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『十住心論』新ダイジェスト

 はじめに
 空海の主著に『十住心論』がある。九世紀以前の人間思想を体系的に第一住心から第十住心の十段階にまとめたものであり、古代インドや中国の哲学・宗教を含む。
 その第一住心の前段において、心すなわち意識が人間にあるのは、地球上に自然が形成され、その自然の中で生命が誕生し、生命が意識をもつ存在であるからとしている。
 そのことを「自然世界」の章に、空海は次のような詩にして記している。

 生物の住みかとなる自然世界の詩
 自然(地球)はどのようにして誕生したのだろうか
 気体(ガス)が初めに空間に充満し
 水と金属が次々と出て
 (水蒸気は大気に満ち、重い鉄は中心部に集まり)
 地表は金属を溶かした火のスープにおおわれた。
 (やがて、地球全体が冷め始めると、水蒸気は雨となって地表に降りそそぎ)
 深く広大な海となり
 (冷めて固形化した巨大な岩石プレートはぶつかりあい)
 大地は持ち上がり、天空に聳え立った。
 (そうして、出来上がった)
 (空と海と)四つの大陸と多くの島に
 あらゆる生物が棲息するようになった。

 そうして、以下のような詩につづける。

 自然を構成する五大圏の詩
 宇宙は果てしなく<虚空圏>
 (その中に)大気に包まれたところ(地球)がある<気圏>
 (地球は)水を深々とたたえ<水圏>
 金属(と岩石)が地球を作り上げている<地圏>
 火(燃焼)の元素はどこにあるのだろうか<エネルギー圏>
 それらが自然に満ちている
 (ところで)自然に五大圏があるのは
 それらが、あらゆる生物が棲息するための環境となるからだ。

 また、前段の詩につづく各種世界の「生物の世界」の章において、五大圏によって構成されている自然には多種の生物が生存しており、それらは
 ・胎生(ほ乳類)
 ・卵生(鳥類・爬虫類)
 ・湿生(水棲類)
 ・化生(昆虫・両生類)
 に分類できるとし、それらの生物のもっている生きるための習性と共に、人間も同じ生きとし生けるものの仲間であると説く。

 このように、空海によってまとめられた思想体系は、自然・生物としての人類を意識したものであり、人間中心主義の思想ではなく、今日の科学が到達した生態学的視点をも思想の根底としてとらえている。

 そのような先見性をもとに、人間の心によって形成された十種の根幹となる思想を空海が『十住心』として分析しており、以下は、その説くところへの今日からのアプローチである。

 第一住心 生存欲
 第二住心 倫理<善と徳>
 第三住心 真理<神/哲学>
 第四住心 無我
 第五住心 因果
 第六住心 唯識(ゆいしき)
 第七住心 空(くう)
 第八住心 主体と客体
 第九住心 生命環境
 第十住心 マンダラ

第一住心 生存欲
 あらゆる生物は、生存の根幹をなす共通の生命活動を行なっている。
  • それは、呼吸することによって生き、夜になると眠り、眠っているときも呼吸し、そうして、日が昇ると起きて活動し、成長する。
  • からだを維持するために水と食べ物を摂取する。
  • からだには寿命があり、生殖によって子孫をつくり、個体を引き継ぐ。
  • 自然界を住み分け、同じ種が群れ、社会をつくる。
  • 上記の生存欲が満たされるか否かによって快・不快を感じ、個体の感情を示威し、生存権を主張する。

 以上の呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動の生存欲求が人間にとっても意識の起点であり、到達点でもある。人間は生存欲によって情動を起こすと、そのことを記憶していて、快・不快を想像することができ、それが欲望となる。そうして、そこから思想も芽生える。(思想とは、広い意味での生きている世界の快・不快に関するイデオロギーでもある)

第二住心 倫理<善と徳>
 あらゆる生物が上記の生存欲によって快・不快の情動を起こすことになるが、そのなかで飲食と生殖にともなう欲求において、動物の親が子に餌を運び与え保育することを本能的に為すことができることから、他に与え育てるといった心が自然界に当然のこととして存在していることになる。この心と行為の快、そのことを人間は"慈しみ"の心と"施し"の行為として自覚するようになった。この心を子育以外の人間関係にも展開したものが「徳」であり、この「徳」と以下の「善」によって、好ましい人間性が生まれるとする。
 また、人間は言葉によって意思を伝達し合うことのできる動物であるが、そのことによって直接的な生存欲の充足以外に、言動による快・不快をもが背負わされることになり、それらを含めて、人々に不快さを与える行為と言動として、殺生・盗み・邪淫・虚言・二枚舌・悪口・かざり言葉・むさぼり・怒り・邪見の十種があり、それらを「悪」とみなして、してはいけないことに気づく。したがって、してはいけないことを決してしないことが「善」である。
 一に、自己を含め、むやみにいのちを傷つけない。
 二に、他のものを盗まない。
 三に、姦淫しない。
 四に、嘘をつかない。
 五に、矛盾したことは言わない。
 六に、悪口を言わない。
 七に、余計なことは言わない。
 八に、欲深いことはしない。
 九に、怒らない。
 十に、邪まなことはしない。

 以上の「善」を守り、不快なことをお互いに為さないことによって、心は快であり、これに加えて「徳」を実践することができれば、人間関係は平穏である。

第三住心 真理<神/哲学>
 人間は生存欲を根底とした情動のもたらす欲望からの回避と、他への慈しみの心と施しの行為を行なうことを倫理として、人間関係の秩序を保つ知恵を身に付けたが、次に、世界の真理を生み出し、その世界観を共有することによってお互いの心を結び、社会の秩序を築くことに着手するようになった。その真理の一つが、人のちからを超える神の存在であり、その僕(しもべ)としての人間のあり方が模索されることになる。もう一つは、哲学すなわち、言葉の論理による真理の発見であり、その真理を共通認識として生きようとするものである。

(A)神
 人間はモノ・コトのイメージを自由に想像できる能力をもつ。
 だから、
 ・世界の創造主
 ・自然の運行を司るもの
 ・さまざまな願望
 などをイメージとしてとらえ、擬人化した。それが神である。
 そうして、自由なイマジネーションを展開し、時を費やして、その神々の住む理想世界を作りだした。(この世界は人々の心の総意にもとづくものであるから、真理に限りなく近い)
 人々は現実世界によっては実現することのないその神の世界に憧れ、その神を賛美し、その神に祈り、心の安らぎを得ることになる。
 非力な人間に対して、神こそが万物に対する慈悲と施しの実践者であり、その万能のちからにより、あらゆるものを創造することができる存在である。その意味で世界の誕生に関わり、その世界の運行と秩序を司り、絶対の倫理を行なうことのできる理想の人格を象徴する最高のイマジネーションが神であるから、それは真理以外の何者でもない。
 この神の出現によって、人間は想像世界と心を一体化させ、そこに真理を見出し、その絶対真理の下で生きるようになった。

(B)哲学
 神の出現によって、人間は祈ること、つまり、自己の意識を集中し、心の描き出すイマジネーションと一体となることにより、安らぎを得ることになったが、そのイマジネーションを展開する過程において、イマジネーションを概念化し、すなわち言語化し、論理の整合性によって真理を構築することを覚えた。それが哲学である。
 哲学的にとらえると世界の真理はどのようなことになるのか、以下は空海が第三住心に記している古代インドの各種哲学思想である。

□二元論(精神と物質)<サーンキヤ学派>
 人間にはプルシャ(精神)がある。その精神によって自己を観察すると、自己には自我があり、自我を形成しているのは知覚と行為である。
 知覚には耳・皮膚・目・舌・鼻があり、行為には声・手・足・排泄・生殖がある。
 また、自我によって音・感触・色・味・香りを感じ、自然の構成要素を空間・風・火・水・土に識別しているが、それらは人間の個々の意識によって生じた事柄である。この識別を生じさせているものが意識の対象となるプラクリティ(物質)である。
 物質は固定した本質を持たず、常に移り変わるものであるが、その物質によって発揮される快・不快を人間は自我だと思っている。
□因果論<サーンキヤ学派の祖カピラ・サーンキヤの弟子、ヴァールシャの説>
 「結果は原因によって生じ、原因の中に結果のすべての条件がある」と説く。
□カテゴリー論<ヴァイシェーシカ学派>
 すべての存在は六種のカテゴリーによって説明できるとする。
  1. 実体性(地・水・火・風・空間・方向・時間/自我・意識)
  2. 属性(色とかたち・味・香り・感触/数量/分類・結合・分離/相対性/作用/快感・不快感・欲求・嫌悪・意志)
  3. 運動性(上昇・下降・収縮・伸張・進行)
  4. 普遍性
  5. 特殊性
  6. 内属性(構造)
□禁欲論<ニガンタ派>
 マハーヴィーラを開祖とするジャイナ教の思想。
 すべての自然は殺してはならない。自然は生きものであり、地(土)・水・火・風(空気)・植物・動物は共にいのちあるものである。
 すべてのものを所有してはならない。すべてのものとは物質・家族・人間関係・欲求・精神などである。
□唯物論<ローカーヤタ派>
 アジタ・ケーサカンバリンの説く唯物論。
 善悪の行為に報いはない。死後に生まれ変わることもない。人間は地水火風の四つの物質から出来ているから、死ねば四つの要素に帰るだけである。また、布施に功徳があることもない。
 また、自然のちからは感じるまま、そのままであり、その背後に神秘は存在しない。生きていることの楽しみのみに幸福を求めよと説く。
□宿命論<アージーヴィカ派>
「アージーヴィカとはいのちある限りの意味。あらゆるものは宿命にしたがう」としたマッカリ・ゴーサーラの説く思想。
 自然のもつニヤティ(宿命)にしたがえば、人間は成功し、それにしたがわなければ不幸になるとする。
□不可知論<サンジャヤ派> 
「五感によって知覚できない事柄、すなわち概念による問答において、絶対に回答はない(議論によっては真理に到達できない)」とした立場を取る一派。サンジャヤ・ベーラッティブッダが唱えた。弟子に、後にガウタマ・シッダールタ(釈迦)の説く仏教に帰依することになるサーリブッダ(舎利弗)とマハーモッガラーナ(目連)がいた。
 たとえば「来世はあるのか」との問いに対し、
 「そうとは考えない。来世があるとも、それとは異なるとも、そうでないとも、また、そうでないのではないとも考えない」とする。

第四住心 無我
 さて、人間は倫理によって社会秩序を築くことと、神と哲学によって世界の真理に近づき、その真理に共感し、その世界を共有することを覚えたが、個人に立ち返れば、日々の欲望、すなわち自我によって生きている。
 自我とは、好き・嫌い、知りたい・知りたくない、欲しい・欲しくない、したい・したくないなど、体験する対象への個体別の心の反応である。
 その対象となるモノ・コトの色とかたちと動きを目が見、音を耳が聞き分け、匂いを鼻が嗅ぎ分け、味覚を舌が味わい、感触をからだが感じ取る。
 それらの五感によって感じ取ったものがイメージとなり、そのイメージによって快・不快が生じ、そこから感情が湧き起こり、それが情動となり、それを人は記憶する。
 この快・不快は何処からくるのだろう。第一住心の生存欲が充足されるか否かにその根幹があることはまちがいないが、そこには精神的・肉体的な個体差があって、それがそれぞれの自我になると思われる。それ故、感じる対象があって個々の自我は発揮されるということになる。
 そのように自我には固定した本質はなく、体験する対象によって生じている。その生じた感情を人は記憶していて、そこから快・不快が想像・増長され、欲望が生まれる。その欲望のことを人間は自我であると思っている。
 したがって、対象に実体はあるが、自我の実体は不確定であるというのが真理である。それが無我である。

第五住心 因果 
 自我による欲望を排し、直接的な知覚反応によらない概念によってモノ・コトを考察してみると、それらのことごとくが原因と結果によって成立していることを発見することができる。それが因果の論理である。
 その論理を用いて、人の一生における心のはたらきの因と果を洞察したのがガウタマ・シッダールタ、すなわちブッダ(紀元前五世紀、仏教の開祖)である。

「十二因縁説」
1、人は意識する能力をもって生まれてくる
2、だから、世界を識別することを性(さが)とする
3、識別することによって、あらゆるモノ・コトを分類し、それらに名まえをつける
4、分類され、名まえをつけられたモノ・コトを目・耳・鼻・舌・身体・意識によって知覚し、認識する
5、知覚されるモノ・コトは
 ・色とかたちとうごき
 ・声と音
 ・匂い
 ・味
 ・感触
 ・法則
 である
6、それらを認識することによって、あらゆる対象となる世界に遊ぶことができる
7、しかし、そのことによって心に快・不快を感じ
8、快・不快によって情動を起こし
9、情動を記憶することによって執着が生じ
10、その執着によって生きようとし
11、その生きようとする力によって生まれ生まれて
12、そして、老い、死ぬ

 そうして、ブッダは「人の執着が識別を因とし、情動を果としている」と気づき、次に、「因と果をもたらす識別は言語によって作りだされたものであるから、もともとの自然界には無いものである。因がなければ果は生じない」と悟った。
 「それがあるから、これもある」
 「それが生じなければ、これは生じない」<ブッダ>

(その解脱により世界を観察すれば、自然と生きとし生けるものすべてはあるがままであり、そのあるがままの無垢なる存在に対して、限りない"慈しみ"の心が生まれるとする)

第六住心 唯識(ゆいしき)
 第五住心によって、識別が人間の情動を生み出していると理解できたが、その情動から心を解脱させて後、人と人、人と自然が真にコミュニケーションできる心のはたらきのみが残ると知る。この心は自然によってもたらされる意識であり、人による識別を超えたところに実在するものである。したがって、関心はそのはたらきを為すことのできる意識の根幹に向かうことになる。
 意識の根幹を分析すると
 一、生存するための基本的な欲求を司っている意識<第八アラヤ識>
 二、言語による執着を司っている意識<第七マナ識>
 三、知覚によってとらえた情報を思考・記憶する意識<第六識>
 四、対象を知覚によってとらえる意識<前五識(五感)>
                 < >内「唯識論」による意識階層の名称
(・第八アラヤ識:さまざまな心の階層の基底をなす意識。第一住心の生存欲(呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居への欲求とそれらの欲求の充足度が惹き起こす快・不快の情動)を発動・制御している意識。
・第七マナ識:感受されたイメージを言語によって表現する意識。その自己の創作した作文により執着を惹き起こす。*このマナ識により心の悩みが生じている。
・第六識:知覚情報をイメージ化し、そのイメージを編集する意識。
・前五識:眼識・耳識・鼻識・舌識・身識により、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の知覚を得る意識。)
の八つの階層<識>によって構成されていて、それらの各識に対応する心がそれぞれに存在していると知ることができる。その階層別の無垢の心、すなわち慈しみ心を発揮し、実践するのが第六住心である。(そうして、第七マナ識による執着を説法によって解き放つことも)

第七住心 空(くう)
 紀元前五世紀に因と果の論理を用いたブッダの洞察によって、人間は識別による情動とその情動への執着によって、心に悩みを抱え込むようになったが、しかし、情動による執着が生きる原動力になっていることも事実であり、その執着に取って代わることのできる心のはたらきが慈しみである。その慈しみは「十二因縁説」の悟りによってもたらされる。
 仏教の唱える慈しみを如何に実践するか、そこから「唯識論」が生まれた。つまり、意識の階層を分析し、それぞれの心の階層に応じた慈しみのケアを行なおうとする教えである。その教えの実践は数百年にわたって試行錯誤を重ねながらもつづけられることになるが、やがて、仏教成立から七、八百年後に、そのブッダの悟りの原点に戻り、識別によって、ほんとうに存在の有無を証明することができないのかを考察する学者が出現する。それがナーガールジュナ(龍樹)である。その結果、存在は論理によっては識別できないことを論証する。そうして、以下の結論を得る。

 (モノ・コトの存在は)
 生じないし、消滅しない。
 断絶しないし、連続しない。
 同一ではないし、別でもない。
 去ることはないし、来ることもない。

 上記の結論を記した『中論(ちゅうろん)』によると、まず、「存在条件」の有無から始まり、「去来(動き)」「認識作用」「物質存在」「存在要素」「寿命(発生・持続・消滅)」へと論証は進み、究極の論理となる「作用と作用主体の相対性」によっても個々の存在を証明することはできないと考察する。

 空海は、そのナーガールジュナによる「相対性による存在の空」(果分不可説)の論理を超克し、「実在する絶対の一の空」(果分可説)を唱える。
 以下はそのことを説いた空海の詩文である。

 なんと大空は広々として静かなのだろう。
 万象をその中に一気に含み
 大海は深く澄みとおり、一つの水(水の元素)にすべての生物が宿る。
 このように一は無数の存在の母である。
 空間は現象が生じるための基(もとい)である。
 それぞれの現象は不変に存在しているものではないが
 それでも現象はそのままにして実在し
 「絶対の一の空」は現象の生じる場として存在している。
 その存在は特定の現象に留まることなく
 実在する現象は不変でないから
 あらゆる現象が生起しても空間はそのまま空である。
 このように空間があるから存在があり、存在があるから空間がある。
 存在の諸相は論理によって証明できなくても、現象と空間はそのままにして実在する。
 だから、存在は論理によっては空であり、空であるものが存在している。
 そのようにすべての存在が「絶対の一の空」に実在している。
 そうでないものは何物もない。
『十住心論』第七住心 大意の序より

 こうして、空海は実在する世界を"イメージと単位"によって示し、論理による存在の空を超えた。つまり、実在する空間としての空と、論理によっては捉えることのできない存在の諸相の空を一つにし、極めて物理学的な絶対の空の世界を拓いた。そうして、その世界を詩にして説いた。この実存世界を誰も否定できない。その世界の中でわたくしたちは生きている。

第八住心 主体と客体
 空間と物質の存在実体を観察と理論によって追究している物理学者のすがたは菩薩僧のすがたに似ている。
 只ひたすらに主観を排除し、みずからを客体化することによって、存在の本質と一体になり、真理を証明しようとしているすがたは、菩薩僧も物理学者も同じである。
 菩薩僧は十二年間も山林に籠もり、学問・修行をしなければならない。物理学者も絶対的な空間に住し、主観を排除してみずからを客体化して、数式に向かっていると言われる。
そのような心のあり方が第八住心である。

 物理学者のシュレーディンガー(量子力学の"波動方程式"を発見。一九三三年にノーベル賞受賞)もその著作の中でその心を語っている。
 「わたしの心と世界は同じ要素によってできている。両者の間ではお互いに参照するといったことができるが、その多くは証明できていない。この情況は心の問題と世界の問題の双方に言える。しかし、今、生きていることによって世界に対峙している自分の心がここにある。その瞬間、世界はたった一度だけわたしに与えられている。心と世界の両者は存在しているものでも認識されるものでもない。主体と客体はたった一つである」
 「たとえば、あなたが大地にからだを投げ出し、その上で大の字になれば、あなたは母なる大地と一つになることができるだろう。その瞬間、あなたは大地であり、不死身であると感じる。人は死ねば大地に戻るだろう。それは明日かも知れない、それでも、生きている今のあなたに対峙している大地はあなたがそこにいることによって、あなたの新しい努力と苦しみに向けてあなたを生み直している。瞬間、瞬間に移りかわる自然のすがたの数だけ、それを見つめているあなたを新たに生み直している。そう永久に、今だけ、今だけが列なっている」

 一人の物理学者がその思索によって菩薩の悟りに達していたー

第九住心 生命環境
 第七住心で「実在する絶対の一の空」を空海は唱えたが、その自覚によれば、物理学者の心と自然とは同体であるとの認識に至る。無機質を主体とした自然の移り変わりそのものが心に映り、意識を形成している。それが物理学的な絶対世界である。
 では、その絶対世界に生命を置くとどうなるのか、生命の住みかとしての自然に心の主体をもっていくと、そこにもう一つの生物学的な絶対世界が現れる。それが第九住心である。
 その絶対世界のことを空海はその著『声字実相義』に詳しく記している。

「いのちとその環境」
 つぎに、「いのちと、そのいのちの宿る生物と、生物の住みかとなる環境がすがたを現わしている」を考察してみよう。
 これには三つのこと<三種世間>が説かれている。
 第一に、生物のすがたに、色・かたち・動きがある。<衆生世間>
 第二に、環境にも、色・かたち・動きがある。<器世間>
 第三に、これらの、色・かたち・動きは、生物と環境にそれぞれにそなわっているものではなく、いのちの住みかとなる環境と、そこに住むものとの関係、すなわち、共生する関係(生態系)の中から生まれ出ている。<智正覚世間>

 上記の事柄に関し、『華厳経(けごんきょう)』(三世紀中央アジアで成立した経典)にも以下のように説かれている。
 『経』にいう。
 「いのちの有するからだは不思議である。そのからだは物質の基本要素である固体・液体・気体によってエネルギーを発生させる小宇宙(空間)の集合体である」
 またいう。
 「からだの一毛の中に多くのいのちの海(細胞)があり、一つひとつの毛にその海があり、その海がすべての生物にあまねくゆきわったっている」
 またいう。
 「一つの毛穴の中にも計り知れないほどの多くの海(細胞)がある。その量は微塵であり、いろんなはたらきをするために存在している。その微塵の海の一つひとつにいのちのはたらきを指図している遍照尊(へんじょうそん:DNA)がおり、細胞の集まりの中でいのちの真理を説いておられる。また、その細胞の中にはさまざまなはたらきを為す大小の生命(バクテリア各種)が含まれていて、その数は無限に等しい。そのように一個の生物のからだを形成している細胞の一つひとつには、それぞれのはたらきを為しているいのちがみな入っているのだ」と。

 今、上記の文章によって、(わたくし空海は)次のことを理解した。
 いのちとそのいのちを有する生物のすがたは大小さまざまである。
 ・生命圏全体のいのちのすがた。
 ・説明することができないほどの細胞の数をもつ大きな生物のすがた。
 ・少しの細胞の集まりによる小さな生物のすがた。
 ・一つの細胞のすがた。
 ・細胞の中のDNAのすがた。
 これらのいのちの大小が互いに内となり外となって共生し、融通無礙の生命環境を築き、そこを住みかとして生存している。人間もその一員であり、その中に組み込まれている。そのことを自覚せよと。(その生命圏のすがたは帝釈天の宮殿にあるという宝珠をつらねて作った網の一つひとつの宝石が互いに映じあっているようであるとも空海は記している)

第十住心 マンダラ
 人間は第一住心の生存欲を意識することから始まり、その思考能力よって人間中心主義の思想を発達させてきた。その間、ナーガールジュナによって考察された相対性の論理による諸相の存在の否定、すなわち空(くう)は、空海によって実在する万象を含む絶対空間の空(くう)として肯定されるが、論理によっては世界の真理を説明することができないとしたナーガールジュナの哲学的帰結により思想の階梯はこの段階で崩壊してしまった。そこで、第十住心において空海は言語による論理を超える多角的な表現メディアとして
 (1)「形象」:万象の色・かたち・動きによるすがた<大マンダラ>
 (2)「シンボル」:事物・事象の象徴性とそのことによる差別化と意味化<三昧耶(サンマヤ)マンダラ>
 (3)「単位」:文字と数量による意味の編集<法マンダラ>
 (4)「作用」:物質のはたらき/人の行動<羯磨(カツマ)マンダラ>
 の四種があることを示し、それらのメディアによって、世界の"すがた"とその"はたらき"の本質を伝達することができると提唱した。そのメディア<マンダラ>によって表現された真実の世界が第十住心なのである。
 空海の作成したマンダラには、胎蔵マンダラと金剛界マンダラがあり、前者は五つのいのちの力(生命力・生活力・身体力・学習力・創造力)によって発揮される根源的なそれぞれの五つの知が展開する生命世界のすがた図であり、後者はそれらのすがたをもつものが行なうはたらきを九つに分類して示す図である。
 その図によって世界の本質が無量に開示する。だからこの第十住心はすでに思想を超えている。

あとがき
 空海の包括的で普遍的な思考能力が『十住心論』を生み出したと思う。その体系は仏教思想の展開にとどまらず、古代インドや中国の哲学・宗教を含んでいる。そうして、注目すべきは千二百年前に思想といった枠を超えて、思考の十段階目として、世界の本質を表現するのに今日の科学における観察・分析・創造・技術手法に相当する四種の「マンダラ」を用いることを提唱していることである。そこには、近代人の思考方法と同じものがすでに存在している。

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