し、かつ存在していないものも、生じることはない。このことは、すでに論証したことだ。
(21) 今、消滅しつつある現象が生じることはない。だからといって、今、消滅しつつあるものでない現象が生じることもない。
(22) すでに持続した現象は、さらに持続することはない。まだ持続していない現象は、持続することはない。今、持続しているものも持続することはない(今、すでに持続しているからだ)。まだ生じていないものも、持続することはない(生じていないものは持続しようがない)。
(23) 今、消滅しつつある現象は、持続することはない。だからといって、今、消滅しつつあるものでない現象が持続することもない。
(24) 一切の存在する現象は、寿命を有するから、持続し続けることはないのだ。
(25) そのように、寿命をもつ持続が、他の持続によっても、また自らによっても、持続することはない。それは、現象の生じることが、自らによっても、他のものによっても生じることはないのと同様である。
(26) まだ消滅していないものは、消滅することはない。すでに消滅したものは、さらに消滅することはない。今、消滅しつつあるものも、また、同様である。まだ生じていないものは、消滅しようがない。
(27) したがって、すでに持続している現象の消滅はない。また、まだ持続していない現象の消滅することはない。
(28) 存在しているその瞬間の状態は、それと同じ状態によっては、決して消滅することはない。また、その瞬間とは別の状態によっても、決して消滅することはない。(すべては、その時と場における、あるがままの一瞬の存在として在る)
(29) したがって、今、存在している現象の消滅はない。なぜなら、存在と非存在とは、一つのものにおいては、同時に成り立たないのである。
(30) 今、存在していない現象の消滅もない。無いものは切断することはできないのだ。
(31) 消滅は自らによっても生じないし、他のものによっても生じない。あたかも、発生の生じることが、自らによっても、他のものによっても生じないことと同じである。
(32) 以上のように、生じること(発生)と持続と消滅は、存在しないことから、現象も存在しない。もろもろの現象が有ることによって、無いことは生じる。(識別できる現象の)存在がなければ、無いことは成立しない。
(こうして、存在の有無の中間にヒトが立つ。其処で、モノ・コトを考察すると、
生じないし、滅しない。「不生不滅」
断絶しないし、連続しない。「不断不常」
同一ではないし、別でもない。「不一不異」
去ることもないし、来ることもない。「不去不来」
となる。つまり、識別によって存在の有無を論じることは不可能なのだ)
(33) あたかも幻のごとく(発生)
あたかも夢のごとく(持続)
あたかも蜃気楼のごとく(消滅)、(世界は存在する)とヒトは知る。


7「相対性の考察」の章
 
(1)  すでに実在しているものが、すでに実在しているものを生じさす作用をすることはない。まだ実在していないものが、まだ実在していないものを生じさす作用をすることもない。
(2)  すでに実在しているものには実在するための作用は存在しない。そうして、作用は実在するものにはならない。すでに生じている作用には、作用は必要でない。そうして、すでに実在しているものは、作用を有していないものとなるであろう。
(3)  もしも、まだ実在していないものが、まだ実在していない作用をするのであれば、その作用は原因を有していないものになる。そうして、実在は原因をもたないものになるであろう。
(4)  原因が存在しないならば、結果も存在しない。原因と結果が存在しないならば、作用・実在(作用主体)・作用主体の起こす作用は存在しないことになる。
(5)  それらの作用が存在しないなら、法則と非法則も存在しない。法則と非法則が存在しないのなら、そこから生じる帰結は存在しない。
(6)  帰結が存在しないのなら、真理に至る道も、究極の世界観に至る道も成り立たない。そうして、一切の作用も無意味になる。
(7)  実在し、かつ非実在であるものが、実在し、かつ非実在である作用をすることはない。なぜなら、相互に矛盾している実在と非実在が、どうして、一つのものになるのだろう。
(8)  実在しているものが、実在しないものには成れないし、実在しないものが実在するものには成れない。
(9)  すでに実在しているものが、まだ実在していない作用をすることはないし、また、実在し、かつ実在していない作用をすることはない。すでに説明したことだ。
(10) まだ実在していないものが、すでに実在している作用をすることはないし、また、実在し、かつ実在していない作用をすることはない。すでに説明したことだ。
(11) (このように、存在するモノ・コトは)「作用」と「実在」の相対性によってのみ、成立する。
(12) したがって、「作用がなければ実在しない。実在しなければ作用はない」と考察できるから、ヒトビトのモノ・コトへの執着も、この論理によって打破できる。
この、作用(はたらき・行為)と実在(作用主体・行為者)の"相対性"によって、その他のすべての事柄が考察でき、論破できると知る。
(以上テクスト:三枝みつよし「中論」レグルス文庫、羅什訳『中論』原漢文と書き下し文/
中村元「ナーガールジュナ」講談社、注釈書『プラサンナパダー』サンスクリット原文邦訳)

(因みに、アインシュタインの「特殊相対性理論」によれば、光速<作用主体>と同じ速度になると、時間は止まり、空間はゼロになり、質量は無限大になる作用が生じる。また、「一般相対性理論」によれば、重力<作用主体>の大きい場では、時間は遅くなり、空間は収縮し、質量は増大する作用が生じるという。このように、今日においても、作用と作用主体の相対性によって、宇宙そのものの存在が論じられている。
ナーガールジュナは、相対性によって、モノ・コトの"存在の有無"を論じたが、個々の存在を相対性によって論証することにより、その実体が論理によっては識別できないことから、存在を空なるものとした。
アインシュタインは、空、すなわち宇宙を「理論物理学」として考察し、光と重力を
作用主体とし、時間と空間と質量に作用するちからを"シンボルと単位"よって示し、"存在の場"そのものの空の絶対性を否定した。物理学的に観れば、空もまた、無いのだ。
一方は古代インド哲学であり、一方は今日の西洋科学である。西洋科学の方は、その
理論にしたがって、宇宙を観察し、そのことを実証しようとしているが、インド哲学によれば、実証そのものも、あくまでもヒトの認識作用による事柄に過ぎない。
インドにおいてはその後、「作用と作用主体の相対性」による考察は、哲学の範疇に
とどまったが、西洋科学はその論理によって、今日、尚、壮大なる空の夢を見ているー)


Ⅱブッダの空の知恵の輪

1ヒトの一生の意識の原理《十二因縁説》
 
  ブッダは菩提樹の下で、ヒトのこころに生じる苦を、十二の因と果によって、以下のように思索した。
1、 ヒトは、意識する脳を持って生まれてくる。
2、 だから、世界を識別することを性(さが)とする。
3、 識別することによって、あらゆるものに名まえをつけ、あらゆる物の形や動きを分類
し、言葉にする。(知識)
4、 名まえと分類された形と動きを、目・耳・鼻・舌・からだ・意識によって知覚し、認
識する。(ように学習させられる)
5、 知覚し、認識されるものは
・色彩、形、動き
・声と音
・匂い
・味
・感触
・法則
である。
6、 それらによって、あらゆる対象となる世界に遊ぶ。
7、 しかし、やがて、対象に対して、快・不快が生じ
8、 快・不快によって、情動が起こり
9、 情動によって、執着が生じ、
10、執着によって、生きようとし、
11、そのちからによって、生まれ、生まれ、生まれて
12、そして、老い、死ぬ。
そして、「ヒトの執着が、識別を因とし、情動を果としている」と気づいた。


2因果と諦観の公式《四聖諦》
 
  「因と果をもたらす識別は、ヒトの意識が作り出したものである。だから、自然界からみれば、もともとは無いものである。因がなければ果は生じない」と瞬時に悟った。
この悟りによって、以下の公式が成立する。
"それ"(作用主体)があるから、"これ"(作用)が生じる。(因果)
 "それ"がなければ、"これ"は生じない。(諦観:明らかに真理を観察すること)
 「"これ"が生じなければ、"それ"はない。」(絶対自由の空:認識の対象からの解放)
  つまり、
 "識別"があるから、"情動"が生じる。
 "識別"がなければ、"情動"は生じない。
 「"情動"が生じなければ、"執着"はない。」(悟り)

このことを最初に説いたのが、ブッダ(紀元前五世紀・仏教の開祖)である。

その七百年後に"情動"をなくするには、"識別"によるモノ・コトの存在の有無を
 考察する必要があると思い立ったのがナーガールジュナ(紀元二世紀・大乗仏教の論者)である。そして、その考察(諦観)によって、存在の有無は識別できない(有るとはいえないし、無いともいえない。そのようにしか識別できない空の存在と共にヒトも存在し、生きている)と知った。
 
かくして、『空の知恵の輪』が二人の東洋の哲人によって解かれた。
                                

Ⅲ空海の空の知恵の輪

1『十住心論』第七住心〔覚心不生心:一切は空である〕
 
―大意の序―
  なんと大空はひろびろとして静かなのだろう
  万象を、その空間に、一気に含み
  大海は深く澄みとおり、一つの水(水の元素)に、千品を孕んでいる。

  このように、一は無数の存在の母である。
  空間は、現象を生じるための基(もとい)である。

  (それぞれの)現象は、(不変に)実在しているものではないが
  (それでも)現象は、それぞれに、そのまま現れ、実存する。

  "絶対的な空間(宇宙)"は、現象の生じる場として存在し
  その存在は、特定の現象にとどまることはない。

  現象し、存在するものは不変でないから
  あらゆる現象が起こっても、空間はそのまま空である。

  空間があるから存在があり、存在があるから空間がある。 
  存在の諸相は(『中論』によって)否定されても、現象と空間はそのままにして存在す
 る。
  だから、存在は空相であり、空相であるものが存在する。(色即是空、空即是色) 

  すべての現象と空間は、このように、"絶対自由の空"(ブッダの説く、認識の対象か
らの解放によって得る自由。すなわち、空)に実存する。
  そのようなものでないものは何物もない。

  こうして、空海(九世紀・インド伝来の密教の第八祖)は『空の知恵の輪』を、実存する世界を示す "イメージと単位"に対峙させ、その"イメージと単位"と"認識の空の輪"を合一させた。(つまり、実存する空間としての空と、ヒトが認識することの空の双方を一つにし、極めて、物理学的に世界を捉えた。そして、その世界を示すにあたって、言葉の論理ではなく、包括的なイメージと単位によって、現象と空間が実存していることを、一気に実証した。それが、「大意の序」の最初の五行である。この実存世界は何人も否定できない。その世界の中にヒトもいる。しかし、ヒトが認識の対象として世界を識別してみても、諦観すれば空なのだ)

  空海は、ブッダが瞑想と直感によって、ナーガールジュナが考察よって解いた『空の知恵の輪』を、実存する『空の知恵の輪』として、再び、結んだのである。


2絶対自由の空の思想
 
そして、「生きとし生けるものの相互扶助(慈悲)のはたらきのすがた(衣食住の連鎖・種の多様性・生殖と遺伝・個体の四つのすがた)と、そのはたらきにしたがういのちの原理(生命知・生活知・創造知・学習知・身体知のあらゆる生物共通の五つの知力)によって、"絶対的な空間(宇宙)"(イメージ・シンボル・単位・作用の四つで示すところの世界)に、ヒトは、からだと言葉と意識の"絶対自由の空"もって生きよ」と説いた。
 (この説、空海の主要著となる『十住心論』第十住心〔秘密荘厳心:無限の展開〕に記される主旨を、筆者が今日の物理学と生態学に当て嵌め、解いたものである。生命宇宙のありのままの存在が、七世紀インド哲学の洞察のよって、すでに捉えられていた。
そこに示された当時の新世界観<マンダラ>は、今日の科学によって知ることのできる世界観を先見していたと思う。しかし、今日尚、その洞察を神秘主義とみる向きは多い)

その教えを説く『大日経』と『金剛頂経』を、空海は、インドと当時、学術交流のあった九世紀初頭の国際都市、長安に留学し、青龍寺の恵果和尚(ナーガールジュナを教理の初祖とし、その教えを継承する密教の第七祖)から直に学び、会得した。
そして、インド伝来の密教の第八祖となった。
空海は、その教えを持ち帰り、荘子(紀元前四世紀)の"自然を動かしている道理にしたがう精神"と、日本列島縄文一万年の"山林思想"を取り込んで、空海独自の密教として確立し、日本に根付かせた。
(それは、ヒトがすべての生物と共に生きることにより、調和する自然のイメージと単位もしくは数量を感得し、そのことをシンボルと所作によって表現し、作用させ、その行為と知によって、生を楽しみ、楽しみながら自然界におけるヒト科の慈悲の役どころ学び、その自覚をもって、創造的で持続可能な世界を拓こうとするものであった)

ここに、ブッダから始まる仏教哲学の根幹を成す一連の"空"の教え(果分不可説)は、空海によって、万象とヒトが宇宙に実存するための"絶対自由の空の思想"(果分可説)へと変換され、今日へと受け継がれることになった。

(しかし、その密教の教えは、シンボルと操作、所作の作用、古代インド語とその声音によって説かれるところとなり、門外漢には難解なものとして引き継がれている。また、そのことが神秘的であることによって、教えの本質を見えにくくしているが、その一千二百年前に空海の願った世界観と生き方は、今日、物質的価値観優先の西洋文明によって、地球規模の環境破壊が進む中で、もう一つの文明のあり方として、ヒトビトが希求するところであり、これからの自然と共生するエコロジカルな世界を築くにあたって、多くの示唆を与えてくれている。わたしたちは、弘法大師の知的遺産が仕込まれた杖を手に、認識の荒野を巡礼しつづけているのだー)

因みに、チベット密教のダライ・ラマ法王十四世の言葉に「ナーガールジュナ『中論』によって、悪い見解を絶つために、それを絶たれたブッダに帰依します。われわれはみな、ブッダの法灯を受け継ぐ者であります。全てのものが相互依存して生起しているということが、仏教の哲学的な思想の真髄であると思われます。"四聖諦"と"十二因縁説"といわれるものは、仏教のほんとうに根本となっている土台となる大切な部分の教えです」とある。
このように密教は、仏教哲学の根幹を教学とし、その論理に基づき、ヒトが、からだと言葉と意識によって、自己の生き方と、他への慈悲の行、それに、内外の世界をイメージと量によって認識し、それにどう対応するかをシンボルと作用によって計画し、実践するものである。その行為と知の当然の帰結として、自由闊達な社会と空間づくりにまで、その思想は及ぶ。弘法大師もそうであった。そして、日本列島の隅々にまで、その痕跡を残し、高野の山の自然に帰られたー
2009/03/26


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