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心象の哲学-空海作『詠十喩詩』(訳文 2018.4改訂)New

幻(まぼろし)

目の前の存在はみなまぼろし
それらの存在はたまたま縁あって合成されたすがたにすぎず
その仮のすがたが無知ともろもろの因果の行為が生み出す心の闇にイメージとなって浮かぶ
イメージはもともと心の中にあるものではなく、だからといって心の外にあるものでもないのに、わたくしたちの心情を惑わしている
ところで、国土・自然世界と、そこに生きるものの世界と、それらの生きもののいのちのもつ無垢なる知のちからの世界とは、つくるものとつくられるものという関係の中で成り立っている
そのような万物の世界は、たとえるなら(地中にあって養分や水を摂取し、地上に葉茎・花茎を出す地下茎と、撥水性によって水をはじき、光エネルギーを使って水と空気中の二酸化炭素から炭水化物を作る光合成を行ない、その過程で生じた酸素を大気中に放出する大きな葉と、その葉と対を成し、受粉するために咲き開く花と、堅い果皮に包まれ一千年以上も休眠状態をつづけることができ、条件が揃えば発芽する種とから成る)ハスの田のようであり
その全容(生態系)は見えないのだけれども、だからといってないわけでもなく、さらには時間の流れと共に絶えずそのかたちを変化させているから
目の前にあるのは万物の一瞬のすがたにすぎない
(その固定した実体をもたない万物の世界の中で)
春の庭に咲く桃とスモモの花は人の目を眩惑し
秋の水に映る月を子どもは取ろうとして迷い
山の女神は朝には雲となり、夕には雨となってその恋慕の情を示し
水の女神は風に吹かれてひらひらと舞う雪のように美しいという
そのように人は万物の一瞬のすがたをとらえては欲と物と精神とによるイメージ世界をつくりだし、そこに執着する
それらにとらわれなければ、いのちのもつ無垢なる知のちからによって物事の真理を見ることができるのに
情けないことに人はいつも目の前に見えるものによって自らの心を惑わされている
欲と物と精神とによってとらえる万物はまぼろしにすぎず、そのまぼろしを超えたところに万物の本質が横たわっているのだから、さあ、その本質のあるところに還ろうではないか

陽炎(かげろう)

移ろいゆく春の日に
かげろうがゆらゆらと立ち昇り、野に広がる
しかし、ゆらめいているけれども実体はなく
そのすがたを確かめようとして人は野をさまよい、ついには帰ることすら忘れる
遠くから見ればあるのに、近づいて見ればそこになく
まるで走る馬や流れる川のように見えても、どこにもその痕跡はない
そのように実体のないものであるのに、とかく人は自分が見たことを信じて自らの主張を展開し、無意味な議論を交わすものなのだ
街に精悍な男と美女がいっぱいいると見て
その男らしさや女性の美しいところを一々判別するために迷い
また、覚者と賢人とは見分けがつくものとして、できもしないことをする
そのように観察する対象に自分の思い込みによるすがたを求めて人はさまようが、そんな区別はもともと存在しないのだ
だから、色受想行識による認識とその識別による煩悩と死の恐怖と善行の挫折というさとりの障害物であると称するものも、さとりによる無垢なる知を象徴するというもろもろの仏のすがたも、見ても見えず、聞いても聞こえないかげろうのようなものなのかもしれない
さらには、深い瞑想によって心の中の識別と煩悩が消え、心と世界が一体となり
いのちのもつ無垢なる知の光を一瞬、垣間見たとしても
慢心してはならない、欺かれてはならない、その光もかげろうかもしれない
万物の真実のすがたは識別の中になく、だからといってないのではなく、それは人の認識作用から離れたところにあるものなのだ

夢(ゆめ)

ひとときの眠りの中に数えきれない夢を見る
その夢は楽しかったり、苦しかったり、予測がつかない
仲間との出あいと交流による快・不快、居場所や帰る家や所有物が分からなくなる不安、死と苦痛、安楽や飛翔などの喜びの体験に
泣き、歌い、どれほど人は心をかき乱されることだろう
だが、眠りの中では真実であっても目覚めるとそこになく
我に返れば、すべては夢の中のたわむれだったと知る
同じように、迷える人間というのは暗い心の部屋に閉じこもって眠りつづけているようなものだから
世の中、心配ごとばかりが増える
(以上のあり様からするなら)
道を求める者よ、その観想中にさとりの境地を得たとしても、それはいっときの夢かもしれず、そこに執着してはならない
また、欲と物と精神とによる迷いと苦しみの世界にとらわれてしまった者よ、それもいっときの夢かもしれず、そこに留まってはならない

陰陽の気が集合すればいのちが生まれ
固体・液体・エネルギー・気体の結びつきによる活動が終われば、身体は元の物質に戻って死ぬ
帝王と呼ばれる者もそれに連なる大臣や貴族も
春には栄え、秋には朽ち、やがて川の流れのよう逝く
(すべてが終われば、どんな人生もひとときの眠りの夢の中での出来事のようであり、人の一生とはそのようなものなのだと分かるから)その定めを深い観想によってあらかじめ知ることになれば
(出世や名誉や贅沢への欲望は消え)いのちのもつ無垢なる知のちからにしたがって、ありのままに無心に生きることに目覚めるであろう

鏡の中の像

昔、インドのヤジュナダッタがいつものように自宅の円形の鏡に自分のすがたを映して見たところ、そこに頭がなく、失われた頭を探して街中をさまよったという
また、中国の秦王の城にあった四角い鏡は、人身を透視し、その善悪と正邪を映し出したという
そのように、鏡はその前に立つ人のその瞬間の様子をさまざまに映すが、しかし、そこに映る者がどこから来て、どこに立ち去るのかまでは映さない
その影像は何らかの原因と条件によって、たまたま鏡の前に立った者の一瞬のすがたであるから
鏡の中の像は固定した存在ではなく、存在しないものでもなく、その実体を語ることはできず
人の思慮分別を超えた存在なのである
それと同じで、すべての存在は(龍樹の『中論』の考察によれば)それ自体の原因によって生じるとか、自らと他とによって生じるとか、他の原因によって生じるとかを論理によっては証明できない存在であるのに
世間で先生と呼ばれる者やねじけた心をもつ者は、自己の心に映るそれらの固定した実体のない存在を識別し、その似非(えせ)知識にまつわりつく
また、心に映った像と生きとし生けるものの真のすがたとは同じものではなく、だからといって異なるものでもなく
それは原因と条件とによって、たまたま心に映し出されたそのものの一瞬のすがたにすぎず、そのことは後で述べる「響き」の項目で、無機的な風の響きにあらかじめ聴き手の情感が刻まれている訳ではなく、聴き手と響きが一体となることによってその響きに意味が生じることと同じである

静かな僧房で坐禅を組み、深い瞑想に入れば心象は消え
お堂に香を焚き、一人で経を唱えれば、その響きは空間に広がる
やがて、自己の身体(坐禅)・言葉(経)・意識(瞑想)のはたらきと、生きとし生けるものが自然の摂理にしたがって生きるために身に付けている生命・生活・創造・学習・身体の五つの無垢なる知のちからによって行使する行動・コミュニケーション・意思の三つのはたらきとが静かに共鳴し始めると
いのちのもつ無垢なる知に自らも目覚め、その知のちからとはたらきに感応する世界が開く
だが、心を乱してはならない、これが存在するもののほんとうのすがたであり
その世界のすがたと自己の心とは最初から一つのものなのだから

蜃気楼(しんきろう)

海上に厳かで美しい城郭が浮かび
走る馬や行き交う人びとの雑踏までもが見える
愚かな者はそれを見て、すぐそこに都市があると思い
賢い人はそれを見て、(それが遠くの都市のすがたが空気中に映る現象であるから)仮にして空なるものと知っている
さまざまな建物の並ぶ現実の都市も
実在するものは必ずいつかは崩壊して無に還るのだから、この蜃気楼と同じ仮のすがたにちがいない
人がその手によって都市を築き、そこに執着しているのを見ると、頑是ない子どもが無いものを取ろうとする行為を誰が笑えるだろうか
この道理が分かるなら、人が住むべき不変のところは生きとし生けるものが共に生きている自然の摂理の中にしかないのだと気づくであろう

風の響き

口の中、あるいは峡谷、あるいは廃屋の中を風が吹き抜け
空気が物体とふれ合うことによって、風に響きが生じる
その響きを聴くのは人の耳であり、愚者と賢人とでは感性が異なるから
愚者はその音色を耳ざわりだと怒り、賢人はその音色を楽しみ喜ぶことができる
音色の起きる原因と条件を調べれば、そこにあるのは風が吹き抜けるところの物体の形状のちがいだけなのだから、風の響きにあらかじめ情感がそなわっていることはなく
風からすればあるがままに響くだけで、発する音色に本性はなく、だから、生じることも消滅することなく、始めも終わりもない
風の響きを情感によって識別しているのはあくまでも聴き手である人であり
人の声であっても楽器の音色であっても、そのもとはただの風の響きにすぎないのだから、耳をたぶらかされてはならないのだ

水中の月

満月は広大なる虚空に輝き
その月影をすべての河川、地上の窪みに溜まるすべての水面に映す
そのように、ありのままの身体(いのち・種・遺伝・個体)をもつものは、静謐なる意識の宇宙の中に在り
迷いの世界にあるすべての生きとし生けるものも、そのおのおのの身体に宿す無垢なる知の光によって、自らを照らしている
水中の月影は仮の像であり
わが身を照らす自我も実体をもたないものであるが
すべてのいのちの器を照らしている無垢なる知の光は、生きとし生けるもののその内面を照らしている絶対平等のものであるから、それを享受し、人のためにその知の道理を説き
そうして、その知のちからがもたらす大いなる慈悲の心を衣のごとくに身にまとって、人びとを救済するために出かけよう

泡と水玉

濛々(もうもう)として空から雨が降ると
水中にさまざまな泡が立ち、水玉が飛散する
それらはたちまちに生じ、たちまちに消滅するが、水そのものである
この泡と水玉の形状は、水の本性なのか、あるいは他のものなのか、そうではない、水のもつ性質(表面張力)が条件(物理的要因)にしたがって、自ら作り出すものなのだ
そのように瞑想中に生じる心の変化の不思議も
すべてのいのちがもともとそなえもっている無垢なる知のちからが作用して起こる変化であって不思議ではなく
その知のちからと自らの心とはもとより一体であるから示されたのであり
水のはたらきと同じであると知るべきである

空華(くうげ)

空華とは空中に咲き乱れて見えるという幻影のことであるが、その実体はない
そのすがたかたちが確認できないものなのに空華という名称のみが存在する
虚空は(理念としての空間だから)元来、汚れたり澄んだりすることがない
しかし、実在する天空が雲霧によって曇ったり晴れたりすることから、濁とか清とかと名づけられる
同じように人の心は善悪の行ないをもって濁とか清とかが云々されるが、生きとし生けるものの本来の心はいのちのもつ無垢なる知のちからによって絶対平等で清浄なるものなのである
欲と物と精神とによる世界にとらわれている者は
認識作用・煩悩・死の恐怖・善行の挫折の四つの障害と、貪り・怒り・愚かさの三つの情動とがもたらす名のみの幻影によって心を迷わされているから
まず、心を落ち着かせよう、そうして、目・耳・鼻・舌・身・意識が起こす識別による幻影を取り除こうではないか

火の軌跡

たいまつの燃えさしの火を、方形に振りまわすと四角に、円形に振りまわすと円輪に、光の軌跡による図形が描ける
火の光の残像を利用すれば、点は線となって思うままにさまざまなかたちとなる
そのように、人がこの世に生を受け最初に発する「ア」が転じて多くの字になり、その字を綴り、文章にすれば無量の教えが生じる
そうして、無限の真理を広く人びとに伝え、理解させることができる


 この十種の心象による喩えの詩は、修行者の求道の鏡となり、彼らをさとりへと導くことを意図している。これを口に出して読めば無数の経巻の意義が分かり、その内容を観想すれば、無数の経の説く真理を会得することになるだろう。
 筆を執って創作したのは東山におられる広智禅師に差し上げるためであり、この書を見れば、わたくしの説くところが仏法のすべてに通じるものであることを察していただけると思う。
 仏道における空の論理の観想とその正しい帰結並びに密教の教えの根本が、忘れられることなく千年後の人びとにも伝わりますように。

 右京神護寺沙門空海
  八二七年三月一日これを書す


〈注〉訳文中の「いのちのもつ無垢なる知のちから」について
 密教の中心となる教え、五智(ごち)を指す。生きとし生けるもののもつ五つの根本的な知のちからのことであり、それらをそれぞれに象徴しているのが五智如来である。
その知とは、

  • 生命界の秩序を統率している知のちからそのもの法界体性智(生命知)「大日如来」
  • 呼吸など、生死の根幹を司る知のちから大円鏡智(生活知)「阿閦(あしゅく)如来」
  • 衣食住を生産、相互扶助する知のちから平等性智(創造知)「宝生(ほうしょう)如来」
  • 対象を観察し、分析、判断する知のちから妙観察智(学習知)「阿弥陀如来(無量寿如来)」
  • 行動し、はたらきかける知のちから成所作智(身体知)「不空成就(ふくうじょうじゅ)如来」
の五つである。

あとがき

 この十喩(十種のたとえ)は『大日経』巻第一の「住心品」(心のあり方の章)の中で、人がその認識作用によってとらえる現象と存在は不確かなものであるから、その不確かさの喩えとなる十種類の心象を挙げ、逆にその心象を観想することによって、修行者を真理へと導こうとする教えからの引用である。
 その心象とは、本質において存在性をもたず、見たことのないものによって目と心を惑わす「幻」、その本質が存在性のないものであるのに、命名することによって成立する「陽炎」、時間の尺度を超越した中で、さまざまな幸せと不幸に出遭い、覚めると何も見えない「夢」、鏡の中に映ることによって生じるすがた「影」以下、「蜃気楼」「反響」「水に映る月」「水沫」「炬火の光の輪」などとあるから、空海の記すものと同じである。
 それらの事がらを空海自身も観想し、独自の見解を加え、詩にしたものなのだ。
 物事を説明するのにそれと類似したものを借りて表現することを比喩というが、その手法を用いて、大乗仏教の説く空の論理の本質について考察しようとするものである。
 因みに比喩の用語集として、オランダの文学博士アト・ド・フリース著『イメージ・シンボル事典』(1974年刊)があるが、頁を開くと、最初に「A(ア)」字があり、「不変の第一原因、神の荘厳さ、幸福などを象徴する。季節では春か新年、天体では太陽を示す」と記されている。また、索引を調べると「夢」「鏡」「たいまつ」「泡」「月」などが載っている。
 比喩として用いられる心象は古今東西、人類共通であるようだ。その普遍的な事がらの哲学的考察が、空海によって千年後のわたくしたちに届けられた。

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