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空海の説法に見る「人間情報学」

 問う。師は磨かれた玉のような知を得ながら、どうして、それを説法しないのですか。
そうやって、ただ一人奥深い山にこもっておられることを、人々が噂して笑っていますぞ。
 答えよう。あなたは聞いたことがあるだろう。ブッダのかみの毛の頭の上でたばねたところに飾ってある真珠には、ブッダの説く真理が隠されているというが、その真理がほんとうのところはこころの中にあり、こころの中にある才知という美しい宝石は「その美しさを理解してくれる者に売れ」と孔子も言う。
 とかく、人が何かをすれば角が立つときも丸く収まるときもあるから、そのことについては批評することは止めておこう。ただ言えることがあるならば、道を説く人と聞く人が磨かれた瑠璃石のように互いに照り映えたときにのみ、そこに共感することのできる人間関係が成立することになる。それが人間のあり方というものなのだ。
 古の人は、道を学んで利益を謀ろうとは思わなかったが、今の人が書物を読み知識を身に付けるのは、ひたすら名誉と利益を得るためである。
 ブッダの教えの妙薬も、悪い器に注がれると毒となり、わたくしの説こうとするいのちの知のちからの教えも、それをけなす人があれば、いのちの存在そのものであるその人自らの災いとなる。


  夏の日の涼風と
  冬の日の身を切る川風
  風そのものは同じ気体であるが
  その時と場によって、人は涼風を喜び、川風に怒る。

  かぐわしい酒の肴と美味しい料理の味は変わることがないが
  病と飢えの時は、口や舌で感じる甘い苦いが異なってしまう。

  美しい女性の笑みに人は身を焦がすが
  魚や鳥がその笑みにこころを動揺させることはない。(荘子の言葉)

  (それらのことから)同じことと、同じでないこと
  その時であることと、その時でないことによって
  人は浮きもするし、沈みもする
  ほめもするし、けなしもする
  黙りもするし、語ったりもする。
  あなたはそのことを知っていますかー

  そのことを知り、それを理解してくれる人こそ
  知音(ちいん:中国の故事で琴の名手と聴くことの名手の関係を指す。その音色で演奏  者の考えやこころの細やかなうごきまでも知ってくれるような真の友)と呼べるのだ。
  知音よ、知音、その深くうるわしい結び付き。
  (空海文集「徒(いたずら)に玉を懐(いだ)く」より。口語訳)


 教える人と教わる人が、互いに響きあうことができれば、そこに説法という情報の場が生じる。説法とはそのように両者のこころが熟して為されるもの、その時と場を得ることがなければ、教え導くことはできないと空海は説く。
 だから、インド伝来の密教の教えをもち帰った空海は、奥深い山にこもり(和泉の槙尾山寺)、独り座し、説法の時が来るのを泰然として待っていた。
 その根底には、人の懐く考えが人と人、人とモノ、人と社会、人と自然などとの関係から生まれ、その価値判断が相対的なもので、時にしたがい移り行くものであるとした空海の洞察があった。そのような流れのなかで、密教のゆるぎない価値観を説法するには、世界の本質を描いたシナリオ「密教の教え:いのちの知のちからとその無垢なるすがた」を台本に、その舞台を設ける必要があった。そこで、シナリオのレジメをあらかじめ作成し、それを目にした人々に、その舞台を得たいとする機運が生じるのを待っていた。やがて、時が来れば、事は自然に運ぶのだ。そして、場が開く。
 その舞台で密教の根本の教えとなる世界のすがたをイメージ・シンボル・言葉と文字・作用を及ぼす行為によって示し、その世界と人々を結べばよい。そうすれば、自然と共に生きるいのちの知のちからに目覚めた人々がそこに誕生することになる。
 空海はすでに「世間に流布しているモノ・コトの<同じことと、同じでないこと、その時であることと、その時でないこと>の分析による差異と価値の評価」「コミュニケーションにおける相対性と親密度」「情報の基本ツールとなる<イメージ・シンボル・数量と単位・言葉と文字・作用主体と作用性・時と場・身体と行為>をフルに活用した世界の本質の表現」など、今日で言うところの「人間情報学」によって万象が分析・編集できることを知っていた。そして、それら使って、物質・生命・意識から成る世界の本質といのちの行動原理を構想し、その包括的世界に人々を導こうとしたのだ。

―今日の情報理論によれば、情報とは「人は、自然環境とヒト科という種社会の中に身を置き、そのなかで起きているあらゆる事象と物象を五感&意識で捉え、それらを各種伝達表現要素によって"かたち"にすることを習性として生きている。その表現されたかたちを用いて、人と人がコミュニケーションしようとする時、そのかたちは"情報"となる」と定義付けできる。その意味で、空海の説法方法は、まさしく「人間情報学」そのものの古の実践であったと思う。

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