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ブッダと空海-形而下の教え-

はじめに
 紀元前五世紀頃、インドのガウタマ・シッダールタ(ブッダ:目覚めた人)によって、世界の三大宗教の一つである仏教が誕生した。
 その教えの骨格は、あるがままに健やかに生きることの自覚<仏>と、その無垢なる自覚をもたらす心の原理<法>と、その原理にしたがって生活する集団<僧>の規律である。それらの三つの事柄<三宝(さんぼう)>によって、人間は清らかに生きられるとする。
 では、その三つの事柄にガウタマ・シッダールタはどのようにして目覚めたのか、その辺の経緯は次のようなものであったと伝えられている。

 インドのシャーキャ族の王子であったガウタマ・シッダールタは二十九歳のとき「ヒトはなぜ、生老病死に苦しみ生きるのだろう」との迷いをいだき出家した。そうして、その迷いを脱却するために数年にわたる山林での苦行をしたが答えは得られなかった。だが、三十五歳のとき、それまでの苦行を止め、川水でからだを清め、村娘から供養された食物を摂り、涼しい菩提樹の下で静かに呼吸を整え、深い瞑想に入り、やがて、東の空に明けの明星が輝くの見て、そこに迷いのない無垢なる知をもつ自己がいると悟った。<仏>
 その知によって七日間の思索をつづけ「ヒトに迷いをもたらす執着は言葉による識別を因とし、情動を果としている」と分析し、次に「因と果による存在はヒトの識別した事柄に過ぎないから、もともとの自然にそのようなものはなく、あるがままである。因があるから果がある、因がなければ果はない」と考察した。<法>
 その法によって、心の迷いは消え去り、しばらくは心地よい解放感に一人浸ることができたが、そこに、インドの天地と言葉の創造神である梵天(ぼんてん)が現われ「そのようなことに気づいたのはお前が初めてである。お前にはその考察した法を用いて、ヒトの心に生じる迷いを取り除く使命がある」とうながされ、「ヒトの甘露の門はひらかれた。耳あるものは聞け、古き信を去れ」との説法の決意に至った。その後、その法をもってヒトビトのなかに入り、屈託のない遊行によって一人ひとりの悩みに接し、それぞれの素質にあわせて、心を執着から解き放つ説法を行なった。また、生まれによる差別を排し、すべての階層のヒトを平等に受け入れ、生きとし生けるもののいのちを大切にする心と、相互扶助による質素な衣食住を得る生活を指導し、その教えにもとづいて生きようとする集団を築いた。<僧>
 そうして、四十五年に及ぶ救済活動を行ない、八十歳で沙羅双樹のもとで入滅されるが、その説いた<法>はヒトビトのなかで永遠に生きつづけることになった。

 さて、そのようにしてインドに誕生したブッダの教え<原初仏教>は、その後、その教えの骨格である仏・法・僧を規範としながら、一千二百年以上の歳月の間に、存在の有無の論理"空(くう)"を心の原理とする教え<大乗仏教>へと飛躍し、そうして、実在する絶対世界に目覚める心身の原理を唱える教え<密教>へと進化し、アジア各地に伝播することになる。

 以下はそれらの各教えが説く、人間の生き方に関わる原理について、それぞれの教えの根本を要約してみる。(そのことによって、ブッダの悟りと空海の説く密教を結ぶ文脈が明視化されると思う)

Ⅰブッダの悟り
 ブッダの悟りの経緯については、その概略を前章に記した。その悟りが仏教の誕生となった訳だが、それは、悟りの内容をブッダが極めて合理的に分析にし、<法>として普遍化することに成功したからだ。
 その分析は「コレがあるとき、ソレがある」「コレが生じるとき、ソレが生じる」といった因と果による縁起論と、そうして、「コレがないとき、ソレがない」「コレが滅するとき、ソレが滅する」といった縁滅論の道理を用いることによって為された。
 この道理によれば、コレを万象から識別することによって、他のソレが存在することになるのだから、識別そのものが不確かなものであれば、他のソレは存在しなくなる。と云うことは、識別されたモノ・コトは、言葉によって生まれたものであり、自然界にはもともと言葉などはなく、そこにあるのは、あるがままの存在のみであるという事実によって、識別によってもたらされる心の迷いは存在しないものとなる。
 そのような分析によって、仏教の要(かなめ)となる法が確立した。
 そうして、識別、すなわち言葉によって惹き起こされる執着を離れて、あるがままの自然を感得し、人間も自然の一部であることを自覚して、その自然の叡智によって生き、他にその叡智を伝えることのできる人のことを古代インド語でブッダ(目覚めた人)と云う。

 そのブッダが悟った<法>を、後世の仏教徒が上手くまとめたものが「十二縁起」である。人間の意識の根幹の流れを因と果によって考察し、その本質を解き明かすものである。

1、人間は知覚とその知覚したことをイメージできる能力をもって生まれてくる
2、だから、世界を識別することを性(さが)とする

3、識別することによって、あらゆるモノ・コトを分類し、それらに名まえをつける
4、そうして、分類し、名まえがつけられたモノ・コトを、目・耳・鼻・舌・身体・意識によって認識する

5、認識されるモノ・コトは、色とかたちとうごき・声と音・匂い・味・感触・法則である
6、それらの認識によって、あらゆる対象となる世界に遊ぶことができる

7、しかし、そのことによって心に快・不快が生じ
8、快・不快によって情動を起こす

9、そうして、情動を記憶することによって心に執着が生じ
10、その執着によって生きようとする

11、その生きようとする力によって人間は生まれ生まれて
12、そして、老い、死ぬ

 以上の因と果の連続によって、人間はその一生を送ることになるが、その因果の認識はすべてが識別によるものであることを説いている。そのことを理解できれば、識別によって染まらないあるがままの世界が実在していると知ることができる。そこに解脱があり、その解脱によって世界を観察すれば、自然と生きとし生けるものすべてはあるがままであり、そのあるがままの無垢なる"すがた"が自己のほんとうの存在そのものである。

Ⅱ"空"の考察
 ブッダの悟りから七、八百年後に、ナーガールジュナが出現した。その間、仏教が継続発展していたことにまちがいなく、彼が仏教思想のニューリーダーとして"空"の論理を確立することになる。
 ナーガールジュナはブッダの教えを解釈し、論理化した各種大乗経論に学び、その中でも、モノ・コトのすべては相互に依存することによって成立しているから、独立した存在はないと云う仏教哲学の主要なテーマ"空"について考察した。

 その考察によって得た論理を記したのが『中論』である。
 以下はその論理の抜粋である。

考察の序
 (仏教哲学において、モノ・コトの存在は)
 生じないし、滅しない。
 断絶しないし、連続しない。
 同一ではないし、別でもない。
 去ることもないし、来ることもない。(と説かれる)
 (この説によると)あらゆる存在の有無は識別することができないから、論理の外に出てしまう。そのことを最初に示されたのはブッダである。
 (その説を受けて、わたくしナーガールジュナは、あらゆるモノ・コトの存在について、どうして識別することができないかを考察し、論証したい)
1、条件の考察
 モノ・コトの存在は、どのような場と存在のかたちにおいても、そのものからも、他のものからも、それらの両方からも、また、それらの条件のないところからも、生じて存在することはない。
 そのように、もろもろのモノ・コトの存在の実体がそれ自体の存在条件をもたないものであるならば、他のモノ・コトも存在しない。
2、去来の考察
 すでに去ったものは去らない。まだ去らないものは(そこにあるから)去らない。すでに去ったものと、まだ去らないものとは別に、今去りつつあるものが去るということもない。
3、認識の考察
 目が何ものも、今見ていないときは、見るはたらきは存在しない。だから、見るはたらき(作用)が見る行為者(主体)になることはない。
 見る作用が見るのではない。見る作用でないものが見るのでもない。そうして、見る作用が(見る)対象となる識別によっては存在を証明できないものを見ることとなると、どうして、見る主体が存在しえるだろう。
 だから、見る作用を欠いていても、また欠いていなくても、見る主体は存在しない。見る主体が存在しなければ、見られる対象となるものも、見る作用も存在しないのである。
4、物質の考察
 現象のもとは物質である。物質が存在しなければ現象は観察されない。また、現象が観察されなければ物質の存在を確認できない。
 もし、現象と物質が別の存在であるとすれば、現象が物質の存在なくして起こるということになる。しかし、現象は物質の存在なくして存在することはないのだ。
 それでも、現象しない物質が存在するとしたら、結果のない原因が存在することになる。しかし、結果のない原因は見ることができない。
5、要素の考察
 すがたを形成しない空間は存在しない。もし、すがたを形成する以前の空間が存在するとすれば、その空間はすがたがないのだから見ることはできない。
6、寿命の考察
 存在しているその瞬間の状態は、それと同じ状態によって決して消滅することはない。また、その瞬間とは別の状態によっても決して消滅することはない。(すべてはその時と場におけるあるがままの一瞬の存在である)
 したがって今、存在している現象の消滅はない。なぜなら、存在と非存在とは一つのものにおいては同時に成り立たないのである。
7、相対性の考察
 すでに実在しているものが、すでに実在しているものを生じさす作用をすることはない。まだ実在していないものが、まだ実在していないものを生じさす作用をすることもない。
 すでに実在しているものには実在するための作用は存在しない。そうして、作用は実在するものにはならない。すでに生じている作用には作用は必要でない。そうして、すでに実在しているものは作用を有していないものとなるであろう。

 以上のように、ナーガールジュナはモノ・コトの存在の"空"を考察し、究極の相対性(作用<因>と実在<果>)の論理によって、存在の実体は識別できないものであることを論証した。そうして、そのことによって、ブッダが方便として説いた因果論「十二縁起」による識別された存在の"空"を裏付ける結果なった。

 (これより後、"空"の観念のみが一人歩きすることになるが、本来、ブッダがその悟りによって説いたことは、識別、すなわち言葉による執着を離れて、あるがままの自然の摂理と共に生きることのできる無垢なる知に目覚める人間のすがたであったー)

Ⅲ生命の存在原理
 大乗仏教の説く存在の"空"の観念に対して、わたくしたちの住む世界は実在し、その中で、あらゆる生物がそれぞれの生を謳歌している。そのゆるぎない存在肯定の上で"生身の生き方としてのブッダの悟り"の原点に仏教を回帰させたのが空海である。
 人間は観念によって生きているのではなく、肉体の健やかさや五感のもたらす快・不快によっても生きている。その形而下(けいじか)*の視点を外して、悟りが成立するはずがない。(事実、ブッダの悟りは肉体の苦行に始まり、そうして、その苦行から離脱し、静養し、心静かに自己の精神とその肉体の有する生命の双方と向き合うことによって得られた)そこで空海は、自然界における絶対存在としての生命の原理、すなわち形而下の事柄を洞察し、その原理をブッダの悟りに付加することによって、心とからだの双方の真実を説く教えとして仏教をバージョンアップしたのである。(それが空海密教となった)
*形而下:(哲学で)自然一般・感性的現象、すなわち時間・空間のうちに形をとって存在するもの。(したがって、知覚体験によって認識できる事柄のすべてを指す)

 では、その絶対存在としての生命の原理とはどのようなものなのか、以下箇条書きする。

1、自然の六つの要素<六大(ろくだい)>
 自然界を構成している要素は、物質と生命と空間である。物質の形質には固体(地大)・液体(水大)・気体(風大)・エネルギー(火大)があり、それらによってあらゆる生物のからだも形作られ、空間(空大)の中で活動している。その生命が意識(識大)をもつ。

2、生命のもつ五つの知<五智(ごち)>
 六大によってからだを形作っているあらゆる生物は、共通する生命のちからをもっている。そのちからを発揮しているのが五つの知である。
 (1)生命知<法界体性智(ほっかいたいしょうち)>
太陽の光と水と大気の恵みによって宇宙に誕生した生命が、多様な種の共生によって地球上に生命圏を形成する知。
 (2)生活知<大円鏡智(だいえんきょうち)>
   あらゆる生物が呼吸・睡眠・生殖を無心に為して生きることができる知。
 (3)創造知<平等性智(びょうどうしょうち)>
   あらゆる生物が相互に衣・食・住を生産・扶助している知。
 (4)学習知<妙観察智(みょうかんざっち)>
あらゆる生物が持ち前の知覚によって世界を観察し、そのちがいを知り、コミュニケーションを取り合う知。
 (5)身体知<成所作智(じょうそさち)>
   あらゆる生物がからだを空間に遊ばせ、生を楽しむことができる知。

3、生命の四種の無垢なるすがた<四種法身(ししゅほっしん)>
 五つの知のちからを発揮して生きている生命の四種の無垢なるすがた。
 (1)生命圏<自性(じしょう)法身>
太陽光の下、呼吸と食物の連鎖、すなわち物質とエネルギーの代謝の循環によってあらゆる生物が共生し、生命圏を築いているすがた。
 (2)個体<受用(じゅゆう)法身>
多様な生物の種のその種の個体を受け継いで生まれてきた、たった一つのかけがえのすがた。
 (3)遺伝<変化(へんげ)法身>
同じ種であっても遺伝の法則によって少しずつ異なる個性を生物はもつ。その変化するすがた。
 (4)多様な種<等流(とうる)法身>
生命が進化し、多様な種となり、種の形質がDNAによって等しく流出してくるすがた。

4、生態系<三種世間(さんしゅせけん)>
 あらゆる生物は自然環境に住み場を得て生活している。その生活によって、生物と自然
との共生関係が生まれている。その良好な共生関係は生物の発揮する知のちからとエネル
ギー代謝の循環に委ねられている。
 (1)自然環境<器(うつわ)世間>
 (2)あらゆる生物<衆生(しゅじょう)世間>
 (3)エネルギー代謝の循環<智正覚(ちしょうかく)世間>

5、ヒト科の行動規範<三密(さんみつ)>
 暮らしの風土の中で、ヒトは絵や文字を描き、モノづくりのできる器用な手をもつからだと、意思を言葉にして伝える口と、イメージ(色・かたち・動き)を編集、記憶できる思考力によって、地域固有の文化を築くことができるが、そのことは、ヒトにもあらゆる生物が有している五つの知のちからが備わっていて、その土地の物質・生命・空間からの潜在的な情報を無意識に感知していることの表われである。(しかし、ほとんどのヒトはそのことに気づいていない)その根元的な知のちからによる行動を空海は密なるものとした。
 (1)からだ<身密(しんみつ)>
ヒトは手足で道具をつくり、美しい布を織り、狩をし、魚や鳥や獣を捕らえ、水を引き田を耕し、種を蒔き、野菜や穀物を育て収穫し、家や塔を建て、道を拓き橋を架け港を開き、そうして、手足で踊り、指で仕草を示す。
 (2)言葉<口密(くみつ)>
生活の日々の中で、言葉のひびきで意思を示し、物語を創作し、それを語り、歌い、他と共感しあう。
 (3)思考<意密(いみつ)>
からだと言葉による創造性の発揮は、ヒトが自らの個性をもってあるがままの真実の存在をイメージできるからである。

以上が絶対存在としての生命の原理を説く、空海密教の教えの根幹である。

ブッダは「縁起論」によって心を執着から解放したが、空海はマンダラの「五智」によって人間のからだが自然と一体化している無垢なる存在であることを示し、その生命の知のちからに目覚めることを悟りとした。その心とからだの解脱によって悟りは完成する。

あとがき
 空海密教と生態学の相似性については当論考で以前に執筆させていただいたが、今回は、なぜ、空海がブッダの悟りに生態学的なるものを付加したのか、そのことを考察してみた。
 ヒトがその生き方に関わる真実とは何かを求めようとするとき、それが必然的に生態学の方に向かうのは、人間も自然と共に生きている生物であることによる。
 ヒトは心とからだの双方をもって生きていて、そのからだ、すなわち肉体は自然そのものであり、ブッダは苦行によって肉体(自然)を克服する心(精神力)を得ようとしたが、広大な自然の道理の中にからだを委ねてこそ、精神の調和は得られることにやがて気づく。そのためには、肉体をあるがままの自然の営みに近づけることができる無心さ(瞑想)が必要だ。そうすれば、自然界と自己のからだに宿る生命を洞察し、感得することができる。そこに、形而下(けいじか)の悟りがある。(この悟りに空海は着眼した)
 ブッダの悟りは形而下のものであったが、その悟りを説くにあたって因果の論理を用いた。それが原初「仏教」の教えとなった。しかし、形而下の具体的な事柄については沈黙した。空海はその形而下を洞察し、「密教」の教えとして説いた。その内容は本文にあるとおりである。そのようにして、ブッダの悟りは論理と形而下、双方の教えとなって今日に伝えられることになった。

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