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空海の教え-自然哲学からのもう一つの見方

1 自然の誕生
 宇宙に生命が存在するのは地球に自然が誕生したおかげである。その自然のちからが生みだした海と陸と大気とそれらに満たされているエネルギーによって、ヒト科を含めた多様な生物の種がそこをかけがえのない住みかとすることができる。
 そのことを今から千二百年前に、空海はその著『十住心論』第一住心の「自然世界」の項に詩にして記している。

□生物の住みかとなる自然の誕生の詩
 生物の住みかとなる自然(地球)はどのようにして誕生したのだろうか
 気体(ガス)が初めに空間に充満し
 水と金属が次々と出て
 (水蒸気は大気となり、重い鉄は中心部に集まり)
 地表は金属を溶かした火のスープにおおわれた。
 (やがて、地球全体が冷め始めると
 水蒸気は雨となって、地表に降りそそぎ)
 深く広大な海洋ができ
 (固形化した巨大な岩石のプレートはぶつかりあい)
 大地はもち上がり、天空にそびえ立った。
 (こうして、できあがった)
 (空と海と)四つの大陸と多くの島に
 あらゆる生物が棲息するようになった。

□自然の五大圏の詩
 宇宙空間は果てしなく〔空間圏〕
 (その中に)大気に包まれたところ(青い地球)がある〔気圏〕
 (地球は)水を深々とたたえ〔水圏〕
 金属(岩石)が地球そのものを形成している〔地圏〕
 燃焼を起こす元素は目に見えないが
 それらが空間圏・気圏・水圏・地圏の周りに満ちている〔エネルギー圏〕
 (ところで)
 自然に五大圏が生じたのは
 それらが、あらゆる生物が生存するためのそれぞれの環境条件となるからだ。
 以上、空海記 *()内筆者
 (空海が今日に生きていれば、詩を以下のように続けたであろう)

□生命の誕生と進化の詩
 以上のようにして
 46億年前に地球が誕生し
 40億年前にその地球に海が誕生し
 38億年前にその海の中で最初の生命<単細胞生物>が誕生した。
 32億年前にその生物のなかで光合成をするものが出現した(太陽光を利用してエネルギーを作りだす生物。光と水のちからを借りて呼吸した二酸化炭素と反応させることにより、効率のよいエネルギーを得られるようになったが、廃棄物としての酸素を大気に放出するようになった)。
 27億年前に地球を包む磁気バリアが誕生した(太陽光により地球に到達していた有害な荷電粒子がバリアによって遮られることにより、生物がその中に宿す自己増殖するための遺伝情報物質<DNA>が守られるようになった)。
 21億年前に真核生物が誕生した(生物の光合成によって放出された酸素が細胞や遺伝情報物質を傷つける有害物質であったため、酸素分解酵素が出現し、酸素を利用してエネルギーを作りだす細菌が登場し、それを体内に取り込む生物が誕生した。つまり、大気のなかに含まれる酸素をしたたかに利用して生きる生物に進化した)。
 12億年前に多細胞生物が誕生した(細胞が集合し、機能を分担してからだを形成する生物。例えば、からだを支える機能としての細胞と栄養を吸収消化する機能としての細胞が合体した生物が登場する)。
 6億年前に多細胞生物の多種の体形の実験期に入った("カンブリア紀の爆発"と呼ばれる時期。この多様性を可能にしたのは、核膜によって遺伝子が守られるようになったことや有性生殖による異なる個体の結合によって、多様な形質の子孫が生まれるようになったことによる。そうして、脊索動物や原始魚類が出現した)。
 5億年前にオゾン層が形成された(大気中の酸素が成層圏にまで到達し、生命にとって有害であった紫外線のバリアとなった)。このことによって、紫外線に弱かった生命が地球上の多層域にわたって住めるようになり、海には本格的な魚類が出現し、植物(コケ・シダ類)と節足動物(昆虫・ムカデ・ヤスデ・クモ・サソリなど)の生物が初めて陸上に進出した。
 4億年前に魚類が川へと進出し、魚類が足をもち両生類へと進化し、陸上にあがった。
 3億5千万年前に最初の森(シダ類)が誕生し
 3億年前に恐竜時代が始まり
 2億9千万年前に裸子植物が出現し
 2億年前にほ乳類と鳥類が誕生した。
 1億3千万年前に被子植物が出現し、繁茂し
 6千500万年前に恐竜が絶滅した。
 540万年前にほ乳類から分岐した霊長類にアウストラロピテクス<猿人>が出現し、直立二足歩行を始め
 200万年前にホモ・ハビリス(器用なヒト)が出現し、石器を使用し
 160万年前にホモ・エレクトゥス<原人>が出現し
 25万年前にホモ・サピエンス(知性あるヒト)<旧人>が出現し、氷河期の中でも生活し、死者を弔うようになり
 20万年前にホモ・サピエンスとは別種のネアンデルタール人が出現し
 3万年前に現世人類の初期のヒト、クロマニヨン人が出現し
 2万年前に現世人類、ホモ・サピエンス(知性あるヒト)<新人>が登場した。
 このような長い年月を経て
 ヒトは生物の一つの種として地球上に現れた。
 そして、その知性によって世界を識別し
 その識別によって作りだした人間中心主義の世界観により
 身勝手なヒト科社会を自然の中に築いている。

 この身勝手さを改め、ヒトが自然と共に生きることの本質とは何かを空海は模索した。だから、その主要著となる『十住心論』(ヒトの知性の十段階の考察)の第一住心において自然の誕生から説き始めることになる。生きとし生けるものとその住みかとなる自然の考察、そこに空海の自然哲学がある。そして、知性の本質がこの第一住心のエコロジカル(生態学的)な生の昇華にあることを第十住心で説く。そのことは本論考の第三章で説明する。その前にもう少し空海の自然哲学となる記述をみてみよう。

2 生物の分類
 空海は前出の書『十住心論』の第一住心の「生物の世界」の項において、「生物の住み場所となるところはあらゆるところにある。その形体は水・陸・空の住み場所に合わせて生じ限りなくさまざまであるが、もともとはみな海に住んでいたのであり、のちにさまざまな生存のしかたに流転(進化)したのである」と記している。
 そして、それに続いて生物を分類している。
 まず、危険動物、マムシ・その他のヘビ・カラス・トビなどを挙げ、邪まな見解をいだき、邪まな教えを学び言い争うものはこの類であり、結果は殺しあうとする。
 つぎに、つがいとなる動物を挙げ、つがいとなるものは愛情によって結ばれ、いつまでも仲むつまじく結ばれ続けるとする。
 つぎに、シカ科を挙げ、この類は他の肉食動物を恐れ、常にびくびくしていなければならないとする。
 (ここまでは生態的な分類であるが、以下の分類が今日の生物学と同じである)
・化生動物(昆虫類・両棲類)
・湿生動物(水棲類)
・卵生動物(鳥類・爬虫類)
・胎生動物(ほ乳類)
・(草木類)
 このように生物を分類し、それらの特性をヒトの行ないと比較している。その比較は輪廻転生論による生まれ変わりを示すものであり、そのことによってヒトの生き方を諭(さと)している。ヒトも生きとし生けるものもみな同じ生物であり、転生(進化)しているというのが空海の生物観となっている。
 (最初の「自然の誕生」の項で、空海の自然哲学の延長上にある今日の科学によって解明されている"生命の誕生と進化"の詩を追加してみた。そこに記すことができた内容によって、植物であろうが動物であろうが、それらのからだを形成しているのが原始の海に誕生した微細な細胞であり、その細胞の中に海を宿すことが可能となって、すべての生物があらゆる環境で生きられるようになり、あるものは水中に住み、あるものは陸に住み、あるものは空に住むこととなったが、そのすがたは異なるがみな同じいのちの仲間であるとわたくしたち凡人でも理解できるようになった。その38億年の生命の進化のすがたをわたくしたちがイメージするなら、いのちのすがたが異なるといって差別するものではなく、たがいに慈しむべき存在であることをこころの中に芽生えさすことができる。そのこころの良質な深層がわたくしたちにもある。空海の生物観もそのこころに本質を置いていると思う。空海の言葉に、「草木また成ず、如何にいわんや有情をや」とある。「植物ですら無心にしていのちを謳歌しているのだから、わたくしたちヒト科を含め、意識あるあらゆる動物が、その無心にして生きるいのちの知のちからを発揮しているという悟りを得ていないといえるだろうか」という意味であるが、そのことを今日の自然科学によってわたくしたちはすでに知識として学んでいたのだ)

3 生の本質と生態学的視点
 生態学とは、生物とその住みかとなる自然との関係性をとらえ、そこに見える包括的な法則と原理によって、自然世界の本質をつかもうとする学問である。この学問の必要性を二十世紀になってやっと今日の人々も気づいた。それまでの自然科学が対象を分類し、極限にまで細分化することをしてきたことに対し、対象の全体像にこそ本質があり、その本質によって部分となる個々もまた存在しているという洞察にもとづくものである。
 そのとらえ方と同様の洞察にもとづいて作成された、生きとし生けるものの包括的な世界図と、その世界をうごかしている個々の個体が有する生の原理の総体図、それが空海のマンダラであるが、そのマンダラを作成するにあたって空海は、ヒトは<イメージ/シンボル/単位:数量と文字/作用:モノのはたらきとヒトの行為>の四種の媒体によって世界のすべてをとらえ、理解しているという。したがって、その媒体を通してヒトがとらえる対象となる、生物の種の個体数とその一つひとつの個体の活動とその住みかであるそれぞれの自然環境は、その数を量ることができないほどに膨大であり、それらのすべてが、四種の媒体で表現されたマンダラの中に必ず含まれることになると空海は説く。
 では、それらの無尽蔵の生物がみな同じように行なっている、衣食住遊の生の活動は何によってもたらされているのか、そこにいのちの根源意識ともいえる無垢の知のちからがはたらいていると空海は説く。(そこに生の本質がある)
若き日の空海は山林修行を通じて、自然と共に生きるあらゆる生物の知のちからの存在に気づいていた。そして、その"知のちから"のことを記した書物に出会った。それが仏典『大日経(だいにちきょう)』であった。その教えについて学びたい、その思いが空海を中国長安へと向かわせる。そこで空海の学んだこと、それはインド紀元前五世紀のブッダの教えから一千年を経て発展した仏教の教えを説いた、前出の『大日経』とその先にある『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』であった。
 その教えとは
 ヒトが自然界を観察すると、空には鳥が飛び、地には虫が這い、水の中には魚が泳ぎ、林にはけものが遊んでいる。それらが共に生きて景観をつくっている。その景観によって自然が形成されている。
 では、それらの生きとし生けるものの活動は何によってもたらされているのか、それらを可能としているのがまず、生物の有する繁殖し、成長し、うごく個体<からだ>のはたらきと、そのからだによって感知されるひびきの差異<ことば>のはたらきと、その情報をとらえ、反応することのできる神経細胞と脳<意識>のはたらきである。この三つのはたらきによってあらゆる生物が生きている。
 その根源的なはたらきによって、あらゆる生物は
一に、日の光を得て、大気を呼吸し生きるちから  
二に、住みかを得て、自然と共に生きるちから 
三に、衣・食・住・遊を相互扶助するちから 
四に、観察し、学習し、コミュニケーションするちから 
五に、からだをうごかし、生を楽しむちから 
の五つの知のちからを発揮できている。
 また、その知のちからによって
一に、生命圏を形成するいのちのすがた 
二に、相互扶助する多様な種としてのいのちのすがた 
三に、遺伝・繁殖して、種を進化させるいのちのすがた 
四に、生を楽しむ個体としてのいのちのすがた 
の四つの無垢なるいのちのすがたを生みだしている。
 それらの"三つの根源的なはたらき"と"五つの知のちから"と"四つの無垢なるすがた"はすべての世界に共通しており、欠けることがない。
 しかし、ヒトだけが知性と呼ばれるものをもった結果、生の本質を忘れ、いのちの本来の"はたらき"と"ちから"と"すがた"から離れてしまった。そのことによって、生きることに余計な迷いが生じることとなった。
 いのちの根源にヒトも立ち戻れ、あるがままに自然と共に生きよ、そこに悟りがある。
 という教えであった。
 この教え、ブッダの説いた慈悲が一千年の時を経て、生きとし生けるものすべての救済にまで昇華したものである。この教えを空海はインド伝来の密教の第七祖恵果和尚から授かり、その第八祖となって日本にもち帰り人々に説いた。そして主要著となる『十住心論』を記した。その内容はそれまでに成立していたさまざまな思想を九段階に分類して記述し、その十段階目の第十住心<秘密荘厳住心:無限の展開>に上記の教えを置いたものである。本論考の最初に紹介した第一住心での空海の自然観を生の本質へと昇華させる鍵となる知の根幹の教えである。その第十住心の章の始めの大意の項に空海は「秘密荘厳住心とは、これをつきつめていえば、自らのこころの無垢の知のちからを自覚することによって、あるがままの自らのいのちの無尽の中に位置するすがたを悟ることである」と記している。
(まさしくそこに、今日の科学によって知ることのできる生命の誕生と進化、38億年が生みだしてきた、あらゆるいのちとヒトのかけがえのないすがたがあると思う。因みに、空海の『十住心論』に述べられた第二住心から第九住心まで<倫理知/神話知/自我知/思索知/啓蒙知/論理知/存在知/実在知など>はすべて人間中心主義の知性である)
 
 こうして、九世紀の初頭に空海の自然哲学は、すでに今日の生態学をまで洞察していた。その空海の視点は本論考で紹介したようにきわめて理知的である。だが、今日尚、人はその教えを神秘的であるという。神秘的であるという理由をつけて、多くの知識人がその教えを敬遠している。しかし、その人、空海はそんなことなど気にもせず、高野の山の自然の中ですべての生きとし生けるものを広く大きなこころで包み込んでおられる。

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