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空海「高野山万燈会の願文」-今日からの読み解き

 つつしんで聞く、
 ヒトは、この世に生を受け、意識をもち、万物を識別し、それを言葉にし、世界観をもった。しかし、そのことによって、世界観を学ばなければ何も分かっていないのだとのこころの闇を生みだした。それが生きていることの迷いとなった。でも、よく考えてみれば、識別がなくても、世界は初めからそこに存在しているのだ。

 識別とは、ヒトの意識を"因"として生じた"果"であって、"果"のすべてはヒトが勝手につくりだした"知識"の世界に過ぎない。

 その過ぎないことによって、知らないことがあるのだという余計なこころの闇が生まれた。その闇が意識世界という存在しない暗黒の宇宙をも生みだした。

 しかし、実在する太陽の光は、意識の闇にかかわりなく地上を照らし、夜空の銀河にかかる月の光は、虚空を照らしている。

 そのように、意識の源であるいのちの光も実在し、こころの闇にかかわりなく世界を照らしている。このいのちの放つ、万物共通の根源的な知の光によって、こころの迷いや、行為の過ちをつくりだす識別の苦をことごとく、除くことができるのだ。

 そうすれば、いのちの光の中でヒトは自由に生きられる。

 さて、ここに、わたくし空海は、世界の本質に目覚めようとして修行している弟子たちと、高野の山の自然道場"金剛峯寺"において、ささやかながら法会を催します。
そして、イメージ・シンボル・単位(数量と言語)・作用の四種によって表現された
「世界のすがた(物質・生命・意識)」と
「物質といのちをうごかしている原理」の
一対の『マンダラ』をここに示し、
(連鎖し、循環し、景観を成している自然界のすべてに)
万の灯明と万の美しい花をささげます。

 期するところは毎年一度(満天の星の下で)この法会を催すことです。
 そして、すべてのいのちの光と共にヒトが歩めることを願いたいのです。

 この願い、時空が尽き、生きとし生けるものが尽き、目覚めの意識が尽きるまで終わることはないでしょう。時空が尽き、生きとし生けるものが尽き、目覚めの意識が尽きれば、わたしの願いも尽きるでしょう。

 この願いが守られるなら、いのちの連鎖の象徴である高野の山の自然道場"金剛峯寺"は天空に高くそびえ、世界の中心にあるというヒマラヤさえも蟻塚みたいに見えるでしょう。そのいのちの連鎖の放つ広大な光の輝きが天地と言葉の創造神である梵天や、自然の運行の支配神である帝釈天の放つ光をも飲み込んでしまうでしょう。

 そうなれば、いのちの光の発する知のちからが世界を巡り、あらゆるからだとこころの病を取り除き、ヒトの知性(宗教・哲学・芸術・科学)も知のちからによって、本来の調和へと向かい、すべての花が開くように、あらゆるいのちにやさしくほほえみかけるでしょう。

 こころよりお願い申し上げます。
 その実在するいのちの光によって、万人の意識の闇を苦から救わせたまえ。
 迷いにさまようヒトビトを、たちまち、その本来のいのちの光に帰らせたまえ。
 意識によって生じている闇を、その本来のいのちの光によって、取り去らせたまえ。
 尽きることなき知のちからを放って、虚空に浮かぶ月が輝くように、すべてのいのちを照らしたまえ。
 永遠に変わることなき、その知の輝きによって、生きとし生けるものを救いたまえ。


1固体(地)
2液体(水)
3エネルギー(火)
4気体(風)
5空間(空)
6意識(識)
の六つの要素(六大)によってすがたを成す自然界には
1生命知:生命圏(法界体性智)
2生活知:呼吸と睡眠(大円鏡智)
3創造知:衣食住と生殖(平等性智)
4学習知:群居とコミュニケーション(妙観察智)
5身体知:知覚と運動(成所作智)
のいのちの放つ、根源的な五つの「知」(五智)のちからが溢れている。

(そのちからによって)
鳥は大空に羽ばたき
虫は地にもぐり
魚は水に泳ぎ
けものは林に遊んでいる。(「行為」)


すべてのいのちは、親があることによってこの世に生を受け、住み場所を得、生きとし生けるものの相互扶助のはたらきと、そのはたらきにしたがういのちの原理によって生かされている。まず、そのことに感謝します。
そして、すべてのいのちが平等に生き、その"知のちから"によって調和している世界に、共に入ることができるように、ここに祈ります。

八三二年八月二十二日(空海)


 今から一千年以前の空海五十九歳の初秋、高野の山の自然道場で多くの弟子たちと共に、満天の星の下、万の灯明と万の花をささげ、この法会は催された。
 そして、その年の十一月から空海は穀物を断ち、座禅の日々に入り、三年後の正月からは水分も断ち、同年三月二十一日、世寿六十二で高野の山の大自然の営みに永遠に帰られた。この願文がそれらの行を前にした言葉であるだけに、その思いの強さがわたしたちに伝わる。

 さて、ヒトは何ぜ生きるのかと如何に生きるかの悟りと、他の幸せを願う行を越えて、生きとし生けるものすべてを救済し、共に生きようとする空海の願いの法会はここに始まり、一千年後の今日まで続けられている。
 その初回の「万燈会の願文」によって、わたしたち凡人でも、空海の祈りが、今日の生態学(エコロジー)や、そこから導きだされる共生の思想に結びつくものであるとの理解を得ることができる。

 これだけの遠大な思想が、空海という稀なる個性によって唱えられ、今日まで伝えられたことは、日本列島に住むヒトビトは、大変な知的財産を手にしていることになるが、その知の内容は美しい法会のオブラートに包まれて受け継がれてきた。そのオブラートをおもいきって飲み込んでしまえば、その中に万能薬が入っていることを、ヒトビトは感覚的に気づいていたのであろう。でなければ、毎年行なわれる高野の山の奥の院の参道に灯される十万本のろうそくの光の川にヒトビトが集い、感動することはなかったであろうし、その光の祭りが日本全土の空海ゆかりの寺々で行なわれることもなかったであろう。
 その光の一つひとつに包まれてゆらめく、遠大で普遍的な共生の思想と、その思想にもとづく、自利利他の行、今日を生きるヒトビトの希求する事柄である。そこで、僧侶としての行は別として、世俗の身としては知的理解と日常の行為の規範として、空海の教えに近づきたいと思う。

 生涯の大半を自然を修行道場として過ごした空海にとって、あらゆる生物がその自然の中で共生していることを感得することは当然のことであった。それに対し、今日を生きるわたしたちは、理性によってそれらを学んでいる。

 「植物が空気中の二酸化炭素と根から吸い上げた水を材料として、太陽光エネルギーを借りて、炭水化物を生産し、空気中に酸素を放出する生物であることは、誰もが学校で教わる。この酸素を呼吸し、植物の生産した炭水化物を食べ、あらゆる動物が生きられる。動物や植物が死ぬと、それを微生物が食べ、分解し、土の養分をつくり、そこから植物がまた、育つ。このいのちの循環の中で、あらゆる生物がそれぞれの持ち分を、その知のちからを発揮して生き、生を楽しんでいる」これが簡潔な共生の原理である。

 「草木また成ず、如何にいわんや有情をや」
と空海は記している。
 「草木ですら、いのちを謳歌する知のちからを有しているのだから、そのちからと共通のいのちの知のちからをヒトが有していないことがあるだろうか」
という意味であるが、そのことを今日の科学が実証しているのだ。

 その辺りに、共生の思想の原点がある。そこから、生きとし生けるもののあるがままの「行為」と「知」が展開している。

 ヒトもまた、同じ展開を無心にして成すことができると空海は説いている(即身成仏:その身そのままにして、いのちの根幹に至ることができる)。普賢菩薩の行「行為」と、文殊菩薩の「知」である。根源的な生存欲求の無心の行為があって、知が生じ、その知によってまた、行為が生じる。そして、その行為によって、自然界を構成する五つの要素(物質も生物も、同じ元素によって出来ている。したがって、物質界が汚れると生物も汚れ、物質界が清浄であると生物も清浄である。その浄化作用は自然界のエネルギー循環の永続性によって担保されている)と、あらゆる生物の有している五つの知力(広義の意味での「意識」によって、動植物は連鎖し、循環し、共生し、景観を創造している)と、そのあるがままの相互扶助(慈悲)のはたらき(導き)がヒトにも生じ、ヒトと空間(自然)、ヒトとモノ、ヒトとコト、ヒトとマインドのすべてにおいて、それらが調和する、からだと言葉と思考の作用に目覚めることができる。
 その無垢の作用によって、美しい世界(生命圏)が意識の中に現れ、生命宇宙観、つまりマンダラを得、ヒトもその一員になれる。その原理の永遠性を空海が願った。


 2009/05/03

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